林羅山の死
いま、わたしのすべてが燃えている。
七十五年の人生をかけたすべてが灰となっていく。なんと人生とは、残酷なものなのだろうか。
理性の重要性を説いていた自分が、情欲の塊であったことを自覚した瞬間だった。すべてが否定され、わたしには絶望だけが残った。
わたしの物心がついたとき、日ノ本は長い戦乱にやっと落ち着きが見られたところだった。京の都は落ち着きを取り戻し、人々の顔にはやっと笑顔が増えていった時期だった。
父や伯父はわたしによく言っていた。
「戦乱が終わった。次は学問の時代が来る」
だから、わたしは学問に打ち込んだ。
近所の人はわたしを「袋耳」とよく呼んでいた。一度、聞いたら忘れないか らだそうだ。
最初は寺に入り、僧侶になろうと思っていた。
そこでは、学問に打ち込める環境だった。
寺での生活はとても刺激的だった。仏門での生活が刺激的とは、なんと罰当たりなのだろうかと言われるかもしれない。だが、わたしは次々と未知の世界に足を踏み入れる快感に支配されていた。
しかし、仏門の教えには問題があった。
それは、わたしが求める答えを用意してくれないことだ。
仏教は、常に自分との対話を求める。それは確かに素晴らしいことだろう。しかし、わたしの求める答えはそれではなかった。
執着を捨てることが、わたしの求めることではない。
この世界をどのように治め、理想郷を作り出すか。わたしが知りたかったことはそれだった。< br> そんな時、わたしは“儒学”と出会ったのだ。
年長者を敬い、道徳によって理想郷を作る。わたしは運命と出会った。そんなふうに思えた。
“儒学”と出会ってから、もう仏門の教えは頭には入らなかった。頭は儒学の書を求め、常に渇望していた。
わたしは、二年間の仏道修行を諦める決心をした。
家に帰り、そのあとは儒学の研究に没頭したのだ。家の者はなにかに取りつかれていたように思っただろう。それくらいの勢いで、わたしは学問に身を奉げた。この数年間で、わたしは四百冊以上の本を読んだ。
中心は、南宋の学者“朱熹”の学問についてだった。
彼の学問には、わたしが欲した答えがあった。
道徳という理を使うことで、秩序を作っていく。わたしは 理想に燃えていた。
わたしの理想を実現するためには、世に出なくてはいけない。
わたしは、大学者藤原惺窩先生の門を叩いた。
先生とは、たくさんの議論をおこなった。
儒学のこと、朱熹のこと、これからの政治のこと。
「天下泰平の世になるためには、今後は儒学を用いた政治にしなくてはいけません」
わたしは、議論のたびにそう言った。大学者たちが目指した国家を作る。新秩序の誕生。わたしの考えに先生は目を輝かせて聞いていた。
そして、絶好の機会が巡ってきたのだ。
二条城に来訪した天下人、徳川家康公との面会である。
家康公は、幕府政治を安定させるために、惺窩先生に協力を仰いだのだ。
しかし、先生は奉公は望んでいなかっ た。代わりに、弟子のわたしを推挙してくださった。
天下人の迫力には圧倒された。わたしは、その迫力のため、うまく話すことはできなかった。話はとんとん拍子に進んでいった。
最後に、上様はこう言ったのだ。
「おぬしは、わしになにをくれるのか?」と
戦国の世を生き抜いた覇者の言葉は、とても重かった。
しかし、わたしはおそれずにこう言った。
「上様には、天下泰平の世をさしあげます」
二十三の若輩者が、と上様は笑っていた。
こうして、わたしは幕府に仕えたのだった。
幕府に仕えた後は、激動だった。
イエズス会の宣教師との論争、以心崇伝たちと武家諸法度等を作成し、新しい秩序を作っていった。
ただ、すべてが清らかに言ったわけ ではなかった。
ある日、わたしは家康公に呼びだされた。
話題は、豊臣秀頼公との二条城での面会を終えての世間話ということだった。
「あの方は、とても立派になられたようだ。わしとは違って若くたくましい」
単なる世間話のように話をされていた。
そう、あとは言わなくてもわかるなと無言の命令だった。
その日から、わたしは部下たちと豊臣家を徹底的に研究した。
そして、ついにほころびを見つけたのだ。
「国家安康、君臣豊楽」
家康公の名前を切り、首を獲るつもりだ。
そして、その後、豊臣は再び天下を取るつもりです。
自分でもこれはこじつけだと思っている。しかし、時には汚れ仕事を引き受けなければ、わたしの理想は実現されない。
これを契機に、豊臣家は崩壊した。
わたしの立場も、より安定したものとなったのだ。
これで、道徳による国家作りは完成する。わたしは、そう確信した。
そして、ついに朱子学は幕府の基本となる学問の地位を得たのである。わたしの理想は実現した。
理想をより確かなものにするため、わたしは一層に職務に励んだ。私塾の設立、儀礼の整備。幕府の創業はわたしなくしてできなかっただろう。
昨年、連れ添ってくれた妻が亡くなった。それでも、わたしは歩みを止めなかったのだ。
今日が来るまでは……。
それが起きたとき、わたしは部屋で本を読んでいた。
あたりが慌ただしかったが、そのままにしておいた。
家の者が慌てて、わたしを呼びに来た のだ。
「火事です。お逃げください」
わたしは読んでいた本をもって逃げた。
自慢の蔵書を置いたまま。
わたしは避難場所から、自宅の方向を見ていた。
もう、火が回っている。
すべてが燃えている。
わたしの理想が、人生が、思い出が……。
わたしはこんなことになるために生きていたのかと絶望した。
わたしの理想は、はたして理想だったのだろうか。
少しずつ気が遠くなる。
「ここまでだな」
わたしは気を失った。