一、皇子さま
一、皇子さま
月読に指南されてひと月後、翠月はその日を迎えた。
初夏の日差しが暑すぎる、そんな朝のことであった。
「初めまして、翠月と申します」
「……」
案内されたのは、簡素な造りの屋敷だった。なんなら、翠月が住んでいた屋敷のほうが立派で大きいくらいの、本当に簡素な家である。
そこに、かの世子さまがいたのだ。
簡素な家とは裏腹に、世子は見目麗しく、そして上等ではないとはいえ、絹の衣をまとっていれば、なるほどどうして、彼が特別な存在であることは一目で分かった。
小屋の中に入ると、世子が机の前に座り書物を読んでいた。翠月には目もくれないありさまである。
だが翠月はこのひと月月読から教わった通りに、礼儀よく世子に礼をして、自己紹介をする。
「この度、わたくし翠月は、世子さまの許嫁としてご挨拶に参りました」
「……興味ない」
「え?」
「だから、興味がないと言ったんだ。どうせ大方、わたしを王宮に連れ戻す算段で、そなたがここによこされたのだろう?」
眉目秀麗なかただとは都中の噂になっていたほどであるから、翠月自身も知っていた。
だが、それ以上に頭が切れる。世子はすぐさま、翠月の役割も、よこされた理由もズバリと言い当てた。
翠月は一瞬たじろぐも、そもそも翠月自身も、ここに来たのは本意ではない。
「そうでございます。わたくしは、世子さまを王宮に連れ戻すための駒にすぎません」
「……そなた正気か? それを聞いて、わたしがそなたを追い返すことは目に見えているであろう?」
「はい。ですが、わたくしとて嘘を吐くのは本意ではありません。それに、月読さんからも、私の好きなようにしていいとのお達しがありましたので」
「はは、いかれてる」
世子は参ったと言わんばかりに両手を上げて、そうしてその場に立ち上がり、翠月の前へとにじり寄った。
翠月はじっと座って世子を見ているのみである。
仮にここで翠月が世子に気に入られなくとも、翠月にはなんら関係のないことなのだ。
世子が王宮を離れてこのような場所に暮らす理由もなんとなくわかった気がする。翠月はこの一か月、月読のもとで王宮暮らしをして、世子の気持ちを少しだけ理解したのだ。
王宮は窮屈すぎて息が詰まる。
「そなた、わたしが打ち首だと命じたらどうするつもりだ?」
「まさか。世子さまはそのようなことは出来ませんよ」
「『出来ません』? なにをもってそう言い切れる?」
世子なりの脅しであったに違いないが、翠月は意外にも冷静であった。
この一か月、月読のもとで過ごした時間がそうさせたのか、生来の性格なのかは分からない。そもそも、そのどちらもなのかもしれないが、翠月は生死を目の前にしても、一切怯むことはなかった。
「世子さまはご自分の権力や立場を嫌われているかたです。そんなかたがわざわざ権力を行使して、わたくしを打ち首になんてできましょうか」
「……ほう、なかなか自信家だな」
「ええ、こう見えて男勝りで有名でしたのよ」
翠月は昔から男子と遊ぶことが好きな、明朗快活な少女であった。
猫が木に登ったのを追いかけて、木から降りられなくなったり、夏の川で魚取りをしたり、秋の森に探索に行ったり、冬の雪の中を駆け回ったり。
おおよそ、女の子らしいことはしてこなかった。
唯一、料理だけは母親に仕込まれていたため、月読に感心されたほどであるのだが。
「わたしはそなたに興味を持つことはない。故に、すぐにくにに帰れ」
「わたくしもそうしたいところなのですが、なにぶん、わたくしはもう二度とくにには帰れないのです」
翠月の顔が少しだけ曇った。世子は翠月の言葉にに耳を傾ける。
「世子さまが生きている限り、わたくしは許嫁として王宮の外には出られません」
「それならば、わたしが命じて自由の身にしてやる故」
「それはいくら世子さまでも無理です。これは王命なのですから」
「……はぁ」
大きなため息とともに、世子が諦めたかのように、やれやれと肩を竦める。
「それは悪いが、そなたには一生籠の鳥になってもらうほかあるまい。わたしはこの屋敷を離れることはしない」
「それでは、わたくしも一緒にこちらに住みます」
「何故そうなる? ここは狭い。二人で暮らす余裕など……」
「そうですか、そうですね。ではわたくしは王宮に戻り、ひとりで寂しく、世子さまの許嫁として生涯を閉じます」
