3章エピローグ「竜の祈り、人の贖い」
最初の年のクリスマスだった。
当時一〇歳のアクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァに、塚原ヒフミが問うてきた。
「ところでクリスマスって、どういう風に祝うのがいいんでしょうね?」
真顔だった。
真剣に訊かされているらしいと気づいたとき、この男は馬鹿なんじゃないかと思ったのは覚えている。
一体どこの世界に、右も左もわからない子供に祝い事のやり方を尋ねる保護者がいるというのか。
今にして思うと、あれはヒフミなりに彼女を和ませようとしていたのかもしれない。
しかし変なところで天然の気がある青年だったので、やはり言葉通りの意味だった可能性も捨てきれない。
二人が今のような距離感になったのに、大したきっかけがあったわけではない。
いつの間にか、彼女はこの日常に馴染んでいたし、胡散臭い風貌の青年のことを信頼するようになっていた。
劇的な記憶など、なくてもよかった。
いつか、ぽろっとヒフミがこぼした言葉と、邪気のない微笑みを覚えている。
「僕は君に、幸せになってもらいたいだけだよ」
その笑顔を信じたいと思った。
ヒフミと出会って三年、来年には四年目になる。
今年のクリスマスも、一緒に祝えたらいいのに。
そう思いながら、壁掛け時計を見上げる。暖房の効かせてある居間は温かいけれど、アクサナが待ちわびている家人は帰りが遅い。
ふと、気配。
クッションから腰を浮かせて、音もなく立ち上がる。
玄関のドアロックが解除される音。
そして、聞き慣れた男の声が聞こえる。
「ただいま、クスーシャ」
頭頂部の猫のような集音器官をぴくぴくさせて。
そして自分は、いつも通り、少し素っ気なく応えるのだ。
「おかえり、ヒフミ」
――夢を見た。
知っている。
少女はもう、結果を知っている。
すべては叶うことなき泡沫の夢、失われた存在によってのみ到達し得た時間軸の景色に過ぎないと。
これは夢だ。
まぼろしだ。
大いなる存在の計算資源を食い潰して、ひととき、演じられた虚構世界。
――夢を見た。
一人の男が、家族と共に街を歩いている。
青年と言っていい年頃の若者だった。
父母であろう年かさの男女に、年の離れた弟と連れだって、クリスマスに賑わう街を歩く彼――手を振りながら近づいてくる恋人に笑顔で応じる――仲のいい家族の肖像。
それは、かつて誰かが望んだもしもの未来、誰かが捨て去り選ばれなかった可能性事象。
きっと神様でもなければ届くことのない、嬉しくてしあわせな物語。
ああ、これは――誰が見ていた夢なのだろう。
目蓋を開く。
しょぼしょぼする目をうるおすように、じわりと涙が染み出した。
視界のピントが合う。
白い天井が見えた。
仰向けに寝ていたらしい。指先が、真新しい掛け布団に触れている。
「……ぁ」
口の中がからからに乾いていて、上手く声が出ない。
うっかり二度寝して寝過ごしたときみたいだった。
躰の節々が痛むのも、長い間、寝台の上で横になっていたときの感覚だ。
一二〇年以上も昔、まだ病弱で、モスクワのお屋敷と病院しか世界を知らなかったころの記憶。
やわらかな冬の日差しが差しこむ。
のろのろと上半身を起こす。
自分が着ているのが、いわゆる病衣――簡易な貫頭衣で、脱ぐのも着るのも楽な代物だとわかった。
つまりここは病院だ。
倒れて担ぎ込まれたらしい。
壁際のデジタル時計には、今日の日付が表示されていた。
それだけでわかったことは三つ。
どうやら自分がこんこんと眠り続けていたらしいこと。
一週間以上の月日が経過していたこと。
世界は滅んだりなんかしていないこと。
ただ、こうなる前の記憶が曖昧だった。
そう、避難警報が出て、最寄りのシェルターに入って、友達と話をして。
瞬間、多くの景色がフラッシュバックした。
おぞましい肉塊の果樹。
