宝箱
一つはとても大きな宝箱。
一つはとても小さな宝箱。
優しくしてくれた貴方に贈りますと言われたら。
『貴方』は、どちらを選ぶのでしょう――?
一
今年も長雨の季節が到来したと教えてくれたのは、世間一般の朝の慌しい時間など意にも介さず朗らかに記事を読み上げていくテレビ画面の向こうの美人アナウンサー。
しかし木島孝祐が一通りの準備を終えて玄関を飛び出せば、頭上に広がるのは夏を思わせる真っ青な空だった。
当然と言えば当然。
孝祐が暮らす北の大地には梅雨などなく、遠方が雨続きになるこの時期は逆に晴天が続くのが常なのだ。
「暑くなりそうだな、おい」
まだ八時前だと言うのに強烈な熱を伝えてくる太陽に目を細めて独り言。
と、彼が閉じたはずの扉が中から開く。
「孝祐、忘れ物」
「あ」
呆れ顔の母親に差し出された弁当箱を受け取り、鞄の中へ。
「サンキュ!」
「今度忘れたら二度と作らないよ」
「悪かったって! じゃ、行って来ます!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
元気な声に送り出された孝祐は、二年目に突入し、もはや通い慣れた通学路を駆け出した。
孝祐が通うのは全校生徒男女合わせて六六六名という、些か出来過ぎた人数が日々生活している学び舎、公立虹ヶ丘高等学校だ。
自宅から徒歩で三〇分。
ここの二年生に在籍し、勉強、運動、双方共に当たり障りの無い成績でこなす彼は、一八〇に程近い長身と恵まれた骨格で入学当初は数多の運動部から勧誘の声が掛かっていたのだが、成り行きで仮入部した放送部の居心地の良さが気に入り、そのまま正式に所属。
今ではその一員としてあらゆる学校行事に関わっており、声だけならば校内で知らぬ者はいないという、それなりの有名人だ。
とは言え、素の黒髪を手入れの手間が省けるよう短く刈り揃えたり、鞄の中には授業道具よりも友人と貸し借りするコミックやCDの方が多く入っていたり。
告白された経験二回、付き合った彼女は一人。交際期間は半年という短い間だったが、そちらにも年頃の少年らしい自然な興味を持つ、何処にでもいる普通の高校生だ。
「おはよう木島」
「おーっす」
正門を通り抜けながら友人達と声を掛け合う内、特に親しい相手の姿を見つける。
同じ制服姿の生徒達で混雑している空間に頭一つ飛び出ている長身。
幼少から水泳を続けているという彼の、塩素が原因らしい陽に透けるような髪色を見間違うわけがない。
「恭!」
「わっ」
後ろから多少強めに背中を叩けば、前のめりになるも足力で転倒を回避した佐藤恭一が「おいっ!」と怖い顔を向けてくる。
「怪我させる気か?」
「おまえがソレくらいで怪我するかよ」
「万が一って事もあるだろう」
「ないない、それよりさ」
「それよりか……」
明朗と言い放つ孝祐に、恭一は嘆息。
「気にすンなって。でさ、昨日話していたテレビ観たか?」
「あー…途中までな。二十分くらい観て、後は風呂入って寝た」
「なんで!?」
「おまえが言うほど面白くなかったから」
「二十分で何が判ンだよ、面白くなるのはソコからだろうが!」
「いいや、あれは期待出来ない」
「ンなわけないって!」
昨夜のテレビ番組の話題で言い合う二人に、やはり登校して来た同級生達が加わって会話は更に賑やかに。
「面白い」
「面白くない」と、予鈴が鳴っても終わらない論議を強制終了させたのは担任の一喝だった。
SHRを終えて再び友人達が集まるが、しかし朝の話題はとうに忘れている。新たな話題が彼らから尽きる事など無いのだから。
*
「恭、飯食お」
昼休みに入るなり、孝祐に声を掛けられた恭一は、
「悪い、ちょっと野暮用」と席を立った。
「先に食ってて。すぐ戻るから」
ひらひらと片手を振りながら教室を出ていく友人を見送り、小首を傾げる。
「なんだ、あいつ」
「相変わらず鈍いねー、木島は」
「あいつの野暮用ったらコレだ、コレ」
聞いていたらしい周囲の友人達に小指を立てられて孝祐もようやく気付く。
「あいつ、また告白されたんだ?」
「そ。モテるよなぁ、奴は」
「やっぱ見た目は重要ってことだろ」
登校途中にコンビ二で買って来たらしいあんぱんを齧りながら一人が言うと、もう一人も大きく頷く。
「男の俺らから見てもカッコイイしなぁ」
「そっか…」
ならば仕方ないと、孝祐も彼らに並んで持参した弁当を広げた。
そうして他愛のない話をしながら、それにしても羨ましい話だと思う。
孝祐と恭一の付き合いは入学してすぐ、クラスが一緒になってからだから一年と少ししか経っていないのだが、彼が告白されたという話しを聞いた回数は優に十を越えている。
他の面々が言う通り、恭一は恰好良い。
服装や髪型、顔立ちがどうと言うよりも、雰囲気が男らしいのだ。
大人びた台詞回し、他人に選択を任せない思い切りの良さ。
同性の目から見ても素直に頼りたいと思わせられる。
そんな人格に一八〇近い背丈と平均以上の顔立ちが加わるうえ、幼少期から現在まで水泳を続けている割には、筋肉質と違う均整の取れた身体つき。
色素の薄い髪。
美貌効果としてこれ以上ない組み合わせとなれば、女子生徒の気を引かないわけがない。
「身長だけなら俺だって負けないんだけどな……」
ぽつりと零せば、聞いていた友人達が無遠慮に笑い出した。
「背だけデカくてもな」
「それにおまえは、どっちかっつーと大型犬じゃん? いっそ女子大生とか年上狙った方が当たりイイんじゃね? 甘えさせてくれるお姉さま!」
「女子大生か…」
早々に弁当箱を空にし、それも良いと口元をだらしなく緩めていると、後頭部を大きな手で叩かれた。
「やめとけ、遊ばれるだけだぞ」
呆れた口調で言うのは恭一。
野暮用を済ませて戻って来たらしい。
「出てって十分。――今回もお断りか」
「勿体ねぇ」
「去年は割りと簡単にOKしてたのになぁ」
「な。一体どういう心境の変化だか」
友人二人に交互に言われた恭一は軽く肩を竦めて席に戻る。
「好きでもない相手と付き合っても面倒だって学んだだけだ」
「うわっ、モテる男のムカつく一言!」
「俺も一度は言ってみてー」
「言うだけならご自由に」
「くっ…」
大袈裟な言動で悔しがる彼らとは別に、孝祐も不服顔。
責めるような視線で見遣れば、見られている本人も彼に気付いて不思議顔。
「なに」
「何で遊ばれるって決め付けンだよ」
「あぁ」
それかと思い当たった恭一は口元に笑みを浮かべた。
「無理に背伸びしなくたって良いだろ。大型犬ってのはじゃれつかれると大変だけど、抱きつかれた時の力強さってのは、結構、安心感が持てて良いもんだぞ?」
「へぇ…」
「そういうの判ってくれる相手を見つけるのが良いんじゃない?」
諭すように言われると孝祐も「なるほど」と納得する他ない。
こういうところが、皆に恭一には敵わないと思わせる要因だ。
「……おまえってさ」
「なに」
孝祐はしばし考えた後で言う。
「いいや、何でもない」
「何だよ」
「何でもないって」
「言えよ」
「言わない」
「孝祐」
「言わないって」
大人びているかと思いきや、こんなふうにムキになる姿を見たりすると同じ年齢だと実感出来るから距離を感じずに済む。
だから一緒にいるのが心地良いのだと思うと、表情は自然に綻び、言い合いは掛け合いに。
他人の話しから、自分達の話しに移り変わった。
「今日は悪かったな。明日は一緒に飯食えると思うから」
「明日は無理、昼の放送当番だし」
「あぁ、そっか」
「金曜なら教室で食えるかな」
「じゃあ、その時に何か奢るよ」
「マジで?」
「今日の侘び。プリンと珈琲ゼリー、どっちだ?」
「……侘びは要らんと思ったけど、その選択肢は何だ」
「甘党だろ?」
「だからってな」
「仕方ない、板チョコもプラスしてやる」
「待てぃ! 学食だ、学食奢れ!」
「なら『かけうどん』で決定」
「ケチくせぇ」
「侘びは要らないと言いながら随分だな」
「奢ってくれるっつーもんを断るバカはいない」
「…どっちがケチくさいって?」
返しに、笑う。
そんな時間が、ただ純粋に楽しくて。
*
真っ青な空が次第に色を失い、白から藍色へと変化していく。
この季節ならではの陽の沈み方だ。
西の空だけがうっすらと赤色を帯びるだけで、ゆっくりと暗くなっていく世界には奇妙な静けさが漂い、同時に下がっていく気温も体感する以上に冷えて感じられる。
「これだから邪魔だけど置いて来られないんだよな…」
孝祐は鞄に入れてあった上着を羽織り、生徒玄関を出た。
制服の衣替えが済んだとはいえ、生徒はカーディガンなどの上着を一枚、必ず鞄に入れてある。
彼のように部活で帰りが遅くなる生徒は尚更だ。
十七時の最終下校時刻を知らせる放送を流せば、放送部の一日の仕事は終わり。
これも昼と同じく当番制で、部員全員が毎日この時刻まで残っているわけではないのだが、もうしばらくして学校祭の準備などが始まると、放送部を始めほとんどの生徒が二十二時までの活動を許可される。
そうなると毎日の授業が眠気との戦いになるなど、大変な毎日が待っているのだが、それでも準備期間を楽しみに思えるのは昨年の学校祭が楽しかったからだ。
「今年は何になるんだか」
去年の孝祐のクラスは校庭の決まった場所で焼きそばなどを売る屋台と、体育館ステージでは役に扮した十数人のメンバーで衣装を準備しての朗読劇を催した。
「新・アカズキンちゃん」と銘打ち、クラスで創作が得意な女子生徒が仕上げた台本を、それぞれの役に振り当たった生徒が声だけで演技する。
グリム童話「あかずきんちゃん」をベースにしつつも八〇パーセント以上を脚色した物語。
地味に思えたこれが、学校祭後のアンケートで見事二位を獲ったのだ。
放送部員なら語るのは得意だろうという理由で主人公に抜擢された孝祐にとっては、恐らく他の同級生以上に思い出深い出来事だ。
ちなみに狼役は恭一。
ごつくて可愛くない「アカズキンちゃん」と無駄に男前な「狼」コンビ。二人が親友と表現して差し支えない仲になったのも、これがきっかけだったかもしれない。
「あ…、そういえばアイツ、もう帰ったかな」
携帯電話の時刻に目を落として、ふと思う。
一緒に帰る約束などしていないが、高体連の全道行きを決めた水泳部に所属している恭一なら最終下校時刻まで活動していただろう。
もしかしたら、部の活動場所であるプール付近で遭遇出来るかもしれない。
「…一人で帰るのも何だしな」
運良く会えれば、どこかで寄り道していくのもいい。
そう思いついた孝祐は、深く考える事無く正門に向かっていた足をプールへと方向転換するのだった。
プールは学校の敷地内で言えば南端に位置している。
正門から最も遠く、体育館と隣接しており、各運動部の部室に近い。
そのため、孝祐が目的地に向かう途中では何人もの部活を終えたばかりの生徒と遭遇し、中には恭一の部活仲間もいた。
「遅くまでお疲れさん」
「お疲れー。あ、ところでおまえ、さっき下校放送の時に噛んだろ」
「うっさい。――それより恭は? まだ部室か?」
「じゃね? たぶん部長と一緒。大会がどうとか話してたから」
「おーサンキュ」
そんな会話を擦れ違い様に交わしながら先に進む。
部室の手前に見えてくるプールに人気はなかった。
彼らの言う通り部室に居るのだろうと判断した孝祐は迷わず知った道を行く。
途中で携帯電話を取り出し、再び時刻を確認した。
六時少し前。
早くもないが、遅くもない時間帯。
相手の都合がつくならファーストフードの店で小腹を満たそうと誘ってみようか。
(そういや期間限定の美味そうなのがCMでやってたな…)
内心に呟きながら歩を進める内に聞こえて来た話し声。
水泳部の部室から漏れる微かな光りも視認して、親友がその部屋にいると確信した。
部長と一緒だと聞いている。
大事な話し合いの邪魔をするのは良くないと考えてそっと近付く。
趣味が良いとは言えないが、一度だけ中の様子を伺ってみて、時間が掛かるようなら大人しく外で待っていようと思ったのだ。
――だが。
「ここ、まだ学校ですけど」
「別にいいだろ、他の連中はとっくに帰ったし」
「何かあったら面倒じゃないですか」
「面倒、面倒って、おまえそればっかりだな」
くすくすと楽しげな笑いを含ませて言うのはおそらく水泳部の部長の声。
対して軽い溜息を吐くのが恭一だ。
彼の声は、それこそ聞き間違えるはずがない。
雰囲気が妙だな、と。
思わなかったわけじゃない。
だが無意識の好奇心が本能の鳴らす警鐘を無視した。
そっと扉のノブに手を掛ける。
僅かに開く。
視界に入る、二つの影。
「あの、部長…」
「もう黙ってろって――」
重なった、唇。
「…っ!」
孝祐は息を飲む。
その目に映る光景が俄かには信じられなくて。
(嘘だろ…っ)
恭一は、男だ。
その親友がロッカーに背を凭れ掛けさせて受け入れた唇。
その相手が。
部長もまた男だという事実が、一瞬にして孝祐の平常心を奪った。
「……っ」
驚きの声を抑えただけでも立派。
孝祐は逃げるように踵を返し、その場から走り去った。
二
あれから、どのようにして家まで帰って来たのか定かではない。
だが、一目散に自分の部屋に飛び込んだ孝祐の足音を不審に思った母親が「どうしたの」と掛けて来る声は聞こえたから、無事に家に着いたのは確かだった。
(…っ……何だったんだ…?)
