9.穏やかな逢瀬
「さて。ノエル様が持ってきてくださったもので、古代語の勉強をしましょう」
エーリエはそう言って、テーブルに彼が持ってきてもらったものを広げた。辞書と呼ばれるもの、単語帳、それから文法について書かれたものなど盛りだくさんだ。
「まあ。こんなにたくさん……気が遠くなりそうだわ……でっ、でも、わざわざ持ってきてくださったんですもの」
呼吸を整えて、彼女はテーブルの上に置いた蝋燭に火をつけた。これは、彼女が「勉強」を始める時の儀式のようなものだ。それから、呪文を詠唱する。もう過去から何度も何度も唱えたものなので、すらすらと空で言える。
それらは、彼女の集中力や学習能力を各段にあげる、要するに自分の能力をブーストする魔法だ。彼女は、人に対して施せるような魔法をそう多くは会得していなかったが、自らに対しての――これは他者にかけることは出来ないものだ――その魔法だけは幼いころから唱えることが出来て、先代の魔女に驚かれたものだった。
だから、彼女はその能力を使って、どんどんこの家にある書物を読んでいった。先代魔女は、実は8代目と言える魔女で、それまでの初代から7代目までが集めに集めた魔導書やら何やらは、普通の人間が10年やそこらで読破出来るような量ではない。
このサーリス王国に限らず、大陸のありとあらゆる場所に関すること、そして、大陸の外にある別大陸の話。あるいは、各国に沢山抱えている哲学者の哲学書。中には、近年書かれるようになった架空の物語、要するにおとぎ話のようなものもあったし、内容は様々だ。とはいえ、古代語で書かれた古いものはというと、圧倒的に魔導書のようなものが多く――とは後でわかることだが――含まれているようだった。
彼女が「当たり前」のように感じている読書量は、普通の人間――たとえばノエルやマールトなど――の3倍以上のもの。その上、彼女には時間がある。この魔法を使った日の夜は、疲れていつもより早く、いつもより深く眠ってしまうが、それを差し引いても価値があると思える。
『あんたは書物をたくさん読みなさい。魔導書も、そうでないものも。それらがあんたの人生を豊かにしてくれるよ』
先代魔女は文字を読めなかったのに、そんなことをエーリエに言った。どうして魔女は書物を読まないのに、自分には読むように勧めるのか。そう尋ねると、魔女は笑って
『わたしは書物を読まない代わりに、外の世界に出かけるからね。あんたは人の顔が見えないから、外の人たちと話すは苦手だろう。だったら、せめて書物を読まなくちゃいけないよ』
どういう意味で言っていたのか測りかねるが、書物を読んだらその意味が少しはわかった気がする。まず、家の裏の野菜を育てるために、魔導書以外の書物を漁ってあれこれ調べた。それから、冬を越すために何を用意すれば良いのかを教えてくれたのも書物だった。勿論、魔導書も数多くは読んだが、それらはまた別の意味で役に立ったものだ。
「……ああ~、これは、これは、難しいですね……」
だが、エーリエは簡単には投げ出さない。何故ならば、ここには時間がたくさんあるからだ。
エーリエは、静かに己の集中をあげる呪文を再び唱える。何もない自分が新しい知識を得ることを信じながら、彼女は手元の書物をめくった。
その日から、彼女は毎日毎日、朝から晩までほぼ古代語の学習に時間を費やした。驚くことに、彼女はそれに「飽き」ることがなかった。それは、彼女に与えられたもう一つの才能だった。
『あんたは良く書物を読むね』
書物を読みなさい、と彼女に言った先代魔女は、ある日それを否定するかのようにそう言った。エーリエはその言葉の意味がよくわからず「はい」とだけ答えた。
『あたしは文字をあまりよく読めないから、一冊読むのに一か月かかってしまう。でも、あんたは一冊読むのに半日もかからない。なんなら一日に5,6冊読んじまう』
そう言われて、エーリエは「それは魔女様が遅いだけで、自分は普通だ」と言いたくなった。だが、しみじみ考えれば、自分が普通なのかどうかも彼女は判断が出来やしない。
ただ、書物を読んでいる間、彼女は他に何の世界も感じなかった。集中をして、その書物の文字を追いかける。追いかけて得た知識を脳に送りこんで、整理をしながら、どんどん先に進んで行く。それが、エーリエにはとても「おもしろい作業」に思えていたのだ。
人の顔が見えない。だから、人とコミュニケーションをうまくとれず、森に引きこもったエーリエだったが、魔女の言葉通り書物からは色々なものを与えてもらった。時には、魔女から教えてもらった魔術を「書物に書いてあった」と言って、更に簡単な詠唱を行った。
先代の魔女は、それを嫌がらなかった。むしろ、嬉しそうに「そうかいそうかい。書物よりあたしの方が古いなんてねぇ」と笑った。彼女のそういった性格はエーリエの才能を伸ばした。才能といっても読書に関してばかりで、魔法の才能はなかなか伸びなかったのだが。
数日経過する頃、エーリエは古代語の書物に手を伸ばした。まだ、彼女はからっきし何もわからなかったが、まずは一冊辞書を片手に、単語帳を片手に読んでみようと思った。
