疑惑
「悩んでるようだな」
と赤狼が言ったので、和泉は顔をあげた。
自宅マンションのリビングルームで相変わらず和泉は一人きりの生活だ。
賢が部屋に戻る事は少なく、式神達とお茶会をする毎日だった。だが、今はそれが丁度よかった。考える事がたくさんあるからだ。
美優の事、書き散らされた「時逆の呪法」、そして新たに読み解き始めた「時巡」という術の事。
和泉は未だ加寿子の私物である時逆の文献を本家へ戻せないままだった。
時逆の読み解きはすでに終わった。それを和泉なりにまとめたデータもパソコンの中にある。終わったら賢に話して戻そうと思っていたのだが、次の文献を見つけてしまった。
「時巡」だ。
加寿子は時巡にはあまり興味がなかったらしく、書き付けもところどころだった。
もちろん最古の書物ではなく、興味がある先人達が何度も研究し書き直した文献であるので、比較的新しい言葉で書かれていた。それでも調べながらそれを読んでいくのは大変な作業だったし、美優の事があった今ではあまり身も入らない。
「え、うん……」
「美優の事か」
「うん、あたしが悩んでもしょうがないんだけどね。美優ちゃんに嫌われるのは加寿子大伯母様に嫌われるよりもきついなぁって感じ」
「話は聞いた。紅葉が角を出して怒ってるらしいぞ。美優が土御門を放出されれば、三男が一緒に出るかもしれん。そうしたら、三男の式は皆、土御門へ返納。また新しい主を待つようになる。紅葉が一暴れして死人が出るかもな」
「そ、そんなの駄目よ。死人なんて……死人?」
赤狼がひょいと顔を上げた。
「何だ?」
「あの時、美優ちゃんがさらわれたときに死人の男がいたって赤狼君、言ってたでしょ? それは何だったのかしら?」
「器だ」
「器?」
「そうだ、何かの霊が入っていた。それを入れる為に墓場から持ってきただけの事だ」
「器……何の霊? 赤狼君が感じたっていう強敵の霊?」
「多分な」
「その霊は紅葉さんがやっつけたんでしょ? でも、弱っちい奴だったって言ってたわよ」
「違う。俺が強力な霊を感じたのは部屋の外にいた時の事だ。部屋の中へ侵入した後にはすでに強い霊は消えた後だった。残っていた弱い波動を紅葉が蹴散らしただけの事だ」
「どこへ消えたの?」
和泉の手からノートがばさっと落ちた。
「さあな、新しい器が手に入ったから、そちらへ移動したんじゃないか? 死人よりは生きてる人間の方が居心地がいいに決まっている」
「そう言えば賀茂の末裔がいたって」
「落ちぶれたとはいえ賀茂ならば生きた人間の身体を器にして、霊魂を封じ込めるくらいは朝飯前だろうな」
「誰の身体に? 誰の霊魂を?」
数日後。あるレストランの個室で賢と和泉、美登里が座っていた。陸はいない。
これは和泉の呼び出しによる物だった。
「話って?」
と三人が個室で席についている場へ連絡を受けた仁がやってきた。
「深刻な話?」
席につきながら仁が言った。
「多分」
と賢が答え、和泉が、
「先に食事を済ませてしまいましょうよ。食べながらじゃ、消化に悪いわ。せっかくのおいしい料理なんだもの」
と言った。
仁は美登里を見て、美登里は少し微笑んだだけだった。
「つまり食欲が失せるような話か」
と賢が言い、仁と美登里が和泉を見た。
「和泉ちゃん、賢兄と離婚話なら俺達まで巻き込まないで、そっちで話し合ってよ」
「まあ、そんなお話ですの?」
「おい、ふざけんな! 離婚なんかするわけないだろ」
つんと賢が横を向く。
「賢ちゃんと一対一じゃ、あたしが不利だわ。賢ちゃんて普段は無口なのに、あたしを責める時だけ理詰めでセリフ多いから嫌い」
「何だよ、嫌いって」
「結婚半年だからね、やり直すなら若い方がいいよ。まだ子供もいないし」
と仁。和泉は笑って、
「そう?」
と言った。
「そんな込み入ったお話なら腹ごしらえをしてからにしましょうか。でも私でお力になれるかどうか……」
と美登里が真面目に言い、賢は憮然としていた。
「それで? 和泉。話というのは美優の事か」
食後のコーヒーが運ばれてきた時点で賢が話を戻した。
「うん、そう。まず、美登里さん、靜香大伯母様が亡くなった理由は美優ちゃんが言った通りなのよ。加寿子大伯母様が時逆を取り戻す為に靜香大伯母様は犠牲になったの」
と言って和泉が美登里を見た。
「そうですか、いくら双子でも同時期に亡くなるのはおかしいと思っていました……真相が分かってすっきりしましたわ」
「靜香おばさんには申し訳ないと思ってる」
と賢も言った。
「だが俺達が事態を把握した時にはもう、ばあさんは時逆の封印を破っていた」
美登里はうんうんとうなずいて、
「加寿子大伯母様は野心がおありでしたものね。うちへ来て、いつも祖母に時間が足りない一生を嘆いておられましたわ。私達はあの方が時逆に魅了されていた事をもっと重く考えるべきでしたわね。でもそれはあの方の罪ですわ。賢様と和泉さんがその罰を受ける事はありません」
と優しく言った。
美登里が和泉を責めずに理解を示したので賢はほっとしたし、和泉も少しだけ身体が軽くなったような気がした。
「それでそこから美優さんとどういうお話になりますの?」
「美優ちゃんがさらわれた時、陸君の式神さんが救出に向かったのだけど、赤狼君にも行ってもらったの。そこで一部始終を見ていた赤狼君が言うには、その場には人間が四人と死体が一体。そして強力な霊の気配があった」
「死体と霊?」
「ええ」
と和泉は仁を見た。
「確かに加奈子の母親と賀茂の末裔を名乗るあやしげな陰陽師、そしてボディガードが二人。それに大きな身体の男が一人いた。俺達が到着して事態の収拾に入った時にはもう動かない死体だったがこいつはもう何日も前にすでに死亡していた事が確認されている」
「でも」
と和泉が言った。
「その男は動いていたらしいわ。赤狼君や紅葉さんが言うには死体を器にして霊魂が入っていたらしいわ。それが強力と感じた霊なのかどうかははっきりしないらしいの。でも賀茂の末裔ならそんな事も簡単だろうって赤狼君が」
「うん、確かに賀茂の末裔が加奈子の母親に「大願成就は目前」と言ったのは俺も聞いた。だけど陸が美優ちゃんを助けた時にはもう死体は死体に戻っていたし、死体に入っていた霊が一体何だったのかは分からないままだ」
と仁が言った。そこへ和泉が続けて、
「意識を失っている美優ちゃんがいて、死体の男と賀茂の末裔、そして母親が側にいた。ジュウガ君達が美優ちゃんに駆け寄る。その時に大きな気が爆発した。その衝撃で死体に入っていた霊魂の気配も完全に消えた。赤狼君が言うには、新しい器が手に入ったから、そちらへ移動したんじゃないかって」
と言ってから息をついた。カップの中の冷めたコーヒーを飲む。
「新しい器は美優の身体か」
と賢が言った。




