5話「角ある竜」前編
狭い室内に、緊張した空気が立ちこめている。
それもこれも、朝の会話としては重い話題のせいだった。
自分から振った話題とはいえ、些か予想外の流れであった。
塚原ヒフミはこれでも良識派を自認するUHMA局員であり、悪趣味に他人の過去を詮索する趣味はない。
内心、居心地が悪いまま黙考すること二秒。
「穏やかじゃありませんね。中々、複雑な家庭問題って奴ですか」
軽い口調ながら、彼の目は笑っていない。一体どういうことなのか、ヒフミが問いかけたときだった。
唐突に、部屋のロックが解除される。二人が思わず目を向けると、重装備の兵士が開いた扉の向こうから顔を覗かせていた。
昨晩から世話になっている、年かさの男だ。
この手の戦闘部隊に属する隊員としては、引退寸前の年齢と言っていいだろう。
「隊長がお呼びだ、部屋を出る。荷物を残さないようにしてくれ」
思い掛けない報せだった。
喜ぶより先に眉根をひそめる少女を横目に、グレーのコートを小脇に抱えて立ち上がる。
椅子が床を引く擦過音。ぎきぃ、と甲高い音が立ち、導由峻をせき立てる。
これ幸いとヒフミは雰囲気を切り替え、いつもの韜晦した調子に戻る。
その顔に胡散臭い笑顔を貼り付け、先ほどまでの話などなかったのように振る舞った。
「騎兵隊の到着ですよ」
前時代的かつ古典的慣用表現――さっぱり意味が分からない、と小首を傾げられる。
おそらくUHMAのエージェントが、こちらの位置特定に成功したのだろう。
部屋を出て歩かされること数分。
今度は目隠しされることもなかったし、エレベーターの表記をじっくり観察できた。どうやら、二人が軟禁されていた部屋は地下施設だったらしい。
エレベーターの中には、先導の兵士一人を合わせても三人しかおらず、脱走するなら好機と言えた。
尤も解放されつつある現在、そうする意味はほとんど無いのだが。
上の階層を行く途中、陸戦無人機が警備するエリアを抜ける。二足歩行の恐竜のような機影は、世界で一番多く投入されている機体『ラプトル』シリーズの警備モデルだ。
かつて、ヒフミが助けようとした少女を連れ去った機体と同じ機種。
青年の横を歩く亜人の娘は、その姿を興味深そうに眺めている。こうして好奇心に瞳を輝かせる姿を見ていると、先ほどまでよりずっと幼い印象だ。
「こうして実用されているラプトルを見るのは初めてですか?」
「そういうわけではありませんが……結晶細胞を利用したデバイスには、わたしも関わっていますから」
数少ないヒフミが知る由峻の情報にも、彼女が異種起源テクノロジーの研究に関わっていることは記されていた。
飛び級で大学の研究室に入る才媛である。
専門分野の会話になると、ヒフミにはお手上げかもしれなかった。
「ラプトル型無人機は、人工筋肉そのものが演算処理装置として使われているんです。考える筋肉――実装されているのはシンプルな人工知能ですが、その制御方式は結晶細胞を利用した無人兵器の基礎となっています」
急に饒舌になるところを見るに、彼女の専門はこの手の制御システムらしい。
ヒフミは道具を使う側ではあっても、作る側ではないので深い話はできそうになかった。
「ぞっとしませんね。万が一ストライキを起こされたら、人工筋肉を利用できなくなるかもしれない」
「思考する結晶細胞という意味では、異形体も亜人種も無人機も変わりません。そのときは話し合いでもしましょう。幸い、人間には知恵があります」
やや悪戯っぽい微笑みが、一〇年前、塚原ヒフミが憧れた少女の振る舞いと重なる。
何というか、身につまされる思いだった。仮に由峻がヒフミの執着する『思い出の君』だとしても、彼は名乗りをあげられない。
時間は残酷である。
輝かしい記憶も、幼き日に抱いた誇りも、その後の保証をしてくれるものではなかった。
ましてや彼は人でなし。人外の力を以て人外を制圧する――分相応の身に落ち着いた今、ヒフミにあるのは乾いた義務感だけだ。
結局のところ、あの日の出来事を問わないのは、彼自身の弱さに端を発している。友人の高辻馳馬にいわせれば、変なところでロマンチスト。女々しい苦悩に口の端を歪める。
まったく、なんて様だ。
「大丈夫ですか」
軽い自己嫌悪に陥っていたところ、気遣わしげな声が耳朶を叩いた。
気付けば、由峻に顔を覗き込まれている。一々、どこか無防備な仕草の娘だった。わざとやっているのなら大したあざとさだが、天性のものだろうか。
一言で言うと調子が狂う相手なのだ。
冗談めかして終わらせるには、由峻には美貌がありすぎた。切れ長の、ややつり上がった両目と、アンバーのような透き通った黄褐色の瞳。
きめ細やかな白皙、すっきりした鼻梁の線は美しく、唇は紅を引いたように赤く蠱惑的だ。
ヒフミも色々と辛い。
表面上は胡散臭い笑みを崩していないものの、掌にはじっとりと汗が滲んでいる。
平常心、禅の心だ! と己を鼓舞すること数秒。
自分は仏教僧には成れないな、と諦めかけたとき。
「……中々、仲が良さそうで結構なことだが」
合成皮のソファーと長テーブルの前に佇む進藤孝一郎が、くたびれた制服姿で二人を生暖かい目で見ていた。
先導していた兵士の方も、上司の横で同じような目線をこちらに向けている。
いつの間にか、施設の地上部分――それもロビーに到着していたらしい。
広々とした空間はごく普通の受付といった風情の場所で、身体検査のためのセンサー類が堂々とおかれていることを除けば、目新しさのない空間だ。
どうやら二人の世界に没入していたことに気付き、そそくさと姿勢を正す由峻。
今さら恥ずかしがっているあたり、天然の気がある娘だった。
それにしても昨日の今日の出会いとは思えない距離感だなと、ヒフミが訝しんでいると追い打ちが来た。
「まあ。ほどほどにしてくれると嬉しい」
若干、気を悪くした青年は穏やかな笑顔のまま毒を吐いた。
「まず女の子を軟禁しない。僕たちはそういう成長をするべきだと思うんですよ」
砲艦外交を是とする人類連合、その下部組織UHMAの一員がいうとただの嫌味である。
心なしか、進藤が頬をひくつかせたのは気のせいではあるまい。
「そこらで許してやりたまえ、ヒフミ」
慇懃さと寛容さに満ちた、低い男の声。
進藤の後ろから現れたのは、身長二メートル近い山羊頭の巨漢である。
「……イノウエ先生?」
「宮仕えというのは大概、理不尽極まりないものだよ。何より、今回は幸いにも、私の手が届く範囲内で済んだのだからね」