外はすっかり暗くなり、明かりが消えたままの部屋では視界に映るものも限られる。
それでも照明のスイッチに手を伸ばす余裕すら今の彼にはなかった。
「…なんで…なんで…男とキス…、っ!」
声にすると同時、脳裏にその光景が鮮やかに蘇えってしまい、慌てて頭を振った。
「嘘だろ…っ」
何が、と。
自問自答してもこれという答えは見つからない。
とにかく自分の見たものが信じられなかった。
「だって恭…すげぇ女の子にモテるじゃんか…っ」
女の子と付き合った経験もあると聞いている。
それとも、それも全て嘘だろうか。
恭一の相手は。
「おまえ…おまえまさかホ……っ」
思わず差別的な単語を口に仕掛けて、辛うじて踏み止まる。
何よりも、声にしてしまえば終わりだと思った。
「…………なんで…っ」
だから代わりに繰り返す。
何故。
どうして。
「嘘だろ…っ!」
自分の見たものを否定し続けるしか出来なかった。
…それから、どれくらいが過ぎた頃か。
「孝祐、起きてる?」
明かりすら点けず部屋で沈黙している孝祐を心配したらしい母親が部屋の扉をノックした。
彼女はしばらく無言でその場に佇んでいたが、何か感じるものでもあったらしく、柔らかな声音で言葉を重ねる。
「お風呂の用意が出来ているから、入れるなら入っちゃいなさいね」
強引に息子の返事を引き出す事はせず、それきり階段を下りていった母親の態度に、孝祐の口からは安堵の息が漏れた。
「……風呂…」
入れば、少しはこの混乱した頭を落ち着かせる事が出来るだろうか。
冷静に考える事が出来るだろうか。
「考えるったって…」
何を。
繰り返されるのは混乱を深めるだけの言葉にならない言葉。
自分が何をどう思っているのかも、自身が把握し切れないでいる。
「ダメだ…風呂に入ろう…」
夕食は取る気になれない。
後はもうさっさと寝てしまおうと考える、が。
「え…っ」
孝祐は制服を着替えようとして気付いた。
いつもポケットに入れてあるはずの携帯電話が無いのだ。
「嘘だろっ?」
慌てて他の場所も探す。
鞄の中身も全部出して確認する。
しかし携帯電話は何処にもなかった。
「まさか……」
落としてきたのだろうか、あの場所に。
そう思い返してみると、時刻を確認するために手に持ったそれをどうしたのか、後の記憶が完全に抜けている。
「…落としたんだ」
孝祐の顔から一斉に血の気が引いた。
またも新たな悩みの種が増える。
「取りに行った方が…いや、でもあの続きとかしてたら……」
言っていてハッとする。
「続きって何だ俺! ふざけんなーーっ!」
がしがしと頭を掻き回すも一度浮かんだ情景は容易には消えてくれない。
結局、その夜は一晩中悶々と過ごす事になる孝祐だった。
*
翌日。
まともに眠れるはずなどなかった孝祐は酷い顔で家族と朝の挨拶をし、普段より一時間も早く家を出た。
水泳部に早朝練習はない。ならば早めに登校して落としてしまった携帯電話を回収しておこうと思ったからだ。
(ムカつく…全部アイツのせいだ…恭のアホが悪い…っ)
早い時間のせいか、通学路も、正門から生徒玄関に続く校庭も、普段に比べて随分と静かだ。
何も考えなければ孝祐の思考を乱すものもない。
幾分か心穏やかになりながら人気のない学校の敷地を歩いた。
門から体育館、隣接するプール、そこから程近い距離にある運動部の部室棟。
昨夜と同じ経路で進んだ。
そしてあの、衝撃の場面を目にしてしまった扉の、前。
「え……」
孝祐は目を疑った。
扉の前に制服姿の人物が座り込んでいたのだ。
自分と同じくらいの背丈の男子。
何より、本人曰く塩素で焼けたという色素の薄い髪を校内で許可されているのは「彼」くらいで。
「――恭!?」
思わず呼べば、その人物、恭一がのっそりと顔を上げた。
「あぁ…やっぱり」
何が「やっぱり」なのか本人には意味不明な呟きを漏らした彼は、やはり緩慢な動きで立ち上がると、その場に立ち止まってしまった孝祐にゆっくりと近付いてきた。
「これ…、見覚えのあるケータイだと思ったら、やっぱり孝祐のだったか」
そう言い、差し出されたのは昨夜落とした携帯電話。
それで「やっぱり」なのかと納得はするが次いで新たな疑問が湧き起こる。
「た、確かにこれは俺のだけど…それを確かめるために、こんな朝早くから待ってたのか?」
「…朝早くっつーか、……昨夜から?」
「は?」
聞き返す孝祐に、恭一は頭を掻く。
「いや…、つまりさ。拾ったからには放っておけないし、もし夜中の内に取りに来たりした時に、俺が持ち帰っていたり、何処か他の場所に置いてあるのが判らなかったりしたら、持ち主が困るな、…と思って」
「で?」
「この見たことある機種は孝祐のかな、と思ったし」
「だから?」
「ん…。いろいろ考えていたら帰るに帰れなくなって」
「それで此処で徹夜かよ!」
信じられんと喚く孝祐に対し、
「俺も自分でバカだなぁと思う」と返す恭一は言い終えるか否かのタイミングで大きな欠伸を一つ。
「あぁ、悪い」と謝る目元には濃いクマが浮かび上がっていた。
孝祐は頬を引き攣らせ、我慢の限界とばかりに怒りの声を荒げる。
「おまえバカだろ! 何が楽しくてこんなところで一晩徹夜だよ、俺のだと思ったら中見て確かめれば良かったろ!? それで家に電話でもくれれば……!」
「ん、それも考えたけど」
そうして恭一が見せた曖昧な表情。
「これを孝祐が落としたんだろうなって音が聞こえて来た時が、さ。何つーか…」
「ぁ…」
「電話しても、俺と話したくないかもと思ったし」
「…っ!」
言われて思い出す、昨夜の出来事。
会うはずがないと思っていた恭一が扉の前で徹夜したなどと言うから、肝心のソレを忘れていた。
「おまえ…っ」
思い出すなり顔色を変えた孝祐に、恭一は苦笑い。
「ん。だと思ったからさ」
「だとって…っ、だっておまえ…!」
「だから、此処で待っていれば顔見て話せると思ったんだ。…ちゃんと」
此処でならと告げる、その意味は判る。
人気の無い部室棟。
早朝練習のある部員はとうに出払い、一般の生徒が登校するには早過ぎる時間帯だ。
此処で遭遇できれば二人の話を邪魔する者はまず居ない。
それは、逃げる事も、逃がす心配もないということ。
「……やっぱ、見たんだろ。昨夜の」
言いながら携帯電話を差し出す。
受け取れと視線で語り掛けるようにすぐ傍まで持って来られて、孝祐も断る理由はないから素直に手を出し、受け取る。
手に馴染むはずの重み。
しかし相手の言葉がもたらす重圧が苦痛で、手を抑え付けられている様な気にさせられた。
「……っ」
苦しかった。
この相手と、こんな場所に居る事が。
「…っ、見られて困るならあんな真似、校内ですンじゃねぇよ!」
堪らずに声を荒げた孝祐に、恭一は一言。
「ん…」
そう頷くだけ。
反論どころか言い訳すら口にせず、静かに、ただ一度の。
「ふっざけんな…っ」
体の奥底から気持ちの悪い何かが溢れそうになる。
自制の効かない「何か」。
相手を傷つけると判り切っている言葉を敢えて選び、矢を射るように投げつける、…だがそんな事はしたくないというなけなしの理性が、今はまだ勝っていた。
「おまえが…っ…おまえが何処の誰と何しようが関係ねぇよ! こんなトコで徹夜なんて待ち伏せみたいな真似しなくたってな! 誰かにバラす気だってねぇし!」
「や、それは別に…」
言いながら恭一の手が動いた。
孝祐にどうと言う訳ではなく、自身の額にそれを持っていく。
だが、その動作の意味を察する事など現在の孝祐には不可能。
「ほんっとふざけんな…っ、ヒト馬鹿にするのもいい加減にしろっての……!」
「孝祐…」
言い放ち、踵を返す。
これが限界。
あと僅かでも二人きりの空間を持続してしまったら何を言い出すか判らない。
少なくとも今日一日は口も利くものかと内心に息巻き、荒々しい歩調で廊下を行く。
しかし。
「!」
急に背後から穏やかでない物音が響き、慌てて振り返った。
何事かと思えば、数秒前まで立っていた恭一がその場に倒れていたのだ。
「は…」
どうしたのか。
「き、恭……?」
返事はない。
…動かない。
「恭!?」
孝祐は慌てて廊下を戻り、その場に膝を付く。
「おいっ? 何だよイキナリ! ヒト驚かせようとか馬鹿な真似するつもりなら今度こそぶん殴る…」
早口に捲くし立てる彼を、不意に恭一の手が制する。
「わ…悪いけどさ…声、落として…」
「はぁっ?」
「ぁ…頭に、響く……」
「頭?」
言われてよく見てみれば、妙に顔が赤い。
息が荒い。
「――」
まさかと思いながら額に手を当てれば明らかな高熱。
「…っ…このタコ…っ、こんなところで徹夜なんかするから風邪引くんだボケェッ!!」
「声…、落として……」
結局は二人揃ってその場を後にする。
行き先は勿論、保健室だ。
*
部活動の早朝練習中に怪我人が出るとも限らないという理由から、保健室の先生こと養護教諭の出勤時刻は他の教師に比べて随分と早い。
この日も既に出勤しており、恭一に肩を貸しながら保健室まで付き添った孝祐の話を聞いた養護教諭は、病人をベッドに寝かせるよう促すと、熱を計るなど基礎的な確認を経て「寝てれば治る」と言い切った。
体温は三十八度に近かったが、この季節に外で――まさか校舎で一晩過ごせたとは言えないため事実に大幅な脚色はしたものの――更には徹夜となれば熱が出るのも当然。
まずは熱冷ましの薬を服用し、充分に休みなさいというのが養護教諭からの指示だった。
「ま。これから大勢の生徒達が登校して来る通学路を一人で帰宅するっていうのも厳しいだろうし、しばらくは保健室で眠っていなさい。若いからって無茶しちゃダメよ」
「…ぁりがとうございます…」
薬のせいか、熱のせいか。
布団の中から蕩けた表情で礼を言う恭一の傍には、何故か離れられずにいる孝祐が丸椅子に腰掛けて付き添っていた。
最初は、教室に行ってもまだ誰も居ないからと理由を付け。
次には養護教諭が職員会議で席を外す間だけ留守番していると告げ。
「そう? 先生は構わないけど、HRに間に合うように教室に戻りなさいよ?」
そう言い残して養護教諭は保健室を出て行った。
再び訪れた二人きりの時間。
「…孝祐」
「…ンだよ」
「…休んでいれば治るんだし…、…俺は平気なんだけど…」
「っさい! 俺は留守番で居るんだ!」
孝祐が八つ当たり気味に返せば恭一から零れるのは笑い声。
「なんだよ、何が可笑しいっ?」
「や…」
くっくっと喉を鳴らしていた彼は、いつしか安堵の吐息と共に返す。
「安心した…、孝祐に軽蔑されたかと思っていたから…」
「っ…」
あまりにも素直な言葉に、何故か孝祐の方が照れる。
「なに言って…っ…軽蔑ってな! さっきも言ったけど俺はオマエが何処の誰と何していようが関係ないんだ! ンなもん知るかよ、何度言わせるんだ!?」
「…確かに聞いたけど…」
「だったらしつこい!」
「だってさ…男同士って、孝祐には『あなたの知らない世界』同然だろ…」
「だから何っ」
「…だから、…驚いたっていうか、……まぁ、嬉しかったというか…」
「…っ」
恭一の言葉の選び方は、絶対に熱のせいだと孝祐は思う。
否、そうであって欲しいと思う。
「おまえ喜ばせるような事、した覚えないんだけど」
「ん…、でも俺は嬉しかった…」
素直に。
どこまでも素直に語られる言葉の羅列に孝祐は諦めの息を吐く。
もはや昨夜の出来事はただ単に悪い夢を見ただけのような気さえして来る。
「……おまえさ…、あの部長と付き合ってンの?」
「ん…?」
「――っ」
うとうととしながらの返答は、肯定でも否定でもなく。
それが、これまで抑えていた疑問を、堰を切ったように口に出させた。
「っつーかいつからだよ。女と付き合った事有るって言うのは嘘か? 嘘じゃなかったら同じ男のごわごわした体より女の子のふわっとしてまるっとした方が絶っっ対に気持ち良いだろ!」
「そりゃそうだ…抱くなら絶対…」
「なのに何だってあんなムチムチと…っ」
言っている内に昨夜の光景が思い出されそうになり、慌てて首を振る。
「俺はソコが理解出来ん!」
ビシッと言い放てば、恭一は笑う。
「ごめん…」
そう口にしながらも、やはり顔は笑っているのだ。
「何だよ、感じ悪いぞ」
「悪い。けど…、そうだよな…。抱くなら女の子だ、それは同感…」
「だったら…!」
「だから、…まぁ、俺はネコなんだわ」
「――」
ネコ。
猫。
「……にゃ、にゃあ?」
意味が掴めず、どうしてそんな風に返したのかも孝祐自身が判らない。
しかし猫と聞いて鳴き声を真似れば、恭一の笑いは深まるばかり。
「ははっ。あぁ、間違ってはない。間違ってはないけど…っ」
ククククッ…と声を震わせる友人に、孝祐の眉間には深い縦皺が刻まれ、その変化を感じ取った恭一は、必死で笑いを抑え込んだ。
「ごめ……、つまりさ…、…相手が男なら、俺は女役ってこと」
「――…はい?」
「抱かれてンのは、俺の方…」
聞き取り拒否。
そんな勢いで一瞬にして周囲から音が消え去った。
「…………………なんだって?」
ようやく聞き返せたのは優に十秒以上も経ってからの事。
それも当然と言うように恭一の返答は静かだった。
「…去年の暮れに…、俺もその時までは…、本当に…、…男同士なんて絶対に無理だって思ってた…。…けど…話の流れで…誘われてさ…」
「ながれ…流れって、…っ、おまえどういう流れでそんな馬鹿なこと…!」
「…好きでもない子と付き合うのは、…面倒だ、って…言ったんだ…」
「は?」
「甘えられたり…、…頼られたりするのは…苦じゃないし…」
特別に好きな娘はいなくても。
告白して来る女生徒の勇気や、努力――そういった事を考えると、断る理由も無くて。
恭一も普通の男子高校生なら色恋に興味があって当然。
好奇心も合わされば「恋人」という対象は「欲しい」存在だ。
だから付き合ってみる。
けれど、やはり好きでない相手の我儘や束縛は時と共に許容範囲を超える。
それを面倒だと部長に話したら誘われたのだと、彼は言う。
面倒な付き合いなんてしなきゃ良い。
色事の相手なら自分がしてやるから、と。
「…んで…」
「…褒められた行為じゃないのは判ってる…だけど…、どうしようもなかったって言うか…色々と、仕方なくて…」
「っ…仕方ないとか、あるとか、そう言う事じゃないだろっ? あの部長とつ、つっ、付き合ってるわけじゃないなら、それだって恭がいう「面倒」なんじゃないのか!」
「…否定はしないけど…「面倒」で女の子を傷つける真似はしないで済むようになったかな…」
「違うっ、今度はおまえが傷つくだろ!?」
言い放たれた言葉に恭一は目を瞠る。
なぜ――出掛けた言葉を飲み込む。
「…俺は…傷ついたりしてない…むしろ、助けられたと思ってる…」
「助け…っ…何がだよ…っ」
「おかげで…色々…判ったから…」
本当に。
本心から告げる恭一に、孝祐は歯を食いしばる。
「…判ンねぇ…ソレは軽蔑するぞバカ野郎!」
「こ…っ」
呼び止める間もなく、席を立った孝祐は保健室を飛び出していった。
一人残された恭一は、しばらく孝祐の消えた扉を見つめていたが、いつしか幾つもの感情を 滲ませた吐息を漏らし、薬に引き摺られるように目を閉じた。
*
(判ってたまるかアホッ!)
