京の都へ来てみたが
「これ、そこな娘よ」
と言われて和泉は顔を上げた。
「え?」
「ふむ……」
目の前には荷を背負った男が立っている。
水干に袴姿、足下はわらじを履いている。荷を背負っているので商人のようだ。
「まだ若そうだが乞食とは気の毒に」
「はあ?」
「その赤犬を買うてやろうぞ」
と男は言った。
「身はしまって美味そうじゃし、赤い毛皮は珍しいから貴族の屋敷に持っていけば高く売れるじゃろう」
「い……いやいやいやいや。赤狼君は売れません!」
と和泉は慌てて言った。
赤狼は酷くプライドを傷つけられた様子で、鼻に皺を寄せてううっと唸っている。
「そうか? これから寒さが厳しゅうなるでの。せいぜい凍えんようにな」
と言い男は二人に背をむけた。
「乞食に間違われちゃった」
と和泉がつぶやくと、赤狼は「間違いではない。乞食も同然だ」と言った。
「う……」
確かに。薄汚れて髪もばさばさ、顔も真っ黒、ろくに食べる物もない。
赤狼が山で取ってくれる木の実や草をかじりながら、ようやく京の都付近まで辿り着いた和泉と赤狼だった。川で顔を洗うくらいしか出来ず、秋口だというのにその水もすさまじく冷たい。
「これが冬になったら、凍死するかもね。早く泰親様のお屋敷にたどりつかなくちゃ」
和泉は杖をついて歩いている。カーボンファイバーの杖は軽くて強い。
「この時代でその杖を売ったら、蔵が建つくらいの金になるんじゃないか?」
「これがないと歩けないんだから、駄目よ。そろそろ都に近いから、赤狼君の背中に乗って飛ぶのももう出来ないわね」
山の中ならば、と赤狼の背中に乗って楽をしてきた和泉だが、人里近くでは誰の目があるかもしれず、自重していた。
ひょこひょこと杖をついて歩く和泉は疲れ切っていた。
ごろごろと石がある足場の悪い道をずっと歩いてきたのだ。
疲れると赤狼の背中に乗せてもらうが、赤狼だけを歩かせるのも気が重い。
「場所さえ分かれば一瞬で飛んでいけるのだがなぁ」
と赤狼も歩くのがそろそろ嫌になってきているらしく、ため息まじりにつぶやいた。
「そうね。でももうすぐよ」
「考えたんだが……」
「何?」
「今度、俺を買おうという奴がいたら売ってしまえ」
「ええ! そんな……赤狼君、こんな生活もう嫌になっちゃったの?」
半べその和泉に、
「いや、そいつからうまく逃げ出してくれば金だけ得られる」
と赤狼が言った。
「だ、駄目よ。そんなの詐欺じゃない」
「そうか?」
「そうか?じゃないわよ。こんな古い時代に来て詐欺事件なんか起こせないでしょ!」
「け」
と赤狼はそっぽを向いた。
灯りがない、それだけでものすごく恐ろしい状態になる。
山の中はもちろんだが、ぽつんぽつんと人家のような物が見えるようになっても、夕刻は酷く心細い。寒い上にひもじく、恐ろしい。
赤狼を買い取ってやろうと声をかけてきた商人はまだ親切な男だった。
道を尋ねようとしても、獰猛そうな赤い狼を連れた和泉に怯えたような目を向ける者が多かった。刃物を振りかざして追い払われた事もある。平成から飛んできたままの和泉の衣装ではさぞかし滑稽で奇妙に見えるだろう。
平安時代といえば何やら優雅な貴族生活だと想像していた和泉には衝撃的だった。
思ったよりも庶民は貧困にあえいでいた。
道ばたで物乞いのような人間もいたし、そのまま寒さと飢えで死んでしまったと思われる死体を何体も見た。大抵は裸だったのは着物も草履も全て盗まれたからだろう。
あばらの浮いた裸体を野良犬が食い漁っているのも見た。
「活気のある大勢の人の気配がするぞ。市でもたっているのかもな」
と赤狼が言った。
