6話「終息」
さかのぼること数分前。
熱波に飲まれた建造物の内部、瓦礫が散乱した一階ロビーに一人の少女が座り込んでいた。
大気に充満していた熱は、いつの間にか消え失せていた。
頭部が炭化した男が起き上がり、凶悪な亜人へ斬りつける――そんな現実離れした光景に衝撃を受けていたせいか、短くない時間、意識が朦朧としていたらしい。
しばしの間、少女は目を閉じた。ぴくぴくとうごめく目蓋の動きを抑え、すぅっと深呼吸。
鉄っぽい血の臭いが、鼻孔の粘膜をしつこく刺激した。
倒れ伏した顔のすぐ横には、嘔吐した胃の内容物が広がり、酸っぱい異臭を放っている。
もう一度、目を開く。
琥珀色の瞳が外界を映したときには、すっかり落ち着いていた。
導由峻は、自らの至らなさに反省するばかりだ。
ことここに至って、錯乱して取り乱すほど柔な精神構造をしてはいない。
鴉の濡れ羽色の髪は粉塵で汚れて見る影もないが、山羊のような三日月型の角は健在だった。
由峻はこの場で何も出来ない。
いや、すべきでないと言うべきか。
ひどく冷静な自分に驚きつつ、さもありなんと納得してもいた。
嗜虐的なよろこびも、昨日、友達を傷つけられた怒りも決して特別なものではない。
由峻個人の人生経験ならいざ知らず、実際のここにいる少女は、百年以上生きた強大な亜人の知恵を継承している。
母シルシュがその死の間際――状況から十中八九、暗殺されたのだ――娘に送りつけてきたのは、人格と記憶、そして膨大な量の経験だ。
そんなものを受け取って、今までと同じでいられるほど彼女は成熟しておらず、また、だからこそ必要とされたインプットだった。
彼女は言ってみれば、異形体と対話するため設計された筐体である。どれほど画期的なハードウェアも、ソフトウェアが未完成なら意味はない。
他と隔絶した機能を生かし切るため、最後に必要とされたのが母の情報だっただけの話だ。
一個人の手に余るはずの武力を身に携えながら、私欲や感情に囚われず、人間集団にとって最適な形でその力を振るう。
そんな夢物語のような『超人』を作り出そうとしたのが、由峻の母親だった。
「知っているつもりでも、所詮、他人の記憶ではこんなものですか」
彼女は歳に不相応な知識と技術を持っているが、母シルシュの技能すべてを継承したわけではない。
むしろ積極的に封じ込めようとしている節すらある。
それも当然だ。
シルシュはある種の天才だった。
パラダイムシフトをもたらした過去の科学者たちがそうであったように、独自の世界観と観察眼を持った叡智の怪物である。
その見識と技能を、自身の肉体で再現しようとすれば、そこに最早、導由峻という個人のパーソナリティは残らない。
他者の知識と経験、記憶と感性へ肉体を明け渡してしまえば、顕現するのは死者そのものだ。
おぞましい継承によって、自分自身が薄らいでいく恐怖があった。
ゆえに年若い賢角人は、自身の内奥に眠る天与の才を拒む。
そもそも亜人種は民族性や歴史を持たない、まったくの新種だ。
二一世紀の誕生からこっち、文明社会で生存権を獲得してきた闘争すら、その時代を生きてきたものの個人的記憶に過ぎない。
ましてや生まれながらの働き蟻、と評すべき存在が第二世代の亜人だ。
彼らの特性――属する集団に染まる形質は、イデオロギーに啓蒙されることと同義ではない。
もっと細やかな、生活習慣やそこに根付く規則性――社会規範を学び、そこに同化することこそ、亜人を亜人たらしめる特性だ。
第一世代を社会の解体に特化した異種とすれば、第二世代は社会との同化に特化した異種なのである。
そこにあるべき文化、社会規範を受け継ぎ、自らのものとすること。ある種の民族性やそれに根ざす国家を存続させるとき、オリジナルの人類が九割九分消えても問題ない世界。
それが亜人とともに歩む復興の行き着く先だ。穏やかな退嬰にじわじわと文明を蝕まれ、西暦二一三四年まで人類は生き延びた。
由峻はそのいずれにも属さない個だ。
彼女の肉体は、それ自体が特注品のようなものであり、そこに宿る精神すらその例外ではなかった。
