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序章

序章


 青い空が少女を飲み込んだ。


 決して裕福な家柄ではない、だが少女はなんの不自由もなく暮らしていた。

 普通の家の、普通の家族との、普通の暮らしを、少女は幸せに思っていた。

 時折、友人たちと、「王宮の女官になれたら、毎日ごちそうが食べられるわね」と冗談半分に話すことはあったものの、少女にとって王宮は夢のまた夢、まるで無関係な世界であった。

 友人たちは着飾りごちそうの並べられた膳を毎日出され、世話役の侍女に何事をも世話されて、そういう生活がまさに「幸せ」そのものだと、うっとりとした表情で語っていた。


 だが少女には、そうは思えなかった。

 賤民ならまだしも、少女の身分は平民である。平民とはいっても、そこいらの平民に比べればはるかに裕福な暮らしぶりで、それは友人たちもうらやむような生活であった。

 それゆえなのか、はたまた少女の父母が少女を慈しんで育てたせいか、少女はまるで王宮になど興味を持たなかった。


 それだというのに。


 少女は青い空の下、静かに泣いた。

 とある昼下がり、少女は突如として独りとなった。


「そなたの娘を王宮によこせ」


 少女の家に押しかけてきたのは紛れもなく王宮の女官という者たちで、そうして女官のうちの一番偉いであろうその人物――尚宮が、少女の両親に向けてそう言ったのだ。

 尚宮たちは、少女の屋敷の門をくぐるや、家に上がることもなく、少女の両親にはっきりとそう言ったのだ。

 ぱちくりと目をしばたたかせることしかできない少女に対して、少女の両親は尚宮に平伏し、まるで考える様子もなく、その申し出を受け入れた。快諾である。


「お父様、お母様? 私、王宮になんて行きたくないです」

「もう決まったことなんだ。どうか聞き分けておくれ」

「お父様……?」

「ごめんなさいね、翠月。私たちはこの申し出を断るわけにはいかないの」


 それは、尚宮から交換条件に金品を受け取ったからであろうか。

 それともこれが、王命であったからなのだろうか。

 翠月にはその真意は分からない。分からないながらも、翠月はそれに従うほかになかった。

 本当は翠月にも分かっている、尚宮が直々に家に来たとなれば、それは平民には計り知れぬ事情があるということも。


「お父様、お母様。今まで育ててくださり、ありがとうございました」

「翠月」

「翠月、元気でね、翠月。私の娘……」


 翠月、若干十九にして、涙の別れを経験したのだった。





 そうして翌日には、翠月のもとに迎えがよこされる。

 華美な輿が屋敷のなかに運び込まれ、翠月は一晩中泣きはらした顔で、尚宮たちに言われるがままに輿に乗り込んだ。

 人一人がやっと乗れる大きさの輿であるが、これを担ぐのは十数人の男たちである。

 最大限揺れることのないように、ましてや落とすことのないように細心の注意を張り巡らせて、輿が持ち上げられた。

 翠月は輿の窓を少しだけ開けて、自分を見送る父母を見た。

 涙を目からこぼす両親を見て、翠月は紛れもなく自分は両親に愛されていることを再認識した。

 さようなら、お父様、お母様。

 心の中で最後の別れを済ませて、翠月は輿の窓を閉めた。

 春の陽気が心地よい、ある日の出来事である。





 輿に揺られながら、翠月はこれからの身の振りかたを考えた。

 そもそも、自分が王宮に呼ばれた理由はなんなのだろうか。女官になるにしては輿をよこされるはずもないし、それでは、もしや王さまの側室だろうか。

 いや、側室なんてありえない。現在の王さまはもういいお年だと聞いている。今更側室を迎え入れて、なんになるのだろうか。そもそも、自分が側室として見初められるほどの器でないことは翠月が一番よく知っている。

