覚醒その7
誤字報告、ありがとうございます。
「附子という草がございます」
ある日、お上人はひよしに言う。上人の手元には、唐から持ち帰ったという、神農本草経があった。
「どんな草なのでしょう」
お上人は、ひよしに書を見せながら教える。
「毒でございます。赤子の爪よりも少ない量で、熊や猪を一撃で倒すほどの」
ひよしは書をめくる。
「あな、恐ろしや。お上人様」
「されど」
お上人は告げる。
「蒸した後、干して使うならば、難い病をも治すことのできる、そんな草でございます」
附子の草は、青紫色の花が咲くという。
そう、まるで、朝焼けの空のような。
◇◇◇◇◇
セイラルは、遠征で見つけた青紫の花を根元まで掘り出し、片手で掴めるほどの量を持ち帰ることにした。
二人の騎士エイサーとニアトは野営に慣れており、野草の薬効にも詳しかった。青紫色の花以外に、ユーバニアの薬士が施術に使うという草花を、二人は何種類も集めた。
「この草の根は、至極甘いです。それだけではなく、腹を下した時にも、よく効きます」
エイサーが引っこ抜いた草の根を、洗ってセイラルに渡す。
ひと噛みしたセイラルは、にっこりと笑う。
「確かに甘いです」
「そうそう、甘さにつられて、動物も草ごと食べてますね」
ニアトは自分で言ってハッとする。
「明日には王都へ帰りましょう。この辺はまだ、灰色熊や小型の野犬の生息地域です」
その夜。
どこかで何かの動物の遠吠えがした。
薪を集めて炎を絶やさぬよう、騎士は交代で見張りにあたる。
横になりセイラルは休んでいたが、夜気は固い。
護身用にと、司祭から預かった細身の剣を、彼女は胸の上で握っていた。
突如、横になっているセイラルは地面の振動を感じた。
二人の騎士は立ち上がり、剣を構える。
咆哮が、炎を散らす。
セイラルも体勢を低くして、炎の向こう側を見る。
大きな黒い影が、二人の騎士を見下ろしていた。
黒い体に赤く光る眼。咆哮を繰り出す口元を、炎の明りが照らす。
その口腔、何本もの尖った牙が、敵意をむき出しにしていた。
二足で立つ獣。
熊である。
左側から、エイサーが切りかかるが、長い爪で弾かれる。
「クソ!」
「エイサー、同時にいくぞ!」
間合いをはかって、騎士たちは交差するように、剣先を獣に向ける。
熊は器用に両の手を動かし、二本の剣をよけていく。
ニアトの剣が熊の肩を掠めると、怒りの声をあげる獣。
大きく振りかぶった熊の爪が、疾風の如くエイサーの顔面をえぐる。
「ぎゃあああ!」
エイサーの叫び声と吹き出す血が、獣の凶暴性を高める。
振り上げた獣の爪。
涎を流しながら、大きく開く口腔。
その瞬間である。
セイラルはすいっと、虚空に飛び上がる。
そのまま細身の剣を、獣の口に投げつけた。
目を剥くニアトと、片目を押さえて叫ぶエイサー。
「セイラル様!!」
着地したセイラルも叫んだ。
「五回! 五回息を吸って吐く。それまで、それまでなんとか避けて!」
口から剣を生やした獣は、狂ったように両手で空を切る。
二足歩行もやめ、四足で地面を蹴る。
騎士もセイラルも、獣のあがきを避け続ける。
一回、二回、三回、四回……
深呼吸を五回。
すると。
獣の最期の唸り声があがる。
全身の重量を地面にぶつけ、その熊は絶命した。
夜空の闇は薄くなっていた。
息を切らしながら、ニアトがセイラルに訊く。
「セ、セイラル様、今の剣は一体……」
セイラルはエイサーの手当をしながら答える。
「司祭様より、お預かりいたしました物です」
「あの細い剣、一撃で、熊が倒れましたが」
何事もなかったかのように、セイラルは答えた。
「昼間摘んだ青紫の花の汁を、剣に塗っておきました。思っていた以上に、強い毒ですね」
エイサーは、顔面の表皮をえぐられていたが、目は無傷だった。
セイラルは彼の傷口に何かの薬草を塗り、布で覆う。
「セイラル様、まさか、俺に塗ったのも、毒では……」
「大丈夫です。薄めてありますから」
くすっと笑うセイラルにつられて、騎士たちも笑った。
冗談を言う余裕が生まれたのである。
同時に二人の騎士は思う。
なぜ、第二王子は、こんな可愛らしい、しかも勇敢な女性との婚約を、破棄したのだろう、と。
次回から、舞台が変わります。