28話「悪なる光」中編
空が、虹色に燃えている。
幾何学模様の発光体が網の目のように天空を覆い尽くし、建物という建物、山という山が消失していく地表にて。
「――滅びぬ命、消えぬ絆、潰えぬ志。永遠の探求とは、実に人間的な夢だ。可愛らしくすらある」
独りごちる巨漢は、異相であり異形であった。
灰色の着物に羽織り、焦げ茶色の市松模様の袴――角と角の間に被ったソフト帽と相まって、隠居を決め込んだ老人のような装いだが、その背格好は到底、普通人のものではなかった。
二メートルを軽く超える身長、猛獣のように太くしなやかな四肢、そして山羊のような白い獣頭――さながら牧神パーンの風情。
亜人種が珍しくない日本列島においてもなお目立つ、第一世代亜人種の証だ。
彼はその中でも最古の存在であった。西暦二〇一〇年代、〈異形体〉の来訪からすぐに作られ、人類連合の発足に深く関わり、政治の世界で活躍してきた長老。
賢角人イオナ=イノウエ――塚原ヒフミの育て親であり、師匠と言える人物だ。
思い返すに、人類にとってこの一二〇年間は長い黄昏の時代だった。
〈異形体〉による大規模な侵略と虐殺、続く文明崩壊〈ダウンフォール〉の爪痕に苛まれる年月は、致命的に世界のありようを変えてしまった。
ありえないと言われて来た幻想が現実となり、異世界こそが日常となる。
その延長線上として成立する現実――終末とは、こういうものなのだろう。
それを感慨深げに、そして悲しげに見上げると溜息一つ。
イオナはそうして、この一〇年間、可愛がっていた弟子の末路を知った。予期していたことであった。しかし老人は、心のどこかで教え子の無事を祈っていたのだろう。
たとえそれが、奇跡が起きようと叶わぬIFだとしても。
瓦礫に埋もれた都市の一角に、男の古い友人は転がっていた。
半壊した金属的質感の頭部、ずたずたに切り裂かれ棒きれのような手足、かつて燕尾服だったのであろう衣服の残骸――さしづめ猛獣に食い荒らされた悪魔の死体といったところか。
懐かしげに眼を細め、イオナは笑った。
「久しいな、ヴァルタン。最初に言っておくが、私は君に嫌がらせをしにきた」
一連の大災害の引き金を引いた張本人――ヴァルタン=バベシュの頭部が、イオナの方を向いた。
生きてはいるらしい。第一世代亜人種とは元来、そういうものだ。兵器として設計された身体は、それこそ粉々に砕かれでもしないと機能停止させられない。
返事を待たずに、手短に用件を述べる。
「〈ムシュマッヘ〉は返して貰ったよ。あれには別の使い道があるものでね」
「……勝手にするがいい。私の悲願は成就した……最早、陰謀屋の出る幕などない」
ヴァルタンのバイザー状視覚器官が、誰もいないはずの方角を見定めている。一本だけ残された角がセンサーとして働いているのだろう、熱光学迷彩の痕跡を探知したらしい。
周囲を固める、イオナのSP――あるものは亜人種であり、あるものは超常種だ――武装した私兵たちは、黄金の太陽から降り注ぐ共鳴禍をものともせず、彼を守護していた。
日本政府をはじめとして、北米や南中華はおろか、ユーラシア大陸の神聖領域――人間牧場を是とする超人たちの領土――にすらコネクションを持つ最古の賢角人が、何の護衛も連れていない方がおかしいのだ。
「つれないな。直接会うのは四半世紀ぶりだろうに」
「自分の愛弟子を殺した男にかける言葉がそれか?」
さて、首を傾げる。
実際問題、今さらイオナのやることはほとんど残っていなかった。
精々、ヴァルタンに悪用された戦闘駆体を回収し、使いやすいように再配置するのが関の山だ。
「生憎、私の欲しいものはとっくの昔に揃っていてね。その意味では、ここで自分の成し遂げた成果を見届けようという君と大差ないのさ」
肩をすくめながら、地面に横たわる友人の傍に腰を下ろした。
あぐらを掻いて、視線を落とす。
「第一に、人生とは限りある命の使い道のことだ。その点、限られた選択肢の中で、我が弟子は上手くやった方と言えるだろう――かつて〈異形体〉に弄ばれ、焼却された数十億の人命に比べればずいぶんと救いがあった」
「……大した言いぐさだ」
