憂鬱
「何だって? 土御門美優がさらわれた? 本当か? 和泉」
「うん、陸君はもう知ってるみたい。犬神さんと紅葉さんが陸君に呼ばれて行ったわ。赤狼君にも応援に行ってもらったんだけど」
和泉は携帯で賢に美優の事を報告した。事の詳細が分からないので和泉も不安なまま時間が過ぎていく。
「そうか、分かった。こっちで調べてみる」
「うん、助けてあげてね」
「ああ」
電話を切ってから、和泉は立ち上がった。
杖をついて歩き、自分の部屋へ入る。
パソコンに電源を入れる。立ち上がるまでパソコンの横に置いてあるノートを開く。
シャープペンシルで書き殴っているのは和泉の筆跡だ。
加寿子の部屋から持ち帰った文献、書類に目を通し、知り得た事柄を和泉なりに整理している。加寿子が研究した『時逆』を和泉が引き継いで読み進めているのだ。
加寿子は時逆を自分の物にしていた。
時逆は生涯でただ一度しか使えない術だった。その術を行うのは勇気がいっただろう。 加寿子が時逆を紐解いた後も、失敗したらどうなるのかやってみなければ分からないという手探りの状態だった。
賢と和泉に敵対したのは加寿子にとってチャンスだったのだろうと和泉は思った。
実行する機会もないまま年老いて、そしてようやく時逆を試す時が来たのだ。例え失敗しても、年老いた身では後悔もない。皺の入った顔、薄くなった頭髪、老いからくる身体中の痛み。弱っていくばかりの臓腑、目も見えなくなっていく。手足も不自由、覚えていた事が頭の中から一つずつこぼれ落ちる毎日。
かつては厳しく教えもしたが今はそれぞれの道を行く子や孫達。
誰からも理解されず誰にも受け入れられない孤独な身で、時逆を試すことなかれという古の教えを何故頑なに守らなければならないのだ。
そんな事が加寿子の筆跡であちらこちらに書かれていた。
加寿子の思いは加寿子の物だ。
それに対する和泉の気持ちは必要ない。加寿子と和泉の確執は確執として、もう終わった事だ。そう思いきるしかない。今更どうこう言っても時は戻らない。
「時は戻らないか……」
そうだろうか? 加寿子が戻した時は五十年近い年月だった。
加奈子を犠牲にして、生け贄にして、命を糧にして、加寿子の霊能力で五十年近く時を戻せるのならば、ほんの一年戻るならばどれくらいの犠牲が必要なのだろう。
一年戻ったならば、和泉の足もまだ生きている。
八十歳近い加寿子が成功したのだ。
和泉が本気を出せば加寿子よりも霊能力が高いのは証明済みだ。
失敗したら? 賢を置いてこの世を去るか、二目と見られないおぞましい姿になるか、誰も知らない。加寿子でさえ老いの際まで決心出来なかった時逆だ。
だが、成功したら? ほんの一年でいい。また歩ける。走れる。自分の足で。
賢に負い目を持つ事も美登里に遠慮する事もない。
自分が土御門の奥様だ。
そこまで思い詰めては、はっと我に返る。
そして頭をふってその思いを追い出す。
立ち上がり、大きく深呼吸する。
窓を開けて、室内の空気を入れ換える。
もう、何日も何週間もその思いに捕らわれている。
追い出しても追い出しても、心の中からはなくならない思い。
一生、こんな風に思うのだろうか。自分も老いてから加寿子のように時逆を試してみるかもしれない。それでは加寿子の二の舞だ。
賢は自分を愛してくれている。そんな賢を騙しているようで、後ろめたい。
加寿子の私物を勝手に持ち出し、中身を読んでいるだけで賢に対する裏切りだった。
賢に謝って加寿子の私物を返しに行かなければ、という思いはある。
だが怒られると思うと勇気が出ない。賢に軽蔑されるのは嫌だった。
どうせ怒られるなら、全部読んでからにしよう、と思ったり、こんな自分は土御門の奥様は相応しくないと思ったりする。美登里のほうがよほどに貫禄もあり、正々堂々としている。美登里ならば自分と同じ境遇になっても時逆には手を出さないだろう。
「来世で虫に生まれかわるような生き方はしませんわ」
とでも言うかもしれない。
「は~」
とため息をついて、またパソコンに向かう。
今日の分のケーキも焼いたし、他にする事がないのだ。
また加寿子の文献を読み進める。
加寿子の時逆についての研究はほぼ終わっていた。
終わってから理論的には自分の物にしていたからこその実践だ。
実践する事なかれの言いつけの為に封印されていただけだ。
その研究の為に加寿子が書き記した冊子が数冊あり、全部目を通したつもりだった。
一冊を手にしてぱらぱらと開いた。
「あら? これ……なんだろう……時……巡る?」
和泉はその冊子を読み始めた。