王都その6
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その日より、ひよしの師匠は、役君となった。
空海上人も不可思議な人であったが、役君は輪をかけて、尋常ならざる能力を持っていた。
役君は、ひよしをひょいと抱えると、いきなり空中に飛び上がる。
ひよしはぎゅっと目をつぶる。
木の葉が渦を巻き二人の体を包み、ひよしの耳元を風が抜けていく。
「目を開いてみよ」
いつしか役君は空へと舞い上がり、鳥のように飛んでいる。
轟々と空気の音がする。
恐る恐る瞼を開くひよしの瞳に、鮮やかな反物を着た山々が映る。
小さく口を開けたまま、しばらく紅葉を見下ろす。
秋の山を歩いたことは何度もあるが、歌に詠まれているような感慨を持ちえたことはない。
されど、陽光を反射する紅や淡黄の葉は、美しいものであった。
「見事であろう」
役君に頷くひよし。
「では、もう一段、上に参ろう」
役君はひよしを抱いたまま、まるで階段を昇るかのように空中を蹴り、真白い雲の中へと身を投じた。
しばらくの間、役君はひよしを伴い、濃い霧の中を移動する。
深い霧を何度もかき分けたのち、役君とひよしは地面に足を下ろす。
足が地面に着いたように、ひよしには感じられたのだ。
ひよしは桃のような香りを感じ、思わず周囲を見渡す。
先ほどまでは、秋の山を上の方から眺めていた。
今再び、都のあたりに降り立ったのだろうか。
「都といえば、都であろうな」
遠くから琵琶の音が響いている。
「さりながら此処は、現世の都にあらず」
役君の背後から、薄衣をまとい、頭頂に輪を二つ結った女性が、琵琶を鳴らしながら舞い降りた。
そう、舞い降りたのである。
しかも宮中でも見たことのない、光り輝くような容貌の女性である。
「天女、さま……」
思わずつぶやくひよしに、役君は笑う。
「さよう。此処は天女のおる場所である」
天女は微笑む。
「小角や。その娘ごか?」
「さようでございます」
天女はひよしに向かう。
「ここは桃源郷。神仙の住む処なり」
天女はひよしの手を取った。
◇◇◇◇◇
セイラルは、第一王子ジーノスの寝所に着いた。
「僕に治療をするというのか? セイラル、君が……」
セイラルは深く頭を下げる。
「僭越ながら」
ジーノスは軽く息を吐く。
セイラルを案内した騎士が、ジーノスの上体を起こす。
ジーノスは室内の照明の関係なのか、青白い顔をしている。
ジーノスが室内を移動する時は、椅子に車輪を付けたものに乗る。
ケガを負って以来、自分の足を動かすことはジーノスには出来ない。
ベッドから椅子に移る時には、お付きの騎士が援助している。
「王宮の医師が、匙を投げたわが身だ。今更、元の体に戻れるとは思っていないよ」
顔色は悪いが、ジーノスの口調は、昔と同じように穏やかである。
それもまた、次代の国王として教育を受けた賜物なのか、感情の制御が第二王子とは比べ物にならない。
セイラルがまだ幼い頃、ジーノスは弟であるアティリスと共に、しばしばセイラルやフィーマと過ごすことがあった。
その頃から自己主張の強かったアティリスを軽くいなしながら、セイラルにも、姉に対する態度と同じような、気配りをしてくれていた。
その頃と、ジーノスの瞳の色は同じである。
「失礼いたします。お背中を、拝見させていただきたく存じます」
騎士が、ジーノスの衣類をめくる。
背中一面、火傷の跡が残っており、首と尾てい骨あたりの皮膚は黒ずんでいた。
セイラルは、持参した袋から、女性の拳ほどの量の、乾燥した草を取り出す。
「殿下。こちらの薬草を使い、体の芯から治すようにいたします。それと……」
セイラルは皮膚の黒ずみを凝視する。
火傷によるものだけではない。
そこには、邪悪な気配が残っていた。
『邪を祓うのに必要なのは、言葉と文字と形である!』
セイラルは昔、それを聞いていた。
どこで聞いたのかは覚えていない。
だが、確信していた。
「まずは、一番黒い皮膚を治します」
セイラルがきっぱりとジーノスに言う。
それは宣言である。己の魂に対して。
そして、ジーノスの意識に対して。
同時に宣戦布告でもある。
黒ずんだ皮膚に潜む、邪悪なものに対して。
セイラルが言った瞬間、皮膚の黒ずみが動く。
「うっ……」
ジーノスの顔が歪む。
「殿下!」
騎士がジーノスを支える。
ジーノスは顔を歪めながら、歯を食いしばる。
その間、セイラルは黒い皮膚に向かって、指先で言葉を描く。
寺院で習った祈りの言葉だ。
さらに指先に寺院から運んできた水をつけ、聖なる形を描く。
聖なる形。それは六角の星型である。
「ああっ!」
ジーノスが叫ぶ。
叫んだ口から、黒い塊が吐き出された。
黒い塊は、煙のようにすぐに虚空に消えた。
同時に、ジーノスの黒い皮膚が、元の肌色に戻った。
ジーノスの額には、水をかぶったような量の汗が流れる。
彼は目を伏せ、荒い呼吸をしている。
「セイラル様、これは……」
騎士が焦って訊く。
「ジーノス殿下の体を、縛っていたものです。縛られたままでは、どんなに治療施術を受けても、根本的には治らないのです」
ジーノスは騎士に水を求めた。
一気に水を飲み干したジーノスは、額の髪をかき上げてセイラルに言う。
「あ、ありがとう、セイラル。ケガをして以来、ずっと背中が重かった。今、その重みが感じられない」
ジーノスの顔には、薄い朱色が差していた。
セイラルはほんの少し、目を細めた。
ジーノスはほっと息を吐く。
微かなセイラルの笑顔。
それは遠い日の、ジーノスが好きな表情であった。
「殿下。では、次の治療に移らせていただきます」
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