一人の偉人としてシルシュを尊敬することは出来る。
だが、導由峻の母親はどこまでも理解しがたい、巨視的人類愛に殉じた人でなしだった。
そして、それは彼女にとって当たり前の前提だ。
すっと細められた両目が宙を見やる。
「……わたしに何をさせたいのです?」
唇が紡いだ言葉は発声が主目的ではなく、二本の山羊角を通し、近場にいるはずの同種へ疑問を送りつける過程の副産物だ。
賢角人の種族的特性――電磁波の全波長に存在しない人類にとって未知の領域を介した情報通信は、亜人種の脳と脳を繋ぐネットワークを形成、一種の集合意識と呼ぶべき、自動的な情報処理の仕組みを作り出している。
各々の脳機能の有機的連結、ハイヴ・ネットワークへ接続した瞬間、目当ての賢角人を見つけ出した。
待ち受けていたのか、流石にこちらの意図を読み取るのも早い。
第一世代最古参の一人、イオナ=イノウエは、隣に特殊部隊の隊長がいる状態でぬけぬけと返答して見せた。
――この状況は私が望んだものではない。何、無能と蔑んでくれたまえ。
虚偽の色があった。
見破られるのが前提のような、子供じみた稚気がありありとわかる反応だ。
嘘をつく必要はない、と意思入力。
――言語に準じた対応では、君を納得させられないようだ。申し訳ないが、私と情報共有してくれんかね。
意訳すれば、これから膨大な量の記憶や認識を送信するが、悪性情報ではないので受け取れ、とのこと。
賢角人にとって有益な情報交換の場であるハイヴ・ネットワークも、使いようによってはいくらでも悪用が可能だ。
そういう意味では、他者へ自意識を転写する類の行為は禁忌の中の禁忌。
当然のことながら、それと似た経験を持つ由峻は例外中の例外であった。
彼ら自体、この知覚と認識の共有ありきで設計された種族である。
普通に扱う分には、そうそう起こりえない事態だ。
受諾すると告げた途端、イオナの現状認識と、その前提が速やかに伝わってきた。
あまり好きになれそうにない感覚に、由峻は湿っぽい息を吐いた。
――近くで銃声が聞こえる。
まず、イオナの今現在の思索の反映が始まった。
超人災害対策法は、文明社会と異種の間に横たわる闇の申し子だ。
人類の拠り所、文明社会を守るため作られたはずの仕組みは、その実、人間単体では絶対に成立しない過大な戦力を前提としている。
超人災害の本質は、地震や津波、火山活動や台風のような自然災害と異なり、その発生源は常に人間集団の中に根付いていることにあった。
極論すれば、すべての自然災害から身を守れるシェルターに閉じこもったとしても、いずれ避難した人間自身が災害源と化すのである。
その結果は惨憺たるもの。
一個人が自然災害と同等のリスクと化したことで、救いのない地獄が世界中で生まれた。
負担そのものとなった個人は、誰かの手で間引かねばならない。超人災害を制圧する上で、やむを得ず、基本的人権は無視され続け、それが恒常化したことにより、種族に関わりなく命の価値は暴落していった。
しかし文明崩壊〈ダウンフォール〉の混乱が収まり、ある程度の平和が築かれた地域では、依然、処理の必要性は薄れていないにもかかわらず、この行い自体に疑問符がつくようになったのである。
近代国家が、国民の殺害を是とするなどあってはならない暴挙である、と。
だから国家の外側に、対策を代行する仕組みが必要になった。
その途方もない悪行と暴力の委託先として、人類連合調停局――UHMAという組織は生まれたのだ。
人間の手に余る被害と非道な実務を異種に押しつけ、当事者の人間から戦う手段を剥奪するシステム。
最早、誰が望んだ仕組みなのかは関係ない。
ただそうあるがままに、人類は優秀な猟犬に守られ、悪疫の如き災禍を逃れているのだから。それが異種との共存共栄を掲げる、二二世紀の文明社会の本当の姿だ。
――あれは私の自慢の弟子でね。困難な道のりでも決して挫けない、超常種らしい超常種だ。
その矢面に立つエージェントの一人、由峻を護衛しに来た青年。
北関東で起きた超人災害の現場で、イオナは彼を発見した。
