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当方、角ありの嫁御を求む  作者: 灰鉄蝸
1章:運命の歯車
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4話「賢角人」




 灰色に濁った曇天の隙間から、夕焼けの光が差し込んでくる。重苦しい緞帳が開き、眩い光が舞台へ溢れ出すかのようだった。

 けれど、その色をどれだけの生者が目にできたのだろう。

 燃えるような色に照らされる地上の街並みは、二種類の赤に彩られていた。

 すなわち血肉の汚らしい赤茶色と、人の営みを飲み込まんとする紅蓮の炎。

 肌寒い冬が過ぎ、もうすぐ桜の花が蕾を開かせる――そんな春先だ。

 たとえ満開の桜が咲き誇ろうと、この街で花見が催されることはあるまい。

 それは人智を超えた異変だった。

 ただ救いようもなく、そこにあるだけで只人を肉の塊同然に貶めていく現象。



――超人災害。



 水っぽい足音がした。

 ぬちゃぬちゃとぬかるみを踏むような音。大口径の機関砲弾に撃ち抜かれた人体が、液状になって道路一杯に敷き詰められている。

 腸管の中の汚物をぶちまけた、大小色とりどりの内臓の切れっ端を踏みつけ、こんなはずではなかった日常の残骸に眼を細めた。

 五感はひどく生々しいのに、現実感がないほど――すべてが一変している。

 足下にあるサッカーボール大の塊が、辛うじて原形を留めた人間の頭部なのだと気付いた。

 いつも偏屈そうに顔を顰めていた老人は、死してなお虚空を睨み付けていた。とろりと零れた桃色のタンパク質を踏みつけ、夢遊病患者のように歩き続ける。

 似たような形状の住宅が立ち並ぶ、静かな通りだった。

 時折、聞こえる銃声と建物が燃え盛る音以外、何も聞こえなかった。

 誰かの悲鳴も、助けを呼ぶ声もない。

 血と肉が散乱する一面の街並み。人間の体重の大半は、そこに含まれる液体の重さだ。

 骸から染み出した血で土は汚泥に成り果て、そこかしこに転がる無数の人型と混ざり合っている。

 じゅうじゅうと肉の焦げる匂い。

 燃えた頭髪の放つ硫黄の悪臭。道路沿いの歩道にいくつかの人影が見えた。

 いずれも、彼に背を向けてぼうっと立ち尽くしているだけだった。

 生きている人間がいた――少年はたまらなくなって走り出す。

 駆け寄ったのは、ファミリーレストランの制服を着た若い青年だ。

 ひょっとしたら学生かもしれない。ただ、自分以外の誰かと状況を分かち合いたかった。

 肩に手が届きそうな距離で、息せき切って呼びかけた。


「あのっ」


 反応はない。

 微動だにしない後ろ姿に苛立ち、前に回り込んだ少年は、見てはならない異形を目にする。

 まず、男には顔がなかった。

 首の上に丸い頭部が乗ってはいるものの、その頭部は生者のものとして破綻していた。

 皮膚も肉も骨格も、何もかもが粘土のように捻れ、膨らんでいる。

 眼球の収まるべき二つの穴からは、万華鏡のように色彩を変える、二本の枝木が顔を出していた。

 この奇怪な樹木には眼球と視神経を繋ぐ程度の穴は狭すぎたようで、七色に煌めく枝によって頭蓋骨が圧迫され、みしみしと軋んでいるのがわかった。

 頬骨やこめかみのあたりの肉は不自然に膨らみ、ぱっくりと二つに割れた傷も珍しくないが、体液は一滴も流れていない。

 呆気に取られている少年の目の前で、男の口から一際太い枝が生えだした。

 ぎゅぼっ、ぎゅぼっ、と水っぽい肉が変形する音が響き、前歯を吹き飛ばしながら尖った枝が上へ上へと伸びていく。

 窮屈きゅうくつな肉の器を食い破り、光り輝く得体のしれない存在が顔を出していた。