「私は、君のように熱血漢ではないからね。シルシュのように理想家ではいられなかったし、ラシャヴェクのような俗物にもなりきれん。ああ、ムートガウラのように公共の利益に身を捧げるのも無理だ」
理想に燃えて組織を立ち上げたわけでも、経済を通じた管理に魅せられたけでも、秩序を守る歯車を是としたわけでも、人類救済の大義に取り憑かれたわけでもない。
人が死に、国が滅び、殺戮生命体が野に解き放たれ、熱核兵器が飛び交う悪夢のような二一世紀を生きてきた男の価値観は平坦だ。
同じ経験をしてきた第一世代亜人種の中でも、イオナはとりわけ奇っ怪な感性をしている自覚があった。
彼の根本は、ひどく単純であった。
だからイオナを突き動かすのは、もっと根源的な衝動なのだ。政治家として立ち回り、多くの権利を勝ち取って現在の体制に寄与した男は、誰よりも欲深である。
「私の夢は、若人たちの選択を見届けることだった。そのためのお膳立てもしてきた。君の余計な横やりがなければ、もっと多くの選択肢があったように思うが――これは未練だな」
イオナ=イノウエは嘘をついていない。
誰が知ろう。やはりこうなってしまったか、という悲しみと――これから起きるであろう事象への期待が同居する胸中を。
「塚原ヒフミは私の自慢の弟子だ。最も多くの人命を救い、最も多くの超人を殺した」
「イオナ。あの力の本質を……あまねく命を〈全能体〉へと合流させる力と知りながら、安っぽい自己犠牲の英雄に仕立て上げるのが貴様の教導か」
どこか彼を責めるような口ぶりに、ヴァルタン生来の正義感のようなものが垣間見えた。
なるほど、義憤の一つもなければ、このような大それた行いはできまい。
「自己犠牲? それこそ愚かしい問いかけだな、ヴァルタン。彼に自己憐憫や自己陶酔はないよ。むしろ、私や君がよく知っている言葉があの子の本質だ。その道のりは、贖罪であり求道だった。たとえそれが、罪とは呼べぬ必要悪だったとしてもね――彼は潔癖な男だったよ。それゆえに君の罠に引っかかったわけだが」
可愛いものだろう、イオナは笑う。
その姿に業を煮やしたのか――背筋だけで身を起こして、友は彼を睨み付けてくる。
眼前の悪を糾弾せずにはいられないと、血塗れの悪人が叫んだ。
「――貴様は、最初から私の計画を知っていたはずだ。何故、そうも傍観していられるッ!」
まさか君に不実を詰られるとはな、と苦笑。
「残念ながらそうではないのだよ。たしかに私は〈異形体〉極東クラスターの代理人として動いていたが、与えられる神託はすべてを教えてくれたりはしなかった。ヒフミに教えた知識も、技能も、私自身が必要と思ったものを詰め込んだ。いつ誰が襲いかかってきてもいいようにね」
だからまあ、君がきっかけになったのは私としても不本意なのだよ、と言い置いて。
イオナ=イノウエは、人の悪い笑顔でヴァルタンを見下ろす。
そろそろ本題に入るべきだろう。
「私がそうであるように、君がそうであるように、誰もかれもが同じ穴の狢だとも――ホモ・サピエンスもホモ・パンタシスも、愚かしくも愛らしい人間でしかない。人間の弱さとは、獣のさがの言い換えに過ぎない。我々の獣頭人身は、〈異形体〉なりのブラックユーモアなのだよ」
「何が言いたい?」
「君の選んだ救済への文句だよ」
頭上に君臨する巨大な超時空間的機構――〈全能体〉と呼ばれる存在の概要は、すでにわかっていた。
それがもたらす人類への干渉・同化を、ヴァルタンが救済として受け入れたことも。
「いくら有限の人体から解き放ったところで、人間の知性体としてのありようが変わるものか。その魂を記述するアーキテクチャが変わらぬ限り、抑えを失った獣ができあがるだけだ」
「……その、人間への侮蔑が、貴様の本音か」
「いいや、現状認識だ。君の理屈に沿うのなら――恥ずべきは生命の性質そのものだ。野に暮らす獣を見たまえ。無数の命が交尾一つのために命を賭けて相争い、肉体の壮健さを見せつけ、繁殖機会を独り占めしようとする――人間流に言えば浅ましい畜生の営為だ。知能が多少優れていようと、人の精神もその延長線上にある」