地方都市一つの殲滅が決定され、多くの市民が犠牲になった忌むべき事件。
塚原ヒフミは特別な個体だと、イオナ=イノウエは認識している。何故なら彼は、稀少なカテゴリの超常種だ。
まず特徴的なのは、生殖器の機能に欠陥とも言える周期性があること。
だが、一方で人並みの恋愛感情らしきもの見受けられる。これは他者へ向けた性愛の欠如、という超常種の基本的性質からも逸脱している。
すなわち。
「――ひどいセクハラですね」
由峻は母親似の冷たい美貌に、人を殺しかねない微笑みを浮かべた。
怒りによって感情が声になっていた。
慈悲なき訴訟を起こそう、と由峻が決意するまでコンマ五秒もない。
これを敏感に察知したイオナが、移住先の条件改善を提案し示談に持ち込むまで一秒未満。
この娘の嗜虐性癖が、顔を出す前に鎮圧するのがイオナ流である。
鉄火場にあっても動じないという点で、二人は間違いなく変人奇人の同類であった。
由峻は我知らず半眼になって瓦礫だらけのロビーを見つめた。外では戦闘による騒音が続いており、まだヒフミが無事なのだと伝えてくれている。
考えてみれば、先ほどの情報も無意味ではない。
あの風変わりな青年が何者なのか、より深く理解できるからだ。
何故、出会って一日も経っていないのに、彼をこうも気に掛けるのかわからぬまま、由峻は続きを促した。
「交換条件は何ですか」
まかりなりにも命を狙われている以上、現実とハイヴ・ネットの並列処理では、現実世界の比重が大きくなる。
いつものくせで声を出して、距離を隔てた場所に居るはずの老人と会話していた。
――交換条件などあるわけがないだろう。君の処遇は、人類連合の管轄になった時点で格段に向上する。以前、完全融合型操縦シェルを提案していただろう? あれが評価されたようだ。我々は皆、何の責任も義務も負っていないものに、それを求めるほど恥知らずではない"
それに、とイオナが笑う。歓喜のニュアンスだ。
よもや山羊の獣頭を歪ませているわけではあるまい。
――元よりそのつもりで差し出した餌だろう? 自由を勝ち取るための取引材料、すぐにでも兵器転用が可能な異種起源テクノロジーの詳細な解説図面。私の手配した教育も無駄になっていないようで何よりだが、あまり他人を試すような真似はしない方がいい。北米や上海の工作員が群がってくることまで予想していたかね。おかげで、水面下では愉快なことになっていたよ。
想定の範囲内だった。
最終的に「軟禁しておくにはリスクが高すぎる」と判断させるに至ったのであれば、由峻にとっての目的は達せられている。
否――これはシルシュの判断プロセスか。
自身の覗かせる冷徹な行動が、生来のものなのか、母の人格情報に由来するのか、彼女自身にも定かではない。
「あなたは一体、どこの誰の紐付きなのかわからない人ですね」
イオナ=イノウエは〈ダウンフォール〉の混沌の中、人類に味方した超人戦力として、日本中を駆けずり回った第一世代亜人種だ。
その来歴を思えば、情報機関や政府筋とパイプの一つや二つがあってもおかしくはない。
だが、由峻の知る限り、この老人が純粋に人間の味方だったことなど一度もなかった。
そういう意味では人類連合、ひいては〈異形体〉の側の人間に思えた。
――長生きの秘訣は秘密の管理だ。そういう意味では、君は昔よりずっとしたたかになっている。覚えているかな。新東京に移される前、この国の城の古い史跡へ抜け出したときがあったろう? サイキックの少年と出会っていたはずだ。
サイキックの男性と過去に出会っていた経験。
そんなものが己にあったかと自問自答するように探り、すぐに該当する記憶に行き着いた。
まだ幼かった日の思い出だ。
導由峻が偉大な母親の意識と混濁する前の、ささやかで忘れられない景色。
〈異形体〉トリニティクラスターが根を下ろした街で、大人たちを出し抜いて、観光地だった史跡を歩き回った日のこと。
偶然、本当に偶然だ。
自分と同じように大人から逃れてきた少年を見つけ、気付けば話し込んでいた。
決して恵まれているとは言い難い、ありふれた異種の不幸に身を浸していた彼に、幼かった由峻は深く同情した。