 その理解しがたい景色を前に、分別ぶった理性は粉々に砕け散る。

 言葉にならない悲鳴が、喉に絡みつく。

 それは太古の昔、人の祖先が暗がりを避けたのと同じ、未知への恐怖だった。

 どうしていかわからなくなった少年が、男を突き飛ばして駆け出す。前世紀の文明崩壊〈ダウンフォール〉を経て、再生されたちっぽけな営みすら簡単に破綻する。

 保証された平和も、畳の上で死ぬ安寧も、若人が当たり前に将来を掴める機会も消え去って。


 ただ剥き出しの、単調な終わりがそこにあった。


 銃撃を浴びて死ねた人間は、たった今、自分が見てしまったものより、幸せなのではないかと思った。

 失われた命の前には、あまりに愚かな答え。

 けれど少年の胸の内で生まれた違和感と、この世ならぬ景色への拒絶は止まらない。

 どれほど長い道のりを走っただろうか。

 ぜえぜえと肩で息をしていると、知り合いを見つけた。

 今年、小学校に通い始めたばかりの子供が、車道に倒れている。いつも道端で出会う度、物怖じせず挨拶してくる元気な男の子だった。

 彼も体液一つこぼさず、頭蓋骨が爆ぜるように変形し、その隙間から七色に光る花を咲かせている。

 何もかもが手遅れだった。

 どうすればいい、とうめき声を上げる。

 何故、ただの人間として生まれついた人々が、こんな終わりを迎えようとしているのだ。

 ここは今、選択の余地さえない地獄の底だった。

 そして彼にはわかっていたのだ。

 たった一つの冴えたやり方。彼自身が、音もなく歪む日常から逸脱すれば、すべて終わらせられる。

 そのはずだと信じた。

 少年は異形異能を操る超常種であり、無力な一〇代などではない。

 然るに、問題も一つだけ。


「……ぼくは」


 こんな死に方を、許していいはずがない。

 そして元凶が、自分の見知った人間ならば、たった一つの為すべき役目もあった。

 彼にはそれができる。

 せめて自分がやらねば、本当に救いがなくなると思えた。

 何もかも狂っているのなら、終わり方ぐらいは選ばせてやりたかった。

 それが、彼自身のつまらない人間性の発露なのだとしても。


 これ以上、人が死ぬのを止めるのは簡単なのだ。


 ただの人間でありたいと願うことすら、放り捨ててしまえばいい。

 堅く、堅く握った拳と一緒に、胸の内に留めておきたい何かが握り潰された。

 遠い昔、まだ少年が誰かに誇れる生き方を夢見ていたころ。






 あとは語るまでもなく、望まぬ未来に続く道を選んだだけのこと。





 超常種とて夢は見る。

 観測不可能なブラックボックスに成り果てようと、その精神が人間をであろうとする限り、脳の働きに差異はない。

 ホモ・ペルフェクトゥスとは、精神の有り様――言い換えれば頭蓋骨の中身、精神活動そのものを、脳の外側へ出力する人類なのだ。

 あらゆる化学物質を無害化し、カロリー、ミネラル、ビタミンを合成する遡航再生そこうさいせい機能が、その異能を支える。

 器質的な異常に人の心は勝てない。

 精神は肉体に従属するファクターであり、両者を制御して心を強く保つことはできても、単体では意味がない。

 だから、完全な肉体に宿る精神は健やかだった。

 耐え難いほど醜悪で、何一つ希望の見出せない景色を反芻はんすうしても、青年の心は悲鳴をあげない。


「過去からの嫌がらせ……いやはや」


 塚原ヒフミは、寝惚け眼にうんざりした調子で口を開く。

 超人的な力を生まれ持っているのに、彼の持ち合わせる知性と感情は人間並みだ。

 外付けの装置として発達してきた兵器は皆、その進歩の過程で「使いやすく管理しやすい形」に収斂してきたが、これに対応すべき人間性――超常能力を制御する根幹部分――はそうではない。