ぬけぬけと言ってのけたイオナ=イノウエ――今回の護衛を依頼した張本人が、窮屈そうに身を屈めて歩み寄ってくる。
まるで時代劇のような格好だ。
藍色の和服の上に漆黒の羽織姿、その出で立ちは大時代極まりない和装であり、足下だけ革のブーツの和洋折衷が、かえって男の異相に溶け込んでいるのだから皮肉なものだ。
「どうして、あなたがここにいるんですか」
「イノウエ氏は、我々の民間協力者だ。今回の事件を解決するに当たって、UHMAとの窓口を務めてくださった」
進藤孝一郎が、表情の読めない仏頂面のまま喋り始める。
左脇の丸めたコートをテーブルに置くと、由峻へソファーに座るよう促す。
長話になると示したつもりだったが、彼女は首を横に振ってそれを断った。
この賢角人の娘にも、何やら思うことがある様子であった。
「そもそも、今回の件は不審な命令が多すぎた。UHMAと話がついたはずの、導由峻の身柄拘束。さらに当日の不自然な交通規制……つまり、だ。これは我々にとって最も憂慮すべき事態を意味している。治安を預かる日本当局に、敵の協力者が入り込んでいる」
「もちろん、不穏分子の洗い出しは情報機関の仕事だ。UHMAと即応部隊にとって重要なのは、彼女を狙った襲撃を今日一日、どうやって切り抜けるかという点だろう」
話を引き継いだイオナが、教鞭を執る教師のように訥々と語り出す。
「即応部隊は彼女と君を解放し、その取りなしは私が受け持つ。彼らとて身内から犠牲を出したくないのだ。この通り、没収された備品も返却される」
つかつかと近づいてきたイオナが、その分厚く大きな掌の上に何かをのせている。
掌大の通信端末と、ヒフミの愛用する丸眼鏡だった。
手渡しで返された物品を前に、ヒフミは何とも言えない顔をしていたが、やがて意を決したようの丸眼鏡をポケットに仕舞い込み、通信端末の状態をチェック。
こちらをモニターしている相棒へ呼びかけた。
「馳馬。そっちでは状況を把握してるのか?」
『おー、繋がった。昨日、我らが管理官様から状況説明があってな。安心しろヒフミ、そっちに向けて増援が出発したところだ』
「わかった。――正直に答えてくれ。今回のオペレーション、ずっとイオナ=イノウエの介入で成り立っているんだろ?」
どう考えても、一連の流れは強引で不自然なのだ。
この程度の隠し事はお互いにしないはずだという信頼があった。
音声出力は会話モード――つまり周囲に聞かせるための会話だ。こちらの意を汲んだ相棒は、正直な答えを返してくれる。
『そのようだな。お前さんが軟禁されてる場所を特定して、昨日のうちに即応部隊と話をつけたらしい。ちょうどいいや、目の前のお師匠に尋ねてみろ。今なら喋ってくれるだろうさ』
馳馬からの援護に感謝しつつ、目の前にそびえ立つ山羊頭の老人を見た。
半人半獣、第一世代亜人種でありながら人間社会の側に立った男。
おのれの恩師、イオナが何を考えてこんな茶番を仕組んだのか、是が非でも問いたださねばならなかった。
自分でも驚くほど、静かな声が喉からひり出される。
「つまり、最初からこうするつもりだったんですか」
たった一晩で零から交渉を成功させるなど、如何に百年の時を生きた亜人であろうと不自然極まりない。
一回きりのやりとりで成立するのは、互いに条件の摺り合わせが出来ているときだけだろう。
たとえば塚原ヒフミの異能、〈結線〉で他者を操るなら話は別だが、イオナはそういう細工はしない男だ。
必然的に、事前の打ち合わせが出来ていたと考えるべきだった。
「無論、こういう厄介な状況を想定し、進藤隊長とは以前から交流していたとも。結果的に敵の動きの方が早かったのは、言い訳しようもないミスだったがね」
「あなたらしくもない。謀をするなら、せめて手駒には事情を飲み込ませておくべきでしょう」
この師あっての弟子だ。
実際問題、ヒフミは自分が利用されただけなら冷静でいられる自信があった。
問題はただ一つ、まだあどけなさの抜けきらない導由峻を、その隠謀に巻き込んだことである。
胸中の不快感は大きい。
その感情が、自分にとって特別な少女だからなのか、単に部外者を利用する節操のなさに怒っているのか、定かではないけれど。
そのときだった。
進藤孝一郎やイオナと対峙する青年の後ろに控えていた娘が、一歩、前に踏み出す。
二人の剣呑なやりとりを見守っていた由峻が、静かに声を上げた。
「イオナ、つまらない隠し事をしたものですね」
透き通った声音に、嫌悪の感情が滲み出ていた。
そういえば、イオナにとって由峻は『古い友人の娘』だったなと思い出す。
しかも世代が違うとはいえ、種族まで同じ賢角人なのだ。ヒフミの知らない関係があっても不思議ではない。その割りに親しさよりも、相性の悪さが一目でわかるのも確かだが。
「最初から、隠し事にする意味もないでしょうに」
「ふむ。では巻き込むのかね」
「もう十分に巻き込んでいます。元より、そのつもりなのだと思っていましたが」
由峻はそう言い捨てて、どこか憂いを孕んだ眼差しでヒフミを見やる。
「塚原さん、巻き込んでしまったのは私の方です。どうか、少しだけお時間をいただけませんか?」
「構いませんよ。さっきの話の続きと洒落込みましょうか」
琥珀の瞳に込められた力強さに呑まれ、気付けば首肯していた。
自分は、つくづくこの娘に甘いらしい。万が一、ハニートラップだった日にはどうしたものかなと思案したが、血なまぐさい報復しか思い浮かばなかった。
あまりにもあんまりだった。
愕然としているヒフミの内心も知らぬまま、由峻は気持ちを落ち着けるようと悪戦苦闘中だ。
両手でスーツの裾をぎゅっと握り締め、二度ほど深呼吸。閉じられた眼が開かれ――事の発端が語られ始めた。
「すべての始まりは私の母――第一世代の亜人、シルシュの行いにありました」
◆
「シルシュは日本列島の〈異形体〉が生み出した、最初期の亜人です。人類を遙かに超える活動期間を持つ彼女にとって、文明社会を力ずくで破壊する同胞は好ましく映らなかった。そこで、母はまったく別のアプローチをかけることにしました」
この世界は今なお、侵略の最中にある。
人類連合のような共生派の組織と、神話主義者に代表される過激派は異種がもたらした変化の光と影に過ぎない。そもそも光があるかすら曖昧なのだと、由峻は思う。
緩やかな同化の形を借りた侵略と、人間社会を破壊し尽くす征服――いずれにせよ褒められた行いではあるまい。