自身の出生を否定した少年へ向けて、自分が問いかけた言葉。
それに対する、赤面したくなるような少年の返答。
あのとき、きっと自分は心地よかったのだと由峻は思う。
何の下心もないやりとりに、子供らしいよろこびを見出していた。けれど、それだけなら今の今まで引きずったりはしなかった。
問題はその後だ。
自分を連れ戻すため、無人機がやってきたとき――実のところ彼女は既に諦めていた。
だというのに。
彼は迷いなく、見ず知らずの娘を助けるため、死ぬかもしれない道を選んだ。
その姿に由峻は強い衝撃を受けた。
それは見え透いた偽善や、強い同胞愛のもたらす自己犠牲でもなかった。
少年は、自身の生のすべてに期待していなかった。
生まれながらにして精神と肉体が常人と乖離した、異種の行き着く自然体の反応。
どうしようもなく、あの男の子は人間ではなかった。
それでも、誰かが傍にいてあげるべきだったのに。
素直にありがとうと言いたかった。しかしその献身に頼ったら、彼が破滅すると悟ってもいた。
それでは救われないと思ったから、少女は少年の決意を拒んだのである。
導由峻はあのとき、自分も少年も犠牲にならずに済む結末を望んでしまった。
揺るぎない綺麗事が必要だと、何者よりも強くこいねがった。如何に祈れど、決して奇蹟のように降って湧いては来ない幸せを。怒濤のような追憶の末、由峻は一つの可能性に思い当たった。
まさか、とイオナの意図を察して息を呑む。
――君はかつて、彼と出会っているのだよ。少々、符号がそろいすぎていてね、今回の組み合わせ自体が私の目的だ。例外中の例外が、同じ時代に揃って生まれたのだ。
――〈異形体〉と超常種の関連性を思えば、これを偶然と放って置くのは論外だとは思わないかね?
意外なほど、衝撃は思ったより少なかった。その代わり、由峻は忸怩たる思いで一杯になる。
果たして自身が囚われの鳥のつもりで過ごした年月が、何者を救ったというのか。
その鬱憤を叩きつけるように問いかけた。
「あの日、わたしの前に現れた少年は、躊躇いなく人間を害そうとしていました。ですがそれは、決して彼自身を幸せにする道ではなかったはずです。イオナ=イノウエ。あなたは、進んで人間狩りをするよう導いたのですね」
気付けば、やりとりのほとんどが、言語を介したものに回帰している。
――返す言葉もないな、由峻。尤も、私にはそれ以外に彼の生存を担保する方法がなかった。いつ何時、超人災害として牙を剥くかわからない強力な超常種など、そういう扱われ方しかされないのが現状なのだよ。ゆえに卑下はしない。かつて多くの人間が自身の権利を勝ち取ってきたように、いずれ我々は現状を打破する。
この老人の露悪趣味は苦手だと、強く思う。
由峻の信じる綺麗事と相容れぬ価値観だが、弟子たちが稼いでくれた信頼と時間が何よりも貴重なのだ、とイオナは考えているらしかった。
五年でも一〇年でも構わない。
稼いだ時間で異種の生きる場所を整えればいいのだと。
掴むべき未来のため、他者の命を道具として消費する悪を是とするもの。
イオナ=イノウエは紛れもなく人でなしだった。
だが、そんなことはどうでもいい。
幾ばくかの動揺と憤りに乱れた心を、たった一つの目的に最適化する。
よりにもよって、この自分が――その気になれば戦う力も手に入った導由峻が、二度も同じ人物に犠牲を強いている。
誰よりも何よりも、彼女自身の理性がそれを許せなかった。
ハイヴ・ネットワークへの連結を解いた。イオナがどんな思惑でこの話を持ち出したかなど、最早気にするまでもない。
あの老人は、どう動こうと構わないと思っているだけだ。ならば、由峻のすべきことは一つだけ。逞しい二本の山羊角を誇るように、顔を上げて決意を口にした。
「非力を理由に見過ごす苦痛に比べれば――何者に成り果てるかなど些事に過ぎません」
それは自己犠牲と似て非なる、一種の確信だった。
亜人やサイキックの一部が超人と呼ばれた根本的理由は、自身の肉体、精神の変容すら掌握してみせると言い切る傲慢さにある。
