交錯
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その日、天女は一つの果実をひよしに渡す。
夕陽のような色と、清々しい香りを放つ、片手に乗るほどの丸い実である。
「食するがよい。これが真の、非時香菓なり」
ひよしは一口齧ってみた。
甘い花のような、酸っぱい蜜柑のような、不思議な味わいであった。
天女は語る。
「非時香菓は、不老不死をもたらすと言われておるが、そうではない。現世の肉体など、いつかは滅びる。されど、現世で得た知識と行は、いくたび生まれ変わっても、その実を食した者に宿り続ける」
非時香菓を食べ終えたひよしの両肩には、水気の竜と木気の竜がそれぞれ乗っていた。
ひよしはほんの少し、笑みを浮かべる。
「もしも」
ポツリと漏らすひよしの言葉に、天女は小首を傾げた。
「もしも、来世というものが、ありますれば……」
伏し目がちのひよしの頬が、桃のような色に染まる。
「わたくしは、ただただ平穏な暮らしが、しとうございます。身分がどうであれ、慎ましく、ごく平凡な生き方を……。
情けのある親と子。互いに慈しみあうことの出来る夫。
夕餉の匂いに駆けよる子ども。
そのような日々を、夢想するのです」
風が吹く。雲が割れる。
「さて。そろそろ帰ろうかのう」
小角がやって来た。
迎えにきたのだと、ひよしは感じた。
「都は平城の王の力が削がれておる。さすが空海の祈祷といえよう」
ひよしは頷き、小角の手を取った。
そして深々と天女に礼をする。
瞬時に小角とひよしの姿は、雲に紛れた。
「ひよし。そなたの願いが叶うには、三度の生まれ変わりが、必要であろうな……」
天女の囁きを、ひよしは知らない。
◇◇◇◇◇
第二王子アティリスと姉フィーマの婚約発表を七日後に控え、セイラルはヴィステラ家の屋敷に戻った。
戻る直前まで、王と第一王子のジーノスへの施術を続けた。
王の内臓は完治し、ジーノスは自力で立てるようになった。
しかし、宮殿内にもおそらくは間諜がいるであろうことから、セイラルは王にもジーノスにも、体調に関しての秘密を守ってもらうことにした。
よって、王もジーノスも互いの治療が進み、完全復調に近いことを知らないままである。
また、王とジーノスは、近衛兵団とジーノス配下の騎士団を、婚約発表の会場に密かに配置すると決めた。。
これはイシュチアが己の命を賭けて、東の大国の陰謀を教えてくれたおかげであった。
セイラルがヴィステラ家に戻ると、迎えてくれたのは母と、セイラル付きの侍女だけであった。
ヴィステラ侯は、辺境地への視察に出かけており、姉の婚約発表までには王都に帰って来るそうだ。
姉は妃教育という名目で、王宮に滞在して帰って来ないという。侍女数人と料理人を王宮に同行させてもいる。
母は、セイラルの姿を見た途端、涙を流しながらセイラルを抱きしめた。
「ごめんなさい、セイラル。わたくしは、あなたを守ってあげることが、出来なかった母です」
セイラルも母を抱き返す。
「いいえ。いいえ、お母様。寺院に赴いて良かったです。イシュチア様にもお会い出来ましたから」
母は驚き、セイラルを見る。
「知っていたのですか、セイラル」
「お会いして、イシュチア様からお話を聞きました。いろいろなことを」
母は涙を拭い、侯爵夫人の表情になる。
「お話は、あとでゆっくり聞かせてちょうだい」
その晩、セイラルは半年ぶりに、自室のベッドで休んだ。
しかし神経の昂ぶりは治まらず、なかなか寝付けない。
サイドテーブルの上に、水と果物が置いてある。
果物はオレンジである。
それはどこかで見たことのあるような、懐かしい色と形であった。
セイラルは起き上がり、オレンジを一口齧る。
シトラスの香が部屋中に広がると、セイラルの脳内に流れ込んでくる記憶がある。
どこか異国の風景。
長い髪の女が、蛇に化身する。対峙するのは一人の少女。
その少女の顔は、セイラルに瓜二つだ。
そうだ。
これは私の記憶。
私がこちらに来る前の、実際の出来事だ。
私は、あの女から逃げ出した魂魄の一部を追って、ここまで来たのだ。
あの国で一番高く、一番美しい山の、火口を通って。
いよいよ佳境に入って参りました。
もうしばらく、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。
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