胸中に吐き捨てて教室に向かう孝祐だったが、何の因果か教室前の廊下で今一番見たくない顔を見てしまう。
水泳部の部長だ。
しかも、彼と話していたのは孝祐、恭一と共通の友人。
彼は孝祐に気付くなり大きく手を振って声を掛けて来た。
「木島! 丁度良い所に来た、おまえ佐藤が何処に居るか知ってるか? 上履きはあったんだけど姿見えなくてさ」
俺に聞くなと言い返してやりたいのを何とか堪える。
「恭なら熱出して保健室で休んでる……」
無意識に睨みつけるような視線を上級生に向ける孝祐だったが、相手にそれを気にした様子はない。
むしろ。
「熱? 何だあいつ風邪でも引いたのか? どうりで昨日は様子が変だと…」とか何とかぶつぶつと言っている。
それが更に孝祐を苛立たせるなど思いもしない。
「ま、いいや。サンキュ」
軽い調子で言い残し、さっさと立ち去る上級生の背に、孝祐の怒りは更に増幅。
「なんだ佐藤のヤツ、学校来てダウンしたって事か? マヌケー」と友人が笑えば「うるさいっ!」と明らかに八つ当たる。
当然、言われた友人もぎょっとした。
「な、何だよ! おまえが熱出して休んでるって言ったんじゃねーか」
「知らんっ、俺に聞くな! 最悪のタイミングだ!」
その場に居合わせたばかりに要らぬ被害を受けた同級生が必死に言い返すのを無視して自分の席に着いた孝祐。
その際の蹴り飛ばすような勢いと物音に、一瞬ではあったが教室が静まり返ったほどだ。
しかし、当の本人は気にしない。
そんな余裕など無い。
(何なんだよアイツ!)
名前も知らない水泳部の部長に対する怒り。
どうしてあんな奴と、という恭一への怒り。
そして――。
(……ヤバくないか?)
不意に背筋を嫌な汗が流れ落ちた。
あの部長は恭一の居場所を聞きに来た。その彼が熱を出して保健室で休んでいて、今は養護教諭もいない。
(いや、でも、いくら何でも朝っぱらから校内では…)と常識的な思考を巡らせるが、昨夜の場面が思い浮かんで、自身を安心させる理由にはならなかった。
「…っ」
無意識に唇を噛む。
次第に悶々として来ると、もはや限界。
「くそっ!」
来た時と同じように荒々しい物音、足音を立てて教室を飛び出した孝祐を、同級生達は理解不能と言葉もなく見送る。
(何なんだよ…っ)
腹立たしいのは恭一をそんな関係に誘った水泳部部長の身勝手さ。
それを「助けられた」なんて言葉で受け入れている恭一の理解に苦しむ思考。
――だが、何よりも孝祐を苛立たせるのは、自分自身が何に対してこんなにも苛立つのかという、明確な答えを見つけられずにいる事だ。
部長の事も、恭一の事も怒りの原因の一つであるとは思うけれど、突き詰めて行くと、その更に奥に「何か」がある。
その「何か」が判らない。
(っつーか俺には関係ない事だろ!?)
恭一にもそう言ったではないか。
おまえが誰と何をしようが関係ない、その言葉は本心だ。
どうあっても、そう割り切ればこれまでの友情に差し障るものではないはずだ。
(なのに、何で俺……っ)
自分は、どうして。
孝祐が保健室に戻ると、養護教諭はまだ職員会議に行ったままだった。
他に、人の気配はない。
窓際のベッドで眠っている恭一以外には、誰も。
「……おまえが、あんな真似するから…」
薬が効いているのだろう。
静かな寝息を立てている彼の顔を眺めながら、先程と同じ丸椅子に腰を下ろす。
…静かな時間が流れて行く。
今日も天候は晴れ。
薄いカーテンが引かれた窓からも初夏の暖かな陽射しが室内に差込み、孝祐の意識を鈍らせる。
興奮で忘れていたけれど、彼もまた昨夜はろくに眠れていないのだ。
「ふぁ…」
大口を開けた欠伸。
そうして彼もまた周囲の雰囲気に呑まれるように眠りの世界へと誘われてしまうのだった。
三
数日後の昼休み。
校内は普段どおりの賑わいを見せており、スピーカーから流れる放送部の連絡事項は生徒達の陽気な声に掻き消されそうになっているが、実際に放送を流している部員にそれらを知る由は無い。
『――六限目のHRでは学校祭に向けての話し合いが行われます。また、放課後には実行委員会が開かれます。各学級、実行委員を二名ずつ選出し、大まかで構いませんので当日の出し物案を纏めて来るようにして下さい――』
大切な連絡を終えた後には、部員が選んだ近頃の人気曲を流し、マイクが切られた放送室では一山超えたと言いたげに一瞬にして空気が和らぐ。
「もう! わざわざ昼に放送で流さなくたっていいのにーっ、どうせ誰も聞いてませんよっ、あーもー緊張した!」
「ま、そう言うな」
生徒会から渡された原稿を読み上げた女子生徒からそれを戻された部長は苦笑交じり。
「放送部としても各学級の実行委員との連携は必要不可欠だからな。こっちにも大事な話なんだから、さ」
「それはそうですけどー」
まだ文句を言い足りなそうに呟く女子生徒は、しかし曲が終われば普段通りの運びで放送が続くため、席から立ち上がりはしない。
一方の部長は放送室を出て隣の待機部屋に。
集まっている部員五人の中には孝祐の姿もあった。
「なんかいよいよって感じですよねー」
孝祐の隣に座っていた女子生徒の意気揚々とした呟きは、学校祭に向けての動きが始まった事に対してのもの。
今年もこの季節がやって来たのだ。
生徒会、学校祭実行委員会、そして放送部の三グループは夏休み前から準備を始め、夏休みが終わる頃には学校全体が準備を始められるよう進めておかなければならない。
「夏休み中に何度も集合しなきゃならないのは面倒だけど、まぁ、これが面白いから仕方ないな」
そう言い合う部員達の表情は非常に生き生きとしている。
ただ一人、孝祐を除いては。
「……木島君、この頃どうしたの?」
頬杖をついた三年の女子生徒に声を掛けられた本人は、
「…別に何も」と短く返すが、何も無いわけがない。
それは他の部員達の目から見ても明らかだった。
「最近、ずーっと機嫌悪いだろ」
「悪くないですよ」
「その顔で否定出来ると思ってんの?」
「俺、理由知ってまーす」
そう声を上げたのは、クラスは違うが同じ学年の友人兼部活仲間。
「こいつダチとケンカしたんですよ、だから当番でない今日も放送室でふくれっ痛だあああっ!」
「!? な、なんだ?」
突然の悲鳴はデスクの下で孝祐に激しく足を踏まれたからである。
余計な事を言うなとばかりに見据えられた男子生徒。
「おまえ暴力じゃなくて口で言えよ口で!」
「ケンカじゃねぇし!」
キツい返答も八つ当たりだ。
彼の予測は正解と間違いが半々というところ。ダチこと佐藤恭一とケンカしたつもりはないのだが、数日に渡って一度も口を利いていないのは事実だからだ。
あの日、睡魔に負けてベッドで眠る恭一の傍らで熟睡してしまった孝祐が目を覚ました時、既に時刻は正午を回っていた。
恭一はまだ眠ったままで、彼らは二人揃って午前中の授業を丸々欠席した事になる。
とっくに戻っていた養護教諭に「どうして起こしてくれないんですか!」と筋違いと知りつつも抗議したなら、
「仲良く眠っている姿を見ていたら起こすのも忍びなかったから、そのままにしてやったんだ」とふんぞり返って答えられた。
ご丁寧に孝祐の肩には毛布が掛けられており、気遣いも万全。
それでも気恥ずかしくて喚く孝祐と、そんな少年の心境を察して楽しんでいる養護教諭の会話に、続いて目を覚ました恭一が何を思ったのか、果たして想像がつくだろうか。
誰が悪いわけでもない。
ただ、昨夜の出来事を目撃してしまった事、口喧嘩まがいの事をしておきながら再び保健室に戻っていた事、その理由が水泳部の部長と遭遇したからだという事、――これらに「一緒になって眠ってしまった」という己の失態までが合わさり、混乱を極めてしまった孝祐は、結局、それ以後に恭一の顔が見れなくなってしまったのだ。
情けない、と。
孝祐を責めるのも違うはず。
彼もまた、ある意味では必死だったのだから。
「まぁ、こっちとしちゃ昼休みにも雑用頼めるから此処に来るのは構わないけど、ケンカしているなら早めに仲直りしておけよ?」
「だから、別にケンカしているわけじゃないんですって」
放送部部長の助言にそう返すも、口を利いていないのが事実である以上は誰も彼の否定を信じたりしない。
何とも言い難い微妙な空気と共に苦い笑いが室内に広がっていった。
*
六時間目が始まると、孝祐のクラスでも学校祭に向けての話し合いが始まった。
担任の進行で実行委員が決まると、教師は教壇を委員に譲って窓辺の席に着く。
実行委員は、一人が黒板にこれから決めていく内容を書き記し、もう一人が同級生に向かって話し合いを促した。
校庭での屋台における調理、仕入れ、接客など各チームの代表者を選出し終えると、次には講堂で催すクラスの出し物に軸が移る。
と、途端に挙手して発言するのは昨年も孝祐と同じクラスだった友人。
「去年の朗読劇、すげぇ好評だったじゃん? 運良く去年の脚本家と主役二人が同じクラスなんだしさ、今年もソレやらね?」
言い終えるが早いか周囲から賛同の声が上がる。
「それイイ! 私も去年の朗読劇楽しくて好きだったよ」
「ん。異議無―し」
「勝手が判ってるし、準備でもラク出来そうだしな」
「やった、私も参加したかったってすごい思ってたんだよねー」
ほぼ満場一致になりかけている室内で、一人絶句しているのは孝祐だ。