「そう? じゃ、やっと都に到着したのね?!」
夜の明ける前から歩き続けても足の悪い和泉はたびたびの休憩を取らなければならず、一日に進める距離はたいした事がない。
女一人でしかも足が不自由だと目をつけられて、盗賊に襲われた時もある。
それらをあしらうのが何よりの暇つぶしと、赤狼が巨大化して脅かしたり、牙をむいて襲いかかったりする。
この時代、今よりも妖は人間の身近にいた。
妖を見える人間は今よりも多く、信じられ、恐れられていた。
赤狼を見て怯え、そしてそれを使役する和泉を酷く恐れた顔で見て逃げて行く。
そして何より、和泉の濃厚な霊能力に引き寄せられる妖がいる。
灯り一つない漆黒の闇夜に紛れて、和泉の元へやってくる者達。
赤狼に睨まれて退散する弱い奴もいるが、赤狼ごと喰ってやろうかという勢いの妖もいる。赤狼はそれら原始の妖との闘いが楽しそうでもあった。
竪穴式住居の家がぽつぽつと増えだし、それから人や牛馬が歩き踏み固められた道になった。川を越える手段が木やはしごの様な物を渡したのではなく、人の手によって作られた橋に変わったころ、和泉と赤狼はようやく京の都へとたどりついた。
「すごいわ。これが市ってやつね。たいした賑わいね」
和泉は物珍しそうに辺りを見渡している。
野菜や魚、衣服などを売り買いしている市がある。
上等な物はすべて貴族の屋敷に運び込まれた後であるので、そうそう珍しい物もない。
その日に食べてしまうだけの物をわずかに売り買いするくらいである。
「お腹すいたなぁ」
売り物らしい台の上のしなびた野菜を見て和泉はお腹を押さえた。
この時代に飛んでから十日は過ぎた。その間、木の実や草と川の水だけで過ごしたのだ。
赤狼が時々山の獣を捕ってきてくれるが、生では食べられないし自分では火をおこす事が出来ない。
何より闘鬼に「余計な物は何も持ち込むな。それが千年前の安倍からの条件」と釘を刺されていたので、荷物も何もない。
未来から過去へは何も持ち込んでくれるな。
それが出来ない場合は千年先の子孫を守る術の確約は不可能。
賢人らしい安倍のご先祖からの伝言であるが、その前に和泉が餓死しそうである。
「お風呂に入りたいなぁ。平安時代ってお風呂とかあったのかしら……え?」
かつんかつんと杖をついてゆっくり歩いている和泉の横にいる赤狼がううっと唸った。
気がつけば人だかりが自分の周りに出来ている。
人々が輪になって遠巻きに和泉と赤狼を見ている。二人を指さしてこそこそと何か言っている者もいる。
「何かしら? やっぱりこんな服装じゃ目立つ?」
やがてばたばたばたと集団の足音がして幾人かが走り寄ってきた。
弓矢を手にした武人達らしい。狩衣に烏帽子、朱色で揃った衣装は和泉からすればまるで舞台俳優のように見えた。
「いたぞ!」
「本当にいたぞ! 赤い犬を連れた奇妙な娘だ!」
とその武人達が叫んだ。
そして和泉のすぐ側まで走り寄って来て、
「娘、お前の名を何という」
と言った。
「え……和泉ですけど、土御門和泉」
と和泉が答えると、
「間違いない! この娘だ!」
武人の一人がそう叫んで、和泉に掴みかかろうとした。
「え……ちょっと、何ですか!」
赤狼がぐるるると唸り、その相手に飛びかかろうとした瞬間、
「待てい!」
と厳しい声が飛んできた。
ぽくぽくと馬の足音がして、藍色の様な濃い色の衣装を着た武人がその馬にまたがっていた。馬は人混みをかき分け、和泉の前にやってくると、
「ふむ、間違いはなかろう。泰成どのの先読み通り。土御門と名乗る赤い犬を連れた娘がついに現れたぞ」
と武人は尊大な態度でそう言った。