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六、風邪②

六、風邪②


 血相を変えて王宮に戻ってきた世子に、王は何事かと慌てふためいた。


「翠月が、翠月が、ひどい熱なのです」

「翠月……ああ、許嫁として遣わせたおなごか」

「はい。王宮につれてきて、御医に診てもらうことをお許しいただけませんか」

「ああ、そうしなさい」


 王の快諾を得て、世子は屋敷に輿を送り、自身も共に屋敷に戻って、そうして翠月を王宮へと運び込んだ。





 宮廷に運びこまれた翠月は、すぐさま御医によって診察された。

 脈診と、それから病状を見て、御医はふうっと息を吐き出し、妙に神妙な面持ちである。

 固唾を飲んで見守る世子を振り返り、やや言いにくそうに口を開いた。


「もう少し遅かったら、手遅れになるところでした」

「え……?」

「この時期の風邪は厄介です。翠月さまは夏風邪をこじらせておいでです。おからだも弱っているようでしたので、余計に重くなってしまったものと」



 御医の説明に、世子は翠月のほうを見る。

 先ほど医女が持ってきた湯薬を飲み、鍼を打ったためか朝に比べればだいぶ呼吸が楽そうにはなったが、だが顔は赤らみ咳はとまる様子はない。

 世子は翠月の手を握るも、翠月がその手を握り返すことはなかった。

 妙な緊張をしてしまう。このまま翠月が死してしまうのではないかと、世子は少しだけ、ほんの少しだけ恐怖した。

 だが御医は、世子を安心させるように、世子の手を握りながら、


「大丈夫です。わたくしがついています故、世子さまは部屋でお休みに」

「いや……いや。わたしが悪いのだ。翠月の体調に気づかなかったわたしが。よくなるまでわたしはここにいる」

「世子さま……」


 ここまで言われては、御医も食い下がるわけにはいかず、仕方なしに立ち上がり、部屋を後にする。


 残されたのは翠月と世子のみである。女官も医女も、世子によって締め出された。

 看病している姿を誰にも見られたくない、と世子は言うが、実際のところ、世子は自分が翠月に抱く気持ちがよくわからない。

 分からないながらも、翠月が大事であることだけは確かであった。


 汗のにじむ額に濡れた手ぬぐいを宛ててやると、少しだけ翠月の表情が和らぐ。世子は一晩中、ずっと翠月の傍で、翠月の看病をした。

 夜が白んできたころ、世子は眠気に逆らえず、翠月の隣ですうすうと寝息を立てていた。

 月明かりの薄い、細い月の出る夜の出来事である。





 目を覚ました翠月は、見慣れぬ天井と上等な布団に首を傾げた。首を横に動かすと、世子が翠月の手をぎゅっと握りしめて、寝入っていた。

 世子の手には濡れた手ぬぐいが握られているため、どうやら翠月は自分が風邪をひいたことを悟った。

 確かに昨晩は悪寒がしたし体も熱かった。それに、今でもなお咳が出そうに喉や肺が痛むし、熱も下がり切っていないように感じる。

 だが、だいぶ熱は下がったようで、翠月はようよう起き上がる。


「世子さま」


 自分の看病をしてくれたであろう世子を呼ぶが、疲れているのか起きる気配はない。

 さて、ここはどこだろうかと、翠月はそっと世子の手をほどいて、立ち上がると衣を着て、居所の外へと歩く。


 結果分かったことといえば、ここが宮殿であるということくらいで、翠月は風邪からとはまた違った悪寒を感じた。

 このような失態を犯すなど、どう考えてもただでは済まない。

 あの世子に看病をされたこともそうだが、どうやら翠月のために御医や医女や、そのほか諸々の宦官たちが動いたようだ。

 どうしよう、と思うも、ここはもう腹をくくるしかない。


 翠月は確かに世子の許嫁ではあるが、それは公のものではない。許嫁とは銘打っていても、実際に結婚するかといえばそれは違う。そういう風に月読から聞いていた。

 その意味が翠月にはいまだにわからないのだが、とにもかくにも、世子を王宮につなぎとめるためだけに存在する翠月が、このような場所に足を踏み入れ、ましてや看病などを受けたとなれば、それは前代未聞のことであろう。