第二世代の出自を思えば、そう思考すること自体が皮肉であった。
賢角人。狩猫人。猛翼人。
三大種族とも呼ばれる、最も代表的な亜人たちは、本質的に人類にとって優しくない存在だ。
人類という種の交配システムにまで手を伸ばしうる、侵略の尖兵。
人間の基準で十分な美貌を持つ第二世代亜人は、かくあるべくして生まれた存在であり、それこそが列島に根を張る共生派〈異形体〉――トリニティクラスターの意図するところだった。
そして第二世代をデザインした張本人こそ、由峻の母なのである。
「シルシュは彼の文明崩壊の最初期から、〈異形体〉との全面戦争が終結した後まで、様々な形で人間社会に干渉しています。無人兵器を大量生産する体制の確立など、長期的に人類の延命に役立った事業は数知れず、必然的に敵対する亜人も多い人でした……それだけ大きな影響を残した彼女が、その晩年、成し遂げようとした研究があります」
彼女も百年近い時を生きてきた亜人だ。
その膨大な量の知識と経験は、種族の持つ情報リンクを通じて、由峻に継承されている。
一〇代のはじめ、彼女は母の蓄積してきた記憶と知識に初めて触れた。それは毒のように精神を蝕む情報の渦であり、何故、自分が軟禁され続けたのかもそのとき悟った。
「現状、人間は〈異形体〉と対等ではありません。その元凶こそ、彼らの持つ環境改変能力です。熱核兵器を無力化し、大規模な地上緑地化や、恒常的な資源供給を可能とする力。それが、〈異形体〉を絶対者たらしめているといっても過言ではありません。〈ダウンフォール〉を生き延びた北米や欧州の凋落も、元を辿ればすべてここに集約されます」
絶対的な環境改変能力を誇る〈異形体〉の登場により、核兵器は報復できない人類を虐殺する以外、使い道のない兵器に成り下がり、民族紛争で戦術核が用いられるという凄惨な切っ掛けを経て、人間社会はその脆弱さを露呈させた。
これに乗じて神話主義者が暗躍する中、蛮行の後始末に奔走したのは異種共生を唱える〈異形体〉であり、広域に拡散した放射性物質の浄化を通し、彼らは人類から一定の信頼を勝ち取った。
否、信じられなくとも――身を守るにはそうするほかないのだ。穏健派〈異形体〉との同盟抜きに国家の安全保障は立ちゆかない。
そういう時代だった。
「……〈異形体〉の絶対性を削ぐ研究、ってことですか?」
「ええ。母はずっと、現在の一方的な力関係を嘆いていました。最終的に管理社会しか生み出せない悪しき土壌である、と」
ヒフミの問いに、重々しく頷いた。後頭部から伸びた山羊角が、ずっしりと重い。
苦味が舌の上に広がる中、由峻はまるで他人のように母の名を口にしていた。その所業を口にする度、胸の奥が冷えていくのがわかった。
彼女自身、はっきりしない曖昧な感情がそこにあった。
「そこで彼女は、〈異形体〉の中枢へ直接通じる門を作り出しました。人間の手に、彼らの力を引き渡して対等にするために」
もうおわかりですね、と呟いて。
ソファーとテーブルを挟んで並ぶ男たちへ、導由峻は落ち着いた微笑みを投げかける。
「――〈異形体〉へ接続しうる鍵であり唯一、彼らの思考そのものを理解しうる翻訳機。それが私の肉体なのです」
沈黙。
それはヒフミにとって、些か信じがたい話であった。そもそも二二世紀の地球では、〈異形体〉が絶対不可侵の存在であることは一般常識の類。
過去半世紀、〈異形体〉の牙城を崩そうと人類は足掻き続けたが、ついに終戦まで、一矢報いることさえ叶わなかった。むしろ一方的にしてやられた結果、地球上の文明は崩壊しかけたのである。
最小でもキロメートル級の巨体を誇る、超物理現象の申し子たち。それが〈異形体〉という地球外知性体であり、人間には手出しできない絶対者だ。
その落とし子たる亜人とて、やはりそれは同じこと。頭を吹き飛ばされれば人間は死ぬ、ぐらいの当たり前なのだ。
突然、そういう道理を覆されたとして――いきなり信じろ、という方が無理だった。
しかし、由峻の斜め後ろに控える孝一郎とイオナを見れば、己を担いだ狂言の類でないことぐらいわかる。両者ともに真剣な顔で、年若い二人の会話を見守っていたからだ。要するに、非常識な厄介ごとなのだ。
途方もなく荒唐無稽な話だが、由峻の言葉を解釈すればこういうことになる。
地球上の全人類を一方的に蹂躙出来るだけの存在と、取引するための貴重な足がかり。
それは、言ってみれば悪魔の取引に似ていた。
一度、その存在を知ってしまえば取り返しのつかない選択を迫られ、どんな道を選ぼうとまともな結末は期待できない。
人類の戦略兵器を一方的に無力化する力と、〈異形体〉の自制を取り払った無尽蔵の資源生産能力。
何の制限もなくその力を振るえるとなれば、多少のリスクは承知の上で無茶に走る勢力は腐るほどいるだろう。
たとえ自分で使う気がなかったとしても、他人の手へ渡すわけにはいかない宝物。
そう考えれば、UHMAと日本政府の間できな臭い約束があったとしても不思議ではない。
とはいえ、由峻の語る秘密――シルシュなる亜人の遺産はその性質上、真偽を確かめた人間もいないのではなかろうか。
「塚原さん、私の担当を外れていただけませんか」
「おや、そこまで嫌われてました?」
由峻は首を横に振った。
後頭部の山羊角が、重量感を伴って左右に揺れる。
「いいえ。確かに多少、目に余る言動はありましたが――あなたは悪い人間ではないのでしょう。そんな人が、私のために傷つくのは耐えられないのです」
「ははあ……我が侭って奴ですか。残念ながら、良識ある大人としては引けませんよ」
ヒフミの正直な感想は、どいつこいつも大げさすぎやしないか、というものであった。
しかし彼の普段の不真面目な態度が災いしたのか、予想外の展開が、彼を待ち受けていたのである。
最初に反応したのは、導由峻だった。逞しい角を右の人差し指でそっと撫で、少女は困惑した表情を浮かべる。
「人の体臭を嗅いだり、躰を触ったりするのも良識のうちなのですか?」
昨日と今日、一泊二日の間に塚原ヒフミが行ったセクハラの告発だった。
効果覿面だった。早速、進藤孝一郎とその部下一名が、変質者を見る目でヒフミを睨み付けてくる。
服の下でだらだらと冷たい汗を掻き、辛うじて平静を取り繕った。自身の表情筋すら完璧に操りつつ、もしこの世に神がいるのなら、と塚原ヒフミは夢想する。
そいつはきっとろくでなしで、なげやりな試練を与えているに相違ないのだ。
