和泉、生涯最初で最後の闘い
「和泉ちゃん、そんなに加奈子を怒らせたら……」
と陸が言いかけたが、それを「しっ」と賢が遮った。
仁も美登里も顔を引きつらせている。
和泉の言い分は至極もっともだが、加奈子がその気になれば、すぐに美優の息の根を止める事が出来る。
和泉に作戦があるのかもしれないが、その一瞬で勝負は決まってしまう。
加奈子が立ち上がった。屈辱と怒りで顔に色がなく、目に見えるほどに震えている。
「こ、ろしてやるわ……美優を……あんたの目の前で!」
「その前に、やることがあるでしょ? 知ってるのよ、奥の手? 切り札? あるんでしょう?」
と和泉が言った。
加奈子の表情が変わった。
「どうして?」
「あなたと違って、あたしは式神さんたちと仲良しだから。そうそう、あなたのせいであなたの天狐ちゃん、式神仲間に嫌われてるの知ってる? 可哀相に。ろくでなしの主人を持つと式神も気苦労が絶えないわね」
うふふと和泉が笑った。
加奈子の顔が歪む。
「……いいわ。あんたをみんなの前で殺してやればさぞかしすっとするわね。美優も大泣きするわ。ああ、いい気味。美優なんか妹のくせに姉のあたしよりもあんたの心配ばかりして……いらいらするったら。和泉ちゃん、泣いて叫んでももう無駄よ。あんたはあたしを怒らせたんだから。死ぬよりも恐ろしい目に合わせてやるわ! 賢兄さんも、あたしにしとけばよかったのに……こんな女……兄さんの目の前で……」
加奈子の右手が印をきった。
「加奈子!」
と賢が叫んで、和泉の前に出た。
「和泉に何かしたら、美優を犠牲にしてもお前を殺すぞ!」
「うふふ。それでもいいわ……そうして、みいんな、おしまーい。あたしの秘術でみーんなおしまい」
加奈子の視線は和泉を見ていた。和泉も加奈子を見返した。
加奈子の唇から、ぼそぼそと呪言が流れでる。
それは声にならない切れ切れの言葉だった。
「門外不出の大秘術『時逆』といえば土御門加寿子……でもあたしだって……『時巡』といえば土御門加奈子……よね」
部屋の中の温度が急激に下がった。
真冬の寒冷地のように凍り付き始めた。
言葉を吐き続ける加奈子の息が白い。
正三郎、燿子は自分の身体が動かない事に気がついた。
無理に腕や身体を動かそうとすれば、パキンと折れてしまいそうだ。
「か……な……こ……」
だが加奈子は両親の事など忘れてしまったようだった。
能力者同士の戦いとなれば何の能力も持たない加奈子の両親など、一番に犠牲になる。
もちろん賢達が燿子や正三郎を死に至らしめるほどの攻撃をするはずもないが、二人にしてみれば頼れるのは加奈子しかいない。その加奈子は両親を守るよりも怒りを解消する方が大事だ。加奈子は自分の怒りの能力が両親を巻き込むことすら意に介していない。この部屋にいる者は自らの身を自分で守れるだろうが、燿子と正三郎はそうでなかった。
加奈子は両親を顧みない。
自分だけがよかったらいい、そんな風に加奈子を育てたという和泉の指摘を二人は身をもって実感するしかなかった。
風が吹き始めた。
身体を切るほどの冷たさで、顔や首筋が痛い。
加奈子の両親はすでに指一本も動かせず、ただ、身体の芯から凍えていくしかなかった。
それ以外の者はそうでもなかった。加奈子の能力による攻撃は土御門の能力者であればそれなりに防げる。
和泉はそっと手を出して側にいる賢の手をぎゅっと握った。
賢がふっと和泉の方を振り返った。
和泉は賢ににこっと微笑んでから杖を手に立ち上がった。
「そうね、加奈子さん、『時巡』の文献にはあなたの名前をつけてあげてもいいわ。でも『時巡』には表と裏があるの。『表・時巡』はあなたの名前でもいいけど、『裏・時巡』は土御門和泉の名前で残してもらうわ」
と和泉が言った。
「な……んですって」
風がごうごうと吹いている。
部屋の中の物は何一つ、元の位置から動いていない。
吹きすさぶ強風にティッシュ一枚でさえ、動いていない。
人間だけが別の次元に存在しているようだった。
「加寿子大伯母様に唆されて、時巡を学んだんでしょう? でも、大伯母様は表の部分しかあなたに教えなかった。全ては大伯母様の計略。あなたは死してまでも大伯母様に操られているの。そして私もね」