彼女はさしたる切っ掛けも修練もなく、その領域へ踏み込む生来の人外だった。
母の残した索引から、必要な手順を読み取った。それに付随する余計な記憶と感情を遮断し、技術だけを五体へ行き渡らせることに集中する。
〈異形体〉による超物理現象の限定的展開は問題なし。
続けて、停滞フィールドに伴う二次災害の中和方法を引き出す。
澄み切った意思が、琥珀色の瞳を力強く輝かせた。
敵の亜人、アニラが空けた大穴へ向けて歩き出す。
五感による索敵に異常なし。迷いなき跳躍。瓦礫を踏み締め、燃えるようなプラズマの爆炎へと一直線に駆け抜ける。
思ったよりも遠い距離だったが問題ない。今の自分ならば、造作もなく到達できる距離だ。
手が届くはずだと信じた。
◆
そして現在。
「塚原さん、わたしの提供する武力を使ってください」
塚原ヒフミは天を呪っていた。
「……ははあ」
上下の一張羅がズタズタに引き裂かれ、再生した肉体に血と肉の欠片がべっとりと張りついているのも些細なこと。
こんなに動揺したのは、UHMA本部で異常性愛の疑惑をかけられたとき以来だった。
えん罪という公的機関にあってはならない所業の被害をしかと味わい、塚原ヒフミが職務を真面目に実行しようと誓ったのが三年前のこと。
つまりは、超人崇拝カルトと銃撃戦をしたり、大陸封鎖を無視して密航させたチンピラを拷問部屋送りにしたりする日常。
走馬燈にも似た回想を経て、ヒフミは思う。
よく考えると自他共に、いつも通りの不条理塗れだった。
それにしても、唐突な上に衝撃的事態だ。
無理やり爽やかに状況を整理すると、こうなる。
――初恋の女の子は一二年後、最終兵器になって僕を助けに来てくれました!
あまりの不快さに、自分へ向かって、腹を切って死ねと言いたくなった。
この状況はないだろ、ふざけんなと運命や神仏に文句をぶつけたくもなる。
こうなってくるとクレーム対象を作るため、信仰に目覚めるのもありかもしれない。
全世界の宗教者に笑顔でぶん殴られそうな思考も、所詮は現実逃避の産物だ。
ヒフミは割りと一杯一杯だった。
「ボロボロ……ですね。大丈夫、でしたか?」
そう言って由峻がこちらを気遣ってくる。
耳を打つ心地よい音の連なりにわけもなく胸がざわついた。
左手は肘から先が吹き飛んで、再生を終えた今も素肌が見えているし、胴体も度重なる被弾で血まみれである。
内臓は言わずもがな、両脚の太股も銃創を塞いだばかりであり、とても無傷とは言い難い。
つまり全身、無事の部分がほとんどなく、出血量からいってどう考えても死体の方が自然だった。
「ははっ、御覧のとおり五体満足ですよ」
言い切ってからブラックユーモアですらないと気付いた。
ヒフミは、胡散臭い笑顔と裏腹に頭を抱えたくなっていた。
こうなるとポーカーフェイスも考え物である。
「……ここは笑っておくべき場面なのでしょうか。わたし個人としては、痛ましい思いで一杯なのですが」
由峻はその頬を引きつらせている。
この間、ラプトルとエクゾスケルトンの銃火は続いていたが、既にどうでもいい雰囲気だった。
生身の人間の基準で殺し合いを仕掛けても、超人の側が真面目に取り合うとは限らない。むしろ片手間で片付けられてしまうから、両者の間にある種の隔たりは埋まらないのである。
要するに死ぬほど気の毒だった。
こんな馬鹿らしい場面すら、種族の違いが生み出す断絶の一端であった。
人間を超越するとは、価値観の基準からして異なる生き物になると言うことだ。それが明らかになったからこそ、人間社会は亜人よりも超常種を恐れる。
けれど、生者は望みを抱かずにはいられない。不要な害悪と切り捨てられても、安らぎを求めてしまう。
浅ましい欲だけが、人間性の証明だった。
塚原ヒフミは超人に生まれ落ちてなお、最低限の妥協で、ありのままに暮らせる秩序を夢見る。
哀れまれるのは真っ平ごめんだ。
だから由峻の提案も、安易に受け入れるわけにはいかないと思えた。
「導さん、君の助力には感謝いますし、その非を問うつもりはありません。敵の攻撃を防ぐ以外、何もしなくていい」