ヒフミは勿論、唯一神を報じる信仰者ではない。したがって唯一神を罵倒する理由も特にないので、やり場のない憤りを腹に飲み下した。
「いきなり誤解を招く言い方で、社会的に抹殺されようとしてるんですが」
「すいません、つい……そういう追い詰められた顔にこそ、人の本質が滲み出ますね」
何故か嬉しそうだった。
無自覚だとすればかなり不味い。涼やかな微笑みを浮かべる、秀麗な乙女の台詞だと思いたくはなかった。
正直なところ、依然、この娘の性分は得体がしれないの一言に尽きる。
〈異形体〉にアクセスできる特異体質だとか、そういう要素を抜きにして、ヒフミの知らない世界を生きているのだ。
右往左往する年上の男を見て、何が楽しいというのだろう。その法悦を理解してしまったら、後戻りできない気がして青年は戦いた。
「これっぽっちも謝る気ありませんよね。勿論、僕もうっかり破廉恥な奇行に出てしまいましたが、その都度、謝罪を――」
「ええ。ですから愉快犯なのでしょうね。我ながら度し難い感性ですが」
「知りたくない世界だ」
理不尽さに頭を抱えたくなった。
抜けるように白い肌を、ほんのり朱色に染められても対応に困る。何故なら、確実に甘酸っぱい理由ではないからだ。
「よくわからんが。性犯罪までいっていたなら、ジョークで済ませず刑務所にいってくれ」
進藤孝一郎は顔をしかめたまま、理性ある大人らしく頷いてみせた。
わからないなら口を開くなよ、と憤りを感じたが、ヒフミは驚異的平常心で、自己の表情筋を制御し続けている。
作為的な胡散臭い微笑みは、一見すれば彼が堪えていないように見える証だ。その実、割りと精神的に追い詰められているのはご愛敬。
いつの間にか、塚原ヒフミを取り巻く状況は悪化している。
「不当な拘束だって犯罪ですよね。いやあ、僕の堪忍袋ってどのぐらい膨らむんでしょうね」
「ヒフミ、彼らは君の奇行に対して隔意を抱いているのであって、行為の違法性は問題ではないのだ……ふむ。由峻は君のことをそう嫌ってはいないようだし、道義的には彼らの方が問題だがね」
聞き捨てならない台詞をこぼしつつ、イオナ=イノウエは超人犯罪即応部隊へ矛先を向けていた。
一体どの口でモラルについて語るのか、定かではない。会話の流れからすると孝一郎たちはとばっちりもいいところだが。
「師匠、追い打ちをかけるふりをして取引相手を貶してませんか」
「司法が仕事をしないとき、報復と称し、仇を死ぬまで滅多打ちにするのが人間だ。私は理性的だろう?」
「極端な例を持ち出して、自己正当化するのやめましょうよ。何故か、同族嫌悪が湧いてきて嫌なので」
茶番めいたやりとりの後、深々と溜息をついた。
「どのみち、乗りかかった船です。導由峻、君にどんな事情があるにせよ、僕は君を守ります。いいですね?」
「……どうしてですか? 私はもう、私の目の前で誰かが傷つくのは嫌です」
聞きようによってはエゴイスティックな発言だが、それは、彼女の嘘偽らざる本音なのだろう。
自分自身が厄災の元凶ともなれば、割り切りの一つや二つは生まれて然るべきだ。そして、由峻にとっての一線は、自分の目の前で起こった出来事かどうかなのである。
だが、それでも。
由峻の言葉は今さら過ぎて、思わず笑ってしまいそうだった。危険と縁のない任務など、UHMAの超人災害対策官にはありえない。
一度、関わってしまったのなら、区切りよくなるまで傍にいた方がいい。
「目の前で、不幸せになりそうな子を放っておかない。そのぐらいの、つまらない良心ですよ」
冗句めいた語り口と裏腹に、それは、塚原ヒフミにとって嘘偽りない本音であった。
人ではないものにとって、この世界は残酷だ。
秩序は人間にとっての常識や安全を前提にしているから、その類型に当てはまらない異物に対し、どこまでも冷淡になる。
そのあり方は決して悪ではない。むしろ一個人で都市の存亡を脅かす存在など、受容される方が不自然なのだ。
それでも彼はこいねがう。
人ならぬ命にも、人並みの幸せがあっていいはずだと、恥知らずにただ祈る。新種としての価値観を築けないまま、逸脱者として生きてきた男は、年若い後進の幸福を願わずにはいられなかった。
どこか含みのある発言に対し、由峻が口を開きかけた刹那。
――轟音。
激しい揺れが足下を襲った。
地震とは異なる一回きりの大きな衝撃。
急ぎ働かせた超常種としての知覚器官が、さらなる異常を感知する。急激な情報信号――結晶細胞の共鳴現象の増大。第一世代特有の無線操作が、結晶細胞への破壊的コマンド群を送り込んでいた。
「全員、伏せろ!」
ヒフミが叫んだ瞬間、二度目の衝撃が来た。
鉄筋コンクリート製の壁が呆気なく吹き飛び、巨大な瓦礫片が横殴りに飛来する中、すぐ傍にいた少女へ覆い被さる。背中に鈍い痛みが走り、頭部へ何かが突き刺さる。
ガラガラと崩れていく建造物の音だけが、いつまでも耳に残った。
◆
日も昇って間もない、秋晴れの空の下。
廃墟化した街並みの一角から、カプセル型の構造体が飛び立った。
超低空を水平飛行する、直径三メートルに及ぶ構造体は、第一世代亜人種の生み出す推進力によって加速。
六秒で極超音速に達したそれは、迎撃用レーザーの洗礼をものともせず基地施設へ至った。
音速を超えた物体の発する衝撃波は地表をズタズタに引き裂き、基地中央のビルへ着弾。
空爆を想定した施設とはいえ、莫大な運動エネルギーに耐えられるものではない。
一撃で外壁が陥没した。
さらに衝撃で無数の欠片が剥離し、飛び散った硬質の飛沫は吹き荒れる爆風に乗って、拡散していく。
その正体は、人間の生きた脳細胞を混ぜ込まれ、超物理現象の波動媒体としての構造維持に成功した結晶細胞の群れ。
結晶細胞の高純度構造体の維持には、一定の細胞量に比例する形で自己認識が必要不可欠だ。
〈異形体〉が知性体であると断言できる由来は、まさしく、この不可解な性質の賜物であった。
全身をこの物質で構築する以上、それは高度な自己認識を――自他の区別をつけ、演算を行う一個の知性なのだ。
日本侵入後、幾人かの惨殺死体を作りだした『彼』は、犠牲者の脳を抉り取り、砲弾めいた外殻の材料に使っていた。
犠牲者は皆、人を人たらしめる躰を廃棄され、感覚器はおろか脳細胞すら結晶と同化してしまった。
既に人間としての意識は残っていない、使い捨ての拡張兵装。
二枚の長大な織物のような、渦を描く繭の内側からコマンドが飛ぶ。
