陸と美優
玄関でピンポーンと鳴ったので、美優は立ち上がった。
「あいてててて」
気がついてみれば擦り傷、打撲で身体中が痛い。
我慢してアパートまで帰ってきて、消毒液ですり傷を消毒中だった。
「大丈夫ですかー」とジュウガがすまなそうな顔で部屋のすみにうずくまっている。
「うん」
立ち上がって玄関までほんの十メートルのワンルームアパートだ。
ひょこひょこと玄関の覗き窓から確認すると陸が立っていた。
「わ、陸先輩!」
慌ててドアを開ける。
「おい、駅の階段から落ちたって!」
走ってきたのか、陸は汗だくだった。
「あ、うん。大丈夫っす」
えへへと美優が笑った。
美優は背後のジュウガを振り返った。
「ジュウガ君が下敷きになってくれて」
「はいー」
ジュウガがうんうんとうなずいた。
「おい、待て、お前ジュウガが視えるのか?」
驚いた顔で陸が美優に言った。
「え、はい。視えるっていうか、視せてくれてるんですよね。ここ最近なんか気配だけは感じるんで、和泉さんに聞いたら教えてくれて」
「そうか、気配は感じるのか」
「うん」
「気配は感じるのに視えないのは女の子は嫌だから、と和泉様がー」
とジュウガが言った。
「そうか」
「先輩、汗だくじゃないっすか。冷たいお茶でもいれます」
と美優が言い、陸もうなずいて部屋の中に入ってきた。
丸いローテーブルが置いてあり、側にシングルの組み立てベッドだけの殺風景な部屋である。親と言い合いになって家を飛び出して来たので美優の荷物はあまりなかった。
携帯電話と財布が入っているバッグ一つしか持ち物はなく、ベッドや着替えは後から購入した物だ。大学へ通う為の荷物も家に残ったままなので、勉強に必要な物は友人に借りたり陸のお古を使ったりしていた。だが後期の学費を振り込めそうにないので、大学を退学するのも時間の問題だ。いったん休学するという手段もあるにはある。
だが将来のことをどうするべきなのか、美優自身にもまだ分からないでいた。
ウーロン茶を入れたグラスを陸に出して、
「でもあたしが階段から落ちたのどうして分かったんですか?」
と聞いた。
「そんな大事な事はジュウガから報告が来るさ」
「あ、そっか」
「大学は行ってるのか?」
「ええ、まあ……まあに」
「何だよ、まあまあって。行ってないのか?」
「行ってます。バイトの合間に」
と言って美優は笑顔を見せた。
「バイトの合間って、ちゃんと卒業しないと駄目だぞ?」
「はい」
返事をして、美優は再びすり傷を消毒し始めた。
「先輩」
「何だ」
「どうしてあたしに式神をつけくれたんですか?」
消毒液を含ませた脱脂綿で膝小僧をふく。
ジーンズをはいていたのだが階段の角で強く膝を打ってしまい、膝小僧は赤黒く内出血をしている。
「それはお前が駅の階段から落ちた時の事を想定してだ」
と陸が言い、美優は頬を膨らませた。
「何すか、それ」
「実際、落ちただろ」
「まあ、そうですけど」
誰かに突き落とされたという事実を美優は気がついていない。
ジュウガが犯人の匂いを覚えたので再び、何者かが美優に接近すれば捕まえるの容易だ。 だがそれが美優の継母が彼女を連れ戻す為にやったのだとすれば、美優は傷つくだろう。
ずっと姉の影で親に構われなかった美優にそれは残酷な現実だ。
美優の護衛は気にしすぎだろうかとも考えていたが、実際美優が突き落とされたとなれば陸の杞憂ではなかったという事だ。
加奈子の失踪の原因は加寿子の暴走、その事件は賢が決着をつけた。
いつかは美優にその事実を告げなければならないのは分かっているが、まだ陸は言い出せないでいた。
美優はきっと泣くだろう。だが賢や和泉の事を悪く思ったりしない、そういう娘だ。
きっと誰もいない場所で一人で泣くだろう。
「スーツ姿なんて、今日仕事だったんですか」
「え? ああ、そう。もうずーーーっと仕事」
「へえ、働き者っすね」
「まー兄がさ、なんだかぴりぴりして仕事ばっかりなんだ」
「そういえば、和泉さんが賢さん、ちっとも帰ってこないって言ってました」
「和泉ちゃんも寂しいだろ。新婚旅行も行ってないんだぜ」
「え~」
「何か意外なんだよ。まー兄は和泉ちゃんの事がすげえ好きで、ようやく結婚してもらったんだから、毎日べったりの家庭内ストーカーになるだろうなって仁兄と話してたんだけど、意外と仕事人間でさ」
「家庭内ストーカーって……」
「和泉ちゃんも結婚したくらいだから、まー兄の事は好きみたいだけど」
「でもお似合ですよね」
「うーん、まさしく美女と野獣だよな」
「そうですかぁ? でも賢さんが結婚されて、ターゲットが仁さんと陸先輩に向かいますね。こないだ、従姉妹の多佳子ちゃんからメールで、誰が仁さんの嫁さんになるかすごい問題になってるらしでいですよ。順番飛ばして陸先輩を狙うって親族もいるらしいですよ」
「げ、冗談じゃねえよ」
「まあ、土御門じゃ、子供の頃から女の子はみんな本家への嫁入りを親から言い聞かされますからね。うちの親も姉にずっとそう言ってました。でも姉はあんなだし、不倫とかして問題起こすしで」
「お前は? 言われなかったのか? 嫁入り」
美優は陸を見てから大きな口を開けて笑った。
「あたしは霊能力がないから問題外だって、親も諦めてました。あはははは」
それは陸には酷く胸の痛む笑顔だった。
ずっと幼い頃から霊能力がない事を言われ続けてきたのだと思う。
そして、自分で無理に笑い話にしているのだ。
「本家へ嫁ぐには霊能力がなくっちゃって。和泉さん凄いっすよね! 土御門の再の見鬼の中でもダントツだって! 仁さんも陸先輩もそんな人にお嫁にきてもらうんですよね」
「俺は別に霊能力の有無なんてどーでもいいし。感情のない結婚なんてごめんだし。結婚は好きな相手とするし。まー兄だってきっと和泉ちゃんに霊能力がなくても嫁さんになってもらいたかったと思うんだ!」
少し力んでそう言ってから、陸は少し慌てた。
「多分……」
「え……そうなんですか。和泉さん、愛されてるんだぁ、いいなー」
美優が優しい笑顔でうふふと笑った。
「お、お前さ、時間あったら和泉ちゃんの所へ行っとけよ」
「へ? 何で?」
「和泉ちゃんの相手してあげろよ。足が不自由だから外出もままならないみたいだし。まー兄が仕事人間で、みんな心配してるんだ」
賢のマンションはセキュリティも万全で、和泉の式神の赤狼は強いし頭がいい。
何かの時には頼りになる。
美優に何かあっても頼りになる味方がいる場所がいい。
「分かりました! 和泉さんのケーキおいしいっすよね!」
「何だよ、ケーキ目当てかよ」
「ジュウガ君も貰ってたもんねー、おいしかったよねー」
「はいー」
とジュウガが返事をして、ぺろりと口の周りを舐めた。