 超常種という異能の発現者が、欠陥品である証左こそ彼らの感情だった。

 であればこそ、レベル2たる塚原ヒフミには足枷がつきまとう。

 人間として生きていたいと願い、人ならぬ力の深奥を唾棄するその姿勢が、自身を追い込む。

 自らのありのままの姿を受容した先にあるのは、ホモ・サピエンスと隔絶した一個の怪物だ。


 そんな姿は死んでもごめんだった。


 多かれ少なかれ、レベル2の超常種とはそういう生き物だ。

 最早、誤魔化しきれないほど常人離れした躰でなお、一欠片の救いのような日常にしがみつき、人間でいようとする。

 ゆえに一度、そこから先に進んだものは戻れなくなる。

 超人災害と呼ばれる大量虐殺ジェノサイド、天災にも似た破壊的現象を引き起こすのは、そういう逸脱した超常種が大半であり、該当しないレベル3は文明の外へと旅立っていった。

 その姿形すら、人間であることを放棄して。


 陰鬱な思考を引きずったまま、ヒフミは硬いベッドから起き上がり、胡乱な様子で周囲を見回す。

 寝床についたときと何も変わっていない。強いて言うなら、伊達の丸眼鏡も携帯端末も取り返せていないのが難点だった。

 見慣れない部屋は、どうやら軟禁という割りにプライバシーの配慮された個室だ。

 もちろん盗聴器や監視カメラの類を仕込んでいるのだろうが、それはそれ。

 個室が取られた自体は、別室の由峻にとって幸いだったと思うべきだろう。

 一連の不可解な事件――神話主義者の襲撃、超人犯罪即応部隊による拘束――から、一晩が経っていた。


 あの対談の後、傷ついた友人の無事を知らされると、亜人の少女は目にみえて肩の力が抜けたようだった。

 物憂げな横顔が気にかかったものの、ヒフミとて聖人君子ではなかったし、お目付役の兵隊も時間的猶予を与えてはくれない。

 すぐ別れてそれっきり、由峻と別の個室に放り込まれて一日が終わったのである。

 保安上の理由から同室での待機は認められず、現在の冴えない目覚めと相成ったわけだ。


 そういえば彼女の寝具は大丈夫だったのだろうか。

 こういうとき、亜人というのは厄介な生き物である。これは何も前時代的なレイシズムの発露ではない。

 ある種、当然の話なのだが――亜人は皆、人間にはありえない肉体組織、身体器官を生まれ持っている。

 異形性の度合い、身体構造の違いから『第一世代』『第二世代』などの区分は存在するが、世代内での個体差も大きいのが実情だ。

 ともあれ、人種ごとの明確な象徴は存在する。

 由峻の属する人種、賢角人けんかくじんの場合、頭部から生えた角が最大の特徴と言えよう。

 太くたくましい二本の山羊角を思いだし、改めて不安になった。


「枕、使えないよな」


 思わず零れた独り言。

 角の生え方には個体差があるのだが、後頭部から三日月型に伸びた角は厄介な器官だ。

 硬質な角は頭蓋骨と融合し、脳細胞にまで根を張っており迂闊には弄れない。

 まず人間用のヘルメットは被れないし、仰向けに寝るなどもってのほかだ。結果、賢角人の多くは躰を丸めたり、うつぶせになったりして就寝する。

 ヒフミの師匠、イオナ=イノウエなど二メートル近い巨漢のくせに抱き枕を愛用している。

 まったく、変なところで愛嬌を振りまかないで欲しい。


 自分が使っていた寝具を見てみる。

 プラスチックの詰め物の枕と、薄いタオルケットが二枚。

 きちんと洗濯されているが、明らかに普通人の寝具だった。

 導由峻はこれで、きちんと眠れたのだろうか。

 しかし顔を合わせる機会がやってきたとしても、うら若い乙女に訪ねる話題ではあるまい。

 いくら何でも無神経すぎる。


 考えても仕方ないな、と当たり障りのない結論を導き出すと、洗面台の前に立って顔を洗う。