「ああ、いただいた辞書にも単語帳にもない単語がたくさんあるわ……」
最初のページを見ただけで頭が痛くなりそうだった。残念ながら、古代語の、それも魔法に関して書かれたものは特別な単語が多く、最初の一文すら訳すことが難しかった。だが、彼女はほとんどが穴だらけの訳をすらすらと書き、ふふ、と笑った。
「でも、この単語とこの単語は同じですものね。一体何を意味しているのかしら? うふふ。全然わからないけど、そのうちわかるようになるでしょう!」
そう彼女は呟いたが、彼女が言う「そのうち」とは数時間後のことで、どれもこれもその日のうちにクリアしていく。それが稀有な才能であることを彼女は知らなかったし、勿論先代の魔女もそこまでは理解をしていなかった。
「ノエル様?」
そんなエーリエの元に、ノエルは再びポーションの取引より前にやって来て、彼女にもう一冊古代語の単語帳を渡した。
「これは、魔法に関する単語も多く含むものらしい。父は魔法に関しての書物を読むつもりはなかったので、別所に置いてあってな」
「まあ、まあ、そうなんですね。助かります。いただいていた辞書や単語帳にない単語が多くて……お父様のものなのですね。わたしがお借りしてもよろしいんでしょうか」
願ったりかなったりとは言うが、それは本当に今彼女が必要としていたものだった。
「借りているのではなく、君のものだ。父はもう完全に古代語を勉強することを諦めているしな。誰かが使ってくれればうれしいと言っていた」
「わたしでよろしいんでしょうか」
「もちろんだ」
その言葉で、じんわりとエーリエの胸の奥が熱くなる。ああ、自分でも良いのか。なんだか彼女は、自分がノエルに選ばれたような気がして嬉しくなる。そして、ますます「これは古代語の書物を絶対に読めるようにならないと」と思う。
「わざわざ申し訳ありません」
「いや、今日は城下町のこちら側に用事があったので、本当にちょうどよかったのだ」
「そうなんですね」
「では……」
帰る、と続けようとしたノエルだったが「うん?」と言葉を止める。エーリエも「あ」と声をあげた。ぽつぽつと雨の音がする。そして、それはあっという間に大降りになり、バチバチと家の屋根を打ち付ける。
ノエルは腰に付けた道具袋からフードを出した。だが、それを被ってもびしょ濡れになってしまうに違いない。
エーリエは生活魔法をかけますか、とノエルに問おうとした。彼女が使う魔法の中には、雨を弾くものもある。そう時間はもたないが、彼が森の外側で馬を待たせている場所に辿り着くことぐらいは出来る気がする。
だが、エーリエはそれを言葉にしなかった。代わりに
「あ、あのっ……ノエル様、この雨は通り雨ですぐに去ると思います。ですから、雨が通り過ぎるまで、少しお待ちになったらいかがでしょうか」
と尋ねた。ああ、言ってしまった。言ってしまった以上は、もう生活魔法をかけることは出来なくなってしまう……なんだか心臓がバクバクと大きな音をたてて、エーリエは自分がここで倒れてしまうんじゃないかと想像をする。そんな風に鼓動が大きく耳の奥どころか体全体に響くようなことは、これまでの人生でなかった。それほど、今の自分の発言は自分にとっては大きなことだったのではないか、と感じた。
「そうか。それでは、申し訳ないが少し滞在しても良いだろうか。ああ、君が古代語を学ぶなら、それはそれで良い」
「いえ、わたしも休憩をしようと思っていたので。お話相手になってくださると嬉しいです」
そう言ってエーリエが笑うと、ノエルは「わかった」と答えた。こんなずるい方法で彼を足止めしてどうしようと言うのか。エーリエにはそれがどうしてなのかはわからなかったが、ただ、なんだかもう少し彼と話をしたいと思ったのだ。
茶を出して、飲んでもらって。ああ、昨日焼菓子を焼いておいてよかった……そんなことを考えながら、エーリエは厨房へと引っ込んだ。
「そう言えば、先日もらった焼き菓子はうまかった」
「まあ! そうですか、お口にあったなら何よりです!」
茶の準備をしながら、部屋を跨いで姿が見えないノエルと会話をする。
「十分に冷ましてから食べると、少し軽くなるんだな。君が言っていたように、焼きたてもうまかったが、時間を置いてからも違ううまさがあった」
「そうなんです。水分が飛ぶからでしょうね。一度、魔法を使って水分を飛ばそうとしたら、調節がうまくいかなくて、パサパサになってしまって……」
「はは」
エーリエは驚いた。今、ノエルは笑ったのだろうか。聞き間違いではないだろうか。だが、すぐにノエルが別の話を始めたので、彼女はそれを尋ねることは出来なかった。
(ああ、雨があがらなければ良いのに)
どうしてかと言われても、うまい言葉が見つからない。ただ、エーリエはもう少しだけノエルと話がしたかった。ただ、それだけのことなのだ……彼女はそう自分に言い聞かせるように「それだけのことよ」と思いながら、茶葉の瓶を開けた。