序章・はじまり
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イラストは、秋の桜子様作。ヒロインのセイラル・ヴィステラです。
序
一間よりもなお、長く伸びた黒髪を振り乱し、その者は血走った眼で、対峙する少女を睨む。
首から下、衣類はない。ただ、緑青のような鱗が全身を覆う。
きりきりと噛みしめる口の端からは、ぽたりぽたりと滴る黒いものがある。
人外のもの、としか言いようがない。
かつては帝の寵愛を、一身に受けていたはずの女であるのだが。
睨まれても、怯えることなく少女は座す。
座したまま、ゆっくりと湯を啜る。
「だ、騙したな、我を……」
プシュープシューと息を吐き、女性姿の人外が呻く。言葉とともに、血も吐き出す。
「いいえ、尚侍。騙してなどおりませぬ。我もそなたと同じものを、こうして頂いておりますゆえ」
少女は飄々と答える。人外のものを見つめる目元は、いたって涼やかである。
艶やかな御髪には光輪が浮き、白湯で濡れた唇は、開きかけた紅梅の色を帯びている。
「おのれ、おのれ! 痴がるな、ひよし。果てるのは、お前じゃ!」
血まみれの牙を剝き、人外のものは、少女、ひよしを引き裂こうと、青黒い腕を伸ばす。
シャラン
鈴の音が降りて来る。ひよしが振る鈴だ。
その響きに、人外のものは大きく頭を振る。満月よりも黄色の瞳から、赤い涙が流れる。
シャララン
鈴の音が重なり、身もだえする人外の女性。
四肢を鱗に覆われても、たわわな胸は艶めかしい。
ひよしは右目の片隅に、人外の揺れる乳をとらえながら、かねてより懐に隠し持っていた、小さな独鈷を投げつける。
肉と骨を断つ音が、ひよしの耳に届く。
獣肉を焼くような臭いがする。
同時に人外のものは声をあげた。
断末魔の叫び。
その声は、木枯らしよりも、ひよしを寒くする。
かつて、ひよしの母だった者と同じ色であったのだ。
ひよしの頬に、涙が一粒、流れて落ちた。
「終わったか」
ひよしの背後に人影が立つ。
一本下駄の老人である。
ひよしはコクリと頷いた。
はじまり
世界で最も大きい大陸の西方にある、ユーバニア王国は秋を迎えている。ユーバニアは王政の国家であるが、諸侯の権力もそれなりに大きい。
権力を持つ家系の一つ、ヴィステラ家の次女セイラルは、いつもより起き上がるのに時間がかかっている。
侍女に起こされたセイラルは、ようようと着替えを始めるが、顔色がいつもより蒼い。
セイラル付きの侍女は、仕方ないと思った。
セイラルにとって、今日は、そんな日だろうと。
セイラルの顔色が悪いのは、夢見のせいである。
幼い頃より、何度も見る夢。
魔物のような女と、それに立ちむかう少女の夢だ。
この夢を見た朝は、心が沈む。
今日はことさら、明るい気分になれない日でもある。
とはいえ、いつまでもグズグスしていられない。
セイラルは侍女に促され、支度を始めた。
季節の花々と、色とりどりの木の葉に囲まれた王立の庭園では、祝賀会が行われている。
君主の第二王子アティリスの、婚約記念パーティーである。
第二王子のアティリスは、二年後の十八歳に、立太子予定である。
鋭角的な顔貌をプラチナブロンドの髪が彩り、ブルーグレーの瞳とあいまって、貴族女性の人気は高い。
婚約者のフィーマは第二王子より二歳年長である。
コルセットで締め付けなくとも、両の掌で囲めるほどの細い腰と、体躯の細さに見合わぬほどの豊かな胸は、いやでも人目をひく。
菫色の瞳は、少しばかり斜視のため、フィーマはいつでも、溶けるような視線を周囲に投げる。
