辿り着いた場所
これは運命だった。千年前から決まっていたのだ。
和泉はそれで満足だった。賢を残していく事が心残りだったが、仕方がない。
賢はこれからも立派に土御門を背負っていくだろう。
和泉は四十代当主の奥方としての責任を果たせた。
加奈子から美優を取り戻した。陸も喜ぶだろう。
そして二人の間に次世代の子供達が生まれて、土御門は続いていく。
その一端を担えて嬉しい。二度と戻れないかもしれないが、これでいい。
自分の手も足も身体も見えないほどの真っ黒い空間だった。
足を伸ばしても床に届かず手を伸ばしてもどこにも触れない。
和泉はその中で浮かんでいた。目を開いても真っ暗なので、ただ目を閉じて動かずにいた。身体に流されるような振動を感じた。
どこへ行くかは分かっているし、まだやらなければならない事がある。
吐きそうなほどの不安感、泣き出したいほどの孤独感。
だけど、しょうがない。運命なのだから。
しばしの時の旅だ。
と思った瞬間に手をぎゅっと掴まれて、がくんと身体が止まった。
どこからか腕が伸びてきて和泉を捕まえた。
その大きな手の感触から賢の手だというのが分かった。
和泉は手を振り切ろうとしたが、賢の手はぎゅっと和泉を掴んでいる。
「駄目よ。賢ちゃん、私、行かなくちゃ……」
「俺を置いて行くなんて許さないぞ!」
それと同時に和泉の意識は遠く黒い果てに飲み込まれいった。
「賢兄!」
と仁が手を伸ばした時には遅く、美登里がひいっと悲鳴をあげた。
和泉を追って賢が真っ暗な歪みの中に飛び込んで行ってしまったからだ。
賢の姿が消えると同時に時巡の歪みは巻き戻しの高速回転のように閉じていった。
冷え切っていた空気も元に戻り、ごうごうと吹いていた風もぴたっと止まった。
たった今起こった悲劇は嘘のように、暖かい空間に戻った。
「美優、美優」
床に倒れている美優の身体を陸が抱き起こしたが、顔色は悪く、呼吸が荒い。
「しっかりしろ! 美優!」
「せんぱい……」
「陸、救急車を呼べ。正三郎さんも燿子さんも……」
と仁が言った。
「うん」
と陸が慌てて室内の電話機に手を伸ばす
見渡してみれば、正三郎も燿子も床に倒れている。
死んでいるのかどうか、確かめようという気持ちにもならなかった。
そんな事よりも、仁には賢が時巡の空間に入ってしまった事の方が重要だった。
さすがに美登里も身動き一つ出来ずに、賢と和泉が消えてしまった箇所をただじっと眺めているだけだった。
時巡については仁も美登里も何も知らないに等しい。
賢と和泉はどこへ消えてしまったのか。
戻ってこれるのか?
それよりも、生きているのか?
そして加奈子はどうなった?
