王都その7
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ひよしは桃源郷にいる。
役君こと役小角は、ひよしを天女に託すと、何処かへ去った。
天女はひよしの手を取り、花と果物で満たされた郷内をふわふわと飛ぶ。
ひよしも蝶になった気分で、天女に従う。
水の音がする。
天女はそこへと降り立つ。
天空から流れ落ちている細い流れが、円形の水たまりを作っている。
天女が囁く。
「そなた、水の加護を持っておる」
ひよしは首を傾げる。
「かご、加護ですか。水に、守られているということでしょうか?」
天女は微笑んだ。口元に光が集まる。
「守られてはいるのだが、本質が目覚めてはおらぬ。ゆえに授けようぞ」
天女はひよしを水たまりに誘う。
「水は鉱物より生じ、木々を潤す。そなたの身を全部、この水に浸けるのだ」
おそるおそる、ひよしは水に片足を入れる。
すると、さざ波が立ち、ひよしの全身は、水に包まれる。
そのまま頭から、ひよしは水中に沈んでいく。
遥か彼方に水面が見える。
碧色の水面に、花弁が浮かんでいる。
思わずひよしは手を伸ばす。
水中に射しこむ光を受け、掌には、無数の細い枝のような、血の流れが見えた。
水中においても、不思議と天女の声が聞こえてくる。
「経絡を覚えよ。経絡は命を運ぶものなり。経絡を動かすのは、体の中の水である」
言われてみれば、ひよしの手指のそこここに、小さく光る点がある。あるものは親指の付け根に、あるものは掌の中央に。
それが、経絡なのか。
「経絡は体中、いたるところにあり。病を治し、痛みを除くものなのだ」
水中で、ひよしが自分の体を眺めると、星の如くきらめく点が体中に散在していた。
それらを順に触ってみると、腹のあたりが熱くなる。
腹の熱の塊は、そのまま咽喉に向かい、苦しくなったひよしは思わず息を吐く。
ぼこぼこと吐気が水面を目指す。
咽喉までせりあがった熱気が、さらにひよしの口から吐き出される。
轟々と、ひよしの息は吐きだされた。
吐き出された熱は、意思を持ち、形を成し、勢いよく水中を駆け昇る。
周りの水は、熱気に巻き込まれ、後を追っていく。
その姿は、まさに……
「ほお、早くも目覚めたか」
ひよしは水面に顔を出す。
天女は相変わらず、ふわふわと宙に浮いている。
その側で、くるくると旋回している、青く長いものがいた。
馬のような顔つきに黄色い水晶のような双眸。
二本の角と髭を持ち、体表は滑らかな青い鱗で覆われている。
「水気の竜である。これが加護の実体なり」
◇◇◇◇◇
セイラルが第一王子ジーノスに施した療法は、乾燥させた草を患部にあて、その草を燃やすという方法、即ち灸治である。
草を燃やし始めると、ジーノスの部屋の中は、たちまち煙が充満する。
控えている騎士も、思わず咳き込んでいる。
「お熱くないですか?」
セイラルがジーノスに尋ねると、彼は顔を横に振る。
「温かい。ケガをしてから、腰から下は、いつも氷水に浸かっているような感じであったが」
用意した草が燃え尽きるまで、セイラルの施術は続いた。
「必ず、治して差し上げます。ジーノス様」
セイラルは呟きは小声であったが、うつ伏せで横たわるジーノスに届いていた。
ジーノスが視線を動かすと、額に汗を浮かべているセイラルの、真剣な表情が見えた。
それは、ジーノスが一緒に遊んでいた、幼い頃のセイラルの、生真面目な顔つきと同じだった。
あの頃に、セイラルの手を取っていたら、運命は変わったのだろうか。
とりとめのない想いが。ジーノスの脳内を流れた。
その日の深夜、セイラルたちは寺院に戻った。
薄紫の制服を着た女性が、一行を出迎えた。
セイラルが初めて寺院を訪れた時に、その所作を誉めてくれた女性であった。
司祭が片手を挙げ通り過ぎようとした時に、その女性は司祭の背中に抱きつこうとした。
セイラルには、女性が硬質な光を発する何かを、握っているのが見えた。
女性が刃を、司祭の背に突き立てようとした瞬間である。
バチン!
女性が呻いて刃を落とす。
青白い、炎よりも細い光が女性の手を弾いたのである。
司祭はハッとして、兵を呼ぶ。
セイラルは、顔を歪めて手を押さえる女性を床に座らせて問う。
「ここにいらっしゃったのですね。東の国の、公女様」
その女性こそ、かつてセイラルの父の妃となるはずだった、東の国の公女、イシュチアであった。
「寺院の水が濁ったことも、鈴花草が置いてあったのも、あなたさまがなさったことなのですか?」
イシュチアはフードを取り、セイラルに向かいあう。
黒い髪を一つにまとめ、身を飾るものもない質素ないで立ちなれど、切れ長の黒い瞳には知性が感じられる。そして、諦観の眼差しをしている。
理由なくして、寺院や国王へ反逆行為を行う女性ではないであろう。
「ヴィステラ侯爵令嬢様。今までの数々のご無礼、お詫び申し上げます」
そう言いながら頭を下げたイシュチアが、再度刃に手を伸ばしたところを、セイラルは押さえた。 このまま自害をする気であったのだろう。
「ご無礼とは、わたくしの父がしたことでございます。長らくこの水の神殿で、祈りと行を捧げてくださった方を、わたくしは失いたくはないのです」
イシュチアの黒い瞳から、涙が一粒転げ落ちた。
参考文献:東郷 俊宏「お灸の歴史」2003年53巻4号、510-525