生み落とされる異形の胎児。
そして――王冠の巨人。
アクサナを助けにやってきた、誰かの面影を残すもの。
だが、そこから先の記憶がない。
ふと、窓の外に目をやった。
「えっ?」
そこには圧倒的な非現実があった。
黄金色に輝く太陽、七色の光が降り注ぐ地上、天上を埋め尽くす銀色の天使たち。
それはまるで、黙示録の結末そのもの。
――断線。
刹那の幻影だった。
ごしごしと目をこする。
雪に彩られた冬の街並みと、その背後にそびえ立つ巨大なアーチ〈異形体〉。
何の変哲もない北日本居住区の景色が、そこにあった。
いや――だが。
一瞬、拡がる景色がブレるのがわかった。
二重に像が重なっているかのような違和感。
見上げれば、そこには黄金の太陽が浮かんでいる。
先ほどのヴィジョンとは異なり、はるかに弱々しい姿だ。
ひび割れ、今にも崩れ去りそうな神々しい何か――それほど不気味には感じなかったのが不思議だった。
懐かしい感覚だった。
あの太陽が、どこか優しく、自分を見守っているような気がして。
その既視感の正体を探ろうとしたとき、声がした。
「アクサナちゃん?」
女性の声。
顔なじみと言うほどではないが、何度か、会ったことのある人。
振り返る。
発色のよい栗毛のショートヘア、くりっと大きな二つの瞳、西洋人形みたいに綺麗な顔立ち。
アクサナよりも小柄でほっそりしているが、豊かな胸の膨らみ。
思わぬ来客――この場合はお見舞いか――に、目をまん丸にして、アクサナはその名を呟いた。
「あかね、さん」
いつもの青い制服姿ではなく、冬物のニットセーターにジャケットを羽織った可愛らしい装いだった。
そのかたわらには、背が大きすぎて入り口を難儀そうにくぐる大男が一人。
ヒフミの同僚の茜さんと馳馬。
――こういうのって普通、家族が来るものなんじゃないかな。
何とはなしに、そう思った。
遅れてやってきたのは言いようのない虚脱感と、薄々わかっていた事実の苦みだけだった。
ああ、知っている。
「……ヒフミは、もう、どこにもいないんだね」
アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは、寂しげにそう呟いて。
流れる星のように、一筋の涙が頬をしたたり落ちた。
◆
北日本居住区の冬は、しっとりと重い空気に包まれている。からからと乾ききった関東の冬とは異なる、湿度の高さがそうさせる。
かつてこの地が東北地方と呼ばれ、旧日本政府の統治下にあったころと変わらぬ冬の有り様だ。
たとえ一週間前、地球が滅びかけていようと、それは変わらない。
であるからして、年末には商店もたくましく営業を再開しているものだ。
長い眠りから覚めたアクサナを見舞うのもそこそこに、すぐに病室から叩き出された茜と馳馬は、近場のハンバーガーショップに足を運んだ。
ゆっくり腰を据えたい気分だったので、気持ち、値段高めの店を選んだ。
薄利多売の店舗の場合、背もたれやクッションが居心地よくない作りなのは、二一世紀初頭から人類の文明が進歩していない証である。
高給取りであるUHMA超人災害対策部なら、もっと高い価格帯の店も選べたが――生憎、二人にそういう嗜好はなかった。
新藤茜はジャケットを脱ぐと、テーブルの上に乗ったトレーを見て目を輝かせた。
紙包みにくるまったハンバーガーが、そこにあった。
ほかほかと温かいパンズに、牛豚の合い挽き肉を焼き上げたパティ、焼き色のついた玉ねぎ、スライスされたトマトにピクルス。
揚げたてのフライドポテトには塩が振られており、ドリンクはありふれた炭酸飲料。
絵に描いたようなジャンクフードのセットであった。
ハンバーガーの紙包みをむんずと掴み、たっぷりのケチャップとマスタードと共にかぶりつく。
「うーん、この脂肪と旨みと塩分で殴りつけてくる感じだよ。野菜たっぷりスープとかサラダとか、正直ここで頼むもんじゃないと思うね、あたし」