 鏡を見やれば、細く開かれた双眸そうぼうと何かを企んでいそうな口元。

 我ながら胡散臭い面構えだな、と思うしかない。

 ヒフミが軟禁されている部屋は、簡単なベッドと水洗トイレ、洗面台が設置された簡素な部屋だった。

 元々、厳しく監視するつもりはないらしく、トイレはきちんと四方を囲んであるし、冷蔵庫にはミネラルウォーターが用意されていた。

 少し簡素すぎるが、安いシティホテルの一室のような部屋だ。下手をすると職員の宿舎より待遇がいいのかもしれない。


 タオルで顔を拭きながら、今後の行動を思案する。

 一瞬、異能を使っての脱出も考えた。

 嗜好品の丸眼鏡や、奪われた連絡手段を取り返すのはそう難しいことではない。

 彼は同調型と呼ばれる超常種だ。

 塚原ヒフミの超常能力〈結線〉は、他者と自己の肉体の境界を曖昧にして、遠く離れた他人の躰を操る。

 直接的な破壊力に欠けるが、人類という枠組みに対しては有効極まりない力である。

 ましてや、塚原ヒフミは例外的な才能を開花させたレベル2だ。

 ある程度、時間を掛けた精密な能力行使であれば、他人の記憶や人格への干渉すら可能だった。

 だが、下手に動けば導由峻は死ぬ。元々、ヒフミの〈結線〉は他人を庇うのには向いていなかった。

 歩兵や兵器を操る人間に対しての妨害は出来るが、砲弾や誘導兵器の雨から彼女を守り抜けはしないのだ。

 ゆえに相手の出方を見るしかない。仕込みはしておくべきだが、今動くのは性急すぎるように思えた。


 それに、一晩掛けて浮かび上がった疑念は、あの娘本人に尋ねるほかあるまい。


 一通り身嗜みを整え終わると、見計らったように金属製の扉が開く。

 立っていたのは昨日と同じ、箱形の銃器を携えた兵士だった。襲撃を警戒してか、防弾チョッキの下に分厚い生地の筋力補助スーツを着ている。

 このスーツはフィジカルコンディションを読み取るセンサー類、人工筋肉と大容量バッテリーを内蔵した特殊な衣服であり、歩兵の負担軽減を目的に開発された装備だ。

 特に足腰周りの筋力補助は大したもので、重装備を背負う人間の兵士には欠かせない。

 昨日も顔を合わせた、年かさの隊員が口を開いた。


「もう一人と同じ部屋に移動して貰う」


 昨日とはうって変わって方針変更らしい。

 あの進藤孝一郎とか言う男も大変だな、と苦笑いを浮かべる。ここは一つ、あの娘の緊張を解きほぐすような言葉をかけてみよう。ヒフミはらしくもなく善意の決断をした。

 結論から言えば、裏目に出た。









「――こうして前時代的な差別主義者は、動物愛護団体によって絶滅危惧種リストに書き加えられた、と。目指せワシントン条約ってとこです」


 朝の爽やかな会話は現実に存在し得るのか。後頭部から山羊角を生やした娘、由峻ゆしゅんは哲学的苦悩に見舞われている。

 合成木材の机を挟み、由峻は彼と向かい合うように座っていた。

 椅子は安っぽいが軽量な強化プラスチックの椅子で、鈍器のように用いることさえ不可能な作りだった。

 左手をこめかみに添えたまま、静かに溜息をつく。おおむね、目の前にいる胡散臭い青年のせいである。

 丸眼鏡を掛けていないせいか、いくらかマシな印象になっているが、これまでの言動のせいで補正がかかって見えた。

 畢竟ひっきょう、由峻の対応もひどい。


「その論には穴がありますね。まず、人間は動物ではありません」

「なぁに、どうせ哺乳類ですよ」


 遠慮のない台詞に淡々と応じると、UHMAエージェントの青年は肩をすくめてみせた。

 昨日、すました顔をしている間、誠実そうに見えた顔も口を開けば台無しだ。

 何故か、由峻の軟禁されていた部屋へ連れてこられた青年――塚原ヒフミと言うらしい――は、開口一番、深刻な状況に似合わない黒いユーモアたっぷりの発言を始めたのである。