脚本家こと西堀彩香はともかく、主役二人といえば自分と恭一のこと。
今この状況で、再び二人で主役を張れと言うのは酷過ぎる。
(あ…でも今回も俺達が主役やるとは決まってないか…)
そう思い当たって安堵するも束の間。
「今年は孝祐に何を演らせる? やっぱお姫様か?」
「っ」
その発言には思わず立ち上がっていた。
「別に俺じゃなくてもいいだろ! こっちだって放送部の仕事で忙しいし……!」
「そう言いながら去年だって主役やってくれたじゃない」
「そうそう。それに去年だって、ごっつい赤頭巾ちゃんだったからウケたんだぞ?」
「だからってな!」
「イヤそうに台詞を読むのが笑いを誘うのよねー」
女子生徒の一人が言えば、件の脚本を書いた彩香も大きく二度頷く。
「主人公に木島君を置いてイメージしながら書くと、何故か面白く仕上がったんだよね」
「だから、さ」
「〜〜〜〜〜っ」
ポンと肩を叩くのは、いつの間にか席を立って近付いて来ていた発案者。
クラス全員の良い笑顔を向けられては拒否の仕様がない。
否、一人。
恭一だけは笑顔とは言い難かったけれど。
「さて皆さん! 今年の木島氏には何を演じてもらいましょうか?」
シンデレラ、白雪姫、眠れる森の美女。
有名どころがズラリと挙げられて孝祐は額を押さえる。
どうやら同級生達は何が何でもお姫様を演じさせたいらしい。
と。
「……すずめ」
不意に上がった静かな声は、恭一。
「すずめ?」
「舌切り雀?」
クラス中の視線を集めて、彼はハッとする。
「や、ごめん。教室にすずめが入って来たから驚いて」
人の声で賑わっていた為に気付かなかったが、そうして指差す窓枠には、確かに一羽のすずめが止まっていて、無邪気に愛らしい声を聞かせている。
一同脱力。
「佐藤! おまえだって主役の一人なんだから真剣に考えろ!」
「…え。俺もなの?」
「当然でしょ、今年こそアンケートで優勝をもぎ取るんだから!」
(あいつ…っ)
孝祐もがっくりと肩を落とし、本格的に痛み始めてきた頭を軽く振る。
そんな一人一人の様子を眺めて、しかし実際に脚本を手掛ける彩香の目は輝いていた。
「……良いかもしれない『舌切り雀』」
「え?」
「木島君はすずめ役で決定して、佐藤君は優しいおじいさんと意地悪なおばあさん、どっちが良い? それに、佐藤君が選ばなかった方の役と、すずめの長老……っていたかしら? ま、いいや、とりあえずあと二人、立候補いる? 何かイメージ湧いて来たんだけど」
彼女の創造力が波に乗ると、その勢いに押されるように配役が決まって行く。
孝祐が「すずめ」。
恭一が「意地悪なおばあさん」。
これはクラスの女子から反対意見も出たが、彩香が「その方が面白いよね、やっぱり!」と断言すれば他の生徒達に異論はない。
脚本が出来てから、その他の配役を改めて選考する事で話し合いは終わったが、ともあれ孝祐のすずめ役は確定したようだった。
四
放課後の教室で四人の女子生徒が一つの机を囲んで賑やかにしていた。
中央にいるのは西堀彩香。
劇の脚本を書く少女だ。
恭一は僅かに躊躇いながらも、意を決してその輪に近付く。
「あ、佐藤君だ」
「えっ」
彩香が普通に恭一の接近に声を上げるのとは対照的に、周りの少女達は一斉に席を立って彼女の背後に回った。
人気者ゆえの距離間といったところか。
「どうしたの、部活は?」
それらを全く意に介さず話し掛けて来る彼女に、恭一も安堵して表情を和らげる。
「あのさ、さっきの劇の配役の事だけど」
「うん?」
「…どうしても、俺と孝祐で組まなきゃダメかな」
その台詞には、後ろに逃げた少女達も一斉に反応。
「やっぱり木島君とケンカしてたの?」
「そうかなとは思ってたけど、本当にそうだったんだ…」
「二人とも様子おかしかったもんねー」
近頃の二人は口を利かない、それはクラス全体が気付いていた異変。
それらに曖昧な微笑で答える恭一に対し、彩香は意味深な笑みを浮かべて見せた。
「だからこそ二人に組んでもらいたいんだけどな」
「え…?」
「みんな同じ意見だと思うよ?」
「うんうん」
「ね」
「――」
四人の少女達一人一人を見遣って、ハッとする。
「…もしかして計画的?」
「人聞きが悪いなぁ。『舌切り雀』にしたのは佐藤君でしょ?」
一分の隙も無い笑みで返してくる彩香に、いつしか恭一からも素直な笑いが零れる。
「…参ったな…」
「ケンカの原因を話せとは言わないけど、みんな心配しているんだよ?」
「そ、そうだよ。佐藤君と木島君が口利かないなんて、すっごい不自然で気持ち悪いんだから!」
「しかも嫌ってるって感じじゃないし…硬い緊張感っていうの? そういうのって教室中に伝染するし」
「早く仲直りしてもらわないと私達も落ち着かないしー」
背後の少女達が口々に言えば、彩香も同意見と大きく頷く。
「二人が親しくなったのって去年の劇がきっかけだったでしょ? 今年の劇も、仲直りのきっかけにしてちょうだい。――ね?」
元気付けるように。
勇気付けるように。
心からの気遣いを込めた励ましに。
「……ありがとう」
恭一もまた、心からの感謝を込めてそう返した。
*
「何が好きですずめだよ…」
一方、同級生達の思惑など知る由もなく放送室の机に突っ伏しているのは孝祐だ。
それを背後から楽しそうに眺めているのは放送部の部長。
先ほど放送部の代表者として学校祭の実行委員会から戻ったばかりの彼は、孝祐のクラスが何をやるか既に聞いて知っていた。
「今年もまた笑い者になるんだって?」
ポンと背中を叩いて言ってやれば、周囲の部員達も興味津々の体で身を乗り出す。
「あ、やっぱり今年も朗読劇なんですか?」
「! やっぱりって何だっ」
孝祐が言い返せば、周りの面々は肩を竦める。
「もう、これだから木島君ってば…」
「去年のアンケートで二位を獲ったのって伊達じゃないって事ですよ」
「私達も部長から木島先輩の去年の話を聞いて、今年も朗読劇をやれば良いのにってずっと思っていたんです!」
口々に言われて主役は若干引き気味。
アレの何が良かったのか演じた本人にはさっぱりだ。
(俺の恥の何が面白い!)
胸中に喚くも、口にしないのは彼にもまだ理性があるからで。
(大体、あの劇で俺が得したのなんか恭と親しくなれた事くらい……)
人には聞こえぬと思うからこそ、勢いに押されるように出てしまった名前は孝祐を落ち込ませる。
(……んっと…何をやってンだか…)
短く揃えられた髪を掻き回す。
いつまでも煮え切らない自身が苛立たしい。
「で? 相手役は今年も佐藤か? 確か同じクラスだったろ」
「ぁ…ええ、はい」
「佐藤先輩も出るんですか?」
嬉々として話に割り込んでくる一年の女子部員達は、恭一を慕っているのだろう様子を隠そうともせず、その場ではしゃぐ。
絶対に写真を撮ろう。
孝祐に頼んだら一緒に写ってもらえるだろうか――そうして頬を赤らめる彼女達の姿を見ていると、落ち込みも更に深くなっていく気がした。
そんな彼の顔を上げさせたのは、孝祐とは別の意味で後輩達の姿に思うところがあった部長。
「そういやぁ佐藤恭一と言えばさ、この間、街中で綿貫と一緒に歩いているところ見たんだけど、あいつらって仲良いのか?」
問い掛ける先には孝祐。
しかし彼は「綿貫」という人物を知らなかった。
だから逆に尋ねる。
「誰です綿貫って」
「誰って…あぁそうか、綿貫圭吾。水泳部の部長やってる男。知らないか?」
「――」
こめかみの血管が引き攣ったように感じたのは気のせいか。
そんな名前は知りたくもなかったと思うが、下手な反応をしては怪しまれる。
だから努めて平静を装った。
「さぁ。恭も水泳部ですから先輩後輩で街中歩く事くらいあるんじゃないですか?」
「ふぅん…、二人とも私服だったから部活は関係ないように見えたんだよな」
ピクピクッと更に引き攣るのは口元。
その二人に関する話はもう聞きたくないのが孝祐の本心だ。
しかし次いで語られる部長の話には耳を疑う。
「まぁ大した付き合いがないなら良いんだけど、ちょっと心配でな。綿貫って女関係派手な上に手癖悪いからさ」
「――は?」
「あ、いや特別深い意味は無いんだが…何だ、そういうところまで先輩の悪影響を受けなきゃいいなぁと思ってさ。…ほら、この通り佐藤もかなりの人気者だろ?」
後輩を一瞥して告げる部長に、即座に食って掛かる少女達。
「部長ヒドイ! 佐藤先輩がそんな人だと思っているんですかっ?」
「佐藤先輩は告白した女の子にちゃんと誠意を持って応えているんですよ! 好きな子がいるから付き合えないって! すごく真面目な人なんですから!」
「あぁはいはい、悪かった! 俺の思い過ごしだよ、すまん!」
手を合わせて必死に謝罪する部長の声が、何故か酷く遠かった。
後輩が言う、女の子の告白を断る際の恭一の理由も初めて聞いたが、それよりも。
「綿貫って…いや、綿貫先輩って、女好きなんですか……?」
「は?」
「あの人、いま彼女いるンすか!?」
「――」
突然の孝祐の勢いに、姦しくしていた少女達も一瞬にして沈黙。
部長も絶句しながら辛うじて返答。
「ぃ、いると思うぞ? 誰かまでは知らんけど…って、おい木島!?」
呼ばれる。
しかし、放送室を飛び出した孝祐は足を止める事が出来なかった。
(女がいるって何だよ!)
廊下を走りながら孝祐は眉を顰める。
(恭を女扱いしているくせに、どういうつもりだよ!!)