ジャンクフードに対する熱い持論を展開する茜は、めちゃくちゃ機嫌が良さそうだった。
遅めの昼食を堪能する彼女を見て、向かいの馳馬がぼやいた。
「切り替え早いな、あんた」
障害物の多い壁際かつ茜が射線を遮ることのできるテーブル――もし何らかの襲撃があっても、茜の肉体に仕込まれた電磁障壁が防御できる位置。
ほとんど念のためとしか言えない警戒は、職業病のようなものだった。
見た目だけで言えば、茜よりはるかに強そうな馳馬だったが――この場で殴り合いをすれば、肉を潰され骨を砕かれるのは馳馬の方だろう。
全身を戦闘用義体に置換している茜の身体能力は、内蔵火器を抜きにしてなお圧倒的な殺傷力を担保する。
陸軍仕込みの軍隊格闘術も、機械仕掛けの膂力の前では形無しだ。
そういうわけで、精神的にも肉体的にも二人の序列は決まり切っている。
自分を三秒でミンチにできる能力と精神性の超人に、平然とタメ口で話せるのが馳馬の強さであった。
「お見舞いなんて、しに来た方のためのものだよ。長時間、居座られたってアクサナちゃんも疲れちゃうでしょ」
「俺が感心してるのは心構えの話さ。正直、感心してる」
「まあ、あたしは慣れてるからね。あっ、高辻くんの来た」
店員が持ってきたトレーは、三つ。
すべて馳馬の注文したメニューだった。
種類の違うハンバーガーが四つ、フライドチキンが一つ、コールスローサラダが二つ、チョコケーキが二つ、アイスティーが一つ。
所狭しと並べられたメニューは、もう物量からして違った。
フォークで千切りキャベツを口に運びながら、馳馬がにやりと笑う。
「悪いね、サラダが好きなもんで」
「宗派が違ったねー……っていうか、高辻くん食べるね」
「俺は仏教徒だよ、ジャンクフード教徒と一緒にしないでくれるか」
「まず食べっぷりがジャンクだよね、尊敬しちゃうなぁ」
新藤茜と高辻馳馬は同僚だが、四〇センチほどの身長差があり、文字通り、大人と子供ほども頭頂高が離れている。
元々、〈異形体〉来訪後の人種混淆の影響で、日本列島での女性の平均身長は決して低くない。
その中にあって一五三センチの背丈の茜は、かなり小柄な方である。
対して高辻馳馬は、男性としてもかなり大柄な一九〇センチ超の巨漢だ。
立派な凸凹コンビと言えよう。
この二人、そもそも仲は別によくない。
険悪というわけでもないが、会話の回数はそんなに多くなかった。
というのも新藤茜がよく絡んでいたのは塚原ヒフミの方であり、その補佐官である馳馬は、笑顔で人間を焼き殺す茜を恐れていたからだ。
恐怖というより、その言動にドン引きしていたと言うべきか。
割りと女性関係――身も蓋もないことを言えばセックスフレンドである――に節操のない馳馬が、まず異性として認識していないのがその証左であった。
そんな二人が連れ立って歩いている縁は、とどのつまり共通の友人であるヒフミである。
「へー、この店ってケーキも美味しそうなんだ」
「ああ、よかったら一つ食べるか?」
「いいの?」
「あいつも目が覚めたことだし、な」
ささやかな祝杯であった。
二人、どちらともとなく互いのドリンクが入ったグラスを持ち上げて。
「クスーシャの目覚めに」
「乾杯っ!」
こつん、とグラスとグラスの奏でる小気味いい音。
「ま、ハンバーガーショップで祝杯ってのも締まらないが」
「ちゃんとしたのは、アクサナちゃんのいるときにやればいいよ」
「あー、いや、でもなあ」
馳馬が困ったように顔をしかめた。
「あいつにとっては、家族がいなくなった直後だろ。快復祝いとかやって大丈夫か?」
非常識なようでここ一番で気配りのできる男である。
尤もな指摘に対して、茜の返答はあっけらかんとしていた。
「人間、ころっと死ぬもんだし、祝えるうちに祝っておくのがいいと思うけどねー……第一、さ」
紙包みをトレーにおいて、女は真剣な表情になる。
