2
リビングの入り口のドアを、二回ほどノックする。そして、ドアノブに手を掛け、軽く息を吸った。
「ただいま」の一言も合わせて言うつもりだった。
「た……!」
勢いよくドアを押し開け、腹に溜まった空気を一気に吐き出そうとした、その瞬間、左斜め前の遠くの方で、一瞬何かが光った――。
嫌な予感を感じ、中に入らず、足を止める。
間近なところで、ドアに「何か」が刺さる音がした。
包丁……。
「……」
モノを投げたと思われる当人は、こちらを見向きもせず、別の包丁を取り出し、そのまま料理を続行している。
あ……危ねえ……。
あと一歩でも、いや、少しでも身体を倒していたら、確実に仕留められていた。
それにしても、こちらを見ずに、ここまで正確に標的を狙えるとは、さすが。
いや、そうじゃない――。
「レインさん、また、オレを殺そうとしたでしょ?」
「『また』とは、また人聞きの悪い。それに、何度も殺そうとしたのかのような言い回しはやめてください。今の一撃だって、その気になっていれば、首が取れていますよ」
「確かに、レインさんの腕なら、それくらい……。じゃない!」
レインさんは、料理の腕を止め、こちらに歩いてきた。
うちには、この国で最強と称される女剣士のレインさんが、メイドとしてうちの家族の世話をしている。
なぜ最強の女剣士が、うちのメイドなのかというと、うちの父親が、この国の近衛騎士団長にして、総括騎士団長と呼ばれる立場ということもあり、その一族の護衛として、父の弟子であったレインさんが抜擢されたというわけである。また、護衛の関係で、オレを秘密裏に監視していたり、なぜか、たまにオレの部屋に罠を仕掛けたりもする。
もし、レインさんがこの国の出身者であったら、騎士団長クラスの役職に就いていただろう。しかし、他国の出身の者は、騎士団長にはなれないため、メイドという道を選んだそうだ。
そして、そのメイドからオレは、いろいろと戦士としての教育を受けてきたというわけである。しかも、剣の腕だけでなく、拳の腕もいろいろ鍛えてくれた。そのおかげか、学校の実技の授業では、剣技にしても、格闘技にしても、点数はそれなりに高かった。
「そんなことよりも、よく御無事にお帰りなさいました」
「忘れていたけど、ただいま。さっきのが、一番死ぬかと思ったよ」
「それはなにより」
にこやかな笑みをレインさんは浮かべた。
まあ、何はともあれ、ようやく挨拶ができた。
「あと……」
一度部屋を見渡すが、挨拶したい人がいない。
「御父上は、しばらく家に帰れないと、仰っていました。あと、クリスちゃんですが、今日は疲れたと言って、もう寝ました」
うちの家族は、息子や兄の帰りが迎えられないのか?
しかし、どんなに忙しくても、家のベッドで寝る主義なのに、帰ってこないというのは、珍しい。というか、立場があるからしょうがないのだろうけど。
「そうですね。この場では、何が聴いているのかわからないので、明日、行くでしょ? 直接訊いてみる方がいいですよ、理由について」
いやいやいや……。ここ民家だし。そんなに、聞かれてはまずいのか? まあ、いいけど。
……ん?
