二夜目
赤狼がふいと顔をあげた。
まだ周囲は薄暗く、時刻的には朝だが静かで空気だけが鋭く冷たい。
赤狼の身体を枕にして和泉はくうくうと眠っている。
すっぽりと綿入れの着物を被って、その上に赤狼のふさふさした尾がかかっている。
冬の訪れを感じる季節であるので、空調のきいた場所で生きてきた和泉には無理な室温である。布団もなく、エアコンもない。畳に敷物を敷いてその上に横になる。綿の入った冬用の着物を掛け布団にして眠るのである。
「話は長くなりそうだな。この寒さに一人にしておけぬか……」
赤狼はまた自分の前足に頭を置いて目を閉じた。
そのまま和泉の側で眠りにつく様子を見せたが、しばらくして赤狼の身体からゆらっと立ち上がる赤狼の姿があった。本体は和泉の側にいて、立ち上がった姿は透けている。
しばらく周囲の様子をうかがっていたが、透けた姿の赤狼はすっとその場から姿を消した。
透けた赤狼が次に現れたのは、泰成の寝所である。
真っ暗な部屋に一人、泰成が横になっている。
用心しながら赤狼は泰成に近寄った。
「来たか」
ぱちっと泰成の目が開いて、首を赤狼の方へ向けた。
「……」
赤狼は不審げな目でその男を見た。
誰かは分かっている。よく知った霊の波動を感じるからだ。
目の前の男がまだ子供の頃に十二神になってから、長い間成長を見て来たのだから。
「お前が和泉の側にいてくれて助かったよ、赤狼」
と賢が言った。
「やはり当主か。一緒に飛んだはずなのに、どこへ消えたのかと思っていたぞ。あの男は?」
「今は眠っている。俺があいつを身体から追い出せないのを承知しているからな、少しくらいは隙があっても平気なんだろう」
「一体、どういう経緯で?」
「話せば長くなるが聞いてくれるか……和泉は?」
「今は眠っている。本体が側にいるから大丈夫だ」
「そうか」
賢は大きなため息をついた。
二日目の夜、泰成は再び和泉の元へやってきた。
夕べとはうって変わって、やけに上機嫌である。
「何かいい事でもあったのですか」
と和泉が聞いた。
和泉は一日中、話題を考えていた。泰成との会話の話題である。
泰成が和泉の元へやってくるのは婚礼であるからだ。
どうやら泰成の妻にならなければならない運命なのは理解している。
婚礼の夜なのだから、夫婦とならなければならないのも分かっている。
時巡を完成させてもらわなければならないのだ。
だがどうしても気持ちが動かない。
平安時代の優雅な貴族だろうが、外見が賢にそっくりだろうが、嫌なもんは嫌だ。
「別に」
と言う泰成は和泉を見て少しだけ笑った。
「泰成様」
「何だ」
「赤い犬を連れた私がこの時代へ来ると予言されたそうですけど……」
「そうだ」
「その時に、私の事を結ばれるべき半身とも言われたそうですけど、本当ですか?」
「先読みは得意な方でな。そういう結果が出た」
「それでいいんですか?」
泰成は少し首をかしげて和泉の顔を見た。
「どういう意味だ」
「安倍家の卜いが政治にまで影響するのは知ってますけど、見も知らずの相手とよく夫婦になろうと思いますね」
「そうする事が安倍の為だと出たならば従うまでだ」
「好みじゃなくても?」
「もちろんだ」
「ふーん」
「だいたい妻となる女の顔など、婚礼の夜に初めて見るのだぞ。好きも嫌いもない」
「……そっか」
和泉は肩をすくめた。
「お前はすでに夫がいると言っていたな」
「……はい」
「だが、今頃は別の女を妻に迎える準備でもしている事だろう。時巡に巻き込まれ、いつの時代へ飛んだかも分からぬ女など、待つこともない。助けにも来られまい」
賢とそっくりな顔で、だが非情に意地の悪い顔で泰成がそう言った。
「そうだといいわ」
と和泉が言った。
「何?」
「むしろその方がいい。あたしの事なんか忘れて、賢ちゃんが幸せになってくれたらその方がいいんです」
「……お前一人、一族の犠牲になってか」
「ううん、犠牲じゃない。そんな風に思わないわ」
和泉は泰成を見て、そして少し懐かしい事を思いだしたようで、くすっと笑った。
「賢ちゃんはずっと誰かの幸せばっかり考えてきたんです。土御門の跡継ぎとして生まれてから。一族の人達やご両親や弟達の為にずっとがんばってきました。あたしの事もずっと守ってくれて、でも、あたしが他の人を選んでもきっと恨んだりしない。あたしに幸せになれよって言ってくれるような人なんです。だから賢ちゃんには一番幸せになって欲しい。賢ちゃんを愛して一緒に土御門を背負ってくれる人がいるなら、あたしの事なんか早く忘れてくれたほうがいいんです」
「……」
「実を言うとね、結婚はしたものの、賢ちゃんにきちんと愛してるなんて言った事がなかったんです。時巡を発動する前にそれを伝えようかなと思ったんだけど、言わなくてよかったかな。その方が傷が浅くてすむかしらね。二度と平成へ戻れないのなら、あたしの事は早く忘れて欲しいんです」
和泉はあははと笑ってから、少し首をかしげた。
心なしか泰成の顔が赤くなって汗をかいているからだ。
「でもあたしは賢ちゃんを忘れないから……だから、泰成様の妻にはなれません。ごめんなさい」
泰成はごほんごほんと咳払いをしてから、
「随分と貞淑な妻だな。千年後の夫婦とはそういうものか」と言った。
和泉は腕組みをしてう~んと考えた。
「そうじゃない人もいるけど、基本、だんなさんに奥さんは一人だし。平安は一夫多妻なんでしょ? あたし達の時代に残っている平安の文献では一人の浮気者が何人もの女の人を囲ってずいぶんと悲しいお話ですもの。何人もの女とだんなさんを争うなんてあたしは絶対無理だわ。この時代の女の人って我慢強いのねえ」
「そうでもないぞ」
と泰成が言った。
「え?」
「女はいつ来るやもしれぬ男を待つもの、と教えられ、実際に正妻以外はよほどの美しさや財力がなければ男を引き止められない。正妻になる女は美しさも財力も権力もあるような家の女だ。最初から太刀打ち出来ぬ。不満が募り、夜な夜な愛しい男の元へ生き霊を飛ばす、というのもある話だ。愛しすぎて憎みすぎて、元の身体に戻れず、悪霊に成り下がる女も多い。それらを祓うのに忙しいと、父上が嘆いておられたな」
「まあ……要するに男が悪いんじゃない。奥さんがいるのに浮気するなんて最低! その男こそ祓ってしまえばいいのよ」
「男だけではないぞ。華やかな女は次々と男を変えるそうだ」
「そうやって遊べる人はいいわよ。遊べない人はつらい思いをするでしょう?」
「そうだな」
泰成はふっと笑った。
その笑顔を和泉が優しい瞳で見た。
笑顔は賢そのものだからだ。
和泉は賢の事を忘れない。
きっと生涯ここで一人きりなんだろう。