 トチ狂った調子ながら、所々にこちらを気遣う様子を見せているので、彼女も無碍にはできなかった。

 こういう妙な人の良さのせいで、珍獣じみた輩に好かれるのだが自覚は薄いらしい。


「トラッシュトークの一環なら、職分の範疇はんちゅうとして尊重しますが」

「失礼な。趣味の一環ですよ」

「不謹慎だと言っているのです。塚原さん、昨日よりも馴れ馴れしくありませんか?」


 まったく礼儀も何もあったものではないが、この発言にはわけがあった。彼女自身、目の前の男と物理的に距離を取りたかったのである。

 昨日と同じ男物のスーツ姿の由峻は、手荷物すら持たずこの施設に連れてこられたのだ。当然、手元には衣服の替えなどない。

 シャワーの使用こそ許されたものの、二日続けて、同じ下着を使う羽目になってしまう。

 汗を掻きにくい秋と冬の間とはいえ、年頃の由峻はどうにも自分の体臭が気になって仕方がなかった。

 人間の嗅覚ではほとんど問題にならない差異なので、無意味な苦悩だとわかってはいるのだが。

 それを察しているのか、いないのか、塚原ヒフミはかなりどうでも良い話題に饒舌じょうぜつだった。


「昨日は馬鹿丁寧でしたね、ええ。僕の地はこっちですので、多少の不都合には目をつぶっていただけると幸いですね」

慇懃無礼いんぎんぶれいって知っていますか」

「これは手厳しい」


 はははっ、と軽薄な笑い声。

 昨日の今日の出会いで、何故こうも嫌なやりとりが成立するのか自分でも不可解だった。本当に不愉快なら、早々に会話を打ち切ってしまえばいいのだ。

 つまり導由峻しるべ・ゆしゅんという亜人の娘は、目の前の超常種の男に言葉で言うほど不快感を持っていない。

 疑問のあまり、小首を傾げて黙り込むこと二十秒。頭部から生えた器官の分、余計に荷重がかかるため、由峻の首にはしなやかな筋肉で覆われている。

 十代後半の白い肌に、頑強な筋肉が張りを与えていた。

 襟元から覗く肌は、幸いにも空調のおかげで汗一つ掻いていないが、朝食後、いきなりこちらにやって来た男はその余韻を容易くぶち壊す。


「そうそう、僕がこっちに移されてきた理由なんですけど――多分、拘束命令を出した相手と、即応部隊の間に不信感があります。おかげで武装も手元にありますしチャンスですね」