翠月の言葉に他意はなかった。覚悟はしていたものの、やはり世子にこのように断られてしまうと、どうしても自分本位な言葉しか出てこなかったのだ。
しゅんとしょげる翠月を見て、世子は大きなため息を吐いた。
「……それは脅しか」
「え?」
「はぁ、分かった。一緒に住むくらいなら。だが、嫌になったらいつでも出ていけ? ここはあくまでわたしの私邸だ」
翠月の顔がぱあっと明るくなる。世子は内心で「やれやれ」とため息を吐きつつも、なぜ自分がこの少女を受け入れたのか、分からなかった。
分からないなりに考えた。
少女はいきなり王宮に連れられて、そうしてきっと、なにもわからぬままに自分の許嫁として教育されて、自分のもとに送られた。
見ず知らずの場所で独り、見知らぬ男の許嫁にされた。
それはあまりにも不憫だと思ったのだ。故に世子は、翠月を受け入れてしまったのだ。
「よろしくお願いします、世子さま」
「その呼び方はやめてくれ」
「では、なんとお呼びすれば?」
「月の宮、秋月。それがわたしの名前だ」
「月の宮さま……これからよろしくお願いいたしますね?」
ふわりと笑うその笑顔が、世子の心を少しだけ明るくした。
物おじしない翠月の、心からの言葉と笑みが、少しだけ世子の心を照らした。
だからといって、心を許したわけではない。
どうにかして、翠月を許嫁の責から外して、生家に帰してやらねば。
そうでなければ、世子自身もまた、王の言いなりになってしまう。
そんなことを考えながら、世子は厨で料理をする翠月の横顔を見守った。
あまりにも嬉しそうにしているものだから、少しの間、王宮から離れたこの土地で暮らさせてやるのも悪くない、と、そんな考えが一瞬だけよぎり、慌てて否定した。
「なにを考えているんだ、わたしは」
よもや自分が人恋しさにかられるとは、思いもよらなかったのだ。
翠月は厨に入るや、その食材の多さにまず驚いた。
さすがは世子といったところであろう、平民では手に入らない食材が所狭しと並べられていた。なにより、おつきのものが毎日食事を作っていたようで、翠月は最初その女官にどう説明しようかと悩んだ。
「そんな、許嫁である翠月さまにお料理をさせるなどと」
「いえ、でも、わたくし、世子さまのお世話をするように言われてここに来ましたの。月読さまから聞いていませんか?」
「そ、それは聞いておりますが……」
女官の役割を翠月が担う。それはつまり、女官の仕事を翠月が奪うことを意味する。
世子の世話を外された女官はどうなるのだろうか。
きっと王宮にもどり、そこできらびやかな王族方のお世話をするに違いない。
それはきっと、こんな小さな屋敷に勤めるよりもいいことのはずだ。
「わたくしが今日から世子さまのお世話をしますので、あなた方たちは王宮に帰ってよろしいかと」
「ですが、ですが……」
「いいのです。これがわたくしの役割ですから」
女官は最後まで世子や翠月の身を案じていた。実によくできた女官だと翠月は思った。
どんな場所で仕えようと、女官は女官なりに世子に誠心誠意尽くしているのだ。
それに比べて自分は、仕方なしにこの責を受け入れた。見倣わなくてはと思う反面、それでも自分は自分なのだと思い直す。
翠月は厨で料理をしながら、どうやって世子を説得しようか考えていた。
無理に世子を世子として王宮に連れ戻すことはしたくない。それではあんまりだと翠月も分かっているからだ。だが、このままではいけないことも分かっている。世子は仮にも世子なのだ、その責を放棄するのならば、このような場所にいないで王宮で王さまを説得するべきである。いつまでも逃げて暮らすわけにはいかない。
「世子さま、出来ました」
「ん、あ、ああ」
世子がずっと翠月の様子をうかがっていたとは露知らず、翠月は食卓に料理を並べ、世子の部屋へと運んでいく。
その料理は世子のおつきの女官にも劣らぬもので、言ってしまえば王宮での料理に引けを取らないくらいに豪華なものであった。
それは月読が翠月に料理を仕込んだ賜物であるのだが、世子はそのようなことはみじんも知らない。
「すごいな、驚いた」
「どうしました?」
「いや、そなたは料理がうまいのだな」
「……それは召し上がってから言ってください」