「それで、この状況が解決しますか?」
「万事滞りなくね。僕は君の提案に乗りました、指示には従って貰う」
停滞フィールドの干渉によって、銃声すら耳に届かなかった。
ここには、二人きりの言葉しかない。だからこそ、心の底から本音を言おうと思った。
言葉以外で押し止めれば、彼女は昔のように自分一人で幕引きしてしまう気がしたのだ。
「君が誰かを殺したり、壊したりする必要はないんです。だから、君自身が傷つくような道は選ばなくていい」
人類が家畜の如く買われる未来だろうと、塚原ヒフミは無感動に受け入れられる。
人の命を守るため、その枠からはみ出した亜人やサイキックを殺すのも構わない。
出来る限りすくい上げたいと思う一方で、胸に巣くう諦観が、義務的な殺意を後押ししてきた。
けれど、大切なことを思い出せた。
それは最初、たった一つの憧憬があって成り立つ道のりだったのだと。
彼はただ、異種の生を肯定してくれた娘に誇れる生き方をしたかっただけなのだ。あのとき、賢角人の少女に身を差し出させたおのれの無力と無知を、繰り返さないために。
「今だけでいい、僕を信じてくれ」
眼前の娘には、昔、儚い笑みを浮かべた娘の面影があった。
マウンテンハットを浅く被った亜人の少女。
彼女のような年端も行かない誰かが、半ば生け贄のように、救いのない選択をせざるをえないのが許せなかった。
人ではないものとして生まれても幸せが許され、無償の献身を受け取っても、後ろめたくない世界が必要だった。
ヒフミは、たとえ自分自身が地獄に堕ちていようと構わない。自分以外の誰かが救われているなら、代償行為として十分すぎる。
熱い血流が全身を駆け巡り、心が決意に沸き立った。
「――あなたは、そういう人なのですね」
ヒフミの言葉をどう受け取ったのか、由峻はこくりと頷いてくれた。
決して否定的な意味合いでなかったのは、うっすら微笑んだ口元を見ればわかる。
これでもし、二人が互いの内心を知ったら、その相似にどんな意味合いを見出したことか。
このまま穏やかに一言二言、会話を重ねれば理解し合えたかもしれないが――幸か不幸か、そうはならなかった。
ここで握手の一つもしておこう、とヒフミが要らない行動を取ったからだ。
無効化されているとはいえ、一応、無人機やエクゾスケルトンの攻撃は続いているので、そちらに目をやりながら手を伸ばしてしまったのである。
指先に触れた硬質のもの。その手触りに違和感を覚え、青年は手元へ目をやる。
やはり先ほど、翼の亜人に脳を焼かれたのがよくなかったのだ、と後悔。
迂闊すぎた。
真っ白な手ではなく、ついうっかり、由峻の左角をしっかりと握り締めていた。
「ひゃうっ」
情けない声が耳朶をしかと叩き、ヒフミは本日二回目の己が失態に肝を冷やす。
脳組織に根を張る角は、賢角人にとって敏感な部位である。
由峻がどんな決意を固めていようと、刺激は刺激だった。
ヒフミは超人災害対策官、超人災害の専門家である。
知識として亜人の持つ異形器官のことは知っているし、その特性、効果的な破壊方法も心得ていたが、年頃の女の子の角を触るという行為のいやらしさについての実感はなかった。
むしろ、とヒフミは刹那に思う。
賢角人の角を触る、というのは、社会通念上、痴漢で逮捕されるほど破廉恥なのだろうか。
乳房、臀部を撫で回す性的倒錯者のそれと比して、どれほど不味いのか把握できていないのだ。
ひょっとすると想像以上に危うい立場かもしれない。
結論。
「――僕はこの状況に対し、遺憾の意を表明します」
「ひとのっ、角に触って何を言っているのですか!」
由峻が叫び、絶妙に気まずい空気が流れた。
先ほどから無慈悲な銃撃を加えているエクゾスケルトンは、そのズレたやりとりを近距離で見せられていた。声は届かないとは言え、殺し合いの空気でないことは馬鹿でもわかる。
しかも彼は、片足の膝から下を破壊されたため、撤退すら出来ない状態なのだ。
決死の襲撃をするはずだったのに、まるで相手にされていない自分に気付き、独り言が零れる。
『……茶番だ』