庭園の端で、第二王子と婚約者の令嬢を、セイラルは感情を表さずに見つめていた。
十四歳のセイラルは、面立ちも体型も、いまだ少女の風情を残す。
真っすぐな黒髪を細いリボンでまとめ、レースの飾りがないドレスを着て、ただ静かに座っている。
セイラルとは、本日の主役の一人、フィーマの実妹である。
キイキイと車輪の音が近づく。
セイラルが振り返ると、見知った顔が片手をあげて微笑んだ。
第一王子のジーノスが、車輪付きの移動椅子に乗って、セイラルの側まで来ていた。
本来であれば、ジーノスが次期君主の予定であった。
年齢はアティリスよりも五歳上だ。
栗色のウエーブのかかった髪をたなびかせ、学業や武術は勿論、人格も優れた男性である。
数年前、国境付近に魔物が多数現れた時に、討伐隊を率いてその駆除にあたったジーノスは、火炎を吹く魔物に背中を焼かれ、自力歩行が難しくなった。
結果、ジーノスは次期国王の座を、弟の第二王子に譲ったのである。
「大丈夫かい?」
ジーノスがセイラルに尋ねる。
「ええ」
セイラルは微笑みを返す。
秋の日差しを受けたセイラルの笑顔は、ジーノスの心身をいつでも癒す。
幼い風貌ながら、慈しむようなセイラルの眼差しは、女神のようでもある。
なぜ弟は、第二王子のアティリスは、彼女を遠ざけたのだろう。
「本当なら、今アティリスの隣にいるのは……」
セイラルは瞬きをして顔を振る。
「それは、もう、済んだことです」
フィーマとセイラルの姉妹は、ヴィステラ侯爵の令嬢たちである。
ただし母は違う。
フィーマの実母はフィーマを産んですぐに亡くなり、侯爵は現国王の勧めにより、王族の血縁者を後妻に迎えた。
セイラルが六歳になった時、二歳上のアティリスと婚約が成立した。
姉のフィーマはその時十歳。癇癪がひどく、こだわりの強いフィーマには、婚約相手がなかなか見つからなかった。
「セイラルが第二王子と婚約するなら、わたくしは第一王子とするべきですわ!」
たびたびフィーマは父に談判していたが、フィーマの実母の身分を考えると、それは無理な話であった。
ところがフィーマは思春期を迎えると、匂い立つような美貌が際立ち、性格の難点も目立たなくなる。
当然縁談も数多く寄せられるようになったが、フィーマは第一王子の通う王立学園において、常に彼の隣に居続けた。第一王子のジーノスも、事務的能力に長けているフィーマを、それなりに重用していた。
そこに起こったのが、討伐によるジーノスの負傷である。ジーノスの立太子が永久に延期になったことを知ると、フィーマの照準は、第二王子へと変わったのだ。
ジーノスの見舞いと称して、フィーマは王立の医術院に通っていたが、そこで逢っていたのは、アティリスであった。
元々、劇場型のパーソナリティを持つフィーマは、涙ながらにアティリスに寄り添い、しなだれかかった。
「わたくし、ヴィステラの家では、下女のように扱われておりますの」
「父は、妹のセイラルしか可愛がりませんわ」
「セイラルはアティリス様に嫁ぐことを、心底嫌がっておりましてよ」
完全な誹謗中傷を、フィーマはアティリスに囁き続けた。
そして、いつも最後にこう付け加えたのだ。
「わたくしなら、アティリス様のお役にたてますのに。この身を全て捧げまして……」
フィーマの手練手管の結果が出たのは、半年前のことだ。
フィーマの高等学園卒業式の日であった。
式典後のパーティー会場で、王家代表としてやってきたアティリスは、壇上から卒業生への祝辞を述べたあと、こう宣言をした。
「なお、セイラル・ヴィステラ。貴様との婚約を、本日ここで破棄することを宣言する!」
一間とは、およそ1.9メートルくらい。