照れ隠しに、翠月は世子より先に料理に箸をつけてしまう。箸をつけたあとにハッとして翠月は世子の方を見たが、世子は「気にするな」と、自分も料理に箸をつけた。
怒られなかったことに心底安堵して、翠月は世子の動向をそっと見守った。さて、自分の料理は口に合うのだろうか。
世子の口が開き、煮た魚をぱくり、口に入れた。
世子は甘めの味付けが好きなのだと月読から聞いていたため、今日の煮魚はやや甘めに煮つけた。翠月にはやや甘すぎに感じたそれだが、果たして世子の口に合うのだろうか。
「……! うまいな」
「……そ、そうですか?」
「ああ。そなた、わたしの味の好みまで把握しているのか?」
「……はい、一応そのように仕込まれましたので」
翠月は照れと申し訳なさでいたたまれなくなる。まるでこれでは、自分は世子に取り入ろうとしているように感じてしまったのだ。
世子の好きな味付けで料理を作って、その距離を縮めて、そしていつか、自分を晴れて自由の身にしてくれたらと思ったのだが、それはすなわち、世子の自由を奪うことになる。
世子が王宮に戻れば、退屈な宮殿暮らしが待っている。それから、世子としての教育も。
世子は何故、世子の座を受け入れないのだろうか。
「世子さま、は」
「なんだ」
「何故、このようなところに暮らされて――」
それ以上はなにも言えなかった。世子の目が、悲しみに染まっていたからだ。やはりそなたもそれを聞くのか、そんな目をしていた。
踏み込んではいけなかったのだ、世子にとってそれは、ただ唯一それだけは、触れられたくない最大のものなのだ。
翠月はいたたまれなくなりその場に立ち上がる。
「申し訳ありません、わたくし、夕餉の食材を買いに行ってまいります」
本当は逃げ出したいだけだ。食材など、毎日王宮から届けられるそれで事足りると、先ほど女官たちからいろいろなことを申し送られた。
だが、なんとかして理由を作って、この場から去りたかった。そうでなければ、世子と決定的な溝ができてしまいそうで怖かった。
ひとには触れられたくないものがひとつや二つ存在して当たり前だ。それを、会って間もない自分がずけずけと踏み込んでしまって、翠月は自分の浅はかさを恨んだ。
「私、馬鹿ね」
昔から考えなしなところがあった。なんでも思ったことは口にする性格故に、男の子とけんかになることも多々あった。それになにより、翠月は嘘が下手だ。
だから、世子がなにに悩んでいるのか、気になり始めるとほかのことが手につかない。自分でも情けないほどに不器用なのだ。
ああだこうだ考えて歩いていたせいか、翠月は慣れない町で、一人の男にぶつかってしまった。前を見ずに歩いていたため、気づかなかったのだ。
「す、すみません」
「……『すみません』? 誰に向かってそのような口を」
ぶつかった相手は運悪く横柄な男であった。強面の男は翠月をぎろりとにらみ見くだし、翠月はそこで初めてこの危機的状況に気づいておろおろとするばかりである。
「も、申し訳ありません」
見るに、上等な絹の官服を着た男は両班だ。厄介な人物に目をつけられた、と翠月は身の振り方を考えるも、翠月に勝ち目など無いに等しい。たかが平民である翠月には、両班に敵うことなど一つもなかった。
「へえ、いい衣を着ているな、そなた、どこの娘だ?」
「や、いえ、私は」
男がぐっと翠月の右手を掴み、そうして自分の方へと引き寄せる。髭を生やした顔が下卑た笑いで歪んでいる。
気持ち悪い、誰か助けて。
翠月はそう思うも、声にはしなかった。月読に教え込まれたのだ、世子の許嫁たるもの、なにがあっても気丈に振る舞うこと。ましてや、人の目につくような行動は慎むこと。
本来の翠月であれば、言われっぱなしなど考えられない。明らかに言いがかりをつけてきたのは男の方であるし、町人も町人で、翠月を助けようとはせずに、だが二人の動向をひそひそとみていることが気に入らなかった。
ああもう、どうにでもなれ。
とうとう我慢ならなくなり、翠月は男の手を思い切り振りほどいた。
「私は! 女だからと――」
「おい、なにをしている?」
翠月が声を張り上げた時、両班の男の背後からもうひとり、若い男が現れて、そうして両班の男はその声にびくりと体を震わすと、振り返り恭しく頭を下げた。
「も、申し訳ありません、陽の――」
