黄昏の女神
柵から顔を覗かせて下を見れば、ミニチュアの様な景色の中に吸い込まれそうで、足元からぞわりと震えが走った。
ミニカーみたいな車が走り、歩道には顔の判別がつかない人間が歩いている。地上17階のマンションの屋上から見る景色はもうこれで何度目になるだろう。
屋上の鍵が古びて壊れてる事に気がついたのは去年の冬の終わり。あの時はただの好奇心だけだった。
管理人が気がついてないのをいい事に、こっそりと屋上に上がっては空を眺めたり地上を見たりしてた。
誰にも教えなかった、僕だけの秘密基地。
いつからだろう。ここからの景色にわくわくしなくなったのは。
–––––– 今日こそは。
緊張でゴクリと唾を飲み込む音がやけに響いたように聞こえた。
柵を握る手に力を込めて伸び上がり、鉄棒の様に柵の上に腹を乗せる。ふぅと息を吐いて、足を上げて柵を乗り越える。
大丈夫。怖くない、怖くなんてない。
だって、生きてる方が怖い。
もうこれ以上、学校に行く事が怖い。
柵の向こう側に着地した。1m先はもう空中だ。
柵から手を離して、足を踏み出すか体を傾ければあっという間に地上に落ちるだけ。
そっと首を伸ばして下を見れば、さっき見たミニチュアの世界が広がっている。
下から吹き上がった風に、足の間の物がヒュンと縮み上がり思わず柵をギュと握りしめた。
もぞっと足をすり合わせてなんとか耐える。
怖く、ない。怖くない。怖くない。
薄目にしていた目を開けて下を見れば、地面は遠くてあるはずのない尿意まで感じてしまう。
さっき行ったんだからもう出ないはず。
でも、落ちる時に漏らしたらどうしよう。おしっこまみれな死体とか嫌すぎる。……でも、その時は血まみれだから分からないかもしれない。
大丈夫。僕だってやれるんだ。
思い知らせてやるんだ、あいつらに。
お前たちのイジメのせいで、人が死ぬんだって。僕が死ぬのはお前らのせいなんだって。
世間から白い目で見られて、非難されて、追い詰められればいい。
後悔したって、もう遅いんだ。
泣いて謝ったって遅いんだ。
だって、その時には僕は死んでるんだから。
だから、一生許されないまま生きていけばいい。いや、自責の念に駆られて自殺すればいい。僕より惨めに死んでいけ。
ざまぁみろ。
仄暗い愉悦に口端が上がる。
ガクガクと震える足を外に向けて、片手を外して柵の外に体を向ける。
残る片手を外そうとしたその時、ギィと音が鳴って屋上のドアから人が出てきた。
咄嗟に離れかけた柵をギュと握りしめる。
「あれぇ?先客?」
入ってきたのは女の子だった。
肩までの髪は明るい栗色で根元が少し黒くなっている。ブランドのロゴが入った丈の短いシャツを着たちょっと派手な人。
僕と同じぐらいの年に見えるから、高校生だろうか。
クラブとか行って「ウェーイ」とか言いながら踊ってるような感じ。
僕が苦手なタイプの人種だ。
「邪魔しちゃった?ごっめーん」
棒付きキャンディを咥えて、こっちに向かって歩いてくる。
「く、く、くく来るな。来るなよ。僕は飛び降りるだからな。ととと、と、とめ、止めたってムダなんだからなっ」
そうだよ。
今更止められないんだ。
決めたんだ、飛び降りて自殺してやるって。
あいつらに復讐してやるんだ。
「えー?別に止めないよ。あ、でも今飛び降りたらあたしが第一発見者?ヤバ。警察に事情聴取とかされんの。すげぇウケる」
なん、なんだよ。なんだよ、この女。頭おかしいんじゃないのか。
人が死ぬって言ってんのに、大口を開けてケタケタ笑うなんて。
「あれ。飛び降りないの?せっかくだから撮影したげようか。連写?それともムービー?」
