糸目
ゆったりとした気分で、お読みいただければ幸いです。
少年の聴力は、微かな泣き声を捉えた。
その方向へ足を向け、低木の生垣を越えると、声の主を見つけた。
「どうしたの?」
泣いているのは少年よりも幼い少女。
落ち葉の上にぺたんと座っている。
少年の言葉に泣き声を止め、少女は彼を見上げる。
葡萄色の丸い瞳が、少年の姿を映す。
栗色の髪が風に揺れている。
少年は少女に寄り添うように、腰を下す。
そして少女の手を取り、ハンカチ渡した。
少年は、少女の涙が止まるまで、その場に座り続けていた。
◇ナリア◇
ナリアは急いでいた。
義母に言いつけられた買い物帰り、目の前で転んだ少年の応急手当てをしていたら、思いのほか時間がかかってしまったからだ。
そろそろ日暮の時間である。
暗くなる前に戻らなければ、また母に叩かれる。
「お嬢さん、ちょっといいかい?」
往来から、誰かに呼ばれた。
「な、なんでしょう」
声をかけてきたのは、辻占い師だった。
黒いフードを被っている、男性のようだ。
「ちょっとだけ、手を見せてごらん」
「あの……私、時間が!」
「すぐに済むから」
辻占い師は、ナリアの掌を見ると、頷きながら言う。
「やはり、あなたは手相も良いね。そうさな……。あんたの人差し指と中指の間に、ゆっくりと曲がりながら、線が伸びているだろう? 所謂良妻賢母の手をしているよ」
「はあ……」
「相手の男性も、同じような手相だったら、良縁で幸運な結婚だよ」
ぺこりと頭を下げ、ナリアは走りながら叫ぶ。
「あ、ありがとうございました!」
なんだか分からないけれど、誉められたような気がする。
かれこれしばらく、家族からは叱責と罵倒と嘲笑しか、与えられてない。
良縁?
幸運な結婚?
ナリアはふっと微笑み、家路を急いだ。
自分には縁のない話だと、自嘲しながら。
ナリア・トーリーは、子爵家の息女である。
トーリー家は領地を持たないので、父は文官として王宮に勤務し、貴族と言えど、ささやかな暮らしをしていた。
だが、元々気位の高い母と、特殊な能力を持って生まれた姉は、子爵家の財政を慮ることなく、ある時から散財を始める。
「あなたがするの。洗濯も、掃除も」
それを窘めた使用人は辞めさせ、ほとんどの家事を母はナリアに押し付けた。
言うことを聞かせるために、母と姉はためらうことなく暴力を奮う。
父は、仕事を理由に家庭内のことは母に任せ、日に日に増えていくナリアの痣を、見ることはなかった。
子爵家は姉が継ぐ予定なので、ナリアは伯爵家の次男と婚約予定であった。だが、見た目が麗しい伯爵家の次男を姉が見染め、彼を篭絡した。
ナリアは金持ちの平民か、高齢の高位貴族にでも売ろうと、両親は夜な夜な話合っている。
トーリー家の門の前で、ナリアはじっと手を見る。
何か、良いことあると、いいなあ……。
肩を落としながら邸内に消えて行くナリアを、黒いフードの影が見つめていた。
◇ケンケン、パッ◇
ディミトリスは目の前で低頭している男に、聞き直す。
「今、なんと言った?」
男は頭を上げることなく答える。
「閣下に、『初夜権』を、買っていただきたいと存じます」
しょ、や、けん……。
なんかの犬?
ではないようだ。
「どこの、誰?」
一応聞くだけ、訊いてみた。
「我がトーリー子爵家が次女、ナリアでございます」
確かにディミトリスは、低頭しているトーリー子爵の元親、ターナー侯爵家当主である。
三代前くらいまでは、地方の領主は、婚姻前の処女を破瓜する権利を、有していたとか伝え聞く。
しかし。
だが、しかし。
ここは王都近郊。
最近では政略よりも、自由恋愛による結婚が増えている。
うかつに権威を振りかざし、『初夜権』なるものを要求したら、間違いなく王家から叱責を受ける。
そんな面倒なことを、高位貴族はしないのだ。
高級娼館にでも行く方がましだ。
「なにゆえ、娘を売ると言うのだ。たしか、トーリー家の長女は、まもなく成婚であろうに……」
ため息をつくディミトリスに、子爵家の当主はつと顔を上げる。
「だっ、だからです。今のままでは長女を、嫁がせることが出来ません!」
悲痛な叫びであった。
トーリー子爵は、領地の不作により、長女の婚姻費用が出せないと泣く。
それどころか、このままでは、爵位の返上もあると言う。
資金を調達するには、次女を売るしか道がない、と。
うわあ……。
ツッコミどころが多すぎて、突っ込めない。
「ともかく、娼館へ行くか、誰かに『初夜権』を売るか、どちらが良いかと次女ナリアに訊ねましたところ、後者が良いと。さらに……」
「さらに……?」
ゴクリと子爵の喉が動く。
「出来るならば、ターナー侯爵様、閣下に売りたいと!」
なんで俺?
