覚醒その2
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それはセイラルが、初めて寺院に足を踏み入れた日のことだ。
静謐な空間は、セイラルにとって心地良いものであった。
門をくぐり抜け、湧き水に手を浸す。
手で掬った水で、口を漱ぐ。
誰に習ったわけでもなく、当たり前のようにそうした。
微かな衣擦れの音にセイラルが振り返ると、薄紫の法服を着た女性が柔らかな物腰で迎えてくれた。
「お話は承っております。侯爵令嬢様」
「セイラルと、お呼びください」
寺院の女性はセイラルに手拭きを渡す。
「セイラル様、当寺院へは、何度かお越しでしたか?」
セイラルは小首を傾げ、「いえ」と答える。
「あなた様は、当たり前のように、手と口を浄められました。見事な所作でございます。
初めての方とは思えないほど」
そうなのか。
神なるものを祀る場では、当たり前ではないか。
寺院の作務所に案内されながら、セイラルは思った。
思いながら、ふと疑問がわく。
なぜ、自分は『当たり前』だと思ったのだろう。
手と口を浄める所作は、どこで習ったのだろうか。
侯爵家では、食事前に感謝を捧げるとか、信仰対象となる物品を置くとかいった、宗教的なものは、ほとんどなかった。
むしろ。
現実主義である父などは、年に一度の寺院への寄付も、嫌々ながらやっていた。神への感謝も崇敬も持たない父なのだ。
母の話によれば、王族は年に数回、寺院にて祈りを捧げていたそうだが、セイラルの物心ついてこのかた、侯爵家が寺院にて、祈願したような記憶はない。
しかし。
寺院の雰囲気は心地良い。
そして、セイラルには懐かしいものであった。
作務所で注意事項を受けたのち、泉まで案内されて、身を浸す。
気温よりも低い冷水であったが、セイラルは俗世の澱が抜けていくように感じた。
澱とは。
侯爵家へのもの。父と姉への想い。
父から向けられる視線の酷薄さ。
姉にかける愛情との差。
その姉からの日々の敵視。暴言と暴力。
妹の目から見ても、姉フィーネは美しい。
父からは溺愛されている。
それでも姉は、セイラルを羨む。
「あなたはいいわよね! 幸せだわ!」
何度も姉から言われたセリフ。
それがセイラルには分からない。
あなたの方がずっと、幸せではないのか。
第二王子との婚約は、特に感慨も喜びもなかったが、侯爵家からの楔が取れるのであれば、それでよかった。
だが、姉は己のやったことを全て書き換えて、第二王子に讒言した。
それを真に受けた王子から、告げられた婚約破棄と罰。
言い訳も反論も父に封じられた。
セイラルは諦めた。
母を巻き添えに、したくなかったのだ。
水に浸りながら、セイラルは涙を流していた。
望んでいるのは、ただただ普通の生活。
笑い合える家族。ささやかだが平穏な日々。
それを望んでは、いけないものなのか。
贅沢な願望だというのか!
いや、そうではないぞ!
いきなり脳に電流のように啓示が流れた。
「咎はそなたにあらず!」
泉の水が跳ねあがる。
跳ね上がった水は、生き物のようにセイラルを取り囲む。
水が映しだす風景は、セイラルが見たことのない、しかしどこか懐かしいものであった。
深い山の中の、簡素な建物。
部屋の真ん中で燃え上がる炎。
一本下駄の老人が、炎に木の板をくべる。
「役優婆塞様、わたくしは、これからどうすれば」
老人に問いかけるのは、セイラルと同じような年齢の少女。
老人は答える。
「見届けるがよい。最後まで」
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