能力
◇ターナー侯爵邸◇
ナリアは与えられた自室で、ごく僅かな荷物の整理をすると、手持無沙汰になった。
窓の外は橙色に変わっている。
日暮れが近い。
この時間、いつもならトーリー子爵邸で、夕食の用意をしながら、家族のために湯浴みの準備をしていた。
文官の父は、定時上がりで帰宅する。
父の機嫌を伺いながら、給仕をした。
トーリー子爵邸では、通いの家政婦が一人いるだけだ。
経理に関しては主に父がやっていたが、それ以外の日常的な家の切り盛りは、ほとんどがナリアの担当になっていた。
いつから、だろう。
両親も姉も、昔はもっと……。
もっと、優しかった。
ナリアは頭を振り、持ち込んだ荷物から裁縫道具を取り出す。
そして持参した古着から、何枚か雑巾を作った。
『侍女見習い』と聞いていたので、雑巾くらいは用意するつもりだった。
さすがに侯爵邸。掃除は行き届いている。
ただ一点。
一点だけナリアは気になった。
それはドアの側の棚に置いてある、時計である。
文字盤を覆うガラスが、少々曇っているのだ。
金色に光る置時計は、文字盤にも光る石が使われている、大層豪華なものである。
だからこそ、一点の曇りもあってはいけない。
ナリアは古着から作った雑巾で、優しく時計を拭いた。
その瞬間だった。
時計の針はいきなグルグル回り出す。
それも、左へ回転していく。
ボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーン…………。
時計が鳴る。
部屋中、至る所から聞こえてくる。
どうしよう!
ナリアは焦る。
壊した?
私、時計を壊したかしら。
焦るナリアの目の前に、幼い頃のナリアが現れる。
ふわふわとした髪と、葡萄のような瞳。
幼いナリアは、どこかの庭園を走っている。
その場所が何処かは分からない。
ただ悲しくて悲しくて、ナリアは走っていた。
行き止まりの木陰で、息切れしたナリアは座りこむ。
涙は止まらない。
座ったまま、シクシク泣き続ける。
『どうしたの?』
声をかけてきたのは誰?
男の子、だった。
ハンカチをくれた。
その男の子は……。
「ナリア様」
はっとして声の方に目をやると、家令のラケスが立っていた。
「あ、はい」
「お夕食の用意が出来ましたが、今日はこちらで、お召し上がりになりますか?」
ナリアは無言で頷いた。
今居る場所がターナー侯爵邸であることを、一瞬忘れていた。
ラケス自ら運んでくれた夕食は、香りと湯気が立っている。
知らず知らずに微笑みながら、まずはスープをいただいた。
◇失われた能力◇
その晩、ラケスは主人である、ディミトリスの部屋へ行く。
ディミトリスは炭酸水を飲んでいた。
「歯が溶けますよ」
「大丈夫。寝る前に歯磨きするから」
柱にかかった時計が、深夜を知らせる。
「で、見たのか?」
「ええ、偶然だったようですが」
「俺もびっくりしたよ。いきなり時計が、逆回転始めたからな」
ディミトリスはグラスをテーブルに置く。
「失われてしまった、『時使い』か」
「失われたはずの能力であれば、侯爵、あなたと同類ですね」
ディミトリスは目を半分ほど開く。
すべての光が集まっているかのような、ディミトリスの瞳である。
「おおっと、わたしに向けて、目を開かないで下さいよ」
あわててラケスが手で自分の目を隠す。
「なんだよ、見抜かれたら困ることでもあるのか、ラケス」
「それはまあ、大人ですから」
いずれにせよ、王家にバレる前に、ナリアを保護出来て良かった。
彼女の寝顔をチラッと見たいと、ディミトリスは思った。
さて、ナリアを売った子爵家は、どうなっているでしょうねえ……。