仁の胸の中に大きく黒い不安が広がる。
賢がいなくなった後、自分はどうすればいい。
救急車が来て三人を運んで行くのも仁はただ眺めているだけだった。
騒ぎを聞きつけて先代と朝子がやって来て、詳細を聞きたがった。
だが、時巡の秘術で賢と和泉が加奈子とともに消えた。
それだけしか言えない。それが全てだった。
朝子はショックでその場で気を失い、先代は絶望した表情で眉間に皺を寄せた。
ぺしぺしと頬をはたかれて、和泉は意識を取り戻した。
目を開けても辺りは真っ暗で、何も見えない。
ただ、草や土の匂いがすぐ近くにした。
すぐに今自分がいる場所とそうなるまでの経緯を思い出した。
身体を起こそうとして、くすぐったい毛が顔に触れたので、
「赤狼君?!」
と暗闇の中で声をかけた。
「そうだ」
と赤狼の声がした。
そして自分が赤狼の身体を枕にして横たわっていた事に気がついた。
「赤狼君、来てくれたの? 嬉しい……ちょっと心細かったから……」
和泉は身体を起こして、赤狼のふわふわの毛皮にぎゅっと抱きついた。
「無茶をする。時巡の中へ入るなどと」
「うん……でも、それは決定事項だったの。私はそうする為に土御門に嫁いだのよ」
と和泉が言った。
「で? これからどうなる? ここは一体どこなんだ?」
「ここはね……千年前の京の都」
「千年前?」
さすがの赤狼も声が上ずっている。
「うん、そう。私達はこれからこの時代の安倍のお屋敷を訪ねるの」
「安倍……」
「ええ、私達はご先祖様に全てを話して助けを乞うの。そして千年後の子孫を助ける為にご先祖様が生み出したのが『時巡』の秘術」
「な、んだと。……『時巡』は加奈子を祓う為に生み出された術なのか……」
和泉うなずいた。
「そうよ。今現在、安倍の中で生まれかけている術がある。いわばそれが『表・時巡』そしてそれを応用して千年先の子孫、土御門の崩壊を助ける為に『裏・時巡』が生まれるの」
「千年前の安倍は……誰だ?」
「安倍の泰親さん」
「泰親さんって……ずいぶん気安いな」
「予定では泰親……様が親身になってくれるはず」
「では和泉がそれを知っているのは、どういうからくりだ? 加寿子ばーさんの部屋から持ち出した文献に書いていたのか?」
「いいえ、違うわ……文献なんかじゃない。もし千年前の文献にそう書かれていたら素直に信じる? とてもじゃないけど無理。それが真実かどうかなんて絶対分からないじゃない。千年前まで時を巡って先祖に会いなさいなんて書かれてるからって時巡の中に飛び込むなんて絶対出来ないと思う。かすれた読めない文字で書かれたぼろぼろのそんな文献」
「では何故」
「千年前の事でも言葉なら信じられるわ」
「言葉?」
「そう。教えてくれたのは千年前にすでに出会っていた……」
「千年前に出会って?……鬼か!」
「そう、私に時巡の手ほどきをしてくれて、全てを伝えてくれたのは闘鬼さん。その為に闘鬼さんは千年もの間、安倍から土御門まで式神として存在していたの」
赤狼はふふっと笑って、
「千年だぞ? 気の長い話だな」
と言った。
「そうね。私達はこれから安倍のご先祖様に会わなければならない。表、裏の時巡の術を完成させてもらう。そして闘鬼さんに会って、彼に未来を託すの。千年後の私に伝えてもらう為に」
和泉の言葉に赤狼は首をかしげた。
この暗闇の中ではそれは和泉の目に映らなかった。
「あの冷酷で残忍な鬼が随分と親切な事だな。千年も伝言を守ってきたとは」
赤狼はぱたぱたと尾を振った。
我が儘で短気で怒りっぽくて、気に入らない者は人でも妖でも一口でばりばりと喰ってしまうような悪鬼が、千年も人間の頼みを忠実に守って願いを叶えてやるとは。
「闘鬼さんはそんな悪い鬼じゃないわ」
「そうかな」
赤狼はふわわ~と大きなあくびをしながら周囲を伺う。
和泉と赤狼は草むらの中に座り込んでいた。
時折さわさわと風が吹くが夜明けの風は冷たく、季節は初秋と推測される。
空がうっすらと明るくなってきている。
「夜が明けきるまでは動かない方がいいな」
「そうね。この時代は盗賊や妖が暗躍した時代だもの。でも赤狼君が一緒でよかった。一人だと思うと心細くて吐きそうだったの」
和泉はまたもふっと赤狼の背中にぎゅっと抱きついて、目を閉じた。
布団代わりに大きなふさふさの尾を背中にかけてやると、暖かさに包まれて和泉はすぐに寝息をたて始めた。緊張の糸が切れ、疲労が一気に押し寄せたのだろう。
赤狼は周囲の気配を伺った。
(当主の気配がどこにもない……飛び込んだのはほぼ同時だった。一緒に来たと思ったのだが……それとも当主だけ別の場所に飛ばされたか? 場所だけならいいが……別の時代に飛んだなら、探すのは不可能。和泉は当主も一緒に時を巡った事に気がついてないようだな。はぐれた事は言わない方がよさそうだ……)