当然、それは究極の拡張身体たる〈全能体〉にも適応されるはずだ、とイオナは思う。
その証が、地上で起こっている大規模な物質消失――地球を分解吸収せんとする現象であった。
「見たまえ。彼らはこの宇宙の未来から人類を消そうとしている。我々のような、サルベージ出来ない人類亜種諸共にね……この一二〇年間は彼らにとって大きなロスタイムだった。〈異形体〉によってこれ以上、人のかたちを歪められないために。この星を吸収し、この宇宙での物質的な人類を終わらせようというのさ」
「〈異形体〉による人体改造の成果物である亜人種であろうと、〈全能体〉は救うだろう。それが、彼らの存在証明である以上は……!」
「どうかな。我々はもちろん、多くの亜人種やその子孫は、アレにとって同胞と呼べるか怪しいものだ」
ハッとしたように、ヴァルタンが息を呑んだ。
「――人間に、なにをした」
その一言に込められていたのは、純然たる怒りだった。
友人の純粋さに眼を細め、こともなげにイオナは言う。
「なぁに、我々が推進した混血政策の成果だよ――そのほとんどが自由恋愛の産物さ。知っての通り、第二世代亜人種と人間の混血児は、胎児の段階で結晶細胞を埋め込まれている。たとえ成体がホモ・サピエンスであろうと、生殖子を通じて結晶細胞の影響下にある。我々はホモ・サピエンスを絶滅させるほど愚かではないが、造物主の都合のいいように変質させる片棒を担いでいたわけだ」
〈異形体〉と同じく、〈全能体〉への同化耐性を持つ結晶細胞は、その救済を妨げるファクターだ。
西暦二一三四年の今日まで、人類が肉体的に滅ばずに済んだのは、結晶細胞の付与による耐性の引き上げも関係していたのだろう、とイオナは睨んでいた。
尤も超人災害の被害を見る限り、その効果はさほど大きくなかったのだろうが。
「そうまでして人類を家畜に貶めたいか、イオナ! 我らが見たあの惨状が隣り合わせの平和など、ただの地獄だと何故わからん!」
「私に言わせれば、あの黄金の太陽こそ悪夢の産物だよ。誰も彼もが身勝手に夢を抱き、その命が続く限り、苦しみから逃れたいと願い続ける――無間地獄をさまよう罪人のようにね」
それが熱のない冷笑だったのなら、ヴァルタンにも理解できただろう。
救済の是非への相違はあれど、この世を地獄と見なしてその救いのなさに憤るか、冷笑するかは人の自由なのだから。
けれど、目の前の賢角人は違う。
淡々と事実を語るような口ぶり――そして何よりも、未来への希望を知っているかのような口ぶり。
根本的に世界認識が違うのだ。
そう実感させる声音に、わけもなくヴァルタンの心はざわついていた。
「相変わらずだな、ヴァルタン。言ったろう? 私は嫌がらせのために出向いたのだよ、落ち着きたまえ」
世の中には、表情一つで人を極限までいたぶり尽くせる人種が存在する――もちろんイオナ=イノウエは該当者であり、その言葉に裏表はない。
この状況下――人も星も終わりかけている――でなお、男は動じていなかった。
「私は降って湧いた救いにすべてを賭けた君と、少々、違う道を選んだだけだよ」
何故だろうな、と苦笑する。
自分も、シルシュも、ヴァルタンも、各々がままならない現実の無惨さに憤っていたはずなのだ。
どうにか世界を変えるために、走り出したのは誰もが同じだった。
なのに、こんなにも答えが食い違ってしまう。
それが多様性というものだと理解していても、その先にある未来の奪い合いに心が痛まぬはずがなかった。
「無明の闇を照らす光こそが、人間に知性が与えられた唯一の理由だ。我ら賢角人の使命は、文明の輝きを以て、おぞましい暗がりを駆逐することにある」
無明の闇がこの世の理に見えるのだとしたら、それは光が足りないだけなのだ。
ヴァルタンが苛立たしげに口を開いた――憤懣やるせないと言わんばかり。
「まるで神秘主義者どもの世迷いごとだ……霊的進化などやって来はしない! 人間は、愚かで弱く、肉体と共に朽ち果てる生命だ!」
「君の言葉は問題提起としては優秀だな。いささか、結論としては性急に過ぎたように思えるがね」
人の生はきっと、多くの無惨で彩られている。