熱風によってビルを包むように拡がった剥離片が、不気味な輝きを放った。
まるで真昼の鬼火。
中枢の第一世代より、被隷属ユニットに対して指令コマンドが下される。
信号を受け取った細胞片は、そのひとつひとつが極小のリアクターと化し、膨大な量のエネルギーを吐き出した。
今や大気中を舞う塵の一つ一つが、熱を生む炉心にして燃料であった。
急激な熱量の増加に伴って、地表を爆風が薙いだ。それは最早、風というより火焔の津波。その中心にあったビルが、押し寄せる熱波によって圧壊していく。
結論からいえば。
飛翔体の感知から爆発まで、一〇秒にも満たない間に、地上施設の四割が破壊されていた。
◆
最初に戻った感覚は聴覚だった。
次に明瞭な思考が回復し、呻き声一つあげずに自身の受けた損傷を確認する。
塚原ヒフミの異能〈結線〉は、自他の肉体を非人間的な形で知覚し、支配する能力だ。自身の痛覚を制御する程度、造作もない。
把握した限りでは、頭を浅く切っており、背中の方にも打撲を受けたようだった。普通人の基準でも軽い傷と言っていい。超常種の遡航再生に任せておけば、四半刻も経たないうちに傷一つなくなるはずだ。
次に、人体探知能力を外界へ向けた。
自分のすぐ傍に、若い亜人の雌がいるのがわかった。
由峻だ。
ヒフミが庇ったこともあり、傷一つ負わずに済んだらしい。
今回ばかりは、特異体質の我が身を讃えるべきだろう。肉の壁にはぴったりなおかげで、一人の女の子を救えたなら上出来だ。
ヒフミは内心、感慨深い思いで一杯だった。
何せ、気が触れたような神話主義者や、そのシンパたちを相手に大立ち回りした挙げ句、銃撃を浴びるなど日常茶飯事。
そういう普段の出来事に比べれば、余程、恵まれた躰の張り方と言えた。
ちなみにこの男、端から見ると重傷者そのものである。
額から流れた大量の出血で、上着はべっとりと濡れており、ぴくりとも動こうとしない様はまさしく半死半生。
「へん……を、返事をして……塚原さん!」
焦ったように名前を呼ぶ由峻の声で、現実に引き戻された。
たおやかな躰ごと乗り出し、こちらを見下ろす、透き通った白皙の美貌。
その白を彩る、さらさらした黒い長髪。切れ長の両目を見開き、琥珀色の瞳はヒフミだけを映していた。
痛々しい表情だった。皮膚を伝い落ちる鮮血にも構わず、この身に触れるではないか。
そう思わせるほど、我が身を省みない優しさ。先ほどの言も、今となっては虚しいものだ。おそらく彼女は根本的な部分でお人好しであり、他人の犠牲を割り切れない。
塚原ヒフミは名残惜しさを振り払い、目を開けて少女に応えた。
「これでも頑丈な方ですから、なんとか……他の皆さんは?」
如何に亜人とて、素手で他人の血に触れれば衛生上の問題がある。
彼はそっと上体を起こし、周囲を見回した。酷いものだ。堅牢なはずの建造物が今や吹き抜け同然だった。
外壁部分のコンクリートは派手に吹き飛び、天井に至っては大穴が空いている。上の階層から降り注いだ瓦礫で、フロアが分断されていた。ちょうどテーブルとソファーがあった部分が、大量のコンクリート片で埋まっている
「わかりません。天井が崩れたせいで、他の人たちの姿までは」
「なるほど。空爆紛いの攻撃を受けたにしては、幸運といえますかね」
「幸運……ですか?」
「イオナ=イノウエが傍にいましたからね。取引相手の命ぐらい、守ってると思いますよ」
周囲の空気は粉塵混じり、しかも汗が止まらない高温である。おそらく建物の外は地獄になっている。
二人が助かったのは、つくづく幸運の賜物。一階のロビーが比較的、頑丈な作りで助かったようなものだ。
突如、胸元の通信端末が音声を吐き出した。
『ヒフミ、現状の報告を頼む』
彼の相棒、UHMA本部の高辻馳馬だった。スピーカーは先ほどと同じモードだが、説明の二度手間が防げる分、かえって都合がいい。
これまでの言動から、導由峻の冷静さは信頼できると思った。
「正体不明の敵から爆撃を受けた。施設は半壊、護衛対象以外のメンバーとは分断されたようでね。その直前、僕の知覚範囲に第一世代の反応があった」
『増援もすぐに駆けつける、持ちこたえてくれ。それと、襲撃者の件だが――先日、密入国した第一世代の仕業だろうな。運んできた馬鹿どもが、尋問で見事に吐いた。
連中の積み荷は、激しく異形化した有翼種らしい』
それを聞いてヒフミにも先の攻撃の正体がわかった。自身を包み込む防護膜を、そのまま爆薬として利用した自爆攻撃。
猛翼人と呼ばれる飛翔可能な亜人が、対人類戦で用いる戦術であった。定石通りなら、爆撃による破壊の後、亜人本体が掃討戦を開始するのが常。
吹き抜け同然になったロビーで、ヒフミは目線を上に向けた。燦然と輝く、燃えるような翼の形が見えた。
迷わず拳銃を引き抜き、目の高さで構えた。
「向こうも気付いたらしい。以後、殺傷行為を含む全行動を事後報告とする」
『了解した』
青年の目線の先、一五メートル上空。ゆっくりと、空を踏み締めるように降りてくる人影。
否、これを人と呼んでいいものか。光炎をまとった天使。そうとしか言い表せない有翼のシルエットが、空中に浮かんでいる。
翼長はおよそ四メートル、骨格自体は成人男性のそれに準じていたが、外見は板金鎧を着込んだ騎士に似ている。
なめらかな円形の頭部には、皮膚を変形させたと思しきマスク。最も目を引くのは、両肩の付け根から展開された二枚の大翼だ。
平べったい一対二本の翼はよくしなり、まるで巨人の掌のようだった。総じて人型でありながら、非人間的な印象が際立つ異形のものだ。
第一世代亜人種の中でも、神話主義者と呼ばれる征服者たち。
「脆いな――この胸に宿る憤怒に、小生の肺腑は焼き尽くされてしまいそうだ」
尊大な口調の、低い声。
同時に、男の身体を構成する結晶細胞が活性化。この前兆を捉えていたヒフミは、〈結線〉による肉体掌握を開始している。
結論から言おう。
ヒフミは肉体支配に失敗した。敵の躰の節々に埋め込まれた異物が、ヒフミからの侵食汚染に対して防壁の役割を果たしていた。
掌握できたのは、敵の神経系の一部だけ。
咄嗟の判断だった。射撃の照準がズレるよう、滅茶苦茶な動作の命令をぶちまける。
刹那。
超音速で射出された弾体が、ヒフミと由峻のすぐ足下に着弾。ロビーの床を容易く貫き、直径三〇センチほどの大穴を穿った。
その数、六つ。ヒフミの頭と胸、由峻の手足を狙っていた。