ごちゃごちゃと飾りのついたスマホを見せてとんでもない事を言ってくる。
「ふ、ふふふざけんなっ!なんなんだよ、僕の死なんてお前の娯楽かよ。冗談じゃないんだぞ!ひ、ひひ人が、人が死ぬって言ってんだぞっ」
「ふざけてんのはてめぇだよ。マジで死にてーんなら、あたしなんて無視してさっさっと落ちろよ」
女に強く睨まれて体がビクリと硬直する。
す、すごんだって、こわく、怖くなんてないからな。足震えてんのは高いからだ、絶対にお前に睨まれたせいじゃないからな。
「死ぬ度胸もない、半端な気持ちならやめちまえ」
「は、は、はんぱな気持ちじゃないっ!僕は、僕は復讐してやるんだっ。死んで復讐してやるんだよっ」
女は手を伸ばしたら届く距離でようやく止まり、小馬鹿にした顔で僕を嗤った。
「イイコト、教えてあげようか?」
咥えていた棒キャンディを噛み砕いて、残った棒をポイっと捨てると、その手で僕の胸倉を掴んで引き寄せた。勢いで上半身が柵にガツンと当たって一瞬息が止まった。
「あんたが死んでもそいつらはなんとも思わないよ。死に損だよ、無駄死にってやつ?かっわいそー」
馬鹿にしたようにニヤニヤと笑う女の言葉がショックで、涙が決壊したダムみたいにぼたぼたと溢れて流れ落ちた。
「はぁ!?な、何泣いてんのよ、マジでなに泣いてんのよ!止めてよ、あたしが悪いみたいじゃんかー!」
女の声が焦っているのが妙におかしかったけれど、涙と鼻水が止まらない僕は笑うどころではなかった。
鼻水で鼻が詰まり、しゃくりあげるせいで口呼吸もままならない。
息ができなくて死ぬかと思った。
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秋空の下、僕は飛び降りようとした柵に背中を預けて女と並んで座っていた。
膝を抱えて、未だに止まらない涙と鼻水を垂れ流してる僕の横で、女はお手本みたいなヤンキー座りをしている。
「いつまでも鬱陶しいなぁ」
「う、ずびばせ…。う、げ…ごほ、げぽっ」
「うわっ、もぉ!きったない。こっち向くなってばっ」
咳き込んで涎が出ただけなのに、女は大袈裟に僕から離れる。
そう言うのが傷つくんだよ。
なんて面と向かって言える度胸なんてないけど。
大泣きした僕はあの後すっかり気力が萎えてしまって、女に言われるまま柵を乗り越えて戻ってしまった。
「大体、その程度でよく死のうと思ったね。全然根性ないじゃん」
あんたが来なきゃ確実に死んでたよ。たぶん。
そう言ってやりたいのに、鼻が詰まった僕は『はーはー』と変質者みたいな妙な呼吸音しか出せないでいる。
「あ、そのハンカチ要らないからね。絶っ対に要らないから捨ててよね」
ポケットに入れっぱなしだったというクシャクシャなハンカチは僕の鼻水ですでにドロドロになっている。
持っていない僕が文句を言う筋合いじゃないけど、女なら新品持ち歩けよ。ネコ型ロボットに依存するダメ男と風呂が好きな女の子を見習って女子力を磨いてこい。
思ったとしても、口にする勇気はさらさら無いけど。
僕は視線のちょっと先にあるコンクリの亀裂を見ていて、女は二つ目の棒付きキャンディを咥えて鱗雲が浮かぶ空を見ていた。
黙っているのに耐えれなくなって、僕はポツポツと自殺しようと思った原因を話し始めていた。
ずっと、誰かに話したかった。
誰かに聞いて欲しかった。
たぶん、頑張ったなとかよく話してくれたとな優しい慰めの言葉を期待していたんだ。
なのに、女は呆れた顔をして「そんな事で死のうのしてたの。バッカみたい」とバッサリと切り捨てた。
どうせ、僕はバカですよ。バカでマヌケな僕なんて生きる価値なんてないもんな。
死んだって誰も悲しんだりしないんだ。