 突然の爆弾発言だった。

 由峻はびくっと身体を震わせると、上着の下でささやかに自己主張する胸の膨らみを、軽く右手で押さえた。

 いつもより心臓の鼓動が早い。表情筋こそ無表情と微笑みの中間を保っているが、内心の動揺はひどい。

 それほど塚原ヒフミの台詞は脈絡無く乱暴であった。いきなり、身も蓋もない裏事情を暴露されたのだ。

 どう答えていいかわからないまま、ひとまず疑問を口にする。


「それ、ここで話して大丈夫なのですか?」

「盗聴を前提にしてますからね。こんな穴蔵に何日も滞在したくはないでしょう」


 短期間の拘留ならいざ知らず、長引くようなら替えの下着を要求する羽目になる。

 由峻は三日月型の角に左手を添え、少し遠い目をした。乙女の聖域というのは守られないものなのだろうか。

 とはいえ、塚原ヒフミの提案が成功するなら喜ばしい。彼女は荒事に関してはアマチュアなのだし、プロに任せるのも必要だ。


「……そうですね。できれば早急に荷物を送った住所にたどり着きたいところです」

「ああ、なるほど」


 小さな声で首肯するヒフミ。

 得心して頷く姿に対し、流れるように冷たい半眼を向ける。

 彼女とて年頃の娘である。この男が輸送機の中、五感を研ぎ澄ましてこちらを探っていた様子を忘れてはいない。

 具体的には体臭とか。

 もしかしたら超常種としての力に関係があるのかもしれないが、抗議の意を込めて睨み付けた。


「心配には及びません。私も大概、少し、変わった人や、少し、奇抜な人との付き合いは心得ているつもりです」


 我ながら暴言だと思ったが、言うべきだとも思ってしまった。由峻は感情の読めない微笑みを浮かべて、UHMAエージェントの青年を見つめた。

 絹糸のように艶やかな長髪が揺れ、じっとり据わった半眼が胡散臭い青年を捕捉。


「うん、それを当人の目の前でいうのは限りなく蛮勇だと思うんですがね」


 こちらの性格が把握できてきたのか、ヒフミは涼しい顔で流してみせる。


「ところで、この短時間でどうしてこんなに嫌われてるんですか」

「嫌ってはいません。隔意は抱いていますが、理由はおわかりですね」


 何故こうも眼前の青年へ冷ややかな対応をしてしまうのか、彼女自身にも把握できなかった。


「昨日の不適切な言動については、後ほど謝罪を――それと、本人の前で言うのはよくありませんよ。程良い虚偽が人間関係を円滑にするんです」

「それこそ、口に出してはいけない台詞ではありませんか?」


 つれないなあ、とへらへら笑うなり、気にした風もなく本題に戻るヒフミ。

 暖簾に腕押しだ。韜晦してばかりの彼は、律儀な性格の由峻にとって与しづらい類の人間だった。

 安藤霧子のような、世間一般の良識の枠から外れている生き物とも異なり、どれだけ真っ直ぐに向き合おうと、本音で答えようとしない。

 そういう意識的に努力して成り立つ不誠実さが、好きになれなかった。塚原ヒフミはといえば、彼女の内心も知らず、相変わらずリラックスしきった様子で椅子に背を預けている。


「僕達が拘束されている施設は、新東京から短時間のフライトで辿り着ける程度の距離にあります。つまり関東圏内のはずです。さて、そのすぐ北には何があるでしょう?」


 超弩級〈異形体〉――トリニティクラスターの落着以降、極東は世界的に見ても稀なほど恵まれた環境にある。

 たとえば二一三四年現在、世界人口は五〇億人にも満たないが、日本列島の人口は一億にまで回復しており、その生活水準も文明崩壊以前と遜色そんしょくない。

 減少した人類の総数、地球上に残されている工業力と併せて考えれば、かつてないほど繁栄していると言えよう。

 その原因たる地区の名であれば、素人の由峻にだって答えはわかる。


「北日本居住区ですね。人類連合の勢力圏までの距離は近く、何かあれば、UHMAが救助に動く口実も得やすい……そういうことですか?」

「その通り。僕らを拘束しておくなら、そこまで勘定しなきゃいけなかった。一晩ぐらいなら誤魔化しも効くだろうけど、UHMAの介入まで二日も稼げるとは思えない。今の時点で、火種はこの施設自体になってますよね」


 この会話を聞いているであろう、即応部隊への圧迫を強め、それはそれは楽しそうに笑う青年。

 由峻と対して年齢は違わないはずなのに、まるで別世界の人間である。

 しばらく呆気に取られて話を聞いていたが、ふと大事なことを思い出した。


「昨日、私と霧子を襲った亜人のような相手は――」

「予測しづらいけれど、確実な脅威です。だから、僕たち単独での脱出はありえない」


 情報がどこからからもれていた以上、今さら、隠密性を重視するのはナンセンスだ。

 UHMAの増援か、即応部隊の保護なしに動けば、敵の思うつぼだと塚原ヒフミは言い切った。


「だけど、超人犯罪即応部隊は、手放しで頼っていい相手じゃない。彼らは実質的に軍の命令系統の外にある武力です。言ってみれば、フットワークの軽い軍隊もどき(パラ・ミリタリー)

 〈ダウンフォール〉で文明社会が麻痺して以降、人間の命の価値は大きく変動しましたが――即応部隊は、その価値観を継承している。大多数の民間人を守るためなら、少数の市民を巻き込む作戦行動もやむなし、とね」