異常な威力を伺わせる弾痕に、冷や汗が流れ落ちる。
ヒフミの〈結線〉能力がなければ、今の射撃で即死してたはずだ。いや、由峻だけは助かったのだろう。
尤も、四肢を吹き飛ばされ、血まみれで芋虫のようにのたうち回る姿を無事と呼べまい。死に損なう姿を狙った飛翔体に、ぞっとするほど酷薄な悪意が見えた。
「同調型か。小賢しい奴め」
嘲りに応えず、現在の武装を確認する。構えている自動拳銃が一丁、他に刃渡り六〇センチの振動刀が一本。
笑えるほど軽装だった。
大半の装備は、昨日、乗り捨てる羽目になったUHMA車両においたままである。
やるしかないな、と覚悟を固める。
「導さん、僕の後ろに」
少女が無言で頷き、己の背後に回ったのを確認すると、強いて軽薄な声を張り上げた。
「UHMA超人災害対策官だ。こっちも亜人狩りなんて慣れてる、楽に行くとは思うなよ」
敵の意識をこちらに惹きつけられればそれでいい。
ヒフミの切り札である〈結線〉を防いだ『異物』の正体がわかるまで、一秒でも長く時間が欲しかった。
たった一度でもいい、噛み破ることが出来れば――それで決着は付く。
火力の不足を覆しうるのは、人間の武器ではなく自身の異能だ。
「力あるものが、かくも怠惰に人のふりをするか。銃弾で小生は止められぬ」
由峻を見てそう呟き、翼人は床から五〇センチほどの高さで静止する。。
ヒフミへ向けて、仮面越しに鋭い眼光。
何を思ったのか、敵は分厚い翼をはためかせ、楽しげに喉を鳴らし始めた。
「我が名はアニラ……偉大なる始祖、カシミールクラスターが九七四番目の子だ。シルシュの娘を渡して貰おうか」
「またその名前ですか。この娘にどんな期待を寄せてるんだ、いい加減にしてくれ」
時間稼ぎのための台詞とはいえ、半ば本音であった。
すると神話主義者――アニラは楽しげに笑う。
「ハハハッ! なに、小生と貴様ら――UHMAの目論見は同じだ」
第一世代の多くは、その人間離れした身体機能ゆえに、常識から外れた振る舞いに走りがちだ。
傷つきやすい肉体を超克した、異形の超人はどこまでも増長する。
幾重もの守りを持つ身体と正反対の、剥き出しのエゴこそ超人の本質である。
どのみち、ヒフミは会話に乗るしかなかった。
「どういうことだ」
「小生が望むのは今の秩序の存続だ。人間、貴様がUHMAの一員ならわかっているのではないか?」
亜人の超越性は、その肉身に溶け込んだ異種の体組織に由来する。
彼らの肉体に混ざり込んだのは、その性質を千差万別に変容させ、エネルギー保存の法則を嘲笑う魔法の杖なのだ。地球外知性体〈異形体〉の欠片、結晶細胞が生んだ人ならぬ異形。
「たとえば百年後の地上に、人間の住む世界など残ってはいまい。亜人が社会を乗っ取るか、超常種が親殺しを成し遂げるか――いずれにせよ、我らにとっては同じこと。現状維持こそ最善なのだ。その娘の噂が本当かどうかは知らぬ。だが、不確定要素は潰しておくべきだろう?」
物わかりのいいふりをした暴言である。何と応えたものか。
「UHMAはあらゆる種族の生を肯定する。お前の断罪は、性急で横暴なだけだ」
「よしんば、その娘が本当に〈異形体〉へ接続できるとして。それが原因でパワーバランスが崩壊してみろ、万では効かない犠牲が出るぞ。なあ、超常種よ。折角、貴様らが安寧を貪る社会を壊したくはあるまい?」
最後の一言は、ひどく心に突き刺さった。塚原ヒフミにとって、異能異形が普通に生きられる世界は何よりも尊い。
だからこそ彼は戦ってきたのだ。
もう二度と、同胞が引き起こす惨劇を繰り返さないために。
とはいえ、彼とて治安組織の一員。まかり間違ってもアニラの甘言に乗ることはないが、上手い切り返しが見つからないのも事実だった。
上手く応えなければ、すぐにでも戦端が開かれる。
青年が頭を捻っていると、後ろの由峻が前に踏み出した。
たった一歩。
それだけでアニラの注意が移る。のっぺりした装甲が、ヒフミの後ろへ頭を傾けた。
何をしている、と声に出しそうになった瞬間。
「――あなたの言葉が、その前提からして間違っていますね。よもや、我々の出自を忘れたのですか?」
冴え返った声があった。
その場に満ちていた雑念妄念を引き千切る、獰猛な気配。その異質な響きに怖気が走った。
理由もなく、塚原ヒフミの胸中がざわつく。先ほどまで、自分が気に掛けていた護衛対象とは別の人物であるかのような錯覚。
「まず〈異形体〉の目的は、人類への侵略ではありません。それは所詮、超人に特権意識を植え付ける方便でしかない」
喋り始めた由峻が珍しいのか、異形の有翼種は黙したままである。
異形の翼人は、何事かを観察している節があった。
対するヒフミも銃口をアニラからずらさぬまま、耳を研ぎ澄ます。
「塚原さん、〈異形体〉に対し、まともな抵抗が出来ましたか? 彼らの立場からいえば、ホモ・サピエンスなど脅威になり得ないのです。人間単体では、〈異形体〉の作る小規模クラスターを撃退することも叶いません。前世紀の文明崩壊も、東アジア、インド、アフリカの人口を減らす以外の意図はなかった。数十億人を殺した〈ダウンフォール〉の標的は、人間ではないのです」
ちらりと由峻の方をふり返った。
超常種としての知覚能力がある分、アニラを注視する必要は薄かったが、その実、ヒフミにとって彼女が特別だからそうしたに過ぎない。
ここに来て、由峻という娘が語る言葉には忌まわしい魔力があった。想像すればするだけ、この身にはどうしようもない事実が浮かび上がる。
彼は、最悪の予想をぶつけてみた。
「……ホモ・サピエンス以外の脅威があった?」
ええ、と目を伏せる由峻の顔には、何の表情も浮かんではいない。
冗談めかした嗜虐性も、周囲に向ける微笑みも、何一つとして。
たったそれだけのことに、衝撃を受ける。おそらく塚原ヒフミは、尋ねてはならない類の話題に踏み込んでいた。
しかし最早、分水嶺は通り越した。
由峻の赤い唇が、忌まわしい真実を暴き立てる。
「彼らが真に恐れたのは、いずれ生まれ落ちる人類の変種でした。膨れあがった人口こそが、その鬼子を育むと〈異形体〉は考えたのです」
視線を前に戻す。
アニラは巨翼を動かすこともなく、重力を忘れて宙に浮いていた。優雅に腕を組む姿が目障りだった。
相手に気取られぬよう、異能による侵食と解析は続けている。
先ほど、躰の掌握を阻んだ異物の位置は特定済み。
数は四つ、あと少しだ。