膝を抱えたままいじけてると、女は嫌そうな顔をして頸を乱暴に掻く。あーとかうーとか唸ってからぽつりと話し始めた。
「あたしの元カレの元カノがさ、中学ん時に虐められてたヤツの動画をさ、未だに保存してんの」
「え?元カレカノ?え?」
「だーかーらー、元カレの元カノ!」
ややこしい。
「なんかの集まりの時にさ、そいつが動画を見せ回ってさ、笑ってんの。パンツ一枚にした奴を四つん這いにして背中に乗って歩かせてたり、5〜6人で囲んで殴ってるやつ」
ゾッとした。
それは、僕の未来のようで。
「もうマジで引いた。ドン引き。ガチ引き。そいつがさ、動画の虐めてた子が自殺したって笑いながら話すんだよ。その時の衝撃がさぁ、なんてーのかな、分かる?あたし、そいつが宇宙人に見えたんだ」
分かる?ってキャンディを口から出してくるくると回す。
女が言う衝撃が僕と同じものかは分からないけど、その元カノの神経を疑うには十分だ。
「虐めてたのはそいつの元カレでさ、あ、私の元カレじゃない方ね。んで、そのグループがやってたイジメが加速してさ、相手が自殺しちゃって、まだ裁判中だってさ」
女は立ち上がって伸びをする。
短い丈のせいかヘソが見えて、ちょっとだけドキッとした。
「3年前の中学生の自殺事件って覚えてる?✖︎✖︎中学」
「なんとなく…?」
「あたしさぁ、中学一緒だったんだよね。つっても学年ちげーし、自殺した子は知らないんだけどさ。マスコミとかテレビ局とかすっげぇ来てたの覚えてる」
悪いけど、僕はそんなに覚えていない。
中学の名前は隣の県にそんな名前の市があったなぁってぐらいだ。
だって、自殺だイジメだ虐待だなんてニュースは1年でよく見かけるから。
ありふれた、そう、ありふれたニュースだ。
「家でも学校でも話題になっててさ、ダチでもねーのにそいつの顔とか家族の事とか知ってんだよ。わけわかんねー」
僕も自殺したらそうなるのか。
家族の話や学校の事とか出回るのか。
「虐めてたやつらは画像を削除させられたけど、他人に流したそいつの画像や動画とかさ、これからも知らないやつらに回されるんだよ。そうやってどっかで笑われて、気の毒がられるんだ」
気持ちわりぃ。
ぽつりと呟いた言葉は彼女の本心に思えた。
オカシイ女だと思ったけど、もしかしたらそんな悪いやつじゃないのかもしれない。
「あんたがさ、ここから落ちて死んだら、それを誰かが撮影してテレビ局に売ったり、SNSに流したりするんだろーね」
「自分だって撮ろうとしたくせに。よくいう」
「撮られながら死にたいやつなんてそんなにいないっしょ」
「まぁ…そうだけど…」
「それでも飛び降りたら、ちゃんとテレビ局に売ってやるから安心しなよ」
「安心できるかっ!」
食い気味で怒鳴ったら、目を丸くした後きゃらきゃらと笑った。
「そんな事があってさ、元カノみたいなやつとか、アンタみたいに簡単に死のうとするやつって嫌いなんだよね」
「簡単じゃないし…」
「簡単じゃん。自分が楽になる方法を取ったんだけだろ。死んで復讐?バッカじゃない。虐めてたヤツがあんたが死んだからって涙流して改心するもんかよ」
あいつらの笑う声が聞こえる。
『自殺だってよ』『あのバカに飛び降りる勇気とかあったんだな』『褒めてやろうぜ。死んでいねーけどさ』『ちょっと遊んだだけで死なれちゃ俺たち悪者みたいだろ。勘弁してほしいよな』
ゲラゲラと不愉快極まりない笑い声。
容易に想像できる。人の死さえ嗤う無神経さ。
「そんな奴らの為に死ぬなんてバカくさくない?そいつらと関わるのは今ぐらいじゃん。なぁ、見てみなよ」
柵に両腕をかけてもたれ掛かり、彼女は外を見ている。
