酒呑童子異聞
――なぜ、私はこんな事をしているのか。
正座で俯き、自室の畳の目を数えながら、酒呑童子はふと自分の状況に疑問を覚えた。
(私は、泣く子も黙る鬼の頭領。こんな小娘にたじろぐなど、酒呑童子の名が泣くわ)
憤然と酒呑は顔を上げた。体には、まだ昨日の酔いが残っている。しかし、そうであったとしても、小娘一人の首をひねるなぞ、朝飯前だ。
目が合った瞬間、堀河中納言の姫、香子は待っていたように、高らかに言い放つ。
「貴方が、近頃方々の姫君を拐かし、都を騒がす鬼、酒呑童子なのでしょう。昨夜、私をさらった手口も鮮やかなものでした」
怖がる様子もなく、端然と座って酒呑と相対する様に、酒呑童子は言葉も出ない。元来、彼は女が苦手なのだ。
「ここに連れてこられたのは、何かの縁です。私は貴方の妻になりましょう。その代わり、もう他の女性をさらうのは、やめて下さい」
それを聞いて酒呑は頭を鉄槌で打たれたような気分になった。感動したわけではない。
恐怖。その言葉が、今の彼の心情を一番的確に表していた。
普段は、女嫌いで通っている酒呑童子は、酒が入ると人が変わったようになると、配下の鬼の間では有名であった。女をさらい、館のある大江山まで連れ去っていく。
そして酔いが覚めると、自分の行いを激しく後悔してさらってきた姫に詫び、家に返す、というのがいつもの事であった。さらわれた女の中には美しい酒呑に惚れてしまう者も少なからずいたが、委細かまわず、素面の酒呑は家に送り返していた。
今回も、それで事は収まると思っていたのだ。しかし――。
「そうと決まれば、ここを案内してください」
香子はすっくと立ち上がる。何も決まってはいないだろう。酒呑は慌てたが、
「貴方も男なら、自分の行いの責任を取ったらいかがですか」
そう言い放たれて、反論が舌の先で凍り付いた。
責任といっても、枕を交わしたわけではない。酒呑のやることと言えば、さらった姫を傍らに置いて、ただ酒を飲むだけ。それだけの失態だったはずなのに。幾つもの言い訳が頭の中に渦をまいたが、酒呑は結局何も言えず、幽鬼のように無言で姫の後を付き従う。
どうして、こんな事になったのだ。
酔いの残る頭で、酒呑は自分のしでかした事を、激しく悔いた。もう酒は飲まない。都にもいかない。やはり、自分には読経三昧の日々が、合っているのだ。今からでも遅くない。髪を落とし、自分の名の知られていない場所でひっそりと庵を結ぼう――。
自分を酒呑の妻だと、配下の鬼に挨拶してまわる香子を、死んだ魚のような目で見ながら、酒呑はただ、出家した後の自分の素晴らしき余生を妄想し続けていた。
「お前、馬鹿じゃないの? いずれ、こういう事になるって、俺言ったよね?」
自分の右腕、茨木童子から情け容赦ない言葉を投げつけられて、酒呑は無言で落ち込んだ。確かに、その通りだ。しかし、自分は酒が好きなのだ。やめよう、量を減らそうといつも思っているが、一度酒に口をつけると、いつの間にか一升枡が空になり、一斗樽の底をかきだしている始末。挙げ句の果てに女をさらい、終いにはこの体たらくだ。
「もう、やめる。本当に、もう飲む気はない」
少なくとも、あの女が帰るまでは――と、酒呑は屋敷の庭先で、洗濯物と格闘している香子を見やった。大江山の中腹にある館は、相当に広い。だが、むさ苦しい男所帯のため、手入れは行き届いておらず、高貴な姫には辛いのではないか、と酒呑は思っていた。だが香子は、なかなかどうして中納言の姫のくせに、愚痴一つもこぼすことなく、やたらと順応性が高く、たくましい。
「おやおや、いい女房になりそうじゃないか。もうお前も女をさらったりなんかせずに、腹をくくってあの姫と添い遂げれば?」
面白がるような茨木を、酒呑は睨み付けた。
「女となんか添い遂げれるか!」
「何だ、じゃあやっぱりお前、男と添い遂げたい種類の人間? それはお前の自由だけど、俺を狙ったりするなよ。後、公言するのも勝手だが、妙な噂が立つと困るから、その際は俺ともう少し距離をおいて接してくれ」