 この発想自体、そう珍しくはない。超人災害の元凶となる存在も、一部は市民権を持った人間だ。

 ゆえに人命の重さを担保する仕組みは、自己を脅かすものは誰であろうと排除せざるをえない。

 そんなシステムが必要とされること自体、頑なに綺麗事ただしさを信じる少女にとっては受け入れがたいが、理想に酔えるほど楽観的でもなかった。

 琥珀色に澄んだ瞳が、幾分かうれいを帯びた。由峻はその柳眉りゅうびをひそめ、悲しげな声をもらす。


「かつて〈異形体〉が難民を焼き殺したように、ですか」


 〈ダウンフォール〉初期には大量の難民が発生し、近隣諸国に押し寄せる惨事が幾度も発生したが、大抵の場合、当事国はこの問題に関与せず済んでいる。

 各々の国々が手を結んだ〈異形体〉が、速やかに難民の群れを、押し寄せる船という船を焼き払ったからだ。

 一切の差別も区別なく、ただ〈異形体〉にとって不都合であるという一点で、彼らの命の価値は虫けら同然になった。

 常軌を逸した行為である。

 当然のごとく非難の声が上がったとき、〈異形体〉の代弁者――最初期の第一世代亜人種はこう言ってのけた。


――我々と手を結んだ人民の居住空間の維持、自然保護のためである。


 自身の手でその価値を担保できなくなったとき、簡単に命の値段は暴落する。

 何より、由峻にとってその出来事は他人事ではないのだが、事情を知らないヒフミは淡々と頷くのみ。


「それも十分ありえます。景気がいいことに、相手が自国民でも同じでしょうけどね。つまり警察組織の特殊部隊とは明確に区別される存在です。僕たちが市街地に逃げ込んだとしても、彼らは無慈悲な掃討戦に移行するだけでいい。なまじ超人との戦いに特化した分、その範囲内でなら無茶も認められます……それだけの脅威が相手である限りは」


 この男、盗聴されていることを忘れているのではないだろうか。

 由峻は呆れかえるよりも先に、尊敬の念が湧いてしまいそうだった。よくもまあ、その組織に捕まった状態で言えるものだ。

 ふと、こちらを見るヒフミの視線に強い疑念が混ざった。次に来る言葉を予想し、知らず知らずのうちに躰が強張る。




「――君は一体、何者なんですか?」




 しばしの間、二人の間に沈黙が降りた。

 空調のよく効いた室内で、静かな稼働音だけがいやに耳につく。ワイシャツの下では肌が汗ばみ、早刻みになった鼓動がわかった。緊張のあまり微笑みが強張る。

 顎に指を添え、ほうっ、と呼吸を落ち着ける。

 一体何から話したものか、由峻にだってわかりはしないのだ。付き添いを申し出た友人は負傷し、今や自分を狙う悪意の存在は明確になっている。

 慎重に口を開く。


「塚原さんは、賢角人の特性をご存知ですか」

「仕事柄、いくつか。ですがどのあたりが関連するのかまではわかりかねますので、そこからお願いします」


 わかりました、と頷いて。


「ご存知の通り、私たち賢角人は、文字通り角を生やした亜人種です。

 この角は多機能な探査装置であり、電波に因らない情報通信を可能とする通信装置としての役割も果たしています」


 代表的な亜人種の一つ、賢角人。

 彼らは、他種族に比べて巧妙に人間社会へと入り込んだ。

 強大な戦闘能力を武器に猛威を振るった第一世代に比べ、ほとんど別物と言っていい第二世代亜人種の中、早い時期に人間社会に適合し、種族全体でそのノウハウを共有したからだ。

 基幹インフラの多くを破壊され、物流も停滞した〈ダウンフォール〉時代、彼らの肉体器官は有利に働いたのである。


「変換器を噛ませれば機械装置の操作にも応用できますが、最大の特徴は、送受信が任意の情報共有ネットワークであり、

 賢角人はその増設された肉体器官によって、恒常的に、高度な情報集積システムを維持しています」


 すらすらと喋る由峻だが、この知識自体は自分で学んだものではない。

 元々、細い両目をさらに狭め、塚原ヒフミは怪訝けげんそうな表情で疑問を口にした。


「ははあ。随分、詳しい」

「それが、塚原さんへの答えです。私はこの角を通して――」


 何気なく青年の手を取る。由峻の手よりもはるかに大きな、硬く分厚い掌だった。

 無意識の動作だった。

 机越しに手を引かれたヒフミは、困惑塗れの表情のまま、導かれるようにして右手を伸ばした。

 端正な少女の白皙はくせきを通り過ぎ、その額よりも上――艶やかなロングヘアの合間からのぞく二本角。亜人種のシンボルへと指が近づいていく。心ここにあらずといった様子の由峻が、不意に目を見開いた。