「どうしよう……」


 起き抜けの頭にも、ややこしい事態になったことはすぐに理解できた。

 このまま王宮を抜け出すにも、それをすれば世子に余計に心配をかけてしまう。

 だが、このまま王宮にいたらいたで、女官や内官たちから白い目を向けられるだろう。

 翠月の目に涙がたまる。もういっそ、このまま消えてしまいたかった。


「そなた……」

「ひっ!?」


 と、新月のため目がきかないところに、男の声が響き渡る。

 翠月が体を震わせると、声の人物は翠月が見えているようで、けたけたと笑いながら翠月の傍まで歩いてきた。

 すぐ近くまで来てうようやく、翠月にもその人物が目視出来た。陽の宮、夏月である。

 ほっと胸をなでおろして、翠月は涙をぬぐって、夏月に毅然とした態度でふるまう。


「なにか用ですか」

「つれないやつだな」

「だって、夏月さまがこんな時間に出歩くなんて、どうせろくなことじゃないでしょう?」


 ツンとした態度に、夏月はふっと息を吐き出した。

 翠月が王宮に連れてこられたことは夏月の耳にも入っていた。それがもう四日も前のことであるから、翠月は自身がどのくらい眠っていたのか知らないようだ。

 夏月はため息交じりに、


「そなた、四日も寝ていたそうだな」

「え、四日? まさか……」


 そういえば、と翠月は空を見上げる。翠月が倒れる前はまだ新月まで時間があった。それなのに、今日はもう新月である。真っ暗な空が、翠月を現実へと誘った。

 確かに翠月は、四日ほど寝込んでいたようだ、認めざるを得なかった。

 そしますます居心地が悪くなってしまう。

 四日も世子に世話をしてもらったとなれば、これはもう合わせる顔がない。


「……何故泣く」

「だ、だって、私……世子さまにこんなにも面倒をおかけしてしまって……」


 ぼろ、ぼろと泣く翠月に夏月は手ぬぐいなど渡すことはしない。ただただ、翠月の涙をじっと見て、枯れるのを待つのみである。

 そんな夏月を、翠月は薄情だと思った。ひとが泣いているのになにも声をかけずただじいっと見ているのは、いささか軽薄な人間すぎやしないかと思ったのだ。

 だが、それとは裏腹に、泣いた分翠月の心は軽くなった。

 我慢せずに、思い切り泣いた翠月は、もうなにがどうなってもかまわないとも思えてくる。


「なんだか、可笑しいですよね」

「なんだ、気でも触れたか」

「ひどい言い草。世子さまにご迷惑をかけたことは、あとでちゃんと謝ればきっと許してもらえるでしょうし」


 夏月は夜の空を見上げる。今日は月がないおかげか、星の瞬きがよく見える。

 翠月もまた、夏月に倣って空を見上げた。先ほどまでは真っ黒だと思っていた空に輝く星を見て、何故だか心が晴れ晴れとした。

 そんな翠月を見て、夏月は顔をゆがめている。世子のことを考える翠月を見て、不機嫌になったのだ。


 夏月はおもむろに翠月の手を握り、自分のほうに引き寄せる。

 驚き翠月は抵抗するも、病み上がりであるためかそれはうまくいかない。

 目の前に夏月の顔が見えて、思わず翠月は目をそらした。


「そなたもどうせ、秋月のほうが世子にふさわしいと思っているんだろう?」

「……え?」


 思いもよらぬ言葉に、翠月は目をまん丸にした。

 夏月はきっと、自分こそが世子にふさわしいと思っているに違いない。