「違う、俺は女が嫌いなだけだ!」
きっぱりと言う酒呑に、茨木はこっそりと
(じゃあ、酔って女なんかさらってくるなよ)
などと思うが、酒呑の生い立ちを考えれば、女が苦手になるのもわかるのだ。
「お前は、女に言い寄られすぎたんだよなあ」
酒呑は、顔をゆがめた。そんな表情をしてさえも酒呑の美貌は、人を惹きつけずにはおかない。
酒呑が外道丸という名前であった頃、鬼の子供として寺に預けられた彼は、その美しさで何人もの女を虜にしてきた。茨木が外道丸と出会ったのはこの頃のことだ。袖にされた人間が自殺騒ぎを起こしたり、無理矢理想いを遂げようと、実力行使をはかる者も出てきて、それをたびたび助けてやった茨木は、狂恋とは恐ろしいものだと半ば芝居を見るような心持ちで酒呑に群がる女どもの醜態を眺めてきた。
そのようないきさつのせいで、外道丸は外法で人を虜にする、奴に恋した者は死ぬ、など不吉な噂を立てられたが、幼い頃から親代わりとなって育ててくれていた和尚のとりなしのおかげで、外道丸は寺で修業を続けられていた。しかし、後ろ盾であった和尚が亡くなると、すぐに外道丸は寺を追い出され、路頭に迷う羽目になった。
「俺と来るか。所詮、鬼と人間は相容れない」
外道丸は、差し出された茨木の手を、震える手でつかんだ。外道丸の頬をこぼれる涙を、茨木は気づかなかった事にしてやった。
――自分を育ててくれた和尚のような、立派な僧になる。
「そうしたら、私のような身寄りのない子供を引き取って、庇護してやるんだ」
何度も聞かされた外道丸の夢は、これで潰えるだろう、と茨木はぼんやり思う。
飢饉や疫病、盗人などのせいで、親を失った子供は都に溢れている。寺に引き取られ、ここまで大きくなれただけでも、外道丸は幸せな方だ。
「女どものおかげで、私は寺を追い出された。くだらん恋情とやらのせいで」
「恋情も、悪くないものだぞ。一度くらいは、お前も経験してみるといい」
「死んでもごめんだ、そんなもの」
外道丸が茨木と共に大江山に移り住んだのは間もなくの事。その後、強力な鬼である二人の元に、鬼達が身を寄せてきて、今のような集団が出来上がった。鬼の頭領となって以来、外道丸は酒に惑溺するようになり、いつしか酒呑童子と呼ばれるようになっていた。
「あの娘、家に帰しても無駄だと言いやがった。まさかここに戻ってくるつもりなのか?」
姫のくせに、行動力があるから何をしでかすかわからない、と頭を抱える酒呑を面白そうに見ながら、茨木は清々しい笑顔で言い切った。
「もういいだろう、これ以上罪を重ねる前に、ここらで手を打っておけ。なかなかに可愛い顔をしているじゃないか。……そういえば、もうあの姫が来て三日を過ぎていたな。もしかして、三日夜の餅が入り用だったか? 気がつかなくて悪いな。さて、婚礼の準備を」
さっそく餅をつかせるか、などとにやにや笑いながら言う茨木に、酒呑は恨みがましい目を向けた。
「三日夜の餅がいるような事など、してはいない!! 婚礼などするか! あの姫は家に帰すからな!」
叫んで、酒呑は庭先に目を戻した。香子は、不器用な手つきで洗濯物のしわを伸ばしながら、もたもたと物干しである木板に衣をはり付けている。
「家事などした事ないだろうに、良い嫁だな」
「嫁じゃないと言っているだろう」
頑なな酒呑に、まあいいけど、と茨木はいなすように言い、ふと何かを思い出すように目を眇めた。
「そういえば、おかしな事だな。今までは、こちらから返しに行かずとも、三日もあれば捜索隊やら親に頼まれた侍やら、決死の表情をした家族やらが来ていたのに」
なぜ未だに姫の家から誰も来ないのだ? と茨木は首をひねる。
「あんなじゃじゃ馬、良い厄介払いだとでも思ってるんじゃないか」
軽口に流そうとしたが、酒呑も言って初めてその奇妙さに気がついた。貴族の姫君、しかも都の権門の大姫である。いつもなら、三日もあれば血相を変えた家人が姫を取り返しにくるのが常だった。これ幸いと姫を家人に渡していたが、なのに、あの娘にはどうして誰も取り返しに来ないのだ?