和泉は言葉を切って息をついた。全ての物が凍ってしまったように沈黙していた。
その場にいる人間も誰も言葉を発しない。
「あなたの切り札というよりも加寿子大伯母様の切り札かしらね。私を殺し損ねて、自分も罰せられてしまった時の為にあなたに時巡を教えた。あなたを殺してすべての恨みが私にくるように仕向けておいた。かすかに生き延びたあなたが美優ちゃんの身体を乗っ取る事すらあの人の想定内だったかもしれないわ。そしてあなたが私に時巡を使う事があの人の最後の手段だった。私を完全に抹殺する為に。もう少しでそれは成功するところだったわね」
と和泉が言った。
「そんな事……どうでもいいわ……誰の計算だろうと、あんたを殺してしまえば、それでいい……」
と加奈子が言った。
手は印をきったまま、加奈子は小さい声で呪言を呟き続ける。
ますます部屋の中は冷たくなり、瞬きの一瞬で瞳が凍りついてしまいそうだ。
和泉は握っていた賢の手を離して、ゆっくりと自分も印を切った。
付け焼き刃といえばそうだ。
修行をした事がなく、実戦など経験もない。
一か八かの和泉の術は賢達には酷く愚かしい物に映るだろう。
うまくいくかどうか。
能力者として初めての闘いが生涯最後の闘いになる。
和泉の唇から流れ出る呪言はその場にいる者が初めて聞く言葉だった。
幼い頃から修行をしてきた賢にしても、時巡に表と裏があるという事を初めて知ったのだ。
誰も言葉を挟まず、動きもしないのは和泉の邪魔をする事が事態にどんな影響を与えるのかが分からないからだ。うかつに動いて、声をかけて、それで全てを無にしてしまったら。素人ではない能力者だからこそ、誰も動けない。
賢は和泉に闘う事を覚えて欲しくなかった。
闘いは自分がやる。和泉には争いの渦中にいて欲しくなかった。
だが何かを決心したような和泉を止める事が出来ず、呪言が流れ出す今となってはもう見守るしかない。
やがて和泉と加奈子の間の空間にゆがみが生まれた。
それは小さな亀裂だった。
ぐにゃりと透明な部分が歪んだ。
歪みは少しずつ大きくなる。
その歪みの中は真っ黒だった。
加奈子は和泉を睨みつけている。
「二度とこの世に戻れないように、魂も身体も吹き飛ばしてやるわ!」
和泉は精神を集中して最大限に能力を振り絞った。
「加奈子さん、あなたは時巡を理解していない。時巡がこの世に生まれ出た瞬間にあなたの負けは決まっていたの」
和泉の身体がぽうっと緑色に光った。
二人の間の歪みの真っ黒い空間が引力を発揮し始めた。
少しずつ、二人の身体を吸い込むように力を増しながら口を開く。
和泉の身体が歪みに引き寄せられて、よろめいた。足に力が入らない和泉は踏ん張れないので、少しのよろめきで倒れそうになる。
加奈子が勝ち誇ったように笑った。
和泉の身体が遠ざかっていく。
勝った、と思った。和泉の身体は黒い歪みに飲み込まれていくはず。
二度と現世には戻れない。どこか知らない遠くへ和泉を吹き飛ばしてやれば自分の勝ちだ。美優は泣いて二度と自分には逆わないだろう。賢も仁も陸も美登里も、これからは自分の思いのままだ。
「?」
和泉の身体がよろめいた。
その横に美優の顔が見えて、身体が床に倒れた。
「何故……」
と思った時には遅かった。
自分の意識が美優の身体から引っ張り出されている事を知った。
「嘘……」
必死で抵抗したが、意識がどんどん黒い空間に飲み込まれていく。
「嫌、嫌よ! 嫌!」
叫んでも言葉にならない。
自分には意識だけしかなく、それはただ強力な力でどこかへ引っ張られる。
「タスケテ……タスケテ……」
加奈子の魂は黒い歪みに吸い込まれて消えた。
だが、それで時巡が成功したわけではない。
開いたのは加奈子だが、閉じるのは和泉である。
それが表と裏の時巡の宿命。
和泉は自らの犠牲によって、開いた時巡の歪みを閉じなければならなかった。
和泉の身体がゆらっと揺れて、自ら黒い歪みの中に足を踏み入れたように見えた。
「和泉!」
振り返った和泉は少しだけ笑って見せた。
唇が「さようなら」と動いた。