銃口を敵の心臓に合わせ、言葉の圧力に耐えようと気張った。
「馬鹿なことを。それが、あいつの台詞とどう関係するっていうんだ」
「……超常種を受け入れている限り、人類連合は絶対に妥協できないのです。あらゆる文明から無縁のまま、物理法則を歪めてみせる新人類。〈異形体〉と主義者の敵は、絶対零度の真空や放射線の嵐すらものともしない、超常能力の担い手たちです」
由峻を、人間の女の子のように扱った自分が、ひどい勘違いをしていたのだと気付いた。
そもそも、青年が銃を手に取ったのは、人間も亜人も同胞も、何一つ信じられなかっただというのに。
かつて、人間は皆、生まれながらにして平等だと謳った時代があった。
幾度も踏みにじられ、暴力の前に無力だったとしても、たった一つの点でそれは評価に値する。
いわば、美しいまぼろし。
二二世紀の地球では、どう頑張っても手に入らない世界観の産物だ。
そもそも〈異形体〉来訪以前の地上には、異種など存在しなかった。文化も思想も民族も肌の色も、とどのつまり、過去一万年にわたる人類史の延長線上にある区別に過ぎない。
ホモ・サピエンスとそれ以外の種の隔絶に比べれば、つまらない差異なのだと、塚原ヒフミは知っている。
「――ホモ・ペルフェクトゥス、超常種と呼ばれる生命体の根絶。私たち亜人種は、そのために生み出された道具に過ぎません」
ヒフミの耳を、無情な言葉の連なりが通り過ぎていく。
不思議と驚きはなかった。
ただ、皮肉だと思った。かつて自分を救った――向こうは気付いてすらいまい――導由峻が、こうも正反対の言葉を紡ぐのか。
愉快なものだ。十年以上も無様に生きて、こんな経験ができるとは。
同時に〈結線〉を防いだ、アニラの副脳への侵食が完了する。翼の付け根と脇腹に埋め込まれた、四つの異物の正体は、この猛翼人によって殺害された人間の脳髄だ。
ふと、アニラの躰が右にズレた。ちょうど由峻だけを狙い撃ちに出来る角度。
それを理解した瞬間、ヒフミの血は凍りそうになる。
「時間切れだ!」
〈結線〉による肉体掌握を気取られた。
あるいは、元より遊びだったのか。
煌々と輝く光とイオン化した大気の異臭。結晶細胞の供給した電力を元に、荷電粒子の渦がアニラの両翼に収束している。
一対二枚の異形器官が変容、粒子加速器と化す。
荷電粒子を射出するビーム兵器だ。射程こそ短いものの、この距離なら僅かな飛沫でも致命的な破壊力を生み出すだろう。
動作自体への割り込みは間に合わない。精々、攻撃をコンマ数秒遅延させることしかできない。それで充分。
粒子ビームの射線へ一歩踏み込む。
そこに咄嗟の判断があったとしても、理性的とは言い難い、衝動的な動作であった。
着弾。
まず熱を感じた。
嗅覚は死んでいる。
一瞬で粘膜を焼き切られたせいで、機能していないのだ。
顔の表皮が音を立て焼け焦げる。
じゅうじゅう、じゅうじゅう。
まるで焼き肉を調理する鉄板のような、汁気を伴う加熱音。
火傷した皮膚がケロイド状になる暇もなく炭化していく。
これは自分がバーベキューになっているんだな、と自覚した瞬間、吹き付けてきた熱に耐えかね、眼球が弾け飛ぶ。
痛みはない。
頭骨を全方位から殴られ続けているような衝撃が、脳裏を駆け巡っていた。
両目から真っ赤になった火箸を突っ込まれ、脳味噌をグチャグチャに掻き回されているのではないか。
声一つあげぬまま、そんな光景を思い浮かべる。
熱い。
黒こげになった鼻の隆起が、役立たずになって床へ落ちる。
長い間、鉄板の上で放置された焼き肉の成れの果てのような光景だ。
人肉が焦げ、血液が蒸発し、頭蓋骨の中まで火が通った出来損ない焼き肉料理。
真っ黒な炭の塊と化した頭部に引きずられ、一七〇センチ代半ばの躰が前のめりに倒れ込む。
ヒフミの指が拳銃から離れ、樹脂製のフレームが瓦礫にぶつかって乾いた音を立てた。
「塚原さん――」
先ほどまでの様子と一転、人間味を取り戻した由峻が悲鳴のような声をあげた。
虚しく木霊する叫びは、長く続かない。
アニラは追い打ちとばかりに翼の表面を変形させ、無数の肉片を銃弾のような弾頭に成型し直した。
このビルを襲った爆発と同じ、それ自体が熱と光を放つ魔弾。恐るべき炸裂弾の連続射撃が、由峻の足下へ叩き込まれた。
反応できたのは、ほとんど紙一重だ。
思い切りよく横っ飛びに回避したが、後が続かない。
着地後、姿勢を立て直しそうとしたときには手遅れだった。
首に強い衝撃。
床上を滑るように移動したアニラが、由峻の白い喉首を鷲掴みにしている。浮動する有翼種は、そのまま加速。少女の躰を持ち上げて壁に押しつけた。
硬い音。
由峻の後頭部、二本の山羊角がぶつかり、衝撃がもろに頭骨の中にまで浸透する。
ぎぃっ、と濁った声がもれた。気管を締められた結果、呼吸すら覚束なくなった肉体の反応だ。
突然、アニラの指がのど頸から離れた。
支えを失った由峻の躰が、重力に従って落下。
どしん、と派手に尻餅をつき、崩れた床や天井の塵でスーツが汚れる。
「が、げほ……えふっ」
激しく咳をする由峻は、肺に入り込む新鮮な空気に涙を零した。
そのほっそりした躰へ、鋭い蹴りがめり込む。
ブーツ状の装甲をまとった爪先が、衣服越しに腹筋のど真ん中に突き刺さった。
たおやかな女の躰が、くの字に折れて三メートルほど横に吹き飛んだ。声にならない汚らしい苦悶の喘ぎ。胃の内容物――今朝の朝食が、勢いよく食道を迫り上がる。
腹から脳天まで突き抜ける衝撃。
目が廻る。
耐え難い苦痛が先立ち、ろくに躰を支えられないまま、床と接吻するように嘔吐した。
「貴様、人格が混濁しているな? 相手はシルシュか」
舌の上に残る未消化の肉片を吐き出し、涙でべとべとになった顔のまま、由峻は顔を上げる。
長身有翼の怪人の後ろに、ぷすぷすと煙を上げる真っ黒な塊が見えた。
塚原ヒフミ。
つかみ所のない性格の、昨日出会ったばかりの青年が、頭部を炭焼きにされて死んでいる。
吐き気はしなかった。
おのれの非力さへの怒りが込み上げてくる。
「だと、したら……どうしたというのです……!」
「なるほど。あの女のような演説をぶつから何かと思えば――よもや、実の娘を人格の退避場所にしているとはな。大した外道だよ」
くつくつと込み上げる笑いを噛み殺し、アニラは眼下の娘を見下ろした。
驚くほど弱く、脆く、人に近すぎて何も出来ない愚か者。
所詮、造物主を裏切った異端者の娘などこんなものか、と。
