サスペンス!
少しばかりのいいことがあった日はそれだけで世界が変わって見えた。
美優は自分でも気がつかないうちにるんるんとスキップを踏んでいる。
学校もやめなくちゃならない、仕事も探さなくちゃならない、両親とも絶縁しなくちゃならないかもしれない、のに、美優の顔は笑顔が満開だった。
「和泉さんていい人だよね」
と独り言を言う。
その横を歩きながらジュウガがうんうんと頭を下げて同意してくれる。
それだけの事が嬉しい。
陸が護衛をつけてくれた、という気遣いが嬉しい。
犬好きな美優にはジュウガを見てるだけで嬉しい。
しかも話が通じるのが嬉しい。
気持ちがふわっと浮上して、よーしがんばるぞ!と思いながら、美優は駅へ行く為に地下鉄の階段を小走りで駆け下りて行った。耳にイヤフォンを突っ込んで、音楽を聴く。
その為、ジュウガの「危ないです!」という声が聞こえなかった。
あっと思った時には身体がふわっと浮いて、階段を落下し始めていた。
「きゃーーー」
と叫ぶ美優の声と、その周囲の人間が「あっ」と言う声がした。
どんっっと身体に衝撃があったが、それは痛くもなく美優の身体は二、三段下りた所で止まった。
「あ……」
「大丈夫ですか」
と階段の途中で美優の落下を我が身体で止めたジュウガが囁いた。
「う、うん、ありがと」
と美優が答えた。
驚きのあまり胸がどきどきして、顔が熱い。
「大丈夫?」
と通りすがりのおばさんが声をかけてくれて、美優はうなずいた。
「は、はい」
慌てて起き上がって、身体の汚れをぱんぱんと払う。
ゆっくりと階段を下り始めた。
「申し訳ありません。私がついておりながら」
とジュウガが申し訳なさそうに謝った。
「ううん、あたしの不注意でごめんね。身体、大丈夫?」
「はい」
美優が階段を下りきった所でジュウガは背後を振り返った。
階段の一番上にいた人間を見失った。追いかけるかどうか悩んだが、美優の護衛を優先したからだ。だが、美優の身体を突き飛ばした人間の匂いは覚えた。
「冗談じゃないよ。どうしてまー兄ってあんなに仕事すんの?」
「そりゃ、仕事しか取り柄がないからだろ。だいたい、賢兄から仕事を取ったら何が残るんだよ」
「和泉ちゃんへのストーキングをしなくてよくなったから暇なんだね」
「だったらさっさと家に帰って和泉ちゃんといちゃいちゃしてたらいいのにな」
「和泉ちゃんに嫌がられてるんじゃないの。まー兄、しつこそうだもん。さっさと仕事に行きなさいよ! この甲斐性なし! とか言われて泣く泣く仕事に来てるんじゃないの」
ボコボコッと頭を叩かれ、仁と陸は頭を抱えこんだ。
「いって~」
「君達、私語は謹んで仕事をしなさい」
と賢が言った。
「まー兄、日曜日くらい休もうよ。ってか、何で俺達だけ仕事してるわけ」
がらんとした事務所内を見渡して、陸が口を尖らせた。
日曜日である。
普通の会社組織と同じく、土御神道会も日曜日には休みと決まっている。
なので、営業、庶務、秘書、などという内勤の者は休む。
陰陽師として働く能力者も、家に帰れば普通の人であるので、やっぱり日曜日には休む。
休まないのは、三兄弟と美登里くらいである。そのうち二人は嫌々であるが。
「ああ? 仕事の予定が詰まってるんだ。忙しいんだ」
と賢が言った。
「これなんか来年の案件じゃん。そんな先までびっちり予定たてなくても」
と陸が書類をつまみ上げて文句を言った。
「日曜日くらい和泉ちゃんとゆっくりすればいいのに」
と仁も言った。二人ともうんざりしている。
「そーだよ。まー兄がこんな仕事人間だったなんて和泉ちゃんもびっくりだろ。新婚なのに嫁さん一人ぼっちにしてて可哀相じゃん」
「どこか連れて行ってあげればいいのに。和泉ちゃん、一人じゃ遠出出来ないんだし」
「そーだよ。だいたい、新婚旅行も行ってないじゃん。和泉ちゃん、よく文句言わないよね」
「新婚旅行行かないの? それは和泉ちゃん、マイナスカウント回ってるよ」
賢は手を止めて顔を上げた。
「旅行は行くさ、そのうちにな」
「まー兄、新婚が行くから、新婚旅行なんだよー。そのうちって」
「だよなー。釣った魚に餌を与えない旦那って離婚案件だよなー」
「あーーーーーーーーーーーーーうるせえな! ほっとけよ!」
いらいらと賢が叫んだ所で、美登里が入ってきた。
仕事中は着物ではなく、シックなパンツスーツだった。背も高く、きりっとした雰囲気の美登里によく似合っている。
「賢様、T医大の東城先生の予約が取れましたわ」
と言いながら、賢にメモを渡した。
賢はそれに目を通してから、
「この日は一日休む」
とだけ言った。
「まー兄、何、どっか具合悪いの?」
「いいや」
賢は素っ気なく答えてから立ち上がると、どすどすと事務所を出て行った。
弟達は顔を見合わせてから肩をすくめた。
「賢兄、ずっといらいらしてるけど、どうしたんだ?」
と仁が言って、美登里を見た。
美登里が少し困った風に笑った。
「私の口からは何とも言えませんわ」
突然、陸が顔を上げて、
「何? 美優が? 突き落とされた?」
と言って立ち上がった。
「ちょ、仁兄、悪い、抜ける」
と言って慌てて事務所を走り去って行った。
「何だよ、誰も彼も。俺一人で仕事するわけ?」
「今の……陸さんがおっしゃった美優さんて、加奈子さんの妹じゃありません?」
と美登里が言った。
「加奈子の? そういや、妹がいたな。え、陸は妹とつきあいがあるのかな?」
仁が美登里を見た。
「どうでしょう。でも同じ大学の後輩だと聞いた事がありますから、加奈子さんよりは美優さんの方が親しいんじゃないかしら」
「へえ」
仁は机に頬杖をついていたが、
「腹減ったな、もう昼か。一人で仕事すんのも馬鹿馬鹿しい。美登里ちゃん、飯食いに行かない? 美登里ちゃんも賢兄につきあって、ずっと仕事させられてるんだろ?」
と言った。
「私はとても楽しいですわ。今まで、何となく過ごして来た時間がなんてもったいないと思うほどですわ」
「真面目だねえ。でも休憩は取らなくちゃ。昼飯、つきあってよ」
「お供しますわ。私もお伺いしたい事がありますので」
と美登里が答えた。