まんざら、自分が言った事は間違いではないのかもしれない。思った時、酒呑は何とも言えず嫌な気持ちになった。そのせいで、続く茨木の言葉が、耳を素通りした。
「町で、こんな話を耳にした。帝がお前の討伐を都の武士、源頼光に命じたそうだ。恐ろしいほどに腕の立つ男らしいぞ」
「これは、私がお洗濯をしたのですよ」
几帳の内に明るい声が響く。酒呑はうんざりした顔を声の主に向けた。なぜこの姫は当然のように自分の寝所にいるのか。
ほめてほめて、とでも言うように酒呑の前に洗濯済みの服を積み上げ、香子は期待するような目で彼を見た。無言で酒呑は洗濯物をつまみ上げる。手際の悪い干し方をしたせいか、いつもより服に洗いじわが残ってしまっている。しかし、嬉しそうに自分を見上げている香子を見ると、言おうとした文句が、口の中に留まって出てこない。
喜んでもらえる事を信じて疑わない瞳が、酒呑の良心をちくちくと苛む。
「――頑張ったな」
やっとそれだけを言うと、香子の目は輝きを増した。それを見ないようにして、酒呑はこっそりため息をつく。まるで、よく懐く犬を飼っているような気分だ。
(なぜこの姫は、こうまで俺に尽くそうとするのか)
泣きわめいて家に帰せと叫ぶか、はたまた酒呑の美貌に惑わされてしなだれかかってくるか。今まで出会った女の行動様式から大きく外れる香子の振る舞いは、酒呑には全く理解できず、女への嫌悪感以前に珍妙な生き物に出くわしてしまったような気持ちになる。
こんな女もいるのか、といささか世の女性に対する認識を改めたほどだ。
「――おい、こぼれているぞ」
「……はい、なぜかどうも上手くいきません」
「お前のやり方は、勢いがありすぎるのだ。もっとゆっくりやってみろ」
水を所望すれば、香子は瓶子からぎこちなく水を注ぎ始める。差し出された土器は、縁から水が滴って床に染みを作っていた。香子のやる事は粗相が多いながらも、何事も真面目に一生懸命やる姿は、いつしか酒呑の苦笑を誘うようになっていた。
「ひとつ聞くが、お前は私が好きなのか?」
疑問を払底するため、質問をしてみるが、香子は何とも言えない顔をして無言になった後、拳を握りしめてはきはき答えた。
「わかりませんが、性格に好感はもてます」
「…………」
なぜか自負心がぼっきりと折れたように感じて、酒呑は俯いた。女は苦手だ。しかし、今まで出会った女は、ほぼ例外なく自分に恋情を抱いてきたという自覚はある。高貴な姫だって、自分が優しい言葉をかければ赤くなって狼狽する様子をみせたものだ。
なのに、この女ときたら。
酒呑はむらむらと怒りを覚えた。なら、どうして自分に尽くそうとするのか。なぜ、こんな鬼なんかに嫁ごうとしたのだ。
(高貴な姫の美しき犠牲的精神というやつか)
そう思えば不思議なくらい腹が立った。期待が外れたような、妙な気分だった。
香子が、予想以上に愚かだったからかもしれない。
その身を鬼に捧げれば非道が止むと信じていたなら、その甘い考えを粉々にたたきつぶしてやりたい。心からそう思い、酒呑は水の土器を投げ捨てると、高坏の横に置かれていた酒壺を引きよせ、それをあおった。いつもに比べれば申し訳程度の量だったが、香子を相手にすると上手く機能しなくなる自分の舌を潤すには充分であった。