若い男は右手を上げて、両班の男の言葉を遮った。両班の男は口を一文字に結んで、そうして頭を下げたままに、若い男のほうへと歩く。
若い男のほうは、翠月に気づくと悠長な足取りで翠月の前まで歩き、身体をかがめて翠月の顔をまじまじと見てきた。
失礼な男たちだと思いながら、翠月もまた、若い男の顔をまじまじと見てやった。端正な顔立ちだ。だがどこかで会ったような気もする。どこでだったか。
「そなた、わたしの連れがすまなかったな」
「……ええ」
「『ええ』? そなた、自分は悪くないとでも言うのか?」
「……確かに私も前を見ていなかったのは悪うございました。でも、因縁をつけてきたのはそちらの両班のかたの方です」
「ほう、なかなかじゃじゃ馬だな」
若い男はふん、と鼻を鳴らしながら、翠月をにらみ下ろす。翠月もまた、男をにらみ見上げる。
「わたしが何者か知って、そのような態度をとるのか?」
「……両班だからと、なにが偉いのですか」
「ほう?」
「私は確かに平民です。でも、それだけで卑下されるのはおかしいでしょう?」
「それは、謀反ととるが」
男は意味深に笑うも、翠月は一切怯まない。
確かにこのような、身分制度への反発を口にするのは謀反に等しい。だが、だからといってすぐに捕らえられることもない。常日頃から民は同じことを思って生きているはずだ。
故に、翠月を捕らえるというのならば、この国の民全員が同じ罪に問われてしかるべき。
なによりも翠月は、自身の立場に慢心していたのかもしれない。
少し前までならば、翠月もまた、ただの平民だったに違いない。だが今は、世子の許嫁という立場も相まって、少しだけ気持ちが大きくなっていた。
翠月が一切怯むことなく男に言い返したため、男は気分を害したかのように踵を返した。
「そなた、名は」
「名乗るほどのものではありません」
「顔は覚えた。此度は許すが、次はないと思え」
「もう二度とお会いすることはないと思いますが」
減らず口は相変わらずで、男は返した踵をさらに返す。再び翠月のほうを見て、男はズイっと翠月のほうへと顔を寄せた。
そうして男は懐から扇子を取り出し、それをばっと広げる。町人がざわつくのが分かった。だが、翠月にはその意図が分からない。
男は持っていた扇子を閉じると、翠月を再びにらみ見る。
「無知もそこまで来るとお目出度いな」
「……?」
「そなたは所詮平民だ。取るに足らない、ただの平民なのだな」
「……だったらなんだというのですか。両班がそんなに偉いのですか? 作物を作る農民や商人がいなければ国はまわりません。それだというのに、私たちを見くだして楽しいですか」
精一杯の去勢である。
本来平民が両班に口答えなど許されるはずもない。だが、先に述べた通り翠月は本来男勝りな性格であり、それに加えて今は、世子という後ろ盾がある。無意識だとしても、翠月は世子の許嫁という立場から、普段に輪をかけて気持ちが大きくなっているのだ。
男は、ふうっと息を吐き出す。まるで話にならないと言いたげに、翠月から両班の男のほうに視線を移して。
「力づくで分からせたいところではあるが、悪いがわたしは今から大事な用事がある。故に、見逃してやる。さっさとわたしの前からいね」
「……見逃す? たいそうなご身分ですこと。言われなくとも、私はもう行きます故。たいそうご立派なひとなんでしょうね、あなたは。それでは、失礼いたします!」
最後に嫌味をたっぷりと言い放って、翠月は男の前から駆け出した。
本当は心臓が破裂せんばかりにばくばくと早鐘を打っていた。打ち首にされてもおかしくないことを言ってしまった。それなのに、翠月の口は止まらなかった。言われっぱなしは性格上許せなかった。
それになにより、世子との関係でもやもやとしていたうっぷんを、誰かにぶつけて発散したかったのかもしれない。
翠月はそんなことを考えながら、世子の住む屋敷までの道のりをひた走った。
あの両班がもし自分を追いかけてきたらどうしよう。もし訴えられたらどうしよう。
いまさらになってそんな不安が押し寄せるが、幸いにも男たちが追いかけることも訴えることもなかった。
走り去る翠月の背中を、男は忌々しげに見ていた。
「『たいそうな身分』ねえ。言ってくれるな」
男のつぶやきは、誰にも聞かれることはなかった。