今、一瞬だが、何か、視線、誰かに見られているような、そんな感じがした。それに、入ったときだが、一年前までの「いつもの」リビングの香りではない、淡い花の香りがした。
部屋を見渡しても、それらしき視線の存在は見受けられない。外? いや、厚いカーテンで閉じられている。それに、この家には、レインさんが侵入者対策で罠が、仕掛けられているがずだし。何かあればすぐにわかってしまう。
……きっと、疲れているんだ。
オレは、そう納得させ、リビングの中央にあるテーブルに座ろうとしたが、オレがいつも座っていた席には、人形が座っている。
「レインさん。これ……?」
レインさんは、再び料理を作ろうと、キッチンスペースに戻りながら答えた。
「それは、よくわからないですけど、またクリスちゃんが持って帰ってきてました」
「また」って……。
オレは、人形の脇を抱えるような形で抱き上げた。
「あっ……」
思わず声を漏らしてしまった――。
しかし、重いな……。
肩にかかるくらいの黒い髪、黄昏時のような濃紺のドレス。ドレスとは対照的に、生気を感じさせる透き通った白い肌。頭の右側に、星をかたどったような、銀の髪飾り。そして、端が少し下がり気味の大きな目と、灼熱を宿したような紅い瞳。整った鼻筋とバランスのよい唇……。どこを取っても美少女を模している顔立ちである。また、腕や足、身体や頭など、縮尺を縮めた人間のような、完璧なバランスである。穏やかな表情をしているが、どこか儚げな、透明感のある、表情だ。咲き始めたバラのような、初々しい美しさというか、わかり易く言うと、かわいい同年代の女の子、といった感じである。
ゆっくりとリビングのソファに座らせる。
人形の髪から、部屋の中に漂っている香りがした。
そして、いつもの席に座り、料理を待つ。
……。
しかし、いくら待っても、料理は来ない。
業を煮やし、立ち上がろうとした瞬間。
「あ。待ってました? でもこれ、明日の朝食の仕込みです」
「あっ! ……ど!」
あまりの「回答」に、反射的に、手を滑らせ、イスから転げ落ちてしまった。
「ちょっ……それ……!」
「冗談です。召し上がってください」
パンと一緒に、シチューも運ばれてきた。
座り直し、スプーンで一度、二度、口に運ぶ。独特な味のシチューだ。しかし、「いつも」の味よりも、多少酸味があるような気がする。
「三日前のものですが……」
「ぶーーっ!」
盛大に吹いた――。
「ちょっ……! えーーーっ!」
言葉にならない叫びで抗議する。
「手紙に書いてあった予定日よりも、遅かったもので」
「そりゃ、そうだけど。それだったら、せめて、昨日作ったやつ出してよ!」
「冗談です」
そうッスか。つーか、どういうセンス?
今のやり取りで、二倍以上疲れた。
「こんなリアクション取ってくれるのは、ゼフィールド君だけだし、クリスちゃんも、なかなか良いセンスをしているけど、まだ、ぎこちないというか……。それから、隊長にやったら、殺される気がして」
自分の上司の子供たちに、何を望む?
結局、このシチューの完成日については、口を割らなかったけど、とりあえず、酸味については、チーズが入っているから、だそうだ。
夕食を食べ終わり、リビングのソファでくつろぐ。
天井を見上げ、大きくいため息をついた。
「やっと帰ってきたんだ……」
小さくつぶやく。と同時に、大きく伸びをした。
フ……っ。
笑ったときに漏れる息のような物音が聞こえた。
辺りを見渡しても、それらしき気配は感じない。
とすると、レインさん?
「レインさん。今、笑った?」
食器を片づけながら、レインさんが答えた。
「笑ってないです。そう聞こえたのなら、外の風か、ただの気のせいですよ」
そう、かな?
「長旅で疲れたのでしょう。今日は、早く寝た方がいいと思いますよ。それに、明日は、学校に行くでしょ?」
確かに。今日は、色々な意味で疲れている。早く寝て、明日に備えた方がいいかもしれない。
リビングを出て、荷物の一部を持って、階段を上り、一階へ。
国外に出て驚いたことは、建物のフロアの数え方だ。この国では、玄関を入った階が地上階と言い、そこから階段を上って最初の階が一階、その上が二階という数え方だ。しかし、他の国では、玄関を入った階が一階、その上が二階という数え方をしている国もあった。
そして、一階を上ってすぐの部屋がオレの部屋だ。
部屋のドアを開けると、一年間使っていなかったのにも関わらず、「長い間使っていなかった臭」が意外にもなく、むしろ、掃除や換気の行き届いた、「いつもの部屋」の臭いがした。
ベッドに横たわり、天井を見上げる。
やっと帰ってきた……!