そんなことは百も承知だった。
「人間が愚かで弱い生き物だというのなら――それは出発点なのではないかね。報われないから、報われるいつかを祈る。救われないから、救われるどこかを望む」
「ありのままの人間を否定して、遠い未来にしかありえないものを到達点と謳う不実の、何が正しい……!」
稲光のように煌めく幾何学模様の発光体――空一面で瞬く物質分解の輝きを背に、イオナは厳かに言の葉を紡ぐ。
祈るように、歌うように。
「そうだな……おそらく現在の人類は、決して彼らの望む幸福にたどり着けない。理想世界では、所属する人間自身も理想に近づかなければいけなくなる。ありのままの人間は、要求される純度についていけない。それが知性、人格、教養、学力、体力、技能、容姿のいずれであっても限界がやってくる。後天的な訓練だけでは格差が生まれ、そこから社会機構が破綻していくだろう。だからシルシュは人為的な能力拡張による基準の統一を試みたのだ――第二世代亜人種はアプローチの一つだった」
「……〈異形体〉の思惑のためにか」
「何事もたった一つの思惑で動いたりはしない、ということさ。亜人種は造物主の道具として誕生した。だが、第二世代亜人種と人間の共生も、地球人類に根付いた異種起源テクノロジーも、彼女の願いなしに今のかたちになりはしなかった」
もうすぐこの星は完全に捕食され、すべての情報体は黄金の太陽に回帰するだろう。
〈異形体〉はこの時空に撃ち込んだ銛を引き上げ、次の戦場となる並行世界へと居を移す。
それが運命と呼ぶべき予定調和であり、あるべき結末だ。
「たしかに父なる〈異形体〉、そして〈全能体〉の企みは完遂された。しかし、完全な勝利がないように、完全な敗北も存在しないものだ」
「イオナ、貴様は……」
「ヴァルタン、私は人が永遠に存在することを否定しようというのではない。それはそれで一つのアプローチだ。しかしあの救済者には致命的に足りないものがある」
ゆえに、男は価値ある犠牲を確信する。
永遠に咲き誇る美しきもの、そうあれと人が望んだ普遍的概念。
「さあ、もうすぐ答え合わせの時間だ」
〈異形体〉の思考を理解するための翻訳機、導由峻がこの世に生を受けるまで、イオナはおのれの仕える主の意思を解していなかった。
類推することはできた。
遠回しに指示を与えられることもあった。
真意を知ったときには、何もかも手遅れなのも珍しくなかった。
塚原ヒフミの消失も、よくある予定調和の一部であった。イオナ=イノウエが知ったところで避けられない因果のつじつまあわせ、運命として生まれ死ぬもの。
ああ、だから――ここまでは主に従おう。
問題はこれからだ。
誰も顧みることがないあの娘に、イオナ=イノウエはおのれの欲を賭けると決めていた。
遠く、都市の一角で眩い光の柱が立ち上がる。明らかに物質分解のそれとは異なる、眩い燃え上がるような赤色光。
満足げに頷いて、イオナは笑う。
「我が弟子の守り抜いた最後の光明、善き人であれと願いを込められた同胞がいる――」
長い長い、黄昏の時代が終わる。
冬が終わり、雪が溶け、春がやってくるように。
「――見たまえ、我が友よ。君の一〇〇年の悲願はここで潰える」
◆
導由峻は、間近に迫る死の輝きを呆然と見上げていた。
地面に座り込み、眼前に降り立った異形の巨人から逃れることもせず、虚ろな目で絶望し続けている。
〈裁きの知恵者〉――竜殺したる聖者の名を冠した化身、その七色に輝く右腕が由峻へ迫る。
〈異形体〉と接続された目が、無意識にそれを分析していた。
接触と同時に、対象の構成物質・情報体を解体、破裂させる死の腕。
由峻の戦闘駆体としての性質を警戒してか、肉体と精神を確実に破壊するための刺客を差し向けてきた。
結晶細胞で構築された脳組織は、今もなお生命の危機を前に動けと手足をせき立てている。
生命保全のために組み込まれたソフトウェア群が、打ち砕かれた少女の心と無関係に、逃げのびるためのモーションパターンを組み上げていく。
だが、間に合わない。
尻餅をついた状態から取れる回避運動などたかが知れていたし、〈裁きの知恵者〉もそれを見逃すほど間抜けではあるまい。