そこには、人生の無常さを悟った人種特有の悲痛があった。人類の明日を思って、保身を捨てた行為――所詮テロだが――に走った末がこれである。
散々、肉体を破壊された禍根すら忘れ、微妙に同情の念すら湧いてくる姿だったが、彼の呟きは二人の耳には届かない。
だから続くヒフミに言葉が噛み合ったのは偶然だった。
「……とにかく、もう安心です。こうも時間をかけた時点で手遅れですからね」
刹那、黒煙が昇る青空の彼方が、灼熱地獄を思わせる紅蓮に塗り潰された。
無造作に角を触られ、羞恥に頬を染める由峻も、その異様な光景に目を奪われた。
琥珀の瞳に映るのは、燃え盛る炎の柱。
柱のように見えるのは、超高温のプラズマ流体を用いた防御障壁だ。どれだけのエネルギー量があるのか定かではないが、地表すれすれにもかかわらず、火が燃え移る様子は無い。
熱や光の伝播も異能によって完全に制御されているらしい。
それはさながら、天を焼き焦がさんとする焔。
由峻はおのれの目に映った存在が何なのか、理解できなかった。
炎の柱の中心付近に、涼しい顔をして寝転がる女がいた。
まるで、お茶の間で寝転がる専業主婦めいた気怠さがあった、
そこには仲間を助けようという義務感や、使命感は欠片もなく、最低限の建前すら存在しないのは明白である。
空飛ぶ炎の魔人は、下界などどうでも良いと言い切りそうだった。
人間離れした絶技を見せつけられているのに、場違いな要素ばかりが際立つのも確かだった。
あくまで勘に過ぎないが、由峻は、一つだけ妙に確信できたことがある。
あの女の人は絶対に真人間ではない。
最悪の初印象だった。
基地上空に近づくにつれ、熱量の障壁は徐々に掻き消えていく。
やがて紅蓮の壁が完全に消えると、人影はパラシュート一つ付けずも、ひょいっと地上へ降り立った。
あまりに無造作な慣性制御。
膝を断ち切られた外骨格の前まで歩いていく、妙齢の女。
瓦礫だらけの地上施設にもほとんど興味を示さず、その女――UHMA最強のサイキック、進藤茜は脳天気な笑顔を浮かべた。
「UHMA超人災害対策官、進藤茜です。抵抗は無意味だと思うから、そこで大人しくしててくださいねー」
二人の救援にやってきた存在は紛れもなく、天災に匹敵する異形異能の超常種だった。
レベル3、生命活動の完全な自己完結に成功したサイキック。
続いて、彼女が率いてきた増援の本隊がその異様を晒していく。
小粒のようだった機影は、すぐに真っ黒な壁に見えるほどの距離へ近づいてきた。
上空三〇〇メートル、地表すれすれの低空を飛ぶ無人機運用プラットフォーム〈フライング=パーチ〉――二〇世紀の冷戦の産物、戦略爆撃並みの巨人的構造物が、ヒフミと由峻の頭上に浮かんでいる。
全長五一メートル、全幅八〇メートルの平べったいマンタのような全翼機だ。
重力制御機関による、巨体に見合わない滑らかな空中での静止。
人類連合だけがその生産技術を保有する、異種起源テクノロジーの産物だ。
攻撃目標と母艦が近すぎ、本来の運用法からすればナンセンスだが、今この状況では何の心配もなかった。
あらゆる飛翔体を消滅させる超人が護衛である以上、外敵による撃墜は不可能だ。
〈フライング=パーチ〉は翼面の上方と下方、すべてに無人機の格納ポッドを内蔵している。
菱形の柱状、死者を収める棺にも似た格納ポッドが次々と展開され、二〇〇機を超えるUAVが切り離されていく。
空中へ放り出される無数の機影が、止まり木から振り落とされた雛鳥のように見えて、由峻はそのおぞましさに眼を見開いた。
しかし機械は下界の感想など意に介さない。折り畳まれていた翼が広がると、UAVの異形性が明らかになった。
有機的な灰色の皮膜で覆われた機体は、まるで鳥類の骨格標本に皮を被せたように不格好で、悪夢めいている。
その胴体は分厚く硬質化した被膜で覆われており、不吉な印象を周囲に振りまいていた。
対地攻撃無人機バルチャー。
その機種に収められた筒状の照射装置が、眼下を闊歩する陸戦無人機を捉えた。
瞬間、肉食恐竜に似た機体が音もなく爆ぜる。高出力のレーザー兵器だ。集束した光は大量の熱へと転じ、対象を逃げる暇もなく刺し穿つ。