 それならば、何故自分は王宮に呼ばれたのだろうか。


「そなたが翠月か」

「……はい」


 そうこうしているうちに、輿が王宮内へと入り、翠月はとある部屋に案内された。

 王の居所ではないようだ、王宮の中でも端の方の宮殿に呼ばれ、翠月は姿勢を正しくその場に立ち尽くした。

 目の前に座る女はこの王宮の女官の中でも最も偉い人物、尚宮よりも上座に座っていた。


「目上の者に礼もできぬのか?」

「あっ、も、申し訳ありません」


 言われて翠月は、慌てて両の手を前で組んで、そうして膝をついて恭しく頭を下げた。だが、その作法はぎこちないもので、女はふう、っとため息を吐いた。

 翠月はいそいそと下座に座り、女の顔を横目で見る。怒っているように見えた。もしや自分がここに呼ばれた理由は、なにか自分が気づかないだけで、王宮の人間に粗相をしてしまったのだろうか。そうとしか考えられない。

 それならば、先に謝ってしまったほうが傷は浅くて済む。

 翠月はおもむろに床に手をついて、そうして今度は先ほどよりも深く、深く頭を下げた。


「も、申し訳ありません」

「……?」

「わたくしは、平民の身分でなにか粗相をしてしまったのでしょうか。でしたのならばどうかこたびだけは寛大な措置を……」

「なにか勘違いしているようだな」


 女の顔がフッと緩む。

 翠月は女の言葉にそっと顔を上げると、女は翠月をまじまじと見て、ふうっと息を漏らした。


「そなたは今日から、この宮殿に住むのだ」

「私が……?」

「そうだ。そなたにはあるかたの『許嫁』になってほしい」

「え? 許嫁?」


 まるで寝耳に水である。

 翠月は女の言葉を反復し、目をまん丸にして驚いている。

 傍で見ていた尚宮は、翠月の反応は予想内だったようで、眉一つ動かしていない。

 女は翠月を手招きする。


「ちこう寄れ」

「は、はい」


 膝立ちになって一歩、女の前へとにじり出た。

 女は翠月のあごに手を添えて、そうして翠月の顔を前から右から左から、翠月の顔を動かしながら、まるで品定めするように見渡している。

 翠月は居心地の悪さを感じるも、なにも抵抗はしなかった。

 それよりも、妙な緊張が体を支配して、体が固まって動けなかった。

 なぜ、誰の許嫁になるのだろうか。頭の中はそのことでいっぱいである。

 やがて翠月の顔を見終えた女は、ふうっとため息を吐いて、そうして翠月の目をまっすぐに見据えた。


「今日からそなたには、世子さまの許嫁になってもらう」

「……え、世子さまって……」

「この国の世継ぎであらせられるお方だ」


 さあっと血の気が引いていくのが分かる。翠月は、「そんなの私には無理です!」と即答で答えたものの、どうやらこの決定事項は覆せないようだ。女も尚宮も、首を縦には振らない。