由峻の二倍近い背丈、三メートルはあろうかという化身の腕――胴体に対して異様なほど長い――が、死の具現が近づいてくる。
胸の奥で、かすかに抵抗感が生まれて。
次の瞬間、〈裁きの知恵者〉の上半身が綺麗に消し飛んだ。
宙を舞う右腕が、巨人の足下に落下。
跡形もなく蒸発した腰から上を失った二本の足は、待ちぼうけを食ったように直立したままだ。
状況を把握できないまま、由峻はのろのろと立ち上がった。
巨人の残骸から距離を取り、周囲を見回した瞬間、若い女性の声が聞こえた。
耳元で話しかけられたように鮮明な言葉――特殊な指向性スピーカーによるピンポイント通話。
「――動きなよ、足掻きなよ! それじゃあんまりにも、塚原くんが可哀相だッ!」
麻痺したように動かなかった頭に、直接殴られたような衝撃が走った。
助けられたのだと、遅れて意味を理解する。
見上げれば、空を舞ういくつもの巨影――幾何学模様の発光現象に分解され、消えていく無数の断片。
全長五キロメートルにも及ぶ翼の半分近くを引き千切られ、穴だらけになった躰でなお戦い続ける熾天使がいた。
その巨体よりもずっと小さい、無数の化身たち――〈全能体〉の昇華端末にたかられ、躰をずたずたに切り裂かれ/打ち砕かれながら、炎を振りまく天使の似姿。
――超常種レベル3〈天の女王〉。
声をかけてきたのが、UHMA超人災害対策部の対策官、つまり塚原ヒフミの同僚なのだと認識する
彼女の言葉の意味が、じわじわと理解されていく。
凍てついた心が、言葉の熱に揺さぶられていた。
そう、なのだ。
自分以外の誰かの未来のために、祝福を以て死地へ赴ける精神――超常種という種族が、人類種へと捧げて来た献身の一部。
たとえそこにどんな陰謀があろうと、塚原ヒフミが我が身を捧げて戦い抜いたのは、そうすることで由峻の未来が守られると信じたからだ。
由峻はそうして、彼の願い――生きてしあわせになるという夢を託されていた。
散っていたものは身勝手だ。
母シルシュはたくさんの記憶や経験を、人格を塗りつぶしかねない量の情報として送りつけ、人の未来を作れと託した。
少女を愛した青年は、自らの崩壊と引き替えに、しあわせな未来に生きてくれと願った。
――もう、すべて不可能なのに。
〈異形体〉の目を使えばすぐにわかることだ。
地上に現存している人類は、一部の亜人種や超常種を除いてほぼ存在せず。
五〇億の人の魂を蓄えた巨神は、この星の物質分解を以て人類史の幕引きとしようとしている。
導くべき人類など、この世のどこにもいない。
幸福を求めるために必要な命も友も世界も、奪い去られていった。
人間としての由峻はこんなにも無力で、超人としての彼女は〈異形体〉の道具に過ぎなかった。
どうして、こんなに苦しくて悲しいのに、生きねばならないのかと嘆きながら――胸の奥でくすぶっていた衝動に火がつきはじめる。
「あ――」
一際強い輝き――〈天の女王〉の翼の根本、数百メートルの本体に侵食光が突き刺さった。
幾何学模様の発光現象が、花火のように空を彩っている。着弾部位から半径五〇メートル圏内の質量をえぐり取られ、重力制御機能に異常を来した巨体が急速に高度を落とした。
翼をもがれた鳥のように大地に叩き落とされる――相次ぐ戦闘でボロボロに突き崩され、半壊した街並みに墜落。
無数の建造物を押し潰し、自動車を砂粒のように吹き飛ばしながら〈天の女王〉がクレーターを作っていく。
雷鳴のような、凄まじい地響き。
土煙が高層ビルほどもある高さにまで舞い上がった。
由峻のいる場所からでも、その姿はよく見えた。足下に伝わる衝撃は、まるで地震のように地面を揺るがしている。
閃光。
もうもうと上がる土煙を切り裂くように、無数の熱線が吐き出された。
苛烈な対空砲火――まだあのレベル3は生きている。
だが、そう長くは持つまい。如何なる要塞と言えど、機動力を失った時点で昇華端末の餌食になるのは必定。
おそらくあの超人の足掻きは、この状況を変えたりはできない。
しかし彼女は最後まで戦い抜くだろう。
――生きているから、ですか?