酒呑は、香子の手を取った。香子が身をすくませたのがわかったが、無視をして、その体を力尽くで引き寄せ、もう一報の手で灯台の明かりをとった。揺らめく灯に照らし出されたのは、頭の上で鈍く輝く一本の角。
「――お前が添い遂げようとするのは、鬼。わかっているのか?」
酒呑は獣めいて尖った爪で、香子の喉を撫で上げる。
「なぜ、家に帰ろうとしない? 正気の沙汰とも思えぬ。犯されたいのか? それとも、食われたいのか?」
酒呑は、まだ人を食った事はない。いかに鬼の血を引こうと、長年人に交わって生きてくれば、おいそれと人を害するような事は出来ない。それは育ての親である和尚の薫陶も大きかった。しかしそんな事実を香子に告げるつもりは、酒呑にはなかった。
(私を恐れて、逃げ帰ればいい)
犠牲的精神で、好きでもない鬼に嫁ごうなど、甘い考えはとっとと捨てさせてやる。
怒りのあまり、香子の身を引き倒すと、酒呑ははたとその身を止めた。
(……ここから、どうすればいいのだ)
喰らうなど、もってのほか。暴力も、ふるうつもりは毛頭ない。
(――ならば、犯す?)
いやいやいやいやいや!!
酒呑は、動揺のあまりその身を強ばらせた。そんな事をしたら、ますますのっぴきならない立場に追い込まれてしまう。子供でも出来たりすれば――そんな危険を含んだ体を、帰す事など出来なくなってしまうではないか。
(私のような、鬼の子が出来てしまっては)
酒呑は、母の顔を知らない。和尚の話では、鬼の子を孕んだ事で村八分にされながらも、酒呑をかばいながら必死で生きていたという。挙げ句の果てに、流行病で酒呑がまだ幼いうちにころりと死んでしまったそうだ。
そんな目に、この女をあわすわけには――。
押し倒された格好の香子は、不思議そうに目を瞬きながら、酒呑を見つめている。ひょっとして、自分がこれからどんな目にあうのかも、わからないのではないだろうか。
とてつもない非道を働いたような気になって、酒呑はそっと香子の上からその身を離した。香子が、目を丸くする。
「――おやめになるですか?」
今度は酒呑の目が丸くなった。
「……お前、わかっているのか」
食いしばった歯の奥から言うと、香子は真っ直ぐな眼差しを酒呑に向ける。
「夫婦になる覚悟をしております」
「私は鬼だぞ」
「貴方のお母様は、人なのでしょう?」
「……茨木からでも、聞いたのか?」
酒呑の顔は青ざめた。その事を知る者は殆どいない。知っているのは、自分でなければ茨木のみ。彼が口をすべらせたとしか、思えなかった。だが、返答は意外なものだった。
「いいえ? 貴方が以前さらった、花園中納言の姫君からです。何でも、寝物語に聞かせてくれたと、涙ながらに話しておりました」
酒呑の顔色は、青を通り越して、死相と見まごうほどに白くなった。
「つまり、花園の姫はお前の親戚で、私が家に帰した後も、私の話をしていたと」
「恋に落ちてしまったそうです」
酒呑は顔を覆う。例のごとく、姫をさらった時の記憶は、全くない。だが、寝物語?
