正常(?)な物忘れ
初老とはいえ、ピンと伸びた背筋に威厳漂うロマンスグレーの宰相。
そんな彼の間抜けな顔は、ハッキリ言って残念だ。できれば見たくなかったが、この際手段は選べない。
悲しいことだが、世の中には昨日の夕食が思い出せない人間がたくさんいた。
年を取れば取るほど、その傾向は顕著で、老化現象の一つと言われている。
――――念のため言っておくが、夕食を思い出せないのは正常な(?)物忘れである。思い出せないからといって、そんなに悲観する必要はない。
ただ、食べた事実そのものを忘れてしまうようなら、注意が必要かもしれない。
昨今は『物忘れ外来』なる診療科も多くあるので、そんな方は一度受診をお勧めする。
――――閑話休題――――
「……オレンジのゼリーだった」
しかし、どうやら宰相は、その手の悩みとは無縁であるようだ。意表を突いた私の質問に驚きと疑問は感じただろうが、律儀に答えてくれる。
「では、一昨日の夕食のデザートは?」
「…………煮詰めたりんごだ」
「では、一昨昨日は?」
「………………いい加減にしろ!」
ついに宰相は怒鳴った。
当然だろう。同じことを聞かれたら、私だってムッとする。
「こんな質問が何の役に立つ!?」
温厚そうな宰相が、眉間に青筋を立てて怒る。
私は――――パチパチと手を叩いてみせた。
「さすが宰相さま。素晴らしい記憶力ですね」
心から褒めたのだが、どうやら私の言動は、逆に神経を逆なでてしまったらしい。
「……私にも我慢の限界があるぞ」
低い声で凄まれてしまった。
(なんだか任侠映画の主人公みたい)
そう思った私は、できるだけ神妙な顔で頭を下げる。
「怒らせてしまったのならすみません。……でも、そんなに記憶力がよろしいのに、どうしてあの日のデザートだけ間違えて覚えていらっしゃるのですか?」
あの日とは、当然国王の殺された日だ。
宰相は、一瞬だけ戸惑ったが、直ぐに表情を引き締めた。
「私は、間違えてなどいない」
きっぱり宣言する。
「あの日のデザートは、変更があったのですよ?」
「変更などなかった。そんな単純な誘導尋問にはひっかからないぞ」
宰相は、私に向かってバカにしたように笑った。
「お前の狙いはわかっている。私の動揺を誘いアリバイを崩させようという魂胆だろう。その手にはのらない」
私も――――笑った。
「単純に真実を指摘しているだけです。覚えていらっしゃいませんか? 宰相さまが私に提供された書類のデザートの部分が訂正されていたのです。――――シャーベットを消してアイスに。訂正は珍しかったので、よく覚えています」
「そんなはずがあるか!」
再び、宰相は怒鳴った。
私は、辛抱強く言葉を続ける。
「本当に覚えていらっしゃらないのですね? ……ああ。それでは、宰相さまが書類をチェックしてから、私に渡るまでの間に、誰かが間違いを見つけたのかもしれません。書類を届けてくださったのは、宰相さまご自身ではなかったですものね。――――あの日の料理のメニューは、最初は確かにシャーベットでした。ただ、会議が長引いたため、用意したシャーベットがとけたのだそうです。実際に宰相さまに提供されたのはアイスだったと私は聞いています」
ポン! と手を打ち、きっとそうだと私は話す。
宰相は、少しも動じなかった。
「そんな手にはひっかからないと言ったはずだ。あの日のデザートは、間違いなくシャーベットだった。……第一、私が目を通した後に書類を勝手に書き換えて、なおかつそれを報告しないなどということはありえない」
言い切る宰相は、部下を信じているのだろう。
私は、疑わしそうに首を傾げた。
「宰相さまが、ご自分の配下の方を信頼なさる態度は、尊敬いたします。きっと常日頃からきちんとした関係を築いていらっしゃるのでしょうね。……でも、人間誰しも間違いはあるものです。そして、信頼を受けていればいるほどそれを失いたくないと思ってしまう。……完璧だと思った仕事に、ほんの少しのミスを見つけた配下の方が、それを隠したいと思うのはごく自然なことでしょう。この場でササッと書き換えれば済む程度のミスならばなおさらです。……篤い信頼を失いたくなかった配下の方は、報告できなかったのだと思いますよ」
同情心たっぷりに私は話す。
聞いた宰相は、ほんの一瞬だけ、チラリと視線を自分の侍従に向けた。
それは、気をつけて注意していなければ、決してわからなかったくらいのわずかな動き。
視線を向けられた侍従は、顔色を悪くして首を小さく横に振った。
……もうそれだけで、充分だ。
「やはり、宰相さまは、あの日の夕食を食べていらっしゃらないのですね」
私は、確信してそう言った。
「違う!」
憤然と怒鳴る宰相は、顔をしかめている。
私は「わかっています」と頷きかけた。
「認めていただかなくても結構です。ただ、どうして私がそう思うのかを聞いていただけますか?」
私の依頼を聞いた宰相は、不機嫌そうに黙りこむ。
しかし、だめだと言わないのだから、つまりは聞いてくれるのだろう。
そう判断した私は、口を開いた。