正直言うと、このまま眠ってしまいたい。すぐに眠気が襲ってきてはいるが、まだやることがある。最後の宿題だ。
ベッドから起き、机に向かう。
ガラス製の小さい円柱の容器の上部に触れ、意識を集中させる。一瞬、極小さな閃光が発生すると、机の周囲を照らす程度の小さな灯りになる。これは、魔道具の一種で、灯りの魔法の応用だ。魔力が扱える者は、こういう道具が使えるという特権がある。
さて、その宿題とは、毎日日記を付ける、というものだ。兵役の場合は、周りに人がいるということと、学校にも報告が行くため、特別に活動を証明する必要はない。しかし、一人旅ともなると、それを証明するものがない。つまり、それを証明するものとして、日記というものが活躍する。確かに、本当に、日記の内容が行われたかどうかはわからないと思うが、下手にうその日記を書くと、前後の内容から、辻褄が合わなくなり、書かれている行動が破たんしかねない。原則としては、毎日付けるものだが、長距離移動など、書くことがなかったり、書く余裕がなかったりした場合は、大目に見てもらえるらしい。
まあ、過去に、この作業をサボり、もう一年旅をさせられた人がいるらしいけど。
パラパラと日記に目を通すと、意外に書かれている内容や事件を覚えていたりもする。あっという間の一年だったな……。
そして、日記が書かれた最後のページを開く。つまり、今日の日記を書くのである。
今日は、何があった、っけ……?
オレは、今日の内容を、眠気と戦いながら、思い出しながら、日記に書き綴った――。
翌日――。
春の訪れが感じられるとはいえ、朝方の空気は冷たい。しかし、日の光は直線的というか、淀みがなく、白さが際立つ。
用意されていた朝食を取り、学校に向かう。
起きた時には、すでに家には誰もいなかった。妹のクリスは、学校へ、レインさんは、クリスを送りつつ、買い物か何かだろう。
今日の予定は、学校へ行く。と、言っても、帰国報告のみだから、通常の登校時間に合わせる必要はない。それに、先生のいる時間に学校に着けばいい、といった感じである。
玄関のドアを開けて、一歩踏み出す。
一年前までは、嫌というほど通った道だが、久々に使うとなると、懐かしさがある。
ここからメインストリートに向かって歩く――。
昨日の夜とは打って変わって、静けさがあった。
メインストリートに出ると、今度は城の方に向う。この道は、街の入り口と城を直線に結んでいる道で、その中間に広場がある。この広場には噴水があり、中心で左右に伸びる大通りと交差している。
ここから見える城は、グレーの外壁が囲んでおり、赤い屋根をした二本の塔が左右に伸びている。この地域を治めているグランノースの城である。
ここも一年振りか……。
そう思いながら、今回の目的地である学校を目指す。
メインストリートの交差点、噴水のところで、右に曲がる。
この辺りは、商業地区となっており、大小さまざまな商店が並ぶ。特に、市場が入っている大きな建物、市場街では、週末までの三日間のみの開催とはいえ、かなりの盛況ぶりを見せている。学校の近くということもあり、授業終わりに立ち寄るのを楽しみにしていた。安くていい物が手に入るため、掘り出し物を探したり、何も買わなくても、その雰囲気が楽しくて、よく顔を出していた。特に通ったのが、いつも大体同じところに出店している、魔法ショップだ。そこでは魔法に関する道具が売られているが、よく特製ジュースを買っていた。味は普通の果実ジュースより酸っぱめだが、授業中に消耗した体力や魔力を回復させる効果があった。あまりに回復するため、作り方を聞いてしまったが、当然のごとく断られた。あの「魔法おばば」も、元気だろうか……。しかし、残念ながら、今日はお休みの日のため、別の機会になる。
右手に市場街を見て、そのまま通り過ぎると、学校はすぐ近くである――。