見上げれば、短い丈から白い脇腹がチラリと見えたので慌てて立ち上がった。心臓がバクバクしてるが、急に立ち上がったせいだ。きっと、そう。
同じように柵に手を掛けて外を見る。大小のビルが立ち並びその間を埋めるように建物や公園が見える。よく見ている風景だ。
「今見えてるだけでも沢山の人がいるのにさ、世界ってまだ広いんだよ。すげ、不思議。こんなに広いのにたった数人の為に自分が消えるのってもったいなくね?」
彼女にはこの風景がどう見えてるのか気になった。気怠げな目には憧憬が見えた気がした。
この広い空の先。建物の向こうにある山の、その先にある海の、更に先の先。
遠く、遠く、僕が見えない先に広がる世界。
それを想像すると、体の中がむず痒くて胸の辺りをギュッと握りしめた。
「つまんねー奴の為にあたしらが消える必要はないじゃんか。少なくともあたしはさ、生きて幸せになって、可愛いおばあちゃんになって、孫に囲まれて、死なないでって惜しまれて死んでやるんだ」
彼女へと顔を向けると、睨むように真っ直ぐ先を見ていた。
柵に掛かった手首を飾るミサンガの隙間から痛そうな跡が見えたが、口にするのはやめた。
「君ならカッコいいおばあちゃんになりそうだね」
って言ったら無言で脛を蹴られた。
可愛いおばあちゃんは人を蹴らないと思います。
それから言葉もなく並んだまま柵の外の世界を見ていた。
「じゃ、あたし帰るわ」
「え、あ、うん…」
穏やかな沈黙を破った彼女の顔は、建物の影のせいで表情がよく見えなかった。
いつの間にか陽が傾いて濃い影が伸びていた。
気が付かなかったけど長い時間をここで過ごしていたらしい。
「じゃね」
「えっと、あのさっ」
何か言わなきゃと思わず引き止めると、足を止めて振り返ってくれた。
「あのさ、屋上に用があったんじゃないの?」
「別に。特に用事があったわけじゃないんだ。あたし、昨日引っ越してきてさ、そういや屋上あんのかなー?って来てみたら鍵が開いてて、あんたが飛び降りようとしてただけ」
「……そっか」
「そっ」
そういや、昨日引っ越し業者の車が止まってたと思い出す。
何を期待したんだろうと、ちょっとだけ気恥ずかしかった。
「あ、僕、11階の高橋。高橋出海」
「9階。笹原寧々」
ニヤっと笑って右手をひらひらと振ると扉へと歩き出す。
僕を見てない背中に向けて振り返した右手に気がついて、前髪をぐしゃりと握りつぶす。
「なに、してんだろう」
自殺するつもりで来たのに、もうあの柵を乗り越える気は全く無くなってしまった。
しかも変な彼女と名前を交換して。
なにやってんだろうなぁ。
自分が滑稽に思えて、思わず苦笑した。
久々に笑ったなぁなんて思ってたら「高橋っ」と呼ばれて顔を上げると、彼女が扉の前にいた。
アンダースローで投げた物が放物線を描いて落ちてくるのを、慌てて受け取れば、それは苺味の棒付きキャンディだった。
「やる」
夕陽に照らされた彼女の笑顔はなんだかとても素敵に見えて、喉の奥がきゅうと詰まったような苦しいような奇妙な感覚になった。
彼女はそのまま扉の中に消え、慌てて「ありがとう!」と叫んだけど、聞こえたかどうかは分からない。
貰ったキャンディを口に咥えると人工的な苺の甘さが口いっぱいに広がる。
死ぬ気が無くなったからと言って、明日から学校に行きたいとは思えないけど、でも、今晩にでも親に相談してみよう。
出来たら転校したい。
そんな希望を伝えて、これからどうするか話してみよう。
帰ろうと歩き出した視線の先に一番星が見えた。
なんだかいつもより綺麗に見えた星が嬉しくて、歩き出した足は軽くなってる気がした。
*終わり*
お読みくださりありがとうございます。