「だが、それでいい。所詮、いくら人間の味方をしようと我らの同類。そうでなくてはなぁ。現世の理をねじ曲げる限り、我らは道理に裁かれない。法も秩序も、人の手から取り上げた先に楽土がある。善なるものとは亜人種であり、〈異形体〉なのだ。然るに悪とは、この程度の道理も見極められぬ人間であろう」
嘲りは止まらない。
「貴様とて同じだ、シルシュの娘。ためらうその刹那に、一体どれだけの命が無為に散ったか数えてみるがいい。最初から母親のように戦えばよかったのだ。大人しく飼い慣らされたふりなどするから、増長した屑共が余計なまねをする。いくつ骸が出来るだろうな――親子そろって哀れだよ」
それでも由峻は、第一世代の、超人たちの有り様を醜いと感じた。
ちがう、と呟く。
痛みだけが現実感を持った身体の中で、意思の炎が煌々と輝いていた。
それはちっぽけな祈り。
賢角人という種族に生まれ落ち、母の遺産で生かされいるだけの命の抱く綺麗事だ。
「だから、望んだのです……力を以て、何かを踏みにじろうとする……わたしたちの愚かさへ報いの下る世界を!」
血を吐くような叫びと共に、由峻は深く実感する。彼女は、たわいのない隣人との営みを愛していた。
もしかしたら、もっと仲良くなれたかもしれない誰か。
その喪失を、切り捨ててはいけないのだと思った。
対してアニラは、醒めきった瞳で仇敵の娘を見下ろしている。長年、目障りだった敵の娘を、なぶり殺しに出来るのだ。
首から上だけでもいい、と依頼主の赦しも得ている。
言葉責めに飽いた男の脳裏で、暗い愉悦が弾けた。
ゆえに、アニラは気付けなかった。
由峻の顔が、明らかな恐怖に塗り変わったことに。
ひぅ、と息を呑む音。
「――そんな」
アニラの背後に音もなく迫った人影。その上半身が、ゆらりと傾いだ。
ベルトで左腰に固定された、長大なの鞘から黒塗りの刃が滑り出る。人体の繰り出す戦闘技術の一つ、抜刀術の類。
一足一刀の間合いに踏み込む。
全身が有機的に連動し、弧を描く刀剣が軌道上のすべてを断ち割った。
背後からの一閃が、アニラの片翼の半ばまで食い込んだ。
硬質の表皮が切り裂かれ、結晶細胞とヒト由来組織の混合体が真っ二つに。
一刀が翼を突き進み、中心の結晶フレームに達する。骨格にひびが入った瞬間、苦悶の絶叫が轟いた。
激痛。
それは本来、アニラにとってありえない損傷だった。
第一世代亜人種の頑強な肉体は、それ単体の強度だけで機関銃の直撃にも耐える。刃物で斬りつけられた程度で、傷つくわけがない。己の体内から刃が引き抜かれた。
音もなく、アニラと距離を取っていく。
逃すものか――怒り狂う猛翼人がふり返ったとき、そこには信じがたい光景があった。
「貴様は!」
死人がいた。
アニラから見て、およそ五メートル先。頭を丸焦げにされた状態で、抜き身の刃を手にたたずむ影。
東部を焼き尽くしたはずの男が、信じがたいことに生きている。
「脳まで焼ききったのだぞっ!」
半ば崩れさり炭化した肉塊の隙間。
当の昔に弾け飛んだ、からっぽの眼窩が、底なしの嘲笑をたたえていた。
「ははあ、弱点があるなんて言った覚えがないな」
損傷を免れた声帯が、からかい混じりにさえずる。
焼け焦げた皮膚が剥がれ落ち、何事もなかったかのように顔が生まれ直した。蒸発した水分も、炭化したタンパク質も、次々と無から補填され、傷一つない塚原ヒフミを造形していく。
黒色の短い頭髪が伸びていき、視神経はおろか、脳組織すら再生されていた。
「これでも特別な方でね。僕らの躰は、超常能力を出力するための『環境』だ――生存の必要条件じゃない」
超常種の発現する異能は数あれど、全個体に共通する特性があった。極地環境に対応し、自己の肉体ないし外界を改変する適応能力である。
それこそが彼らの業。
〈異形体〉と同じステージに立った怪物と目される最大の理由だ。
第一世代の亜人種ならばおのれの性能に任せ、強引に極地環境を制覇するだろうが、超常種は『環境そのもの』をねじ曲げる。かつて核爆発を無に還した〈異形体〉のように。
ゆえにホモ・ペルフェクトゥスは恐れられる。たとえ文明世界が滅びようと生きていける新種を、現行人類は信じられない。
「お前みたいなのが女の子と追いかけっこなんて、不釣り合いなんですよ」
喉を鳴らして笑うヒフミはまるで悪夢であった。
黄泉か地獄か冥府の底か、死者の葬列から抜け出した亡者の似姿。
こうして軽口を飛ばす間も、彼の言語野は完全に焼け爛れて使い物にならない状態だった。思考の中枢たる脳組織がなくとも、活動可能な異形異能。
それは超常種の中でも例外的な機能であり、塚原ヒフミがUHMAにおいて危険視される理由でもあった。
他者を操る〈結線〉能力と、不死に等しい再生能力。
二つの特性が組み合わさったとき、決して、人間社会にいてはならない化け物が出来上がった。
超常種は、単なる超能力者などではない。
彼らはこれまでの物理法則から逸脱し、世界へ超常能力を撒き散らすよう運命付けられている。
つまるところ、主体すらはっきりしない、自分以外の何かによって異形異能を強制され続ける装置。
塚原ヒフミは戦う力を欲した結果、不死とも器物ともつかない無様な生き物に成り果てていた。
「……化生の類か!」
アニラの声には、確かに怯えの色があった。
彼ら第一世代にとっても未知の、得体のしれない怪物が目の前にいるのだ。
超常種も亜人種も、その圧倒的な力の根幹は『自我を介した物理法則の操作』である。
超人にカテゴライズされるものは皆、自身の脳ないし体細胞を触媒に、この世ならぬ力を振りまいている。
そして人間的な思考と肉体を必要とする限り、塚原ヒフミの異能からは逃れられない。
彼にとって自己と他者の肉体の区別は曖昧であり、指を動かすように、自己の肉体の延長して他者を支配下に置けるのだ。
「今さら、お前らの説教を聞くまでもない。超常種は誰だって知ってるさ」
心の働きに反して、その声は楽しげだった。
長い時間をかけて身に付けた仮面のかたち。
憎悪も失望も後悔も、何もかも、当の昔に味わい尽くしている。
彼らは皆、人の世にあってはならない異物なのだ。人の営みを壊しつくし、苦しみの底に叩き落としてなお、自分だけは例外でいられる。
浮かべるのは、いつだって胡散臭い作り笑顔だけ。
――それだけでいい。
ヒフミは、再生されたばかりの舌で悪意を吐き出した。
「笑え、お前の意思も矜持も奪ってやる」