三、狩りに行きましょう②
三、狩りに行きましょう②
若干動きやすい余所行きに着替えた世子と、おめかしした翠月とでは、なかなか道中穏やかではなかった。
なにしろ林に行くわけだから、輿など使えるはずもなく、翠月は世子に抱えられるようにして馬に乗っていた。
初めての馬の揺れに加えて、すぐ後ろに世子の体温を感じてしまい、翠月はらしくもなく緊張してしまっていた。
いくら男勝りだとて、平民はあくまで平民である、馬などに乗ったことなどなかったから、翠月は好奇心と気恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
「せ、世子さま、少し窮屈ではありませんか?」
「……? 離れて乗ればばわたしが落ちる」
「で、ですが……それにしても近くありませんか?」
「……なるほど」
そこでようやく、世子は翠月が困惑していることに気づいた。照れているのだ、声が若干震えている。
かわいらしい一面もあるものだと、世子はおもむろに手綱を握り直して、そうしてより一層翠月に体を密着させた。
「ひゃ」
「ふっ」
「せ、世子さま? 笑いましたね? わざとやっていますね?」
じたばたとしながら、翠月が世子を振り返ったものだから、馬が驚き体を横に震わせた。
「危ない!」
「え?」
馬が動くのと同時、世子は翠月を庇うようにぎゅっと抱き寄せて、そうして翠月はわけがわからぬままに世子によって助けられた。馬から振り落とされずに済んだのは、世子がとっさに翠月を抱き寄せ庇ったからである。
さすがはこの国に世子といったところである、運動神経も抜群で、反射神経もよいようだ。
翠月はようやく自分が危機的状況にいたことに気づくと、おとなしく世子に謝った。
「も、申し訳ありません……」
後ろを振り返るわけにもいかず、失礼を承知のうえで後ろ手に言う。世子は、「まったくだ」と言いつつも、翠月に何事もなかったことに心底安心し、ほっと息をついた。
そうして再び馬を前進させると、世子は翠月に気を使ったのか、話題を逸らした。
「それで、そなたの秘密の場所とは、どこなのだ?」
「あ、はい。もう少しまっすぐ行ったところです」
「そうか……」
慣れない道を選ぶべきではなかった、と世子は思うも、ここまで来ては引き返すのも忍びない。
なにより、翠月が嬉しそうにその場所に案内したいと言い出したものだから、世子は断ることが出来なかったのだ。
振り回されている、と世子自身も分かってはいるのだが、なにぶん、無邪気な翠月を邪険に扱うのは気が引けた。
もしかしたら、気を許しているのかもしれないとも思う。まさかこんなことになるとは、世子自身も予想外であった。
「あ、世子さま。あちらです」
翠月はいまだ世子のことを呼び慣れない。時々こうして「世子さま」と呼んでしまうくらいには、まだまだ二人の仲はそれほど打ち解けていないのだ。
世子は「世子」と呼ばれることを嫌う。それは翠月も知っているのだが、なかなか自分のなかでしっくりこないのだ。
あくまで世子は世子であり、目上の存在、名前で呼ぶなどおこがましいとさえ思ってしまう。
仕方のないことだと世子自身も分かってはいるが、だがそれがどこか寂しい。
「世子さま? モミジはお嫌いでしたか?」
「いや……その呼び方」
「あっ、申し訳ありません。秋月さま」
翠月は言い直すも、世子は不満そうに頬を膨らませている。
まるで子供のようだと翠月は思った。思ったが、口にはしなかった。
馬から降りて、ふたりで林を歩く。とても広い林は、翠月が小さいころからよく遊びに来た山だ。
翠月は懐かしむように一歩一歩を踏みしめる。しゃりしゃりと樹の葉を踏むたびに、昔の思い出がよみがえった。
お父様とお母様に会いたい。
思いがけず両親を思い出してしまい、翠月の目に涙が浮かぶ。
「翠月? 泣いているのか?」
「いいえ。いえ、わたくし、泣いてなんか」
ごまかすも、翠月の目から落ちた雫は涙にほかならない。
世子はわけがわからないながらも、懐から布を取り出して、翠月に渡した。
「ありがとうございます」
「……なにか悩みか?」