「塚原くんは死んだわけじゃあない」
そう、塚原ヒフミは死んでいない。
「MIA……作戦行動中行方不明って奴だが、なァ……生憎、作戦に従事してた全員が記憶障害だぞ。どう考えても普通じゃない」
「記憶障害だって言うんなら、全人類がそんな状態だけどね」
事件終結からの数日間は、UHMA局員にとって地獄のような日々だった――現状把握はおろか事件当日の報告書一つ、まともに書けない混乱状態。
そこから一週間前後で通常業務に復帰できたのは、人類連合という組織と、それを運営する賢角人たち亜人種の手腕によるものだ。
――あの日あのとき、世界が滅んだことは忘却された。
〈全能体〉がこの宇宙に降臨し、すべてが手遅れになった時間軸――新藤茜はその一部始終を覚えていた。
五〇億の人類が天へと昇り、大地は消え、無数の化身が跳梁跋扈した終末の風景。
その真っ直中で命を諦めようとしていた賢角人の娘。
そして、産声を上げるおぞましい竜。
傷つき倒れ、半死半生の新藤茜――〈天の女王〉はすべてを見ていた。
地上すべてを地獄に変えた滅びの流星雨の後、その意識は途切れて。
「あたしの記憶が正しければ、この世界は地球規模の共鳴禍で跡形もなく消えたはずだった」
気づけば、目の前で消滅していく東京一号を、空中から眺めていた。
消失したはずの地上は無事で、太陽は黄金に輝いてなどいない――茜は悟った。
この時間軸はすでに、何者かの手によって上書きされている。
記憶している限りのことの顛末は報告書にまとめて提出したが、UHMA上層部から音沙汰はない。
「残念ながら超常種じゃない俺にその記憶はないし、その物的証拠も存在しないんだよな」
「でも信じるんでしょ」
「半信半疑だよ」
肩をすくめる馳馬もまた、自分の記憶の曖昧さに疑念を抱いているようだった。
事実だけを記述すれば、次のようになる。
塚原ヒフミの手によって東京一号変異体・レベル4〈導管〉は崩壊し、ヴァルタン=バベシュの仕組んだ一連の事件は制圧された。
その際に発生した二次被害により、塚原ヒフミ超人災害対策官は行方不明――〈異形体〉でもその存在座標が掴めないものの、その死亡は〈神託〉によって否定された――であり、ほとんど死人扱いしていいような状態である。
人連高官が荷担した大規模テロである。
本来ならば、責任問題の追求なり外交ルートからの抗議なりが大々的に行われるべき事態だった。
しかし全世界的に発生した集団意識喪失と、超常種を中心に発生した記憶の非連続性の訴え――集団幻想と呼ぶべき症状――がもたらす混乱がすべてを覆い隠した。
一時間にも満たない時間に生じたズレは、国家機能を麻痺させるほどの混迷を文明世界にもたらした。
そうこうしているうちに、人類連合は事件の終息宣言と判明している事実関係を開示。
空中島管理に関わる高官が何人も辞任を表明、あれよあれよという間にカバーストーリーができあがっていた。
この一件の裏にあったであろう何者かの思惑は闇に葬り去られ、驚くほど死者が少ない結果だけが残されている。
不気味なほどに、都合のいい数字だった。
この程度の被害であれば、いずれ、報道も世論も収まるだろうと思わせられる程度には。
「しかしまあ、UHMA最強と名高い新藤対策官が手も足も出ずに惨敗したっていうのも信じがたいな」
「手も足もないけどレーザーと粒子ビームは出たよ」
負けず嫌いにそう言うと、ドリンクの入ったグラスに口をつける茜。
馳馬の軽口は、雲霞のごとく押し寄せた化身に彼女が敗北した記憶のことだ。
火力、機動力、防御力、索敵能力、再生能力すべてが桁外れの超常種レベル3である茜は、地上においては唯一無二の戦略兵器たりえる個人である。
あの星が砕け散る終焉を見ていない馳馬には、実感がわかなくて当然だ。
「残念ながら、今のあたしじゃ太刀打ちできないだろうけどね。当分は義体の装備更新と設計変更で手一杯だよ」