向かう先には運動部の部室棟。
恭一を捕まえて話を聞くつもりだった。
だが、それよりも早く肩をぶつけた相手がいた。
怒りで半ば我を忘れて走っていた孝祐は正面から向かってくる人影を避ける事が出来なかったのだ。
「ぁ、すいませ…」
そうして顔を見て、一瞬にして血が昇る。
「綿貫! テメェッ!」
「!? なっ…」
それと気付くなり途端に振り上がった拳。
殴る、殴られる。
それを間一髪で躱した綿貫は距離を取る。
「なんだオマエ! 何のつもりだ!」
「何のつもりはこっちの台詞だ! 恭のこと何だと思ってやがる!」
「恭? ――ぁ…」
言い返して、綿貫も孝祐の顔を思い出したのだろう。
数日前に佐藤恭一のクラスを訪れ、彼が保健室にいると教えてくれた人物、それが目の前の相手だと知る。
それでも話の筋が見えない。
突然に殴り掛かられる理由が綿貫にはなかったのだ。
「佐藤のダチがどういうつもりだ? 俺がおまえに一体何をしたって…」
「恭を傷物にしやがった!」
「きず…」
「女いるくせに、テメェあいつに何しやがった!?」
「ちょっ…」
そこまで言われれば相手の怒りの理由も見えようというもの。
事情を察した綿貫は慌てて孝祐の首根っこを捕まえる。
「っ、離せ変態!」
「声を落とせ!」
悪口に、しかし綿貫は退かない。
「そんな醜聞が広まって困るのは佐藤だって同じだろ!? あいつのために怒ってるんだったら少し落ち着け!!」
「……っ」
綿貫も語調は荒かったが声量は抑えめ。
そうして言われた言葉にようやく我を取り戻した孝祐は素直に口を閉ざした。
「…とりあえずあっち…、人目の無いところで話そう」
「…っ」
言う通りにするのは甚だ不本意だが話はしたい。
だから怒りを抑え込んで綿貫の後をついていった。
しばらく無言で歩き続けて辿り着いたのは部室棟から更に奥へ進んだ、裏門の隅。
人気など皆無の木々の合間だ。
この季節は成長した緑の幕が彼らの姿を隠し、声までも覆ってくれる。
「……で、何でおまえが俺と佐藤の事を知っているんだ? あいつが話したのか?」
「…っ」
草を踏み鳴らしながら掛けられた声に、握った拳が震えた。
綿貫の言い回しはいちいち孝祐の癇に障る。
「そんな事はどうだっていいだろ! たまたま…っ…そうさ、たまたま知っちまったんだよ、おまえが恭を傷物にしたって!」
「傷物…」
綿貫、彼も彼で孝祐の言い回しが気に入らないらしい。
「そういう言い方は止せよな。選択権はいつだって佐藤にあったんだぜ? 別に俺が脅したわけでもあるまいし、合意の上だろ、ご・う・い・の!」
「うっせぇ!」
噛み付けば相手はせせら笑い。
大凡の状況が把握出来た綿貫には、次第に余裕が生まれつつあった。
「で? 誰に何を聞いたか知らないが、俺に女がいるって聞いて、佐藤は遊び相手だと判ったから怒って俺に会いに来たわけ?」
「ふざけんなっ」
対して孝祐には余裕などあるわけがなく、場のペースは完全に綿貫のものになっていた。
「恭は…っ…あいつはおまえに助けられたって言ったんだ! なのに他に女がいるって何だよ…っ、最初っからアイツのこと遊びだったのか!? 単なる暇つぶしか! そんな理由で恭を傷つけるのかよ!」
「ふぅん。あいつが「助けられた」って言ったんだ?」
「っ!」
にやにやと感じの悪い表情で言われて、孝祐は口を噤むも時既に遅し。
「やっぱアイツが自分でおまえに話したのか。信用されてるんだか、何なんだか……」
独り言のように言いながら、しかしふと思い当たったように声を立てて笑う。
「まぁそうだわな。こうして俺に女がいるってだけで怒って殴りかかってくるような情の厚いオトモダチだし?」
「馬鹿にしてんのか…っ?」
「どうかねぇ」
くすくすと、その笑いが重なる度に孝祐の胸中を激しい苦味が襲った。
その感情の名前を、彼は知らない。
ただ。
――ただ、気持ちが悪かった。
「さっきも言ったけどさ、別に俺は佐藤を脅迫したわけでも、傷物にしたわけでもないぜ?」
「そんな言い訳…っ」
「冷静に思い出してみろって。あいつが一度でも俺を悪く言ったか?」
「…っ」
言わない。
恭一は、むしろ綿貫に好意的だった。
押し黙る孝祐の反応を肯定と取った彼は畳み掛けるように告げる。
「だろ? 俺はあいつを「助けた」んだ。そもそも俺を利用したのは佐藤の方だぜ? おまえに殴られるような謂れは無い」
「馬鹿なこと言うな…!」
「ホントだって。本人に聞いてみりゃいいじゃねーか。そこまで信用されてるなら案外簡単に話してくれんじゃないの? それとも――」
言い、近づいてくる男。
「おまえも奴を抱いてみたいクチ? だったら頼んでみろよ、それこそ簡単にOKしてくれると思うぜ?」
「っ!」
カッとなって拳を振り上げる。
躱されるも髪の二、三本は裂いて空を切る。
「危ねぇな、冷静に話し聞けよ」
「ふざけんな! それ以上、恭を侮辱するような事を言うンじゃねぇ!」
「侮辱ねぇ…」
顎に手を置き、彼は笑う。
「それとも何、おまえがアイツに惚れてんの?」
「!? ――がっ…!」
思い掛けない言葉に動揺し、生じた隙。
直後にみぞおちに食らった重い一発で孝祐はその場に膝を付く。
「げほっ…! ぐっ…」
「この一発で先輩にケンカ吹っ掛けてきた非礼はチャラにしてやるよ、ついでに佐藤にチクるのも勘弁してやる。恩人に手ぇ上げようとしたなんて知られたら、大事な恭ちゃんに嫌われちまうもんな?」
「テメ…ッ!」
「はいはい、落ち着け」
孝祐が動けなくなっているのをいいことに綿貫は容赦がない。
「佐藤にはな、慰めてくれる相手が必要なんだよ。それで俺を利用してる。俺もまぁイイ思いさせてもらってるし、それでフィフティフィフティ。おまえが俺の代わりやりたいなら、それもイイんじゃねぇの? 俺は止めないよ」
「……っ」
「ま、せいぜいガンバレな」
ポンと人の肩を叩き涼しい顔でその場を去っていく綿貫の背を、孝祐は黙って見送る事しか出来なかった。
「くそ……っ!」
今更、悪態を吐いても何の意味も無い。
価値も無い。
「…………っ!!」
気持ちが悪い。
男同士がどうとか、綿貫や、恭一の関係がどうと言うのではなくて。
もう、何もかもが嫌悪感の渦に呑み込まれて行くようだった。
五
自分が何をしているのかが判らなくなった。
何がしたいのかも、判らない。
どうしてこんな事になったのかと自身に問うてみても、知ってしまった事を後悔する言葉ばかりが胸中に溢れ出て、そんな自分を更に嫌悪するという悪循環が続いていた。
その上、彼らの言葉が見えない棘のように孝祐を苛んでいた。
『…好きでもない子と付き合うのは、…面倒だ、って…言ったんだ…』
そう語ったはずの恭一は綿貫と関係を持ち。
『選択権はいつだって佐藤にあったんだぜ? 別に俺が脅したわけでもあるまいし、合意の上だろ……』
綿貫は二人の関係をそう語り。
『佐藤先輩は告白して来た女の子にちゃんと誠意を持って応えているんですよ! 好きな子がいるから付き合えないって! すごく真面目な人なんですから!』
恭一を慕う女の子達はそう言って彼を庇う。
どれもが相反していて、矛盾して。
何を信じたら良いのか惑わせる。
『それとも何、おまえがアイツに惚れてんの?』
終いには繰り返される綿貫の問い掛けを、必死になって否定する自分がいた。
(違う……っ)
違う。
苦しい。
痛い。
……判らない。
(恭は綿貫が好きなんだろうか…)
誠意を持って女の子からの告白を断り、真面目と言われる彼が綿貫と付き合うのは、やはり「好き」という感情が伴うからなのだろうか。
告白を断る際の「好きな子がいる」という、その相手は綿貫なのだろうか。
(……そうなんだろうな)
思う。
同時に、心の奥底に空虚が生じる。
気付けば夏休みは終わり、学校祭に向けての準備が本格化する時期に入っていた。
*
連日、夜遅くまで学校祭準備のために居残る生徒達。
生徒会、実行委員会、放送部という三大裏方はもちろんの事、職員や学級ごとの出し物に関わっている皆が作業に追われていた。
「……ってことは前のステージ公演が終わる十分前に、次のプログラムを放送で流すんですか?」
「そ。一応、時間は決めてやっているけど、何だかんだで毎年押すからな。講堂で司会進行やっている連中と小まめに連絡取り合って、客が目的のものをスムーズに観られるよう援護するのが目的だ。そのために当日は全員にトランシーバーが配布される」
「わっかりました…プログラムの順番に当日変更が出たりした場合は?」
「臨機応変に。そういう判断が出た場合は先ず最初に実行委員会に伝わる。そっちにも放送部員を一人派遣しておくから、そいつと確認し合ってくれ」
放送部の待機室で仁王立ちしている部長を囲んでのミーティング。
そこには孝祐の姿もあり、いま彼の様子は「普通」だった。
落ち込む時間が一日、また一日と延びていくにつれ感情を誤魔化す術を学んだらしい彼は、次第に自らを演じられるようになっていた。
もちろん放送部の部長や、クラスの友人達からは「ケンカ続行中で恭一と口を利いていない」という認識が薄れずにいるものの、その不機嫌さが周囲に影響を及ぼす事もない。
それが、かえって周囲の人々を心配させる要因となっている事までは、まだ気付けていないようだったが。
「――って事で今日の放送部のミーティングは終了。あとは各自クラスの準備に取り掛かってくれ」
「はい!」
部長の号令を合図に席を立つ部員達。
孝祐も立ち上がり、廊下に出ようとする。その途中、不意に背中を叩かれた。
ポンポン、と。
無言の優しさが感じられる平手打ち。
「……部長」
「シャンとしろよ、シャンと」
あまりにも明るい声で告げられて、孝祐は思わず吹き出す。
「……はい」
そう応えた彼を、部長は笑顔で見送っていた。
(部長はどこまで知っているんだろう…)
あの日、綿貫の事を聞いて部室を飛び出していった孝祐をどう思ったか、聞けるわけもなく今に至っている。
恭一と綿貫が合意の上で関係を結んでいるのなら孝祐に口を出す資格などあるわけがなく、それはもう二人の問題。
最初から言っている通り孝祐には関係のない話として割り切ってしまえばいい。
だが、心の奥底で「違う」と訴える何かがある。
このままで良いわけが無いと必死に訴えているもの。
その正体を掴む事が出来れば、立ち止まったままの現状を動かす事も出来そうなのに。
(…俺は何をしたいんだろう……)
判らない。
何よりも、それが不明瞭であることが一番の問題だった。
難しい顔で階段を上がり、教室へ。
今ごろ朗読劇の練習をしているであろう仲間と合流するために歩いていた。
と、声を掛けられたのは背後から。
「木島君、丁度良いところで会えた!」
嬉しそうに言うのは朗読劇の脚本を担当している西堀彩香だ。
「丁度良い?」
何のことかと聞き返す孝祐に、彩香は足早に駆け寄ってきて説明する。
「台本の改訂版が完成したから資料室のコピー機を借り切って製本を始めたんだけど、私一人じゃ時間掛かり過ぎるでしょ?」
「そりゃそうだ」
「ね。だから手伝って? 教室であと二人くらい声掛けて連れて行くから、先に行って作業進めていてくれる?」
「あぁ、それは構わないけど…」
「ほら、早く行って! 職員室で許可は取って来たけど、いつ他のクラスが来るか判らないじゃない! 先に行ってコピー機を確保しておいて!」
ぐいぐいと背中を押しやられて一人先に資料室へと向かう事になる。
(…怪しい)
あの強引さには何か裏があるに違いないと予想しながらも素直に資料室の扉を開ければ案の定。
「!」
「あ…」
コピー機の前に立ち、一人重刷を始めていたのは恭一だ。
(やっぱり…)
がっくりと肩を落とす孝祐と同じく、恭一も少なからず動揺したらしかった。
考えれば判りそうな展開ながらも「どうして…」と目を瞬かせている。
戸口に立ったまま室内に一歩進む事を躊躇っている孝祐と、コピー機の前で硬直している恭一。
辺りには印刷中の機械音だけが繰り返し聞こえ、いつしかそれも止まってしまう。
しばらくの沈黙を経て、孝祐は意を決し口を開いた。
「……終わったみたいだぞ」
「っ、え…」
「コピー。次の入れていいんじゃねぇの?」
「あ、あぁ、そうか…」
古い機種のため連続コピーが出来ない機体は、その都度、蓋を開けて原紙を入れ替え、部数を設定してスタートボタンを押さなければならない。
恭一がそれらの作業を行っている間に孝祐は室内に入る。
覚悟を決めたというよりは、諦めたと言う方が正しいかもしれない。