訊かなくとも、大体の察しはつく。大方、今の生活を憂いて泣いているのだろうと世子は思った。思ったのだが、それを口にしてやることはなかった。それならば、自分とて同じくらい今の暮らしに辟易している。
なにも翠月だけが泣きたいわけではない。自分とて、子供であったのならば泣きじゃくっているところであろう。
世子を横目に、翠月は布で涙をぬぐうと、世子に笑いかけた。
「わたくしは、自分は不幸だと嘆いてばかりおりましたが」
ふわりとした笑みに、世子の心が乱される。なんてきれいに笑うのだろうかと、柄にもなくそんなことを思った。
翠月は相変わらず笑みを携えたままに続けた。
「わたくし、本当はとても幸せで」
「しあわせ?」
「はい。お父様にもお母様にも愛されて育ちました。ですから、今もわたくしは幸せです」
「……わたしに縛られ許嫁として暮らすこの暮らしがか?」
「はい!」
どうやら翠月はいよいよ覚悟を決めたようだ。
今までの人生を振り返って、翠月は自分の幸せをかみしめた。
父に母に愛されて、なに不自由なくこの歳まで育てられた。それだけで、一生分の幸せであると思ったのだ。
この先は、自分のための人生ではなく、世子のための人生を歩んでもいい、そう思ったのだ。
だが、世子はそれがにわかに信じがたかった。翠月は世子を王宮につなぎとめるための駒に過ぎない。そう、世子も認識しているし、翠月自身もそう言っていた。
その翠月が、自分との生活に幸せを見出せるはずがないと世子は思った。
世子の顔がみるみる曇る。翠月もそれに気づいて、だがやはり笑みは崩さない。
「秋月さまがどう思おうがかまいません。わたくしは、秋月さまのお手伝いをしとうございます」
「手伝い?」
「はい。秋月さまがこの先、世子として生きるのか、それとも王さまと話し合いをしてその責を辞退されるのか。わたくしはそのお力になりとう存じます」
きれいごとだと世子は思った。もしも翠月が自分と同じ立場であったのならば、そんなこと言えるはずがない。
世子の座を辞退するなどと軽々しく言えるわけが。
王命に逆らうということは重罪だ。それを軽々しく口にする翠月が、少しだけ憎くて、少しだけ羨ましかった。
「そなたは楽観的なのだな」
「そうかもしれませんね」
翠月とて、世子の嫌味に気づかないわけがない。楽観的と言われようが、翠月は決めたのだ。
知ってしまった以上、世子に関わってしまった以上、最善の道を一緒に模索したい。そうでなければ、自分がこうして許嫁に選ばれた意味がなくなる。
どんな縁でも大事にしたい。翠月はそう思っていたのだが、事態はそう簡単なものではなかったのだ。
そんなやり取りがあったわけだから、紅葉狩りは当然無言のそれとなった。だが、気まずさは感じていない、お互いに。
翠月のそれは世子を精一杯思いやっての言葉であったし、世子もまた、それは分かっている。故に、早々に引き返すこともなく、二人で紅葉狩りを楽しんでいた。
徐々に徐々に、紅葉が世子の心を解きほぐす。自然の中にいると、自分はなんて小さな人間なのだろうと思い知らされる。
世子は紅葉の葉を一枚拾うと、翠月にそれを差し出した。
「そなたの言う通り、ここのもみじはきれいだな」
「……よかった、です」
へなへなと、翠月の体から力が抜けて行くのが分かる。どうやら世子が気づかないだけで、翠月はかなり気を張っていたようだ。
泣きそうな笑みを浮かべながら、翠月は世子の手からモミジの葉を受け取った。赤々としたきれいな葉っぱに、翠月は「ふふ」と笑いを漏らした。
「なにがおかしい」
「いいえ。すごくきれいだったので」
「ただのもみじであろう?」
「はい。でも、秋月さまがくださった、大事なものです」
他愛ない、些細なことにも喜びを露にする翠月の素直さに、世子の方が泣きたくなる。
こんな風に自然を愛で、楽しみ、誰かと分かち合ったのはいつぶりであろうか。
きっと、子供のころにも経験などしたことがない。
「来てよかった」
「え?」
「あ、いや。なんでもない」
世子の声は木々のこすれる音にかき消され、翠月には届かなかったようだ。だがそれでよかったと世子は思った。もし先の言葉を聞かれていたら、恥ずかしさでどうにかなってしまう。
二人は横並びに林の奥へと足を進める。