「私は、その、姫に、まさか不埒な真似を……してしまったのか? いや、その、記憶はないが、衣服の乱れなど、今までなかったし、まさか疵物になるような事は、と」
「家からさらってくるだけで、充分不埒です」
「……まあそうだ。しかし、不埒にも取り返しがつく事と、つかない事があるだろう!」
「鬼にさらわれ、心を奪われて、姫は名にも心にも、ひどい痛手を負いました。気鬱の病にかかった姫をお慰めに行った時、私は貴方の事を聞いたのです」
動揺と後悔で、酒呑はぐうの音も出ない。根が真面目な彼は、どう責任を取るべきか真剣に考え始めた。そんな酒呑に、香子はぺろりと舌を出した。
「まあ、もう姫は病が癒えて婿を取られたのですけどね。酒呑童子は自分に指一本も触れなかったとおっしゃって、寝物語と言っても、本当に半分寝惚けたように、色々なお話しをしておられたそうで。お母様の事、育ててくださった和尚様の事、女性がお嫌いだということ、でも、家族がほしいと思っておられる事――。揺るぎない大切なものが欲しいと」
「家族!?」
酒呑は自分で自分に驚いた。そんな女々しい事を自分が言っていたなんて。
「家族を手に入れたら、絶対に守ってみせると。寂しい想いも、辛い目にもあわせないと、そう自分をさらった鬼は言っていたと――姫は懐かしげに涙をこぼしていらっしゃいました。あの方に、家族は出来るかしら、できれば、私が家族になりたかったとおっしゃって」
酒呑は、おぼろげな記憶をたどる。花園の姫は儚げで、可憐で、家へ帰した時、物言いたげな様子だったけれど、気がつかないふりで来てしまった。それだけの出会いで、どうして自分を心配なぞするのだろうか。女など、一皮むけば色欲ばかりがつまっているようなものだと思ってきたのに――。
「私、それを聞いて、その鬼に会いたくなったのです。貴方は、この外見に寄ってくる女がお嫌いだと、花園の姫におっしゃった。私、貴方の顔に惹かれたわけではありません。貴方の願望が、私を惹きつけた。私も、揺るぎない絆がほしかった。だから貴方が私の部屋に現われた時は、本当に――嬉しかった」
香子の顔は、どんどん表情が漂白されていくようだった。酒呑はただ黙ってそれを聞いている。
「私は堀河中納言の大姫です。でも、先妻の娘である私は、後妻の義母に疎まれて、家の中で立場がなかった。実母の実家はもう財力がなくて、どこにも行き場所がなくて、結婚もできず、腹違いの妹には入内の話が出ているのに、私はいない者同然として扱われていた。実の父さえも、義母とその家をはばかって、私に近寄らず――私、家族とは何だろうって、ずっと考えてきたのです」
聞きながら、酒呑は思う。育ての親である和尚には、自分を家族と思えと言われていた。だが、もし修業をしなくなれば、自分が和尚に疎まれるような事をしてしまえば、和尚はその言葉を撤回するのではないか。それがずっと不安で、それをごまかすように修業に打ち込み、女を遠ざけた。和尚の愛情を失う事に、おびえて生きてきた。
「……そうか」
酒呑は、自分の奇行が腑に落ちたような気がした。自分の修業の邪魔をして、自分の夢を打ち砕いた女には、ずっと嫌悪感を抱いていた。だが、心の中では、求めていたのだ。自分の家族を。もっと言えば、空想の中の自分の母親や、和尚に変わるような何かを。
寄る辺ない境遇の香子の心境を、酒呑はわかるような気がした。
「浅ましいと、お思いでしょう」
香子は発言を悔いているようだった。
「……いや、私も、そうであるのだろう」
きっと、二人の欲するものは、同じなのだろう。酒呑は、空いている土器に、酒を注いで香子に差し出した。
「まずは、お前の事を私に教えてくれ。私は、自分の口から己の事をお前に伝えよう」
夜は、残り少ない。広い世間のうちで、同志を見つけたような気持ち。それは、どう定義づけていいのかわからないが、少なくとも、酒呑は香子を守ってやろうという気持ちになっていた。