「相変わらず便利な肉体だな……」
「ふふっ、ありがと」
しかしこのとき、茜が思い浮かべた『敵』は化身たちではなかった。
ブラックオパールの鎧をまとう、異形の竜。
腕の一薙ぎで大地を切り裂き、無造作に地表すべてを一掃してみせた超越者。
星を滅ぼす怪物を前に、今の茜の性能では何もかも届かない。
その正体にも見当はついていた。
確証はない。
しかしそれならば、つじつまは合う。
静観すべきか排除すべきかさえ定かでないが、選択肢は増やさねばならない。
――塚原くんが命懸けで守った娘だとしても、ね。
新藤茜はそういう生き物だ。
眼を細めて、がぶりとハンバーガーにかじりつく。
少しばかり剣呑な気配を漂わせる彼女に気づかぬ様子で――あえてそうしているのだろう――馳馬が話題を変えた。
「あとはまあ、クスーシャの今後だ。あの調子じゃ放っておけないだろ。後見人のイノウエ氏に丸投げしてもいいが……」
一般市民から見たイオナ=イノウエは慈善家で知られる好々爺であり、亜人種の人権獲得までの道のりの生き証人だ。
しかし人類連合調停局(UHMA)超人災害対策部という、特大の厄ネタが転がり込んでくるセクションにいると、そうでない一面も嫌になるほどわかってしまう。
そして高辻馳馬は、得体のしれない陰謀屋に友人の身内を任せるほど薄情ではなかった。
「俺は、あいつの友達だ。飯たかった分の義理はある」
大した言いぐさだった。
あの何でも背負いたがる青年が、どうしてこの男と友人だったのかわかる気がした。
苦笑して、茜は呆れ混じりに忠告した。
「そういうところ、普段から見せてればよかったんじゃないかな」
「尊敬されるためにつるんでるわけじゃない。楽しかったから、お互い長続きするんだよ」
何かあると塚原家に逃げ込むのは、絶対、歓迎されていなかったように思うが。
いけしゃあしゃあとこう言ってのけるあたり、どこまでも図太い男だ。
「あいつが、いつ戻ってきてもいいようにするさ」
「それって――」
「別段、帰ってこないって決まったわけでもないんだ。どう転んでもいいようにしておくのが俺の流儀だ」
なるほど、と頷いて。
ハンバーガーを完食し終えた茜は、意地の悪い表情で笑った。
「――手続き、めんどくさいよ」
「投げ出したくなってきた」
やっぱりダメだなこの男、という思いを新たにする茜だった。
◆
目覚めてから数日で、西暦二一三四年はあっけなく終わった。
結局、クリスマスを共に祝うはずの家族は戻ってこなかったのだから。
ああ、もういいかと思った。
昔から病院を抜け出すのは得意だった。
外出に必要なものは、私服と一緒に茜たちに頼んで持ってきてもらった。灰色のダッフルコートにマフラー、厚手の手袋、スパイク付きのブーツ。
雪の降る一月の空の下を歩くなら必須の装備だ。
茜はすべてを察していたようで「キリのいいところで戻りなよ」と忠告してくれた。
やっぱりすごい人だなあ、と思う。
病院の医師や看護士の目から逃れるのは簡単だった。
昏睡状態から目覚めてからというもの、アクサナには不思議と人の動きや考えがわかるようになっていた。
この奇妙な感覚が、超常種に関わるものなのかはわからない。
まだ、誰にもこのことを話していないから。
新雪の積もった街並みは嘘みたいに綺麗だった。
流石にあの事件の爪痕はあちこちに残っているけれど、行き交う人々からは微塵もそう感じられない。
奇跡的に犠牲者が少なかったのだ、とニュースでは言っていたけれど。
ならどうして、ヒフミだけが戻ってこないのだと、悲しみとも苛立ちともつかない感情がわき上がる。
じわり、と涙腺がゆるむ。
そんな自分が情けなくて、悔しくて、無心で歩き続けた。
歩いて、歩いて、歩いて。
気づくと、見知らぬ広場に来ていた。
まるで自分でない誰かが、その道を覚えているかのような感覚。
奇妙な既視感に苛まれながら、ぐるりとあたりを見回す。