 切れ長の目がぱちくりと瞬きして、自分を何をしているのかを自覚。



「――あっ」



 なんて、はしたない。


 彼女の白魚のような指が男の掌を離したが、時、既に遅し。

 急にはね除けられて弾みがつき、ヒフミの手が頭髪に埋もれた。絹糸のように細い黒髪に、青年の指先が絡め取られる。角の付け根まで一センチもない距離である。

 流石に異常を察したヒフミが慌てて手を引いた。焦った由峻が頭を振ってしまったのがよくなかった。

 ごつん、と硬い音。

 おっかなびっくり伸ばされたはずの手が、したたかに由峻の角を叩いていた。


「ひゃうっ!」


 賢角人の角は、大脳皮質に根を張った高度な知覚器官だ。

 予期せぬ衝撃が、文字通り脳天を貫いて由峻の意識を揺さぶる。ぐわんぐわんと視覚と聴覚にノイズが走り、脊髄を怖気にも似た衝撃が駆け抜けていく。

 皮膚の下を這い回る、普段使ったこともない未知の感覚。暴力的なショックから立ち直るのに、三〇秒ほどかかった。

 由峻は荒い息をつくと、端整な顔立ちを紅潮させた。色が白い分、茹で蛸のように赤くなっている。

 角への直接接触は破廉恥な行為だった。

 一〇〇年足らずの間に成立した、賢角人の慣習の中でも『親密な行為』に分類される。何故、自分の手がそれを推奨するように動いたのか。

 混乱で気が動転している由峻は、上擦った声で抗議の意をぶちまけた。


「きゅ、急に触らないでください!」

「……こういう理不尽、慣れっこですけど困りますね」


 返答は無言。

 ありし日の永久凍土よりも冷たい一瞥いちべつを受け、塚原ヒフミが謝罪するまでわずか五秒。

 この男、ごねた割りに膝を屈するのが異様に早い。言ってみれば武道の組み手のようなもので、理屈よりも先に躰を動かす局面なのだと悟っているのだ。

 半ば反射的な、締まりのない一言。


「――すいません!」


 結果、謝られたのに腹が立つ、摩訶不思議まかふしぎな現象が引き起こされた。盗聴器の音声だけなら、相当、破廉恥な光景が想像されているに違いない。

 少し頬を染めながら、恨みがましくヒフミの顔を見た。昨日あったばかりだというのに、何故か初対面の気がしなかった。

 まるで貞淑さの足りない尻軽のような、自制のない動きだった。だが、今の紛らわしい行動自体、自身の無意識の欲求なのか、それ以外の干渉によるのか、由峻には判別する術がない。

この忌まわしい有り様こそ、彼女が塚原ヒフミへ伝えんとする真実の『結果』だった。


「あのぉ、僕が悪かったのでお話の続きをお願いしても?」

「はい。今のは、私も不注意でしたから。ですが、断じて、あれは私の意思による行為ではありません。それだけは覚えていてください」

「……事情がさっぱりですよ」


 それはそうだろう。由峻自身、端から見れば不可解で理不尽な台詞を言っているのだ。

 気が動転したとはいえ、悪いことをしてしまったが、思い出す度、顔が赤くなりそうだった。

 雑念を頭から追い払って、気を取り直す。


「シルシュ、という第一世代亜人種をご存知ですか」

「いえ……どこかで聞いたことがある名前ですが。君の事情に関係が?」


 ヒフミの素朴な疑問にうっすら微笑む。

 胸の奥でくすぶる耐えがたい苦悶すら、言葉にすればくだらないものに思えた。

 強いて相手の顔を見ないようにしながら、由峻は己の脳に刻まれた呪いを吐き出す。

 ええ、と小さく呟いて。





「死してなお、娘のからだに厄災の種を残していった――私の、母です」




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