 だから、世子に冷たく当たるのだ。自分は第一皇子であるがゆえに、世子にふさわしいと驕っているのだ。

 だが、確かに順当に考えれば、世子になるべきは夏月のほうであると翠月も思った。


「私には、分かりません」


 だが、翠月には断言することが出来なかった。

 世子も夏月も、血を分けた兄弟なのになぜ争う必要があるのだろうか。だから翠月は、どちらの見方もしない。


 それだというのに、夏月はそれすら気に入らないようで、翠月をさらにさらに自分のほうへと引き寄せる。

 鼻先が触れるほどの距離で、夏月が翠月の瞳をじっと見据えている。

 きれいだ、と翠月は思った。黒々とした瞳は、だが曇りはひとつもない。

 野心家に見えるが、その実恐れているだけなのかもしれない。


 世子に選ばれなかった皇子は、王になった皇子を生涯恐れて生きていく。

 王室は長らく、即位した王によって皇子を暗殺してきた。謀反を起こさせないためである。

 すなわち、この夏月もまた、それを恐れているのではないだろうか。

 もしもこのまま世子が王になったとき、夏月は世子に暗殺されるのではと、そんな心配をしているのではないだろうか。

 血を分けた兄弟なのに、なんて寂しい事だろう。


「大丈夫、ですよ」


 翠月は、夏月の頬に手を宛てて、そうしてゆっくりと、はっきりと言葉にした。

 夏月の瞳が大きく見開かれた。

 なにをもって大丈夫と言い張るのだろうか、なにが大丈夫だと言いたいのだろうか。夏月にはその意図が全く分からない。

 分からないがゆえに、翠月の言葉に聞きいってしまう。


「世子さまは、王になっても夏月さまを邪険に扱ったりしません」

「……っ! そなた、なにを」

「せっかくの兄弟なのに、なぜいがみ合うのですか」

「分かった風な口を……」

「私からも世子さまにお話します。夏月さまがなににおびえ――」

「黙れ!」


 夏月は翠月を突き放す。勢い余って翠月はその場にしりもちをつくも夏月は翠月のほうを一切見ようとしない。

 ただただ「黙れ」と繰り返して、怯えるのみである。


 なんだ。なあんだ。


 翠月はひとりで立ち上がると、怯える夏月に歩みより、そうしてそっと夏月を抱きしめた。子供をあやすように、母親が子供を慈しむように、そっと、だがしっかりと夏月を抱きしめたのだ。

 夏月は驚きのあまり言葉を失った。抵抗すら忘れた。

 ただただ、ぬくい翠月の腕の中で、泣きたくなるのを我慢するのに必死である。


「夏月さまも世子さまも、仲良く生きていけたらいいのに」

「なに、を、たわけたこと、を……」


 だが、それ以上は夏月も言い返すことが出来なかった。新月も相まってか、翠月は自分でもこの行動は意外であった。

 だが、別段自分が可笑しいとも思わなかった。翠月は、夏月のことをもっと知りたいと思ったのだ。世子とともに生きてきた夏月は、なにを見てなにを思い生きてきたのだろうか。

「だが、そなたとて、秋月とわたし、どちらを選ぶのかと訊かれたら、秋月を……選ぶのだろう?」


 震えている、声が、体が。

 翠月は考えるまでもなく、


「私はどちらも選びません」


 そう、はっきりと答えた。

 俄かに信じがたい夏月は、何度も何度も翠月に同じ質問をした。「秋月が好きなのだろう」「秋月のほうが世子にふさわしいと思うだろう」「秋月のほうが偉大だと思うのだろう」「秋月のほうが優しいと思っているのだろう」


