兄弟喧嘩と父の思い
「お、兄、様」
「はあ?」
声をかけられて仁は顔を上げた。
朝食の真っ最中である。右手に箸、左手には茶碗。
「陸」
「おはよーございます、お兄様、今日もイケメンだね」
「?」
陸が愛想笑いをしながら食卓につく。
その様子を皆が首をかしげて見守る。
食卓には雄一、朝子、美登里がいた。
皆がなんとなく目線を交差させながら陸を見た。
「何だ、お前」
「えへへ」
食卓につくなり、陸はむしゃむしゃと朝食を食べ始めた。
あっという間に目の前の食事を平らげてそして、
「今日さー休んでいいかな」
と言った。
「は? 休み?」
「うん、出かけたいんだよね」
「どこへ」
「どこって……気晴らしに」
「はあああ? 気晴らしだぁ?」
「そう。こもって仕事ばかりじゃ、効率も悪いし」
「お前、こんな時に」
仁は少しだけ陸を睨みつける。
「鬼の居ぬ間の命の洗濯っていうだろ? まー兄がいない時にしか休めないじゃん。あ、ちなみにサボりじゃなくて有給休暇の消化だから」
「鬼の居ぬ間って」
「まー兄、戻ってきたらまたすげえ仕事させられるよ。きっと、仕事人間だからさ」
と言って陸があははと笑ったので、仁は目を見開いた。
美登里も「まあ」と小声でつぶやいた。
陸は仁の顔を見て、
「まー兄、戻ってくるって」
と言った。
「賢兄が? どうしてそんな事?」
「夕べ、まー兄に会った」
「え? 夕べ??」
勢いこんで仁が茶碗をテーブルに置いたので、湯飲みが倒れて茶がこぼれた。
「どういう事だ! どこで? いつ戻るって? 今、どこに?!」
「いやぁ、夢かもしれないけど、俺が砂漠で死にかけてたらまー兄が助けてくれた。で、しばらくしたら帰るから留守を頼むってさ」
「それは間違いなく夢だな」
すーっと仁の興奮した顔が冷めていく。
「都合のいいただの夢だ。お前が賢兄に戻ってほしいのと仕事をさぼりたいので、そんなを夢を見ただけさ。人間、無意識に自分の都合のいい方に脳が考えるようになってる」
「そうかなぁ。じゃあ、仁兄はどんな夢みた?」
「夢? 夢なんか見ないさ」
仁はいらいらとした風に答えた。眠っても浅い眠りしかなく、すぐに目覚める。
小刻みな睡眠では、眠った気がしない。
賢が消えてから仁はぐっすりと眠りについた事がない。
「まー兄が戻ってくる夢見ないの? 望んだ風に夢が見られるなら毎晩でもそんな夢を見ると思うけど」
「見てるかもしれないけど、覚えてないな」
そう言って仁は美登里が入れ替えた熱い茶に手をのばした。
「そっか、まー兄が仁兄のとこに来ても覚えてないもんだから、俺の所に来たんだな。留守が心配なのに、仁兄ときたら眠りこけて相手になんないからさ」
「はあ? 何だと?」
声を荒げる仁を陸は冷ややかな目で見た。
「俺達の見る夢が本当にただの夢だとでも思ってるの? ガキの頃に霊魂が身体を抜け出して、皆で異界で遊んだのも夢だったわけ?」
「あれは身体から抜けやすいお前を連れ戻す為に賢兄と行ったんだ。夢じゃない」
「そうだよ。俺達は土御門の直系だ。その気になれば異界へでも行ける。俺達は誰が異界行ってしまっても残った者と繋がっている。そうやってまー兄も仁兄も寝ぼけて異界へ行ってしまった俺を連れ戻しに来てくれた。だから、賢兄がどこかの異界に行っても俺達は途切れたりしないんだ。きっと繋がってる。まー兄は俺を助けにきてくれたんだ。まー兄は必ず戻るって言った。だからきっと戻ってくる」
「お前の言う事は分かる。賢兄が霊界、魔界にいるならそれも可能だ。だが今度は次元が違う。過去か未来か。生きてるのか死んでるのか……」
「だから生きてるって言ってるだろ! まー兄は俺にコンタクト取ってきたんだよ! どうして仁兄は素直に信じないんだよ。その疑り深い性格、ウザイよ!」
「はあ? 何だと? 賢兄の夢を一回見ただけで、何浮かれてんだ! 楽天的なのもいいけどな、無責任に周囲を煽るな! 賢兄のいない今、皆が不安に思ってるんだ。お前がそんな夢物語で浮かれてたら、下の者に示しがつかないだろ! ちゃらちゃらするな!」
「ちゃらちゃらって何だよ? 仁兄みたいに絶望的に暗い顔でため息ばっかりついてる方が皆の迷惑だよ! 下に示しがつかないのは仁兄の方だろう? トップにいる者がどっしり構えてないでどうするんだよ!」
ぐぐぐ……。とお互いに睨み合う。
「じ、仁様、そのような事で朝から喧嘩はよして下さいな」
と美登里が言うが、仁は陸を睨んだままだ。
「二人ともおよしなさい」
と母親である朝子が言ったが、二人はふんっとそれぞれに横をむいた。
「まー兄が俺の夢に来たのも分かるよ。昔から俺の方がまー兄には好かれてるもん」
カチン。
仁はずずっと湯飲みの茶をすすった。
「そーだな。馬鹿な子ほど可愛いって言うからな」