そこは何かの史跡のようだった。中世の城塞に使われる石組みの土台――石垣があちこちに残っていることから、大きなお城の跡地なのだろうと察せられた。
そういえば一度、ヒフミに連れられてきたことがある。
彼にとっては思い出深い場所らしいが、詳しいことは聞いていない。そのときはレプリカのお城もあったはずだが、影も形もなかった。
見慣れた建造物が消えているせいで、すぐに風景から思い出せなかった。
たぶんクリスマスシーズンに起きたテロ事件のおり、吹き飛んだのだろう。
天守閣にほど近い区域は封鎖されていたが、敷地の一部は解放されていたので、遠慮なく足を踏み入れる。
――そこに、彼女は立っていた。
綺麗な人だった。
さらさらした黒い長髪、三日月型にそった二本の山羊角、透き通るように白い肌――この世ならぬ儚さを感じさせる美貌。
すらりと長い手足に、切れ長の目がよく映えていた。
無造作にベージュ色のコートを着込んで、何をするでもなくその場に佇んでいるだけで絵になる。
年頃は二十歳に届くかどうか、アクサナより四、五歳ほど年上に見えた。
尤も抗老化処置や、容姿の操作を行っている一部の亜人種だと外見年齢はあてにならないけれど。
いったいどれほどの時間、彼女に見とれていただろう。
直感でわかった。
この人はきっと、とても優しくて、格好良くて、恐ろしい人だ。
どうしてこんなにも、心が震えるのかわからなかった。
「――こんにちは」
吃驚した。
少し身をかがめるようにして、女性が挨拶してきた。
琥珀色の瞳が、興味深げにアクサナを映している。それで彼女の身長が高いこと、骨格や筋肉がしっかりしているのが実感できた。
思いのほか気さくな微笑み――不意打ちが成功したことにうきうきしてそう――に、少しだけ警戒心がゆるむ。
「え、と……こ、こんにちふぁっ!?」
噛んだ。
どうしよう、自分が格好悪い。
眼前の女の人にどう思われたかを思うと、嫌な汗をかきそうだった。
しかし賢角人のお姉さんは、特に奇異に思うこともなく流してくれた。
「ああ、急に声をかけてごめんなさい――ここは、あまり人が立ち寄らないものですから。少し、お喋りをしませんか?」
「……いいですよ」
自分らしくない受け答えだと思った。
自慢するわけではないが、アクサナは人見知りする質である。
たとえ向こうから気さくに話しかけられても、こんな風にすぐ返答できる気がしない。
最近は昔に比べればだいぶマシになったけれど、それでも。
なんというか、名前も知らない、初めて会った人が相手とは思えなくて。
不思議な懐かしさがあった。
アクサナにしては意外なことに、思いのほか会話は弾んだ。
賢角人のお姉さんは、博識で頭の回転が速く、ちょっとした話題からおもしろおかしく話をつなげる話術の才があった。
特にこの二二世紀を成り立たせる技術基盤――異種起源テクノロジーについての弁は面白い。
SF(二一世紀生まれのアクサナには、この世界はそうとしか形容できない)は囓った程度で、もっぱらファンタジーと幻想小説に浸かっていたアクサナにもわかりやすく、興味がぐんぐん湧いてくる。
噛み砕いて伝えることで正確性を損ねているとかで「あくまでたとえ話ですから詳しくは――」と言い添えるのが、如何にもその道の人らしくて微笑ましい。
「お姉さんは専門家の人なんですか?」
尋ねてみると、困ったように視線を宙に泳がせる女性。
「……わたしの母が研究者でしたから、おのずと詳しくなったのです」
返答は微妙にお茶を濁している感じがして、第一印象とのギャップがおかしかった。
まあきっと、自分にとっての出自と同じくらいデリケートな話題なのだろう、と察する。
身内絡みで複雑な感情があったりすると、特にそうだろう、とも。
ふと、思い立って、気になっていたことを口にした。
「えーっと、そういえばお姉さんは、どうしてここにいたんですか?」