 だが翠月は、そのすべての問いに「いいえ」と答えた。

 馬鹿馬鹿しいと思ったのだ、世子と夏月を比べることなど。翠月にとってはどちらも尊い皇子に他ならない。どちらがどちらより優れているかなどと考えるだけでおこがましい。

 夏月は翠月の背中に手を回そうとする。だが、それは存外うまくいかない。夏月の矜持がそれを阻んで、夏月はとうとう翠月の腕の中から離れていった。


 名残惜しい、などと考えて、夏月はハッとしたように翠月から距離を取る。自分はいつからこのような腑抜けになったのだろうか。

 翠月の前でこのような醜態をさらすなど、男として情けない。


「夏月さま、私はもう帰りますが」

「ああ、さっさとどこにでも行ってしまえ」

「はい。でも、夏月さま。夏月さまはもっとご自分を大事になさってくださいね?」

「……っ! 知った風なことを。さっさといね!」


 照れ隠しなのか、それとも本当に気分を害したのか、翠月には分からない。だが、言いたいことを言う性格の翠月には、黙って去ることなど出来ないのだ。

 翠月が王宮の居所に消えゆく姿を、夏月はそっと見守っていた。





 居所に戻ると、世子が翠月を迎え入れた。しかしその顔は怒気を含んでおり、どうやら許可なく出かけた翠月に怒っていることは翠月にもすぐに分かった。


「翠月、そなたはどれだけわたしに心配をかければ気が済むのだ!」

「わわ、も、申し訳ありません!」


 翠月はその場に深々と頭を下げるも、やはりまだ外の風に当たるのは早かったのか、少しだけよろめいてしまう。

 世子はすかさず翠月の手を取り体を支え、心配そうに顔を覗き込んだ。

 夏月とは違った、黒色の瞳は、なにを映し出しているのだろうか。世子の座の争いを見据えているのか、はたまた夏月を恨んでいるのだろうか。

 世子は翠月を支えて歩き、布団まで導く。

 翠月はされるがままに布団までたどり着くと、そこに腰を下ろして、ふうっと息をついた。


「なにをしていた」

「いえ、なにもしておりません……」


 嘘である。

 翠月は先ほどまで夏月とともにいた。そして話をした。世子のこと、夏月のこと、夏月が怯えていること、世子を説得すると約束したこと。

 だが翠月は、それらすべてを世子に隠した。なぜかは分からない、とっさに嘘が口をついて出てきてしまい、引くに引けなくなってしまったのだ。


「はあ。翠月、そなたはいつもわたしに心配ばかりかけて」

「すみません。四日も寝込んでしまって」

「……? なぜ四日も寝込んだと知っている?」


 ついつい口が滑ってしまい、翠月はあわあわと両手を顔の前で振りながら、


「きょ、今日は新月でしたので……わたくしが最後に夜空を見た時は、細い月が空にありました故」

「……そうか。そうだ、そうなのだ、そなたは四日も寝ていて。わたしがどれだけ心配したか」


 世子は翠月を横に寝かせると、布団をかけながら、大事なものを扱うかのようにそっとその手を握りしめる。

 あたたかい世子の手に、翠月はどきりとする。


「そなたが死ぬのではないかと、わたしは気が気じゃなかった」

「死ぬなんて……でも、ありがとうございます」


 翠月は素直に礼を述べる。そして不意に、夏月のことを思い出して、世子の手を握り返す。


「世子さま、その……」

「なんだ?」

「はい。夏月さまを、殺したりしませんよね?」

「そなた、なにを言い出すのだ? わたしが兄上を? たった一人の兄なのに?」


 世子が思いのほか驚き、声を荒らげたため、翠月は気圧されてしまう。それと同時に、安堵した。

 やはり世子は優しいかただ。兄である夏月を殺そうとするはずがない。

 ほっと安堵したためか、翠月の体がどっと重くなる。やはり風邪はまだまだよくなっていなかったようで、翠月はうとうとしながらも、世子の手を強く強く握って離さない。

 世子もまた、翠月を励ますかのようにぎゅうっと手を握りしめて、そうして翠月が眠りに落ちるまで、その手を握って離さなかった。


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