自分にその資格があるのかと、問いかける。
わからない。
けれど。
「わたしは……ッ!?」
刹那、眩い七色の光が視界を横切った。肉体を第一世代相当の戦闘出力で駆動、関節強度を引き上げながら回避運動にシフト。
軋む躰を無視して横っ飛びに跳びすさる。
いつの間にか、巨大な人影がそこに立っていた。
濃密な死の気配――あの対策官からの攻撃で消し飛んだはずの、法衣をまとったような巨人だ。
〈裁きの知恵者〉が何者であるかを考えれば、当然の帰結だった。
遡航再生――超常種が持つ、失ったエネルギー・質量の再生補填――〈全能体〉がもたらす無限のリソースによる権能。
今までその力を持つ相手は、命懸けで由峻を守るあの青年だけだったから、恐ろしくも頼もしかった能力。
それが死の恐怖に取って代わった――もう、彼はいないのだと痛感する。
脇目もふらずに駆けだした。
そのとき少女を支配していたのは、眼前の終わりへの拒絶だった。
何の意味もなくても、何の価値もなくても――息絶えるそのときまで、死にたくないから生きようとする。
浅ましく、愚かしいそのありようは、きっと〈全能体〉に溶け込んだ人々の死の間際の願いと同じだった。
導由峻は人間だから、我が身を呪いながら生存を求めてしまう。
最も尊いと思えた感情も記憶も、何一つ信用できないのに、今この瞬間にわき上がる欲を抑えることはできなかった。
――まだ、終われない。
迫る死の光を前にして、何故、おのれが生きたいと願うのかを悟った。
簡単なことだった。
たとえ未来に何の望みもなくとも、すべてが無に還るのはおぞましいことであり、耐えられない無惨な結末だった。
大切な人の思いが、存在の証が、そこにあるから死にたくなかった。
ここで散れば、由峻の肉体に、精神に刻まれた塚原ヒフミの痕跡も消えてしまう。
どんなに利用されても、信じられなくても、恐ろしくても――かけがえのない物語を見出してしまうから、人は人を愛さずにはいられない。
それが呪いなのか、祝いなのかもわからぬまま、走って、走って。
――何かが由峻の足首を掴んだ。
迷わず右膝の関節から下の疑似生体を解除、自らの右足を切り離した。
瞬間、右足の感覚が消える。
躰の前面に強い衝撃。
視界が地面に塞がれて何も見えない。転倒したのだ、と理解。
身を起こすよりも先に、常駐している身体制御ソフトウェアからの警告――右足首から膝までの骨格、筋肉、循環器系の消失。
断面から流出する体液はない。
痛覚カットを最優先、続いて回避運動用バランサーの再調整を開始。
うつぶせの状態から、仰向けに寝転がるようにして躰を起こす。
背後に、それは立っていた。
由峻の右足であったもの――砕かれた結晶細胞が光の飛沫となって地面にこぼれ落ちている――を掴んだまま、じっとこちらを見下ろす〈裁きの知恵者〉。
明確なる死の運命、由峻に終わりを与えるため使わされた〈全能体〉の使徒。
右足ごと奪い取られたハイブーツはおろか、膝から上に残ったストッキングも物質分解に晒され、光と共に消えていくのがわかった。
血液の一滴、肉片の一欠片、衣服の切れ端一つ残さず、この世から対象の存在を消し去る虹色の腕。
足をもぎとられ、逃げ場がない状況だというのに、今の由峻の脳裏をよぎるのは衣類のことだった。
寒い。
逃げるときに置き忘れたコートのことが思い出される。
身につけているのは、〈光輝の王〉と触れ合いボロボロになったブラウスに、血で汚れたショートパンツ。
靴も決して機能性が高いとは言えない、ヒールの高いハイブーツだ。命の危機にさらされるなら、もう少し実用性の高い服装でもよかったかもしれない。
常日頃の自分であれば、まず選ばない組み合わせだったのは間違いなかった。導由峻は本質的に実務家であり、おのれの容姿の美しさを心得ていても、それを第一の武器にすることはない。