アクサナがここに来た経緯は、病院から抜け出したこと以外は包み隠さずに話した。
賢角人は角で無線通信できるから、それとなく病院に連絡されるとアクサナが困ってしまう――どのみち、茜あたりが気を回して迎えに来る気もしているが。
事実、このとき二人の周囲には武装した警備用陸戦無人機が配置についていたのだが、少女は気づいていない。
「やり残した仕事があったことに、気付きまして。すぐに片付きそうにもないので、気分転換を兼ねてここに来ました」
何かを思い出すように、女性は目を閉じた。
芝居がかった仕草の一つ一つが、自然に感じられるのが不思議だった。
「ここには、大切な人との思い出が詰まっています」
「……好きな人、なんですか?」
何となく、家族ではなく恋人のことだと思った。
「人に愛の告白をして三〇分もせずに遠くに行ってしまうような人でした――ええ、恨み言の一つも言いたくなります」
女性はすねたように口を尖らせて笑った。
聞きようによっては故人についての話のようだったが、冗談めかした語り口と余裕のせいか、そういうことではないのだと納得できた。
きっと彼女の愛する人は外国にでも旅立ってしまったのだろう。
いつか、そう遠くない日に帰ってくる人への言葉なのだと感じられた。
「それは、その……大変ですよね」
自分もそういうことをやりそうな身内を一人知っているので、親近感が湧いた。
そう、塚原ヒフミはものすごい変人だった。
人に一般常識を諭すし、ご近所付き合いもそつなくこなすが、突拍子もない奇行を涼しい顔でやる男だ。
唐突にラーメンを自作し始めるとか、変なコスプレして女の子とのデートに現れるとか、愛の告白の五秒後に高笑いしながら海外に高飛びとかやるタイプ。
どうしよう、いいところ探しが必要なレベルでひどい。
なまじ死亡が確定していない行方不明なだけに、妙に容赦ない雑感が浮かんでくる。
「ですが、この世の誰よりも愛が深い人です」
どこか誇らしげな彼女の言葉に、腑に落ちるものがあった。
心底、愛している人がいるのだと感じられる言葉。
「本当に、その人が好きなんですね」
そう口にした次の瞬間には、言いようのない寂しさが胸中を満たしていた。
きっと女性の「好きな人」と自分の「好きな人」は意味が違っているけれど、それでも――アクサナの手から離れていったものを思い出してしまう。
うつむいて、息を吸い込んで。
初対面の人間に言うべき話題ではないとわかっているのに。
膿を吐き出すように、喋ってしまっていた。
「……ぼくの大切な人は、あのテロ事件で、行方不明なんです」
あてつけみたいな台詞だと自分でも思った。
絶対に嫌なやつだって思われたよね、と思いながら顔を上げる――女性は優しく微笑んで、先をうながすように頷いてくれた。
涙が出そうだった。
「きっといつか、こういう日が来るような気がしていて――ぼくは正直、怒ればいいのかわからないんです。危ない仕事だってわかってたのに……いつの間にか、ぜったい帰ってくるって思い込んでた」
最初のころは、そもそもあの青年を信用していなくて、自分のことで手一杯で不安などなかった。
お互いに打ち解けたころには、多少、仕事で家を空けても、最後には帰ってくるのが当たり前になっていた。
だから、夢が醒めるようにすべてが終わってしまったとき、空虚な寂しさだけが残る。
「夢は終わるものだって、ぼくは知っていたのに」
しばしの間、沈黙が場を支配していた。
いたたまれなさを感じながらも、アクサナは自分の心情を、言葉にしてようやく理解した。
薄々、感じ取っていた不吉な予感が的中したから、怒りたくても怒れない。
目に見えていた、いつかやってくる離別から目を背けていた自分自身が許せない。
この感情は、後悔なのだ。
「……わたしから、あなたに言える言葉はそう多くありません。ですが、一つだけ」
思わず、女性の顔を見た。
