起点
今回は、主に過去生の話となります。
いつもお読みくださいまして、ありがとうございます。
誤字報告、感謝申し上げます。
時は大同五年九月。
秋の陽は落ちるのが早い。
「まあ、口だけは達者になったの。母として嬉しいかぎりよ」
ひよしは、生母の薬子と向かい合って座す。
薬子は盃に白酒をつぎ、ひよしに差し出す。
「今生の一献が、白湯でもなかろう」
ひよしが杯を見つめると、薬子は紅い唇を大きく開く。
ひよしの杯の表面に、薄い朱の膜が浮いている。
「ほほほ。毒など入れておらぬが。そなたが気になるのであれば、取り換えようぞ」
薬子の手元にあった盃を取り、ひよしは一口で飲み干す。
次いで、薬子の咽喉が動く。
ひよしの口元が、細い三日月の形をとる。
刹那。
薬子の手から盃が落ち、乾いた音を立てる。
薬子は首を押さえ、ごぼりと何かを吐き出す。
それらは絡み合う黒い紐。
紐ではない。
黒色の、細い蛇である。
黒い蛇どもはしゅうしゅうと音を立て、煙となって消えていく。
薬子は胸を掻き毟り、己の衣を破る。
破れた衣の下からは、娘婿を虜にしたと言われた白い肌がはみ出る。
薬子の体中、あたかも紫の網をかけたかのような、無数の血管が浮かびあがっている。
「お、おのれ、おのれひよし!! 母に毒を盛ったな!」
ぎろりと目を剥き、薬子はひよしを睨みつける。
ひよしは微笑む。
「毒を盛ろうとしたのは、母上、あなたの方でしょう。わたくしが躊躇いを見せたら、すかさず杯を取り換えられた。元々、あなた様の杯に、毒を入れてあったのですね」
薬子はギリギリと歯をくいしばり、掠れた声で叫ぶ。
「ならば、ならば何故、そなたは倒れぬのだ!」
「お忘れですか、母上。わたくしは幼子の頃より、毒に障りのなきよう、躾けられておりまする」
薬子は頭を振る。
「それは我とて同じ。いやいや、そもそも我を弱くする毒など、この世に有りはせぬ!」
ひよしは、床におちた薬子の盃を拾い、白湯を注ぐ。
そして己の指を軽く噛み、一滴の血を垂らす。
白湯の表面にも、薄い紅の輪が広がった。
ひよしは座したまま、ゆっくりと湯を啜る。
「母上に飲ませたものは、毒ではありませぬ。わたくしの血でございます」
「だ、騙したな、我を……」
「いいえ、尚侍。騙してなどおりませぬ。我もそなたと同じものを、こうして頂いておりますゆえ」
ひよしは飄々と答える。人外のものを見つめる目元は、いたって涼やかである。艶やかな御髪には光輪が浮き、白湯で濡れた唇は、開きかけた紅梅の色を帯びている。
「なにゆえじゃ! そなたの血如きで、そんな滴程度の血で、我はこのような……」
ひよしは答える。その瞳には、かつてない力がこもる。
「わたくしは、桃源郷より秘儀を授かりました。すべては、母上の体に巣食う、化生を滅ぼすため!」
「おのれ、おのれ! 痴がるな、ひよし。果てるのは、お前じゃ!」
血まみれの牙を剝き、人外のものは、ひよしを引き裂こうと、青黒い腕を伸ばす。
シャラン
鈴の音が降りて来る。ひよしが振る鈴だ。
その響きに、人外のものは大きく頭を振る。満月よりも黄色の瞳から、赤い涙が流れる。
シャララン
鈴の音が重なり、身もだえする化生。鱗に覆われても、たわわな胸は妖しくも艶めかしい。
ひよしは右目の片隅に、人外の揺れる乳をとらえながら、かねてより懐に隠し持っていた、小さな独鈷を投げつける。
肉と骨を断つ音が、ひよしの耳に届く。獣肉を焼くような臭いがする。
同時に薬子であったものの体全体を黒い霧が覆い隠そうとする。
ひよしは、片手を上げ指先で空中に指示を出す。
眷属となった、木気の竜を呼び出すのだ。
木気の竜は稲妻をまとい、薬子に刺さった独鈷へと、雷撃を落とす。
黒い霧は散り、同時に人外のものは声をあげた。
断末魔の、叫びだった。
こうして、完全に人外のモノと化した薬子は、小角の錫杖と空海からの独鈷の力を借り、ひよしの手によって倒されたのである。
大同五年(810年)九月十二日、夜のことであった。
藤原薬子、毒杯をあおり、自害したと、歴史家は伝えている。
されど、藤原縄主と薬子の娘ひよしが、母亡き後、どのような人生を歩んだか、伝えている歴史書は現存していない。
残っていないのも当然である。
平城天皇が隠棲し、薬子が果てた後、ひよしは小角に連れられて、京から東へと飛んだのだから。
そこは霊場であり、倭国随一の霊峰だと、小角は言った。
倭国で一番高い山なのだという。
この山の底を流れる熱い脈流は、時として山頂から吹き上がる。
「この山の、地の底に通じる穴に、ひよし、お前は飛び込まなければならぬ」
小角はひよしに言った。
「飛び込むのは構わないですが、それは一体なにゆえに」
小角は髭を撫でた。
「薬子に憑いていた魂魄の一部が、別の場所へ逃げたのだ。その場所に着くには、一度黄泉路を通過せねばならぬ」
黄泉路。
ということは、死ぬ必要があるのだろうか。
「そうじゃな、この国で、今の世で、ここまで生きて来たひよしは死ぬ。その代わりに、魂魄の逃げた場所まで、必ず辿り着ける。ただ自害するだけではだめである。この霊峰に在す御山の霊力を貰わねばならぬのでな」
なるほど。
聞いた瞬間、ひよしは決意した。
母を化生に変えたものが、悪しき魂魄であるのなら、どこまでも追いかけて、必ず滅したい。
きっと、それが自分の役割であり、桃源郷で力を授かった理由であるのだ。
「では、よしなに」
かくして、ひよしは富士の火口に身を投じた。
時空間を越え、生まれ変わるために。
悪しき化生を完全に滅し、捻じ曲げられた自分の人生をやり直したいと願って。
こうしてひよしは、ユーバニア王国ヴィステラ家の次女、セイラルとして、生まれ変わったのである。
次回、婚約パーティでのお話に戻ります。