学校の正門前に到着した。
正門から、中の様子を見る。特に体育の授業は行われていないようである。
門を通過し、校舎に入る。
まず最初に感じた印象は、たった一年でも、遠い昔のような印象を受けた。
一階に上がり、職員室に着く。
二回ほどノックし、ドアを開ける――。
「失礼します。ゼフィールド、ただいま帰還しました!」
職員室中の先生たちが、一気にこちらに注目する。
一瞬間があり、すぐに反応が起こる。
「お帰りなさい!」
「よく生きて帰ってこれたな」
「おめでとう!」
などなど。祝福の言葉がかけられる。
そして、いつしか拍手となり、盛り上がりが大きくなる。やがて、盛り上がりは暴走しだし、校歌を歌うものまで現れる――。
バカだろ、この学校。
しかし、こんなばか騒ぎをいつまでもさせているわけにはいかない。
「やかましい! 今授業中でしょうがっ!」
一瞬にして、沈黙する――。
いや、一応授業は真面目に受けていたが、特別に真面目な生徒というわけではなかった。しかし、いくらなんでも、他の教室に迷惑がかかる。
「すまんね。数少ない国外修業者の帰国だったから、つい……」
まあ、確かに、ここ数年は、何があるかわからない国外修業よりも、一応平和で、戦争がない、国内での兵役の方が、遥かに安全である。友達も何人か、国外修業を選択したが、親の反対にあい、兵役の方を選択した人もいた。
「それにしても、なんでこんなに教室に先生がいるんですか?」
最高学年の担任が、最下級学年の担任を兼任するこういう仕組みで、時期的に、入学式が終わっていると思ったのだが。
その疑問には、初老の教頭先生が答えた。
「端的に言ってしまうと、国からの通達で、入学が延期されている」
「えっ? なんで――?」
「通常なら、兵役が終わり、入学、という順番で行われるが、兵役がまだ終わっていない」
「ということは、卒業式が、まだできない、って、ことですか?」
「そうだ。卒業式が終わってから、次の学年の兵役が始まり、入学となる……」
なるほど。
教頭は続けた。
「つまり、国からの通達で、兵役が延び、次の学年の兵役開始が遅れ、入学式も遅れた」
何が、あったんだ?
「でも、なんで、兵役がまだ終わらないんだろ?」
「それについては、先生よりもお前の方が詳しいんじゃないか?」
突然女性の声が割って入ってきた。
うちの担任である。
元剣士で、担当授業は「剣術」。年齢は不詳だが、「設定」では二八歳だそうだ。
「すまんね。ちょっと書類を片づけていて。無事に帰ってきたことを、うれしく思うよ」
そういうと、手を出してきた。
普段、感情の起伏が少ない先生でも、さすがに、教え子の帰国はうれしいのだろう。
その気持ちに応えるのが、教え子の務め。オレは、感動の再会に、両手で応えようとした。
「違う。宿題だ」
先生は、やっぱり、いつもの先生だった……。
一応、帰国したときの手続きで、帰国した情報は届いていると思うが、あいさつと、宿題の提出のために、一度は学校に行く必要がある。
「あと、うちのクラスでは、レズギンカだけだな。ホント、うちの学年は、物好きが多い……」
えっ? レズギンカも? 「お嬢様育ち」だから、国内に留まるのかと思ったのに。
「意外そうな顔だな。うちはむしろ、お前と一緒じゃなかった方に驚いているんだが」
「なんでそうなるんですか?」
「いや、まあ、見ていると、そうなのかなと……」
まあ確かに、何だか知らないけど、成績とか授業とか、ことあるごとで、何故かぶつかってきた。いや、印象としては、向こうが一方的に、敵視していたのかもしれない。
そんな感じで、不幸なことに、そういう噂も流れてしまったというわけである。
学校ではこんな感じで、お世話になった先生とかにも挨拶をして、昼過ぎくらいに下校した。