凪いだ海のように穏やかな表情の中、双眸に宿る眼光だけが鋭い。
「もし今、怒るに怒れないというのなら――素直に怒れるときまで、その想いは大切にすべきです。どんな感情にも、正しく報いるためのきっかけが必ずあります。正しく悲しみ、正しく悔やみ、正しく怒ることでしか前に進めないときが、きっと誰にでもあるのです」
気休めの言葉もありきたりの同情も大嫌いだった。
でも、たぶん、この人は本気でそう言っていて――見知らぬ少女に発破をかけている。
わかったような、わからないような、不思議な言葉だったけれど。
病院から抜け出したときの、投げやりな思いは消え失せていた。
「……そう、ですね。少しだけ、気が楽になりました。その、変な話しちゃったのに、ありがとうございます」
いいんですよ、と女性は微笑んで。
その笑顔に、自分ではない誰かの記憶が想起された。
初めての経験だった。眠りに落ちているとき、夢の中では何度も味わっているシャーマニズム的神秘体験――誰かの記憶、誰かの視点でつづられた物語の追体験。
儚く微笑む、幼い少女がいた。
遠い昔、誰かの心に焼き付けられた記憶。
混線。
恐ろしい白昼夢が見えた。
そこは、生きた人間など存在しない、優しく穏やかな世界だった。
人の脳髄が地面に根ざし、ひまわりのように咲き誇る花畑――おぞましい生者の群れを足蹴にして、天へと手を伸ばし続ける異形。
背筋の凍るような冒涜と恐怖の中で、アクサナはそれを目に焼き付けた。
――光り輝く、悪なる竜を。
「どうか、しましたか?」
声をかけられ、我にかえった。
どうやら今日の自分はすこぶる調子が悪いらしい。
いい加減、エティエンヌ先生に相談すべき段階かもしれない。
「あ、いえ、ちょっとぼーっとしちゃって。そろそろ、帰ろうと思います」
そうですか、と頷いて。
女性は別れの言葉を告げた。
「――あなたの行く先に、幸あらんことを」
驚くほどやさしい声音だった。
気の利いた返しが思いつかなくて、アクサナは目一杯、元気よく声を張り上げた。
「……お姉さんも!」
「ええ。花見の季節にでも、またお会いしましょう」
互いに背を向けて、反対方向に歩き出す。
さくり、さくりと雪を踏みしめて。背後から音が消えたことに気づいて、振り返る。
もう、女性の姿は消えていた。
まぼろしみたいに。
少女は歩く。
大きな不安も小さなしあわせも当然のように続く、今日と同じような明日を生きるために。
かけがえのない、誰かの夢見た明日への道のりを。
それは、かつて一人の少年が夢見た、誰もがしあわせでいられる未来の名残。
ひらり、ひらりと雪が落ちる。
西暦二一三五年の一月の雪、塚原ヒフミが目にすることのない景色。
そっと愛おしむように、氷の欠片へ手を伸ばし、空を見上げた。
鈍色の雲の向こうには、ひび割れ、砕かれた黄金の太陽。
ひび割れた幻影の太陽に、どうしてか大切な人の姿が重なってしまう。
「大好きだよ、ヒフミ……だいすき、なんだ」
二重に重なった世界が映る視界の中、アクサナは泣き笑う。
失ってはじめて、伝えたい言葉が形になった。
きっと今の彼女にとって、家族と呼べるのは百年前に置き去りにした父様でも母様でもなくて。
あの日あのとき、孤独に震える魂に手をさしのべてくれた彼だから。
苦しくて、寂しくて、悲しくて、こんな世界嫌いになりたいのに、ヒフミに出会って積み重ねた日々がそうさせてくれない。
痛みの中にすら、ぬくもりがあった。
消えないよろこびがあった。
ああ、だから、まだ生きていたいと願ってしまう。
アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは――
――この世界を、愛していた。
雪が降る。
白く煌めく欠片が、いつまでも、いつまでも空を舞っていた。
これにて第一部は終幕となります。
いずれ来る第二部はもちろん、番外編なんかもやっていけたら、と思います。