「昨日の夜は、お楽しみだったようだな」
しきりにあくびをする酒呑に、茨木は下卑た口調でそう言った。ただ話していただけだと弁解するのも面倒になって、じろりと睨むに留めるが、それをどう解釈したのか茨木の笑みが深くなる。苛立った酒呑が反論を試みれば、それは、火急を告げる声に妨げられた。
「酒呑様! 大変でございます! 以前貴方様がさらった池田中納言の姫君とおっしゃる方が貴方のお子を宿したと、門の前に!」
「――――――」
あまりのことに思考停止した酒呑の前で手をひらひらと振った茨木は、反応が全くない事に深くため息をついた。
「いつかこんな事がおこる気がしてたんだよなあ。とりあえず、話は聞いたらどうだ? 俺も同席してやるから」
そうして、茨木が用意させた一室に、姫とその乳母、及び二人の乳姉妹という面々が勢揃いした。貴婦人の旅装束である、つぼ装束に藺笠という出で立ちの四人は、動揺と興奮のあまりか、麻布が垂れた藺笠を深くかぶったまま、さめざめと泣き崩れている。
「姫様が鬼の子供を……!」「どう責任をとるおつもりか!」
など口々に言い立てるのが、真に喧しい。当の池田の姫は、腹を押さえて泣くばかりで、話にもならない状態だ。
(うーわー、絵に描いたような修羅場ー)
人事ながらげっそりとした茨木は、脇の酒呑が身じろぎもせず硬直状態なのを顧みて、深く息をつく。場を落ち着かせようと、飲み物を所望すれば、運んできたのは香子だった。
「麦湯をお持ちしました」
修羅場に拍車がかかった事を悟って、茨木は再び酒呑に目を戻す。酒呑は額を高坏にめりこませんばかりに深く俯き、香子と目を合わせようとはしない。
(ふうん?)
茨木は何かを感じ取ったような気持ちになったが、まずは現状の収束が先だ。進行を買ってでようとすれば、それまで泣き崩れていた池田の姫が香子に顔を向けている。
「……そちらの方は、どなた?」
茨木は、顔を引きつらせる。香子は、堂々と言い放った。
「私は堀河中納言の大姫。酒呑童子の妻でございます」
茨木は、香子、酒呑、池田の姫と視線をめまぐるしく動かした。不思議な事に、酒呑は否定の言葉を吐かなかった。しかし、それは火に油を注ぐようなものであったらしい。
「――それは、誠か」
低い声で池田の姫が立ち上がった。酒呑も、つられて顔をあげたように見えた。
「――!?」
部屋のうちに響いた鋭い刃鳴りに、茨木はとっさにその場を飛び退いた。しかし、それより早く動いていた者がいる。酒呑だ。咄嗟に高坏を相手に投げつけると、酒呑は香子をかばうようにその前に立った。
「鬼が、何の真似だ」
藺笠を脱ぎ捨て、吐き捨てるようにいった口調は、もう女のものではない。女装束も様になっているが、それは明らかに男――。
「何者だ」
「源頼光。以下、配下の渡辺綱、坂田金時、碓井貞光だ」
源頼光の声と共に、三人は笠を脱ぎ捨てた。なるほど女の格好ではあるが、その姿形はむくつけき男のもの。三人は隠していた武器をとり、酒呑を囲むようにして得物をかまえる。
「誰かある! 都の侍どもが侵入したぞ!」
茨木の声に、屋敷の奥から鬼が駆けつけてくるが、酒呑が刀を突きつけられてうかつに手が出せない状況に、皆、動きを止める。
(分が悪いな……)
ここまで侵入を許すとは、と茨木は酒呑と香子の事で、浮ついていた自分を恥じた。酒呑はともかく、補佐役の自分は気を引き締めていなければならなかったのに。
(あいつがやっと幸せを知りかけているのに)
茨木は腰の太刀に手を伸ばすが、頼光がそれを見とがめ、大声をあげる。
「状況を把握しろ。屋敷の周りにも兵がいる。帝の命で、お前らを退治しに参った」
動いたのは、香子だった。酒呑の後ろから顔を出し頼光を見据える。なぜか、頼光が顔を紅潮させ、嬉しそうな顔をした。