むっか~~。
「そうだよ? 俺はまー兄に可愛がられてる。虎視眈々と次代の地位を狙ってたどっかの誰かさんよりはね」
「……今、なんつった? てめえ……」
「べ~つ~に~。本当はまー兄がこのまま戻らないほうがいいんじゃないの? まー兄がいなけりゃ、仁兄が四十一代当主だ」
ガツン!と音がして、仁が湯飲みをテーブルにたたきつけた。その衝動で湯飲みが真っ二つに割れる。
「てめえ!」
と叫んで立ち上がり、陸の胸ぐらを掴んで腕を振り上げる。
「やめなさい、二人とも」
と静かな低い声がして、仁と陸ははっとなって声の方を見た。
朝子は真っ青な顔で涙を浮かべており、その横で先代の雄一が厳しい眼光で二人を見た。
「みっともない! 賢がいない今こそ、お前達が力を合わせて土御門を導いていかなければならないのだぞ。くだらない兄弟喧嘩はやめなさい!」
父親に睨まれて、仁は掴んでいた陸のシャツを離した。
「陸、たまには休むのもいいだろう。こんな時だからこそ息抜きは大事だ。美優も外へ連れ出してあげなさい」
陸はすぐに仁の側を離れて、「はい、すみませんでした」と言ってから食堂を出て行った。
「仁、お前も少しは休みなさい。賢と同じだけの仕事量をこなす事はない。お前はお前のペースでやりなさい」
「……はい」
暗く沈んだ顔の仁を見て、雄一は続けた。
「お前が賢に力及ばないというわけではない。賢は仕事に関しては器用な子だ。皆が同じだけ同じように仕事をこなせるわけではない。人それぞれだ。賢は精力的に仕事を増やしているが、私でも同じようには出来ないだろう。賢は賢の能力に相応しいようにやるだろうし、お前はお前でやれる事をやりなさい。賢に出来てお前に出来ない事もあるだろうが、お前に出来て賢に出来ない事もあるのは確かだ。お前は責任感が強い子だから賢の留守を自分が何とかしなくてはと思い詰めているのは分かる。だがそれでお前が本来の自分らしさをなくすようでは本末転倒だぞ。お前は賢い子だから、分かるな?」
「はい」
「陸の態度が楽天的でそれが腹が立つのだろうが、あれはあれでお前が思い詰めてるのを苦しく思っているんだ。加奈子の罪を美優と二人で背負おうとしてるのだからな」
「はい、すみませんでした」
うつむいてそう言った仁の横顔を雄一はしばらく見ていた。それから、
「お父さんも賢は自分勝手だと思うぞ」と言った。
「え?」
と仁が顔を上げた。
「いろいろな角度から見て、様々な結論が出るだろう。もし自分だったら、と思えば、だな。時巡に巻き込まれたのが朝子だったら」
と言って、雄一は妻を見た。
「お父さんも飛び込んだかもしれない」
そう言って雄一は朝子を見て優しく微笑んだ。
「だが、残された者としては賢の行動は褒められたものではない。賢は当主の身でありながら土御門を捨てたと言われてもしょうがない。お前が賢が戻るのを待つというのがつらいのならば、もう待たなくてもいいぞ」
「お父さん」
「もちろん戻れば嬉しいし、無事で居てくれる事を望む。だが、苦しいなら待つという行為をやめてもいいんだぞ。賢の事を諦めるという選択もある」
「あなた!」
朝子が悲鳴に近い声で叫んだ。
「賢が和泉ちゃんを助けたいと、愛情ゆえに時巡に飛び込んだのは賢の勝手だ。そのせいで残った者達が苦しい思いをする事はない。仁、賢が今日戻るか、明日戻るか、と思い詰めるのはやめなさい。賢の事を諦める方が楽ならば、そうしなさい」
「お、父さん」
仁の声がかすかに震えている。
「先代様、賢様は必ずお戻りになりますわ」
と美登里も小さい声で言った。
「もちろん、私もそれを望んでいる」
と雄一は優しく答えた。
「賢の存在がそれほど仁に重荷になるのならば、しばらく賢の事は忘れなさい、そういう選択もある、と言っているだけだ。いいな? 仁」
「はい……ご心配おかけして申し訳ありません」
仁は素直にうなずいてからすぐに席を立った。
「あなた、賢さんの事を諦めるだなんて!」
と仁の去った後、涙声の朝子が責めるような口調で夫に言った。
「……消息不明の息子と、そのせいで重責を負わされた息子。責任感が強く、賢の抜けた穴を自分が埋めようと必死だ。それで仁が壊れてしまったらどうする? 二人も息子を失うわけにはいかないんだ。それで仁が楽になるのならば、賢の事は諦めて仁を次の当主に押し上げるつもりだ。賢の存在が仁を縛っているから苦しいのだ。賢の代わりではないという位置に置いてやらないと」
雄一はそう言ったが、その言葉も端々が揺れる。
とうてい諦められるものではない。
能力の有無や高さではない。
誰一人代わりなどおらず、誰一人抜けてもその喪失感はその身を切られるほどに辛い。大事な大事な息子である。
「無事でいてくれればいいが……」