西堀彩香はこれを狙って孝祐を此処に寄越したのだろうし、放送部の部長にはしっかりしろと喝を入れられて来たばかり。
皆の心配の要因までは自覚出来ていなくとも、その気遣いは痛いほど感じていた。
ここで逃げては、きっともう次は無い。
「…コピー終わったの、それだけか?」
「ぇ…」
印刷を終えたばかりのトレイに乗った紙の束を指差して尋ねた孝祐に、恭一は最初こそ困惑したものの、すぐに相手の意図を察して応える。
「これと、そっちのテーブルに並べてあるのも終わってる」
「おー…って、結構あるんだな」
「まだあと二十枚は刷るぞ」
「二十? 西堀のやつどれだけ長い劇を演らせる気だ?」
「さぁ。かなり気分乗って書き上げたって、さっき興奮して捲くし立ててたけど」
「演る方の苦労も考えろって」
言いながら一枚を手に取って目を通す。
題目は『舌切り雀・平成版』。
おとぎ話にある『舌切り雀』を脚色した物語で結末も本来のそれとは異なっている。
実際に「昔々あるところに〜」から始まる物語は、おじいさんに助けられ、可愛がられていた雀が、おばあさんが洗濯に使おうとしていた糊を誤って食べてしまい舌を切られて逃げ出す。
これを追って山に入ったおじいさんを雀のお宿が歓待し、歌や踊りを披露。帰り際に大小二つのつづら、どちらかを選ばせ、小さい方を家に持ち帰ったおじいさんが蓋を開けてみると中には小判が詰まっていた。
これを見たおばあさんは大きい方も貰ってしまおうと雀のお宿に押しかけて、残されていたつづらを強引に持ち帰る。
家まで我慢出来ずに道の途中で蓋を開けると、中には魑魅魍魎が詰まっており、おばあさんは食べられてしまうというものだ。
対して彩香が書いた脚本は、冒頭こそ同じ流れだったが最終的にはおばあさんと雀が仲良くなる。
諸々の差異はあるものの、刺激を求めるおばあさんは優しいだけのおじいさんに常日頃から物足りなさを感じており、また助けられた雀も頼り無さげなおじいさんの今後を心配して何とかしたいと考える。
そこで手を組み、おじいさんに大きなつづらを持ち帰らせて性格改善に繋げるわけだが、台本読みを繰り返す度にクラス内から「ここはこうした方が良い」「そこはああしよう」という意見が集まったため、最終的に仕上がったのが現在、恭一がコピーしているそれである。
「…しっかし西堀ってすげぇな…こんな文章書けるって、それだけで才能だろ」
「な」
孝祐が感心半分、呆れ半分に呟けば恭一も失笑しながら同意を示す。
「いまコピーしながら読ませてもらってるけど、最初の話よりかなり良くなってると思う」
「ふぅん…」
表紙から台本の一枚目、二枚目と順に並べて行く作業を進める孝祐。
背後からはコピーの音。
紙の束。
「…こんな二人で話すの、いつ以来だか…」
「……ん」
ぽつりと零した呟きに、やはりぽつりと返される応え。
無意識に。
二人共の表情が和らいだ。
「……俺、さ。おまえに話したい事、色々とあったんだぞ」
孝祐が言えば恭一も言う。
「あぁ、俺も」
「…なのに何で話せなかったんだ?」
「さぁ…何でかな」
「おまえのせいだよな?」
「孝祐のせいだろ?」
「俺の何が原因だって?」
「んー…まぁ、原因っつって思い当たるのは俺の方ばっかりのような気もするけど」
「やっぱおまえのせいじゃないか」
「…そう言われると納得しかねる」
「何だよそれ」
「…って言われてもね」
話そうと思えばいつでも話せた。
それが出来なかったのは。
「ぁ…そうか、まぁ、原因は俺にも少しあるかもな」
孝祐はふと思い当たったように言う。
悪いのは決して恭一ばかりではなかったという自覚を抱く。
「つっても、やっぱ八割方はおまえのせいだぞ」
「…せめて七割」
「いーや八割」
「七」
「八」
言い合う内に、無意味だと気付いて。
「間取って七.五」
「まぁ…それくらいなら妥協してやろう」
「エラっそうに」
「……クッ」
「ふっ…」
言い返して顔を作れば、その内に笑いが込み上げて来た。
二人して吹き出し、声を立てて笑えば、今までの硬い空気が嘘のように消えてしまう。
実際に話しさえすれば、こんなにも簡単な事だったのに。
…そんな事は、判っていなければならなかったはずなのに。
「……もういいや」
「え?」
「もう、いい。悩むの止めた」
何を言われているのか飲み込めずに目を瞬かせる恭一に、孝祐は言い切る。
「俺…、おまえのダチだよ」
「孝祐…?」
「だから良いんだ。…いや、良くはないけど、俺はずっとおまえの味方でいるよ」
「――何を言ってる?」
怪訝な顔付きを向けてくる恭一の目を見返す事は出来なかった。
しかし、それが本心だと孝祐は胸を張って言い切れる。
「夏休みの前に、俺さ…綿貫に殴りかかろうとしたんだ」
「えっ」
「あ、いや、結局は逆に殴られて言い負かされたっつーか…まぁ、情け無い姿晒しただけで、何も言い返せなかったんだけど」
相手の表情が歪むのを見て取り、孝祐は苦く笑った。
「少しでもおまえの力になりたかったけど…、そうだよな。恭と綿貫の問題に俺が口出しする権利なんか無いっつーか……まったくの部外者が首突っ込むなって話だよな」
自嘲気味な孝祐の台詞に、何かを言いかける恭一だったが、結局は言葉が続かずに声を詰まらせた。
その様子を、孝祐は「やはりそうなのだ」と己を納得させる理由にする。
「だから…もう何も言わないし、考えるのもやめる。久々におまえと口利いたら、こう出来る方が楽だって、つくづく思えた」
「孝祐…」
「だから、さ」
そうして手を差し出す、握手を求めて。
「悪かった。――二.五割分を謝る」
「……孝祐」
名を呼ぶ、その表情が僅かに歪んだのを孝祐は知らない。
声の調子が変わった事にも気付かない。
ただ、差し出された手を握り返された事だけは確かなものと感じて安堵する。
「恭…」
「ありがとう。…俺も七.五割分は感謝するよ」
「…よく言う」
「そっちこそ」
――そうして笑いが零れれば、外から様子を伺っていた彩香ら数人の同級生が互いに目配せして扉を開けた。
「…もしもーし。仲直りした?」
遠慮がちなその声に二人は振り返る。
最初はぎょっとしたものの、自分達の会話に聞かれて拙い事は無かっただろうかと思い返しながら、恐らく大丈夫と頷き返す。
「さっさと入れ、誰かさんが大量に書いてくれたもんだから作業も進まん」
「えー、それって責めてるの?」
資料室に五人の生徒が集まれば途端に場は賑やかに。
学校祭まであと僅か――。
六
九月の第二土曜、日曜が学校祭本番。
その二日目が幕を開けた。
在学生のみで楽しむ初日とは異なり、朝早くから打ち上がった花火に誘われるように、午前一〇時の開祭直後から祭りには生徒だけでなく外部からの一般客も大勢が訪れて賑わっていた。
昼過ぎには孝祐達の朗読劇公演が講堂で始まった。
朗読であって演じるのは声だけだが、視覚にも誰が何役なのは判り易くするため一人一人が準備した衣装を身に纏っている。
恭一達人間役の生徒は古びた着物を。
孝祐達動物役は、それらしい恰好を。
そう、つまり雀を模した衣装だ。
私に優しくしてくれた貴方に贈り物をしたいのです。
小さなつづらと大きなつづら。
貴方はどちらを選びますか?
劇中の優しいおじいさんは「大きなつづら」を選ぶ。
雀と意地悪なおばあさんが仲直りをして協力、おじいさんに其方を選ばせたのだ。
中に入っているのは魑魅魍魎?
そんなわけがない。
優しすぎる彼に贈られたのは二人からの感謝の品。
米俵や野菜、酒、新しい衣類に混ざって、何故かおばあさん用のコスプレ衣装――若干退かれる恐れのある部分についてはそれぞれを担当する孝祐と恭一、二人の息の合った掛け合いが観客の笑いを誘った。
優しいだけが取り得の頼り無さげなおじいさんが新たな趣味を開拓、めでたしめでたしで終わる物語。
拍手喝采を受けてステージに上がった皆が一礼。
二日間の学校祭、全部で三度行われた朗読劇は、最後のステージまで無事に終了したのだ。
「お疲れ!」
「おつー」
ステージ上で衣装を身に纏った面々がハイタッチで互いの労を労う。
「それにしても木島君、雀の恰好似合い過ぎ!」
「そんな褒められ方は嬉しくねぇ」
嘴の下から飛び出す日本語。
それだけで同級生達は大笑いだ。
「写真撮ろう、写真! 記念に一枚!」
「要らんっ」
「まぁそう言わずに、ね」
「ね?」
「ね、じゃねぇし」
孝祐の平手でぐいっと突き放されるのは恭一だ。
「俺は放送部の仕事あるからすぐ行く」
言いながら被り物の頭を脱ぐ。
「あーっ、勿体無い! 是非とも一枚欲しかったのに」
「誰が残させるかっ」
荒い語調で言い放つのは、登場しただけで会場を笑いの渦に巻き込んだ自身の恰好を決して気に入っていないからだろう。
「ま、頑張って」
「おー」
恭一の励ましを受け、脱いだ衣装は係の同級生に預けて講堂を出ていった。
まさか自分の居なくなった講堂で、
「悔しーっ、結局一度もスズメの木島君と写真撮れなかった!」
「後夜祭で衣装の着用を義務付ければいいんじゃないか? あの恰好でキャンプファイヤー囲んでダンスするのがイヤなら写真撮らせろって丁寧にお願いすればいいんだよ」
「あ、なるほど。佐藤君てば賢い!」
そんな会話がされているとは思いもしない。
「…それにしても本当に良かった、学校祭の前に二人が仲直りしてくれて」
彩香のそんな言葉に恭一が複雑な笑みで応えた事も、知らないまま。
*
放送部員という、イベント期間中の三大裏方の一端を担う孝祐のスケジュールは分刻み。
自分のクラスの朗読劇、校庭で開かれている屋台の接客と併せて放送部の仕事もこなさなければならず、制服の胸ポケットにはトランシーバーが常に装備されている。
「部長、クラスの朗読劇は二分オーバーで終了、いま五分遅れで次のクラスの合唱が始まりました」
『はい了解、お疲れ。雀はウケたか?』
「……、忙しい時に余計なコト言わンで下さい」
『ほー、随分とウケたみたいだな。おめでとう♪』
「〜〜っ」
間にそんな会話が挟まれる事もあったが、忙しいのは本当である。
『木島は、そのまま校庭の屋台の状況を確認して来てくれ。良さ気な店があったら紹介放送流すから適当な文章考えて戻って来い』
「了解です」
応えてトランシーバーを胸ポケットにしまうと、校庭に向かって駆け出した。
そこでは四方八方から食欲を誘う料理の匂いが鼻腔を刺激してくる。
焼きそば、たこ焼き、お好み焼きにもんじゃ焼き。
クレープ、チョコバナナ、リンゴ飴といった甘党向けの菓子類があれば、辛党向けの韓流料亭と書かれた看板を掲げる喫茶店も並び、一見すると地域の祭を連想させる華々しさ。
その中には孝祐のクラスが担当している野菜の店――「北国の食材そのものの味を楽しもう」をコンセプトとし、蒸かしたじゃがいもや茹でとうきび、かぼちゃ、そういったメニューを取り揃え、それなりに繁盛しているようだった。
「おっ、お疲れ木島! 劇どうだった? 最後までウケたか?」
「…っ、何で揃いも揃ってウケたかどうかが気になるんだ?」
「だっておまえ、それしかないじゃん」
「雀だぞ、スズメ」
調理担当の二人に口々に言われて脱力。根本的に何かを間違っているような気がしてならない。
「この店は絶対に紹介放送しねぇ」
「えっ。おまえソレはおかしいだろ!」
「自分のクラス売り込まないでどうする!」
「けっ」
憎まれ口を叩けるのも親しいからこそ。
「とりあえず気張って焼け」
「おまえ接客しかしてないから簡単に言えるんだ、しばらく鉄板と見合ってみろ! サウナ状態になれるぞっ」
「俺の当番終わったしー、屋台より劇で恥掻きまくって来たしー」
わざとらしい口調で言い返しながら、校庭に並ぶ屋台を見回るべく、左右どちらを先にしようか迷っていた。
その間にも擦れ違う人々の会話に聞き耳を立てながら情報を収集し、放送室に持ち帰る内容を探して行く。
と、不意に視界を過ぎった人影に眉を顰める。――綿貫だ。
一般客らしい私服の男と並んで歩いて行く。
(くそ…っ、二度と見たくなかった顔だ)
もともと学年が違えば部活などでの関わりもない。
何事もなければ卒業するまでその存在自体を知らずに済んだはずの相手だ。
そんな男を祭りの最中に見かけた自分の不運を呪いつつ、知らぬフリで通り過ぎるのを待とうとした。
だが。
「どうだった佐藤恭一。悪くないだろ?」
「まあ、あの衣装はともかく顔は良かったな」
思わず顔を上げれば、鉄板の熱と戦っていた同級生二人もぎょっとしてそれを聞いている。
朗読劇を観て来たのだろうと思わせる会話はともかく、恭一がどうとはどういう意味か。