「おお、堀河の姫! さあ、こちらに。鬼めらは、この頼光が見事成敗してみせます!」
「帰って頂けますか。私はもう鬼の妻です」
「……え?」
それなりに男前だった頼光の顔が、驚愕と放心に崩れた。あまりにも衝撃を受けたせいだろう、酒呑に向ける刃先は震えている。
「どうなさったのです、鬼めに惑わされているのですか!? それとも、鬼と通じた事を恥じて!? 大丈夫です。この頼光はそのような事は気にはいたしません。さあ、私と――」
「お前、もしかして姫が好きなの?」
茨木の指摘に頼光は顔を赤くする。
「堀河の姫と言えば、都の噂になるほどの美貌。実際拝見してみれば、その噂は真実だった。俺は身分低い侍なれど、必ずや出世の道をつかみ、姫を幸せにしよう」
思い込みが激しい性格のようである。と、今まで無言を貫いていた酒呑が口を開いた。
「やれるものなら、やってみるがいい」
「やってみるさ。お前が死ねば、姫にかかった怪しげな術も解けよう」
「死んでたまるか。私は、今は家族を守っていかねばならない立場だ」
瞬間、香子が体を震わせる。酒呑は応えるように、庇う香子の手にそっと触れた。
「訳のわからん事を」
刀をかまえた頼光の顔は、猛々しい笑みに彩られる。酒呑は迎撃の姿勢をとるが、いかに鬼の剛力があろうとも、丸腰では分が悪すぎた。茨木はなんとか助太刀を試みようとしたが、三人の部下がそれを阻もうとする。皆が最初の一太刀に向けて気を尖らせている中、部屋に衣が裂ける音が響いた。酒呑と、頼光がそれに反応する。香子が小袖を引き裂いたのだ。さらに香子は懐の小刀で、自らの髪を肩先で断った。
「おい何を!?」「姫、なんてことを!」
酒呑と頼光が動揺を見せる中、香子は裂いた小袖と、髪を頼光に差し出した。
「私はもう死んだものとして、これを形見に父に渡してくださいませ。酒呑童子にもう悪行をさせないよう、私がこの方の側におります。どうか、それで」
もうこれで許してくれ、というように懇願の眼差しで香子は頼光を仰ぎ見る。
「そんな――」
頼光は動揺の後、苦渋に満ちた声を落とす。
「私は、帝の命を受け酒呑童子を成敗に参ったので、簡単に引き下がるわけには」
「さらった姫は全て帰されたはず。事の次第は花園の姫にでもお聞き下さい。それでも成敗だの何だのおっしゃるの!? 私は自分の意思でこの方の元に来たのです! 私はこの方に食べられたいと願い、その望みは叶いました。これ以上、他人が人の色恋沙汰に水を差すのは無粋だと帝にお伝えくださいませ!」
「食べられたって、まさか、姫……」
頼光は香子に気圧され、挙げ句の果てには打ちひしがれた様子で部下に励まされながら山を下りていった。失恋がかなりの痛手だったらしい。侍が姿を消した後、がりがりと頭をかきながら茨木は酒呑に声をかけた。
「まあ、一件落着って事で、いいんだよな」
「知らん」
素っ気ない酒呑の頭をかき回し、茨木は耳元でささやいた。
「よかったな、家族が出来て。あ、俺の事は頼りになる隣家の兄さんってくらいに思っておいてくれればいいから。俺としては、お前は複雑な家庭の事情ゆえに生き別れになった弟くらいの認識なんだけど」
「そんな妄想は溝に捨ててしまえ」
続く声を茨木は聞き逃さなかった。
「色々、感謝はしている。頭領として、お前も私の守る対象には、一応、入っている」
「もっと大きな声で」
酒呑はいまいましげに唇を引き結び、茨木は高らかな笑声を残して去って行った。酒呑は傍らの香子に、そっと尋ねる。
「ところで、私に食べられたとは、どういうことだ? 私は、お前に、ま、まだ何も」
香子は、ゆったりと微笑んだ。
「食べてくださいましたわ。私の、心を」
うまい事いったでしょう? というように香子は目を輝かせて酒呑を見上げる。どう答えるべきか迷って、酒呑はおずおずと香子の背中に腕をまわした。