ふいに、世子の耳が物騒な音をとらえる。
「翠月!」
「……え?」
ばっと翠月を庇うように、世子は翠月の頭を抱えるようにして、その場から飛び転げた。
その直後、世子と翠月が先ほどまで歩いていたそこに、ひょっと矢が飛び、そうしてそれは、近くの木に刺さり立った。
矢羽から見るに、それは王家の矢であった。
世子は起き上がり、矢が飛んできた方向を見る。翠月もまた起き上がると、世子の背中に庇われながら、矢の主を見やる。
「ほう、悪運だけは強いな」
「……兄上……」
世子の視線の先にいたのは、世子の兄であるようだ。翠月は世子の背中越しにその人物を見て、固まった。そしてさあっと血に毛が引くのが分かる。
兄上、確かに世子はそう言った。その人物こそがあの、世子と出会った日に町中で出会った両班の若い男であった。
ひょこっと世子の背中から顔を出す翠月に気づいた世子の兄が、「ほう」と息を吐き出して、馬から下りる。
「そなた、また会ったな」
その言葉が翠月に向けられたものであると世子はすぐさま理解して、翠月を振り返った。翠月はおろおろとするばかりで、状況を説明する余裕もない。
くっく、と世子の兄は笑い、翠月と、そして世子に向かって説明した。
「わたしは第一皇子、陽の宮、夏月。そなたが秋月の許嫁とやらだったとは」
いよいよ窮地に立たされた翠月は、世子の背中から一歩前へ歩み出て、そうして慌てて頭を下げた。
両手を前に組んで礼をして、そのあと翠月は、深く深く頭を下げた。
「その節は、大変申し訳ありませんでした……」
「まったくだ」
「翠月、そなた兄上と知り合いなのか?」
世子だけが話についていけないようで、翠月は世子を見て、小さな声で、
「はい。町中でお会いしたことがございます」
だが翠月の声は夏月に丸聞こえで、夏月はけたけたと笑い声をあげる。
「『町中で会った』? 嘘を言え。そなた、わたしにたいそう横柄な態度をとったではないか」
「……! も、申し訳ありません」
「なんだ、わたしの身分が分かったとたん、したてに出るのか」
つまらん奴だ、などと夏月はいうが、実際、知らなかったとはいえ第一皇子にあのような態度をとったとなれば、翠月はただでは済まないだろう。
それは覚悟しているが、それでも謝るほかに方法はない。
夏月は世子のほうを見て、忌々しげに顔をゆがめた。
「秋月。そなたここになにしに来た」
「……紅葉狩り、にございます」
「紅葉狩り? そなたいつからそのような庶民の娯楽に興味を持った?」
言わずとも夏月には分かる、紅葉狩りに連れ出したのはほかならぬ翠月であると。だが、あえて聞いてやったのだ。
そのように、平民のおなごに振り回されて、王族としての自覚が足りない、矜持がないのだ、となじるつもりなのだ。
世子はそれでも、なんら臆することなく答えた。
「わたしもそう思っていましたが。紅葉を愛でるのも悪くありません」
「ほう?」
夏月は一歩、また一歩歩みを進めて、とうとう世子と翠月の目の前まで来る。
翠月はいまだ頭を下げたままであるが、世子はまっすぐに夏月を見据えていた。
「わたしと狩りで勝負しろ」
「兄上……?」
「そなたが勝てば、許嫁の不遜は許してやる。もし断るというのなら、わたしがじきじきにその女を罰するが」
にやり、夏月の笑みは本気のそれである。断れば確実に翠月は罰を受ける。
それが世子にもわかったため、世子は仕方なしにその申し出を受け入れることにする。もとよりこの場をうまく片付けるには、それしか方法がないようだ。
「分かり、ました。わたしが勝ったら、翠月を不問に付してください」
「ああ、男に二言はない」
翠月がアワアワするなかで、ふたりは話をつける。夏月は内官に持たせていた狩りの道具一式を世子に渡して、自身は馬の上へと移動する。
「そなたの馬は、あちらだ」
と、夏月が指さした馬は駿馬ではない、宦官たちが乗ってきた馬たちである。だが、それも致し方のないことだ。不利な条件下の元、二人の皇子は狩りへと繰り出した。
内官に連れられて、翠月は待機所で待つことしかできない。どうかご無事で、祈るのは世子の無事のみである。自身の不遜のことも忘れて、ただひたすらに祈るしかできなかった。