ああ、けれど。
今日はあの人とのデートのつもりだったから、これでよかったのだ。
この期に及んで、感傷にふける自分の愚かさを笑おうとして。
「……ね……せん」
絞り出すような声が、喉からこぼれる。
由峻の頭を掴もうと、七色に輝く死の腕が伸びてくる。
節足動物の足のようにうごめく、生白い指先。
彼女という異物、全人類の集積体たる〈全能体〉に仇なすものを討ち取る虹色の輝き。
それを真っ向から睨み付け、少女は叫んだ。
「……わたしは、死ねません……!」
冷たくかすむ世界の中で、一人きりだったとしても。
悪とそしられ、孤独に苛まれ、朽ち果てる運命であろうと死に場所はおのれで決める。
無謀で、傲慢な願いが、導由峻の総身を支配していた。
決して身に迫る破滅を覆すことなどできない、愚かしくも美しい姿。
そして、導由峻の肉体と精神は滅びのときを迎えるだろう。
死の腕が少女の頭に触れて――
――燦然たる光輝がひとつ。
暗闇に差す、ひとすじの光。
それは、流れる星のように輝く涙。
誕生し、生存し、死去するあまねく生命への哀悼――虚空を切り裂くように現れた雷――跡形もなく〈裁きの知恵者〉を消し飛ばし無に還元する侵食光。
ものの数秒で肉体を復元する遡航再生も、黄金の太陽による支援も無力化され、化身はあっけなく破壊されていた。
そこから枝分かれした格子状の光の結界が、由峻を守るように拡がっていく。
空間を満たすように、無限に枝分かれし続ける光。
その煌めきを、知っていた。
「つかはら……さん……?」
あたたかでやさしい輝き。
右足を失い、立つこともままならないのに。
前のめりになって、なんとか頭上の輝きに触れようと手を伸ばす。
かつてこの手が触れた、たしかな温もり。
けれど、天蓋のように周囲を覆う光に指が届くことはなく――少女を慰めるように、白く燃える欠片が降ってきた。
ひらり、ひらりと燃える雪。
それはまるで、舞い散る桜の花。
やわらかな花弁が、三日月型の山羊角へ触れたとき。
声が、聞こえた。
――約束する。
知っている。
あなたの言葉だとわかっている。
涙も涸れ果てたと思えたのに、熱い滴が頬を伝い落ちた。
――優しさも、安らぎも、苦しみも、君の魂と呼べるものすべて。
忘れはしない。
あのとき、あなたが口にした誓いを覚えている。
――僕が守ろう。
この光を、魂に焼き付けようと決めた。
悠久の時が流れようと、この刹那を忘れない。
この光景の意味が、今の由峻になら理解できた。
赫奕たる光彩、この世の何よりも透き通った天上の美、冠絶した愛のかたち。
無限無数の可能性事象を束ね、たった一人のためにそれを守り通す――超人以外にはなしえない絶対の加護。
人が至上のものとする不朽の愛――形而上学的な観念でも原始的な感情でもなく、可能性事象という高次の視座によって可視化される無限の存在肯定。
それは時間と空間を超えて、過去/現在/未来に遍在する祈り。
導由峻のすべてを守り抜く加護――ヒフミの存在そのものが利用され、神のごとき機構に変貌しようと変わらない祝福。
塚原ヒフミの自我は打ち砕かれ、塵のように霧散し、もうどこにもない。
けれど、その魂の欠片は残っている。物質態で固定された超空間構造体たる結晶細胞に保存され、今も彼女を守り続ける断片として。
――たった一つの約束を果たすために。
出会いから別離までを仕組まれた末、ヒフミと由峻の恋は悲劇に終わった。
だが、今日まで導由峻を生かしてきた祝福もまた、あの瞬間から始まっていたのだ。
導由峻の生の起点が、どこにあったのかを理解する。
「わたしは……最初から……あなたに、守られていたのですね」
高次元の視座において、すでに存在しているコインの裏表をひっくり返すのは容易いことだ。
しかしコインそのもの――新