「なに、あいつら…佐藤の知り合いか?」
「さぁ…右側の奴はうちの制服着てるから、たぶん部活の知り合いか何かじゃないか?」
耳の端に友人の声が聞こえるが、孝祐に応えている余裕はない。
綿貫が隣を歩く相手との会話に興じて自分に気付かずにいる事を知り、多少の躊躇はありつつも後をつけるように動き出す。
「木島?」
「おい?」
怪しい行動に目を丸くするも止めるには至らず孝祐を見送る事になった友人達。
一方の孝祐は綿貫達の会話に聞き耳を立てる。
酷く嫌な予感がした。
「じゃあアノ話はOK?」
「んー…つーかアレがおまえの愛人って本当かよ」
「マジだって」
「そこが怪しくてな…、言っておくが俺ら犯罪っぽい真似はしたくねーし」
「大丈夫だって。アイツああ見えて一端の淫乱だぜ? 相手なんか誰でも良いんだしさ、それなりに稼げるとなれば一石二鳥じゃん」
小声で交わされる内容は、敢えて聞こうと思わなければ聞こえない。
聞く気でいる孝祐の耳にも雑踏の中に紛れて端々が掻き消される。
それでも。
「つーかまぁ、正直に言やぁ飽きたっつーか? 近頃は抱いても面白味がなくなったってかさ」
「悪い奴だな、おい」
――それでも、孝祐を怒らせるには充分だった。
「テメェ……!」
「っ!?」
刹那、鳴り響くは骨を砕くような痛々しい音。
あまりにも突然過ぎて、孝祐の振りあがる拳を止める者も、躱せる余裕も彼らにはなかった。
「がっ…!」
「許さねぇ…っ!」
校庭に倒れこむ綿貫と、怒りを露に彼に馬乗りになる孝祐。
「おまえなに…っ」
綿貫と並んで歩いていた男は驚きのあまり止めるという行動に移る思考を失くしているらしく、周囲から上がる悲鳴が更にその思考を遠ざけていた。
「おまえ恭に何させようって言うんだ下衆野郎!! 何様のつもりだ!!」
二発、三発と顔に拳を打ち込めば綿貫には喋る事すら困難。
「…っ…がっ」
広がる混乱。
駆けつける教師達。
騒ぎを聞きつけてやって来た野次馬の中には孝祐の同級生もいた。
綿貫達の会話の一部分を共に聞いた、彼らも。
「! 木島っ、おまえ何やってんだ!」
「止めろって!!」
後ろから羽交い絞めにし、腕を取り押さえ、綿貫から遠ざける。
「離せ! あいつだけは…っ…綿貫の野郎だけは絶対に許さねぇ!!」
「木島!」
「離せ!!」
――学校祭二日目の、最も一般客が多く行き交う校庭のど真ん中で孝祐が起こした暴力行為は十分と待たずに校内中に広まる。
彼の同級生達はもちろんのこと、放送部や、教職員の耳にも入り、取り押さえられた孝祐が、それ以後に友人達の前に姿を見せる事はなかった。
彼に一週間の停学処分が言い渡されたのは、振り替え休日となる月曜を跨いだ火曜日の朝。
いまだ祭りの余韻を残しているはずの校内に暗い影を落とさせることとなる。
七
――…この話っておかしいよな……
最初にそう言い出したのは誰か。
おそらく孝祐自身だったと思う。
「この話っておかしいよな」
その呟きに、教室で共に朗読劇の練習をしていた面々が小首を傾げて彼を見遣った。
「だってさ、オリジナルの雀だって、じいさんにお土産を持って帰って欲しくてつづらを二つ出したんだろ? もしもじいさんが大きなつづらを持ち帰ったら、それでも中身は魑魅魍魎が入ってたのか?」
「あぁ、確かに」
「言われて見れば…」
同級生が成程と呟く傍で、脚本を手掛けた西堀彩香が指を立てる。
「私もそこが気に入らなかったのよね。だから佐藤君が「すずめ」って言った時にコレをやりたいと思ったんだもん」
「だろ?」
トントンと台本を叩きながら言い、孝祐と頷きあう。
「まぁ、考えられる可能性はいろいろあるのよ。本当は二つとも小判が入っていて、おばあさんが持ち帰ったのは雀達が前以て準備していた偽物だったんだーとか、魔法が掛かっていて蓋を開ける人の心次第で中身が変わるーとか」
もしくは思慮深いおじいさんが欲を張らないと知っていた雀達は、敢えて彼を試したという見方も出来るけれど、恩人への贈り物に最初から魑魅魍魎の入ったつづらを選択肢の一つに入れていると言うのは、ともすれば雀達の方が性悪に思える。
「なんか……そういう話を聞くとさ、こういう物語には教訓が含まれているのが自然だけど『舌切り雀』は欲を張っては痛い目に遭うから気をつけなさいって言うより、他人は信用するなとか、見た目に騙されるなって言われているみたい」
「言えてる」
教室に広がる苦い笑い。
「だから、ほら! その辺の皮肉も込めてこういう内容の劇にしたんだから頑張ってよね、皆!」
「だっ」
勢い良く言い放った彩香は、同時に孝祐の背を叩く。
「痛ぇだろ!」
「気合入れてあげたの。これが笑える劇になるかどうかは雀とおばあさんの掛け合いに懸っているんだからね!」
「あはは、それなら大丈夫じゃない?」
同級生が笑う。
「だって木島君と佐藤君ってば息ぴったりだもん」
「うんうん、一緒に劇やってる私達まで笑っちゃいそうだし」
言われながらも広がる笑い声は、今度は周囲の人々にも笑みを伝染させる朗らかさ。
絶対に成功させよう、――そう約束し合ったのに。
*
「――……」
目が覚めて、夢を見ていたのだと自覚する。
わずか数日前の教室で過ごした時間だ。
朗読劇『舌切り雀』で今年こそアンケート優勝を勝ち取ろうと、言ったのに。
「…何やっちまったんだか…」
孝祐は呟き、顔を手で覆う。
己の浅はかさを今ほど悔やんだ事はなかった。
綿貫を殴った事に関しては良いのだ、あいつは殴られて当然だと信じて疑わない。
ただ、そのせいでクラスの仲間に。
…誰より、恭一に迷惑を掛ける事になるのだと、どうして思い至らなかったのか。
「あいつ……、余計なコト言ってなきゃ良いけど」
孝祐が綿貫を殴ったと聞いた恭一は、当然の事ながら自分のせいだと気付き彼を訪ねてきた。
しかし孝祐にしても、自分が起こした問題の責任は自分にあると判っているし、恭一を理由にする気など毛頭ない。
綿貫達が何を話していたかを明かすつもりも無ければ、だからこそ「何故殴ったのか」と教師達から問われた時にも「綿貫の事が以前から嫌いだった」「顔を観たらついカッとなって殴りかかっていた」と言い張った。
この言い分については教師も、呼び出された両親も最後まで疑わしそうにしていたが、綿貫も綿貫で、自身の発言が褒められたもので無い事は自覚していたらしい。
「その後輩がいきなり殴りかかってきた」と、孝祐にとっては都合の良い訴えを繰り返してくれたおかげで、孝祐一人に停学一週間という処分が下されたのだ。
そんな中で一つ意外だったのは、綿貫に謝罪していた親には帰宅してから改めて説教を食らうのだろうと覚悟していたというのに、父親は拳骨一つ、母親は「バカ息子!」の一言で後は普段通り。
あっさりと孝祐を許した事だ。
何が何やらと困惑するも、親がそんな態度を示してくれた事が、孝祐を現在のように平常心で大人しく家に居させている力になっているのは確か。
だから、自分は平気だ。
恭一には、彼が学校に通い難くなるような事になって欲しくないと切に願う。
(何も言わなくて良い)
それで今まで通りだ。
(頼むから早まった真似はするなよ……)
胸中に祈る。
姿の見えぬ親友に。
(あんな奴のせいで傷つく必要なんかない…)
恭一の事を玩具のように語った男。
――『つーかまぁ、正直に言やぁ飽きたっつーか? 近頃は抱いても面白味がなくなったってかさ』……
そんな言葉で貶めた。
(ふざけるな…っ)
思い出すだけで胸中に怒りが募る。
同時に、恭一に対しても。
(何だってあんな奴の誘いに乗ったりしたんだよ……!)
それが悔しくてならない。
恭一が綿貫に抱かれている事実が。
(……っ)
一体、どんな想いで綿貫を受け入れたのか。
付き合って。
抱かれて、来たのか。
「…っ」
不意に心臓とは別の熱い鼓動が高鳴った。
拙いと思う。
それは判っているのに、振り払おうと思えば思うほどに思考は深まる。
恭一はどんなふうに抱かれていたのだろう。
どんな顔で。
どんな声で。
「…俺が最低だ……っ」
一番汚いのは、自分。
そう思うと情けなくて泣けてきた。
*
陽が傾き始め、そろそろ今日の授業が終わった頃だろうと思う孝祐は、停学中に終えて提出するよう言われている課題に取り掛かっていた。
と、階下から母親の声が掛かる。
「孝祐、佐藤君がいらしたわよ」
「――、!」
佐藤君と言われて一瞬迷うも、すぐに恭一だと察して部屋を出た。
廊下に立つと、母親に促されて階段を上がって来ていた恭一と目が合う。
「恭…」
「よ。…なんか、元気そうで安心した」
苦笑交じりの相手の呟きに、孝祐は些かの後ろめたさを押し隠しながら普通を装って応える。
「そりゃ、別に具合悪いわけじゃないし」
「それもそうか…」
「ああ。…まぁ、入れ」
「ん」
部屋に通された恭一は、机に広げられた課題プリントに目を落とす。
「悪い、勉強中だった?」
「いや気にすンな。来週までに終わればいいんだし」
時間は充分にあると自虐的な返答をしたならば恭一の表情も沈む。
「……ごめん、俺のせいで」
低い声で謝る彼に、しかし孝祐の返答は最初から変わらない。
「言ったろ、おまえのせいじゃないって。俺が勝手に怒って、勝手にアイツを殴っただけだ」
「けど」
「しつこいぞ」
責めるのではなく、笑いを含ませた抑止の声。
「おまえと綿貫の事に口出ししないって言ったのに、その約束破って暴走したのは俺の勝手。おまえが気に病む必要ない」
孝祐は、あの日に聞いた話の内容すら誰にも――恭一にも伝えていない。
出来る事なら綿貫とは縁を切って欲しいのが本音だったけれど、そこまで口出しするのも躊躇われたのだ。
好きでもない相手との付き合いが面倒だと語った恭一が、関係を続けている相手が綿貫だ。
恭一が彼をどう想っているのかは知らないし、敢えて知りたいとも思わない。……否、知りたくないのが本音だ。
二人の事を考えると酷い苛立ちが募り、綿貫を殴った時と同様に自分がどんな言動を起こすか予測がつかない。
もし本当に恭一が綿貫を好きで今までの関係を続けていたと言われたら、孝祐には込み上げてくるだろう怒りを自制出来る自信がなかった。
「その話はもう良いだろ」
だから話を摩り替えようとしたのだが、恭一がそれを許さない。
「……良くない」
彼にとっては、良い事など一つも無い。
当然だ。
それを伝えるために、彼は今日、此処に来た。
「もう良いなんて…、そんなわけないだろ…っ、クラスの誰もおまえが意味も無く先輩を殴ったなんて信じていないんだぞ?」
「…?」
停学を言い渡され、学校に行っていない孝祐は知らなかった。
同級生全員が職員室に詰めかけ、孝祐一人が処分を受けるなどおかしいと訴えた事。中には孝祐ほど詳細にではないとしても、綿貫が恭一の事で何かしら不穏な話をしていた事を聞いた生徒もいて、きちんと調べ直して欲しいと根気強く頼み込んだのだ。
「そんな奴等と一緒にいて、俺だって…っ…庇われたのは俺で、おまえは絶対に余計なこと言うなって言ったけど、俺だけ黙ってなんかいられない…!」
「まさか言ったのか!?」
「言いたかったさ!」
不安が現実のものとなったかと焦る孝祐に、しかし恭一は即座に言い返す。
歪まされた表情。
痛々しい声音。
「それで孝祐の停学が取り消されるなら何でも話した! 一番悪いのはこの俺なのに、何で孝祐に責任全部押し付けて安穏としていられると思う!」
なのに、言えなかった。
止められた。
「放送部の部長に止められさえしなきゃ全部話せていたのに…っ」
「部長?」
思い掛けない人物の関与に驚いて聞き返せば睨みつけられる。
「孝祐が意味も無く先輩を殴ったりしないのと同じで、何も言わずに処分を受けたのだって意味が有るんだから余計な事は言うなってさっ、職員室に現れて担任もクラスの皆も納得させられたんだ!」
「――部長が…」
これには心から驚かされた。
確かに放送部の部長には何かしら気付かれているだろうとは予測していた。
綿貫を殴ったあの日も、胸ポケットに入れたままのトランシーバーをそのまま持ち帰りそうになり、部長にだけはその返却も兼ねて会いに行っている。
かと言って彼にも殴った理由を話したわけではなく、そのようなフォローを入れてくれるとは思いもしない。
「そっか…良かった…」
無意識に零れ出た呟きに、しかし恭一は更に声を荒げる。
「何が良かったって……!」
その手で孝祐の胸倉に掴みかかる。
「なんで…っ…何で俺よりあの人が……っ」
「…恭?」
何かを言おうとしながら、けれど言葉が見つからなくて息を詰める。
(あれ…?)