「あんまりです、私はただの平民の娘です。世子さまに釣り合う身分じゃありません」

「身分に関係なく、これは星読みで出た結果故に、覆すことは出来ぬ」

「星読み……?」


 どうやら、女は星読み――巫女であるようだ。

 巫女は尚宮などの他の女官よりも高い地位を得ることがある。それは主に、巫女が占いによって天災を免れたり、王族の病を治したり出来る唯一無二の存在だからである。

 とはいえ、病を治すのは基本的に患者が軽い体調不良を起こしたときのみであるし、天災を免れることが出来るのもまた、自然の流れを読めるからであるのだが。

 巫女といえどただの人間、つまりできることは普通の人とさほど変わらない。

 他と違う点があるとすれば、それは巫女たちにはほかの人間よりもわずかばかり医学に詳しかったり、邪気や気候や天気や風の流れを読めることである。

 だが、それは思いのほか貴重な才能であり、ゆえにこうして、尚宮よりも上座に座れるような、そんな本物の巫女が存在するのだ。


「翠月、といったか」

「は、はい」

「今日から私、月読がつきっきりで宮中の掟を指南する故、しばらくは私と寝食を共にしてもらいます」

「で、でも私、見知らぬひとと結婚なんて……」

「……よいですか。そなたの役割は許嫁ではありますが、そなたが世子さまを好きになる必要はありません。それから、そなたはそなたの好きなようにして構いません」

「え?」


 翠月は身を乗り出して訊き返した。

 許嫁になれと言っておきながら、その相手である世子を好きにならなくていいとはどういうことなのだろうか。まるで話がかみ合わない。

 そもそも、なんで自分なのだろうか。


「私の星読みでそなたが世子さまの許嫁にふさわしいと出た。だが、世子さまとそなたが好きあう必要はない」

「じゃあ、私はなんのために存在するんですか?」

「……そのうち分かる。さあ、今日はもう疲れたであろう。風呂を用意させる故、入ったらこちらの衣に着替えて、寝なさい」


 女が差し出したのは絹の衣だ。白い寝間着は、肌触りのいい絹でできている。光沢も品があって、翠月は恐る恐るそれを受け取った。

 滑らかな指触りに、思わずため息が漏れる。

 生まれてこのかた、こんなに上等な絹の衣を触ったことがない。むろん、着たこともない。

 花弁がちりばめられた風呂と、肌触りのいい絹の衣のおかげか、翠月は少しばかり今の置かれた状況を忘れることが出来た。






 翌日の朝、翠月は月読によってたたき起こされた。朝は卯の刻である。

 翠月は眠い目をこすりながら、ようよう布団から起き上がる。

 昨日は結局深夜まで寝付けなかった、翠月は温かく柔らかですべらかな絹の布団にもっともぐっていたかったのだが、月読がそれを許してはくれなかった。


「翠月、起きなさい。朝ですよ」

「……月読さん……こんなに朝早くになにをするんですか」

「朝食を作るのです」

「え……?」


 宮殿の暮らしといえば、朝食も身支度も、おつきの女官がするものと認識していたのだが、どうやら翠月はそうはいかないようだった。なぜだろうと思いながらも翠月はそれを聞くことはしなかった。


「朝食は粥と魚と漬けもの、それから卵をゆでたものと」

「ええ、そんなに作るのですか?」

「なにを言うのですか。そなたは今後、世子さまに料理を作って差し上げなかればならないのですよ」

「え、私が作るんですか?」

「その言葉遣いも改めなさい。『わたくしが作るのですか』、そう言い直しなさい」

「……わたくしが……作るのですか」

「そうです。そなたが作るのです」


 翠月は手を動かしながらも口を開くのをやめない。


「でも、私は世子さまを好きにならなくていいんですよね?」

「『でも、わたくしは世子様を好きにならなくてよろしいのですよね』」

「……わたくしは世子様を好きになりませんのに、何故料理をしなければならないん……のでしょうか」


 かしこまった言葉遣いは慣れない。どうしても途中で素が出てしまいそうになる。

 たどたどしく、やっとの思いで質問した翠月だが、それだけでどっと疲れてしまう。やはり、王宮暮らしはなじめそうにない。


「世子さまの許嫁にはなっていただきますが、結婚するかといわれたら、話は別なのです」

「え?」

「いいですか、翠月。そなたは世子さまをこの王宮につなぎとめる大事な役割を担うのです」

「つなぎとめる?」


 翠月はもはやなにがなんだかわからなかった。つなぎとめる、というのはどういうことなのだろうか。

 首をかしげる翠月に、月読は粥をしゃもじでひと混ぜしながら、ふうっと息を吐き出した。


「世子さまは、王さまのあとを継ぐお気持ちが有らせられない。王宮にもほとんどいらっしゃらない」

「……?」

「そこで、王の息のかかったそなたが、世子さまの御心を掴み、世継ぎとしてご自覚いただけるように説得する。それが、そなたの役割だ」


 あんまりだ、と翠月は思う。

 それは、自分への扱いもそうであるが、まるで世子に選択権がないことに対してでもある。

 翠月はふうっとわざとらしくため息を吐き出すと、卵の殻をむきながら、月読の顔を見ないで言ってやった。


「分かりました。私が世子様の御心を掴めるかは別として、私は世子さまの味方になります。世子さまの好きなように生き、好きなひととご結婚できるよう、私は月読さんに教えていただいたこのお話を、世子さまにすべてお話しますよ?」

「ええ、そうしなさい」


 まるで月読にはそれが予想内だったとでもいうかのように、柔らかな返事と笑みが、返ってきた。


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