目が細いから、裸を見られても恥ずかしくない? まさか、な。
まあ良い。
向こうから、やって来てくれたのだから。
◇やっぱ、いるかも◇
「それで、買ったんですか、処女令嬢を」
「ち、違う! 買ったのは、令嬢の『初夜権』だ」
「フッ。どっちも変わらんな……」
家令のラケスから、氷結魔法のような視線を浴び、ディミトリスは狼狽える。
ラケスは父の代からターナー家を取り仕切る、有能な家令だ。
「まあ、十八にもなって、童貞ならば仕方ないか……」
「童貞関係ないだろ!」
ラケスは鼻で笑う。
幼い頃からディミトリスに、領地の運営や資産増幅のイロハを教えたのがラケスである。
急逝した父に代わって、爵位を継いだものの、ラケスがいなければ侯爵家を守ることなど適わなかっただろう。
よって、当主とはいえ、ディミトリスはラケスに頭が上がらない。
「それで、帳簿の勘定科目に何と書くのです。『初夜権』なんて書いたら、王宮から呼び出されますよ」
「ああ、侍女見習いの、半年分の給金として支払った」
「ふうん……それで、トーリー子爵の令嬢は、何時こちらに?」
「間もなく、来るはずだ」
などと話していると、部屋をノックする音がした。
「ナリア・トーリーでございます」
やって来たナリアは、子爵にしては完璧な礼を執った。
まだ齢十四歳。
実の父親に売られたことを知っているのであろうか。
ディミトリスの胸に、一点痛みが走る。
「あ、え、その、ディミトリス・ターナーだ。良く来たね」
ラケスがディミトリスの脇腹を肘打ちする。
「ナリア様。侍女見習いとして、ようこそおいで下さいました。お部屋をご案内しましょう」
「恐縮です」
もう、十四歳になるのか……。
ナリアの実年齢よりも相当大人びた言動に、ディミトリスは嘆息する。
葡萄のような紫色の瞳は、意志をたたえてディミトリスを見ていた。
ふわりとした栗色の髪は、後ろで一つにくくられている。
ただ、手足が細い。
身長は、この年齢の女子としては平均的だが、全体の体型は華奢を通り越した細さである。
まずは女性らしい身体になるまで、ゆっくりとしてもらおう。
「伸びてますよ」
「えっ?」
「鼻の下」
ナリアを部屋に案内したはずのラケスが隣にいた。
「噂は、本当だったみたいですね」
ラケスの眉が寄る。
機嫌が良くない時の顔だ。
「状況は、おいおい把握するよ」
トーリー家にまつわる噂。
令嬢は一人だけ。
もう一人は、家族の下僕。
知っていたから、トーリー子爵に金を渡した。
初夜権を行使したいからでは、ない。(まあ、少し期待した?……いやいや)
下僕扱いの次女、ナリアを救うためである。
◇居ていいのかな◇
ナリアは、ラケスから二階の東側の部屋に案内された。
子爵家の応接間よりも広い部屋を見渡し、小首を傾げる。
「あの、この部屋は……」
「はい、ナリア様専用のお部屋です」
ラケスはにっこりと笑う。
見た感じでは二十代後半から三十代の男性だ。
彼は黒い髪をぴっちりと分けて、仕立てのいいスーツを着ている。
高位貴族の家令とは、これほど隙なくしなやかな者なのかと、ナリアは少なからず感動した。
それより何よりも。
ターナー侯爵、ディミトリスの姿形に、一瞬見惚れてしまった。
『糸目侯爵』
それがディミトリスの二つ名だ。
曰く。
視力が悪いため、いつも糸のように目を細めている。
頭痛持ちのため、慢性的に機嫌が悪い。
実は細目にしていると、透視魔法が使えるのだ。
イアンナがそんなことを言っていた。
社交界での噂話として。
しかし、ナリアの目に映ったのは、プラチナブロンドの髪を肩まで伸ばし、切れ長の瞳を隠すようにしている、鼻筋の通った端正な青年だった。
この方で良かった。
きっと、我慢できる。
たとえ、どんなことでも……。
とにかく、あの家から離れられたことに、ナリアは感謝した。
**
「お前を買ってくれる人がいて、良かったな、ナリア」
侯爵家を訪問し、王都から帰ってきた父は上機嫌だった。
「当主を継いだばかりの若僧で、金払いも良い。お前の言った通りだ、イアンナ」
「でしょう? 『糸目侯爵』様は、人情話には弱いらしいからね」
「これで最高のドレスを買えるな」
父と姉の会話を、ナリアは黙って聞いていた。
娘の躰を売ることに、何のためらいも罪悪感もない人たち。
トーリー子爵家の娘は、姉のイアンナただ一人なのだ。
イアンナは、銀色の髪と柘榴色した瞳を持つ、評判の美人である。
髪と瞳の色は父譲りで、トーリー家特有の能力を受け継いでいる。
父はイアンナの次に男児を望んだが、生まれたのは女児ということで、落胆した。
さらに、平凡な容姿である次女など、いなくても良い存在だ。
「でもお父様。一晩でナリアが突っ返されたら、なんとなく嫌ね。」
「大丈夫だ。一応侍女見習いという形で、半年は侯爵家が面倒を見てくださる」
ナリアの瞳に小さな光が灯る。
半年も!
この邸から、出ていいの!?
「せいぜい、可愛がってもらえよ、ナリア」
下卑た笑いを見せる男を、ナリアは父と思いたくなかった。
そして今、ターナー侯爵家の客間にいる。
フカフカのベッドや鏡台もある。
カーテンを開けると、風呂場まであった。
ここに、居ていいですか?
出来るならば、ずっと……。
なるべく早く更新したいと思っています(願望
さほど長引かない話のはず、ですm(__)m