そんな彼の姿を、以前にも何処かで見た気がした。
あれはいつの、何の話をしていた時だっただろう。
「俺…っ…俺はどうしたらいい! 何でおまえに、こんな迷惑ばっかり……っ」
喉下で震える恭一の手に、孝祐は戸惑う。
涙こそ見せていないが、その様子はまるで泣いているようだったからだ。
孝祐は困惑する。
これが、自分のよく知る親友だろうか。
他人に選択を委ねない、思い切りのよさが凛々しく男らしい、あの恭一なのだろうか。
「恭?」
「っ…なんで…っ!!」
声を震わせて。
…肩を震わせて。
自分の呼び声に泣きそうな声を出すのは、なぜ。
そんな恭一を、抱き締めたいと思う己の内に湧き出た衝動は、なに。
「…っ」
それは拙いだろう、と。
孝祐は拳を握る。
自制を試みる。
だが。
「こんなつもりじゃなかったんだ…っ……あの人の誘いに乗れば、もう誰にも…孝祐にも迷惑掛けずに済むと思ったのに……っ」
だが、その言葉が箍を外す。
「俺…?」
「…っ」
聞き返しに息を詰めた恭一は慌てて手を離す、その表情に見えた怯えが孝祐の内側に起きた衝動を奥底から突き上げる。
「何でもない…、…っ…悪い、帰る」
「ぁ、おい!」
そのまま部屋を出るべく開けようとした扉を背後から押さえつけ、その進路を塞ぐ。
止めるなと、誰かが叫ぶ。
けれど行かせるなと、また別の誰かが叫ぶ。
どちらの声を聞くかと自問自答したなら答えは後者。
このまま恭一を放したくなどなかった。
「待てって…、俺に迷惑掛けないために綿貫の誘いに乗ったってのか?」
「……違う」
「今そう言ったろ!?」
「言ってない!」
「言った!」
「言わ…」
「言っただろ!!」
「…っ」
どちらも譲らない応酬は、いつしか沈黙を生む。
今までに無い至近距離。
進路は壁に挟まれ身動きが取れず、同じくらいの背丈は相手の息遣いを最も身近に感じさせた。
「…っ」
どちらともなく息を飲み。
喉の渇きを覚え。
これまで経験した事のない雰囲気が更なる衝動を生む。
得体の知れない感情は、孝祐の理性をも凌ぐ。
「…どうしても帰りたいなら、一つだけ答えていけ」
返答はない。
それでも構わない。
知りたいのは一つ。
「恭…おまえ…、綿貫が好きで付き合ってたのか……?」
「…っ……違う…!」
僅かな無言の時を経て恭一は左右に首を振った。
綿貫との関係にそのような感情はない。
それは、単に都合が良かったからでしかない。
「…あいつ言ってた、おまえは相手なんて誰でも構わないんだって……、それ本当なのか? あいつじゃなくても誘われりゃ誰にでも付き合うのか?」
質問は一つと言ったのに。
普段の恭一ならそんな風に笑って言い返しただろう。
しかし今は。
胸中に溢れ来る感情を押さえ込むだけで、限界だ。
そしてそれは恭一も同じ。
この相手からそのような言葉を投げ掛けられて、胸中に募る衝動は計り知れない。
「んで…なんでそんな事を聞く……!?」
「恭…」
「……そうだよ! 相手なんか誰でも構わない!」
学校祭の、あの日。
綿貫の言っていた話が事実か、――違う。
「おまえ以外なら、相手なんか誰だって良かったんだ……!」
「――…っ」
孝祐以外なら。
勢いに任せて、衝動に駆られて放たれた言葉の意味を問うには、互いに感情の昂ぶりが烈し過ぎた。
その衝動の名を見つけるよりも早く。
「っ…ぁ…」
欲しい。
その一心で重ねた唇。
「こ…っ…」
呼吸すらも奪うような口付けを拒むことも出来ず。
ただ感じて。
「……っ」
永く貪るように、互いの熱で熟れたキスは恭一に今度こそ涙を溢させた。
「…恭…」
その雫を、頬を包む手に浸し。
「恭…、…誰でもいいなら、俺にしておけよ…」
孝祐は告げる。
相手の肩に額を乗せ。
「俺に少しでも悪いと思うんだったら、二度と綿貫となんか関係持つなよ…っ。誰でもいいんだったら俺でもいいだろ…っ」
「ちが…違う…っ、おまえだけはダメだ。絶対にダメだ……! これ以上俺のせいで人生滅茶苦茶にするような事はさせられない……っ」
「そんなのおまえに決められたくない」
「おまえは女の子と普通に恋愛して幸せになればいいっ! 俺になんか向かなくていいんだ! 頼むから俺の事なんか考えるなっ、そんな同情は要らない!」
「違う、俺は――」
「違わない!」
「恭一!」
更に拒もうとする彼を黙らせるように言い放つ。
判れ、と。
それを選んだとて恭一に責任など無い。
選ぶのは、自分。
「おまえのこと好きかどうかなんて正直言うと自信ないよ。いまキスしたいと思ったのも、嫌がられたってこっから出したくないと思うのも、何でかって聞かれたら正直、迷う。どっかで「それは拙いだろう」ってストップ掛かる気がする。けどな……、けど…、おまえが綿貫みたいな野郎と何かしてるって思ったら気ぃ狂いそうになるんだよ…っ」
自分以外の誰かに、こんな恭一を見せたくないと思う。
自分以外の誰かが、こんなふうに恭一に縋られると思うと胸が焼けるように苦しい。
その感情に嘘は無い。
「俺がおまえの一番近いところにいたい」
「……っ」
「頼むから!」
自分の事を思ってくれるなら。
頼むから。
「俺を拒むな…っ」
「……っ」
抱き締められる腕に力が増すのとは逆に、恭一の体はそれまでの頑なさを失い、足下から崩れ落ちるように座り込んでしまう。
「なんで…っ」
震える手で顔を覆う。
自分は何のために綿貫と関係を持ったのか。
何のためにあの男との行為に耐えてきたのか。
「俺が…っ」
全てが、本当に好きな相手を忘れるためだったのに。
「どうして俺なんだよ…っ」
嘆くように訴える恭一に、しかし孝祐は微笑う。
「おまえこそ、……何で俺だよ」
「…っ…」
「恭」
泣き顔を覆う手を外させて顔を寄せる。
吐息も重なるほどの微かな隙間に囁く。
「……キスさせろ」
静かで重い。
精一杯の。
「っ…言うな……!」
受け止める言葉の代わりに応えた。
恭一からその隙間を埋めて重なる熱は、これまでのどんなキスよりも優しく。
暖かく。
心切なく感じられるのだった。
八
恭一は、一度も「好き」とは言わなかった。
だから孝祐もその言葉を口にしなかった。
「伝えない」のと「伝えられない」の間には大きな差があって。
二人の心には「伝えてはならない」という抑制が掛かっていた事を、彼らは互いに感じ取っていたように思う。
キスだけを重ね、別れたあの日から数日。
学校という場所で久しぶりに会った相手は、どちらにとっても良く知る「彼」だった。
*
「――で、結局おまえらってデキちゃったわけ?」
「ぶっ」
昼の放送室。
停学期間が明けてすぐに部長直々、昼の放送当番を命じられた孝祐は、普段であれば当番以外の面々も隣の待機部屋で食事を取っているはずなのに、部長と自分以外の姿しか見えない時点で多少の予測は出来ていた。
が、リクエスト曲を流すためにマイクが切られた途端に投げられた質問には、危く機材を吹き出した飲料水で水浸しにするところだった。
「なっ…なンすかいきなり!」
「いやぁ、なんつーか俺としてはそこが一番気になるっつーか、おまえと佐藤がめでたく纏まったんだったら俺もそれなりに考えるところがあるというか?」
「……何を言ってるんですか」
部長の台詞は微妙に理解不能で、小首を傾げた孝祐に、彼は「ま、いっか」と肩を竦めた。
「その顔を見りゃ大凡の見当はつくわ。いきなり深い仲にもなれんわな、木島はテク無しっぽいし」
「げほげほっ」
部長の遠慮のない物言いに、今度は咳き込む。
リクエスト曲が終わるまでに落ち着けなければと必死に深呼吸を繰り返した。
学校祭から一週間。
停学処分の一週間を終えて登校した孝祐は思いのほかクラスの仲間達から笑顔での歓迎を受けた。
中には「心配させやがって!」と拳骨や蹴りを入れてくる手荒いものもあれば、朗読劇がアンケート結果四位で入賞も逃した、この責任を取って来年も劇の主役をやるようにと迫ってくるものも。
二年から三年への進級はクラスがこのまま持ち上がる。
「来年こそリベンジよ!」というのが彩香達女子の言い分だ。
もちろん孝祐に否はない。
責任は取ると返せば、覚悟しておいてと怪しく笑う脚本担当。
一体どんな役が待っているのかと、内心に一抹の不安を抱いたりもしたのだが、それもまた彼女達なりの許しなのだと思えば孝祐にとっては有り難い言葉に他ならなかった。
担任からは「今後は軽率な行動は控えろよ?」と一言あっただけで、やはり以前と変わらぬ学校生活が再開。
それもこれも、停学中に思わぬフォローを入れてくれた放送部部長のお蔭だろう――とは、思うわけだが。
「部長」
「んー?」
「部長は、何をどこまで知ってんですか?」
その質問に目を瞬かせる彼。
しばらく孝祐を見遣っていた彼だが、不意に意味深な笑みを浮かべて見せる。
「そりゃおまえ、こっちも色々とありますから?」
「いろいろ、って」
「そりゃ色々さ」
到底納得のいかない返答に眉を寄せるという孝祐の反応に、部長も幾分かは明かす気になったのだろう。
「つまりさ、好意ってのは微妙に伝染するもんだから厄介なんだよ」
「……?」
ますます判らない顔をする後輩に一笑い。
「恋愛に晩生な孝祐君に判り易く説明しますとね。他人から向けられる好意ってのは、受ける側の頭が判ってなくても真っ先に心が感じ取っちまうもんだ」
「頭じゃなく…」
「そ。だから好かれていると感じる相手にはこっちも心を許せるようになる。時には独占欲ってもんまで生まれちまう。この相手は自分を好きなはずなのに何で他の奴と親しくしているんだ? とかさ。――そういう手前勝手な独占欲を恋愛感情と勘違いする奴がゼロじゃないから厄介だって話」
恋愛感情とは異なる独占欲。
その言葉を胸中に復唱する孝祐が黙ってしまったのを見て、部長は何を思ったか。
「あとは友情と愛情の区別がつかない奴とかな」
「――」
「おまえらは、これからが大変だと思うぞ? 特におまえの方がさ」
「俺、ですか」
「ああ。おまえは好意を向けられた側だろ? ましてや女の子と付き合った事だってあるんだし、おまえの中にある感情が本当に恋愛感情なのかどうか…、それを佐藤に信じさせるのは茨の道だと思った方がいいと思うぜ」
そういう事か、と納得して数秒。
「……で、部長はどっちだったんですか。向けた側? 向けられた側?」
孝祐としては真面目に尋ねたつもりなのだが、案の定、返答をはぐらかされた。
「ご想像にお任せします、ってな」
それを最後に、リクエスト曲が終わってマイクのスイッチが入る。
何とも絶妙のタイミングだった。
*
確かに問題は山積みだと思う。
しかし今は、そういったこれから出てくるかもしれない問題の数々よりも、恭一が綿貫との関係を絶ってくれたという目の前の事実が、ただ嬉しかった。
「まぁ…まさか部活まで辞めるとは思わなかったけど」
「水泳部にいたら何も変わらないだろ。泳ぐだけなら市のプールでも泳げるし、もともと記録を出すために続けていたわけでもなかったし」
「そうなのか?」
放課後の教室。
停学中に机の中に溜まっていたプリントの整理や、受けられなかった授業のノートを写すといった作業に追われていた孝祐の傍には、ノートの提供者でもある恭一がいた。
「水泳は個人競技だろ。何も考えずに泳いでいられるのが好きなだけだから」
「へぇ」
答えながら、恭一の肩を眺める。
「そう言われてみれば他の部員みたいに肩幅そんな広くないし、筋肉も薄かったよな…着痩せする方なのかと思ってたけど、そんなでもなかった…し……って」
自分の発言にハッとするや否や顔が火照る。
「ごめ…いや、今のは…っ」
「過剰反応し過ぎ」
慌てる孝祐に、あくまで冷静に返す恭一。
その内心はともかく、日常の中での会話ならば恭一の方が遥かに上手である。
くすくすと笑う彼に内心で(しまった…)と呟きながら、気付かれぬよう息を吐く。
ただ一度、それも制服の上から抱き締めただけの身体を思い出して緊張するなど、どういうわけか。
最も、想像の中でだけならばそれ以上の事も幾度と無く考えてしまっているが。
(……やっぱ好きなのか、な)
友情を勘違いしたわけではなく。
ならば、これを恋愛感情だと言い切れるようになるには、どんな形の証が必要なのだろう。
(拙いって、思わないわけじゃない……)
そう感じている孝祐に気付いているからこそ、恭一もそれを望まないと言うよりも、拒む姿勢を崩さずにいる。
想いを告げる言葉も口にはしない。
これがある内は無理なのだ。
(あぁくそっ!)
考えれば考えるほどドツボに嵌って行くようで、孝祐はわざと派手に机の中を掻き回した。
と、手に触れた小冊子。
「――あ」
手に取ったそれは、朗読劇『舌切り雀』の台本、第一稿だった。
「俺って物持ち良いのな…」
自身に呆れた呟きを漏らしながら、パラパラと捲って行く。
最終的には雀とおばあさんが協力し、おじいさんに大きなつづらを持ち帰らせる話になったが、最初は色々と違っていた。
雀のお宿にはおじいさんとおばあさんが共に赴き、小さいつづらで良いというおじいさんを無視し、おばあさんと雀が交渉するというのが第一稿だ。
そんな台本を捲っている内に練習していた頃の事が思い出される。
大きなつづらと小さなつづら。
オリジナルの物語では、おじいさんに出された二つのつづら、共に何が入っていたのかと。
「……恭、おまえならどっちのつづらを持って帰る?」
「なに、急に」
「これだよ、これ」
手に持っていた台本を指差せば、恭一も納得したように頷く。
そうして迷わず一言。
「小さい方」
「なんで? やっぱ欲を張ったら魑魅魍魎が――って?」
「いや」
あっさりと否定した彼は苦い笑みを口元に浮かべる。
「俺は、雀がおじいさんに出したつづらは二つとも小判が入っていたんだと思ってる」
「なのに小さい方なのか?」
「ん。分不相応な宝物を貰ったら、後が怖いから」
「後?」
「その後で、……小判なんかよりもっと大切なものを失くしそうだ」
恭一が語る理由に、孝祐は言葉を失くす。
「おじいさんも、そう思ったから小さな方を持ち帰ったような気がする。――まぁ、そんな旦那さんの気持ちに気付かないから意地悪ばあさんは魑魅魍魎に食われたんだろうし、俺の考え方でいえば結局はおじいさんも大切なものを失くした事になる、か。…実は大切でなかったって事も考えられるけどな。あの正反対の性格じゃ一緒にいて楽しいとも思えないし」
「…おまえはたまに毒舌だよな…」
呆れて言えば、恭一は「そうかな」と苦笑。
「まぁ…俺はそういう奴だから。小さいつづらをもらう資格もないだろうね」
「……」
自虐的なその言葉を口にする、その本心は何だろう。
孝祐に聞かせる意図は?
それを思うと堪らなくなる。
言わせているのは、他でもない自分だ。
「…けどさ」
だから孝祐は言う。
言葉を重ねる。
「俺は、大きなつづらでないと入れないぞ」
「――?」
「いや、特大サイズでないと無理だな。コースケ雀からは特大サイズのつづらを持って帰れよ。でないと傍に行けない」
「孝祐…?」
「俺が、……おまえの人生で一番大切なものになってやるから、何の心配もせずに一番大きな宝箱持って帰れよ――なんて、さ……」
「――」
言ってから恥ずかしくなり、顔を窓に向けてオチを入れたりなんかしたら台無しだ。
けれどそれも、恭一にとっては。
「…ほんっと…バカ…」
くっくっと肩を震わせて笑う。
「何だよ」
照れ隠しに強い語調で文句を言えば、更に笑いが深まる。
気付けば二人一緒に笑っている。
君とだからこそ過ごせる、こんな時間。
これが友情でも、愛情でも。
二人だから感じられるものがある。
それだけは嘘じゃない。
一つはとても大きな宝箱。
一つはとても小さな宝箱。
そしてもう一つ、君だけに用意する特別な宝箱。
大切な君に贈るのだから、どうか一番大きなそれを選んで欲しい。
それはきっと、人生で一番大切な宝物になれるから――。
―了―