先ほどまで数の暴力でヒフミを蹂躙していたラプトルが、次々と物言わぬガラクタへ変わっていく。
由峻は呆気に取られ、思わず不作法な質問をしていた。
「宇宙戦争でも始める気なのですか?」
「圧倒的な武力による世界秩序、伝統的な平和の作り方ですね、ええ。平にご容赦を」
これだけ巨大な兵器の開発、生産、運用も、その気になれば人間の経済活動は一切必要ないのだ。
そんな夢も希望もない真っ黒な事情を伏せておこうと心に誓う。
同じく、片足の膝関節をヒフミに破壊され、機動力を奪われたエクゾスケルトンに抗う術はない。
抵抗の無意味さを悟ったのか、外骨格は、茜の武装解除に応じている。
自分とて至近距離にあの女がいたら白旗をあげるに違いない。UHMAの介入という大事を経て、この事件はようやく終わる。
まだ肩の力が抜けていない由峻も、いずれ安堵してくれるといいのだが。
ヒフミは、自分がこの場で一番の馬鹿になろうと思った。
しかし悲しいことに、口を突いて出る言葉は、間違いなく女性に聞かせるべき冗句ではなかった。
「これにて一件落着です。あとはまあ、思春期の男子みたいにガツガツしてる局員がたっぷり尋問してくれますよ」
最低の決め台詞だった。
そしてこのとき、端末は電磁パルス対策のセーフモードから復帰していた。
それがよくなかった。通信越しにこの暴言を聞いた男――高辻馳馬は、同僚としても友人としても慈悲のない男である。
彼はどうでも良さそうな調子で、残酷な台詞を言い放った。
『お前さん、数年に一回しか息子が立たないのにそのたとえ使うのか?』
別の意味で、空気が凍った。
こういうとき黙っているだけで絵になる人種になりたい、とヒフミは現実逃避。
冷ややかな半眼でそれを見やる由峻は、この人たち実は滅茶苦茶、頭が悪いんじゃないかと思案している。
「やめてくれ、僕の場合は言ってみれば生態。明らかに非はないんですよ」
『控えめにいって頭おかしいよな、お前』
ひどい言い草だった。
「なあ、人間基準で何回か死んだ僕に対してその軽口はどうなんだ」
『いつもそんなもんだろ』
「馳馬、君には繊細さが足りません。日本的思いやり精神を補填すべきだ」
『今朝、便所で流してきた』
二一三四年の地球がどれほど多様な異種を内包した空間だとしても、そこに生きる人間の品性は急に変わらない。
つまり、塚原ヒフミと高辻馳馬の会話も、それ相応の低劣さが滲み出す。
『間欠泉みたいに噴き出す下痢糞も、お前さんに解説させると綺麗なもんに見えてきそうだな』
「見たことあるんですか?」
『人生経験だ』
あまりにも惨い沈黙が舞い降りた。まさか友人の節操のない性生活の裏に、そんなトラウマじみた光景があろうとは。
一体どんな過激な行為に及べば、汚い濁流を目視する状況が出来上がるというのか。
ここで塚原ヒフミが友に抱いた隔意は言葉にしがたいものがある。何せ、評価はだだ下がり。
女遊びが激しい山男から、変態性行為に勤しむポルノ野郎へ格下げである。
かつて東京が崩壊する前、ソドムとゴモラの逸話にも似た惨状を呈したとき、都民の間で流行ったという差別的表現。
――スカトロ野郎。
無論、前時代的デマゴーグであるのは言うまでもない。
「ははあ。大人になるって悲しいね」
『違う。市役所の屑共に憎しみを叩きつける機会を得ることだ』
「どんなに腹が立つお役所仕事も、重力に逆らう排便ほど汚らしくはないはずです」
結論から述べよう。
UHMA(人類連合調停局)の現場組に真人間がいる場合、それは断じて人類種ないし超常種ではない。
普通人は精神か内臓を病むからだ。まともな精神を保った人材がいるとすれば、精々、良識派の亜人ということになる。
由峻の予感は的中していたらしい。
『俺が求めるのは、ブロンドの巨乳と銀髪の尻のでかい女だ。種族は問わない、ヒューマニストだろ?』
「今までよく訴訟されてないよな……」
導由峻、十代の終わりに差し掛かって醜い大人に遭遇する。
思わず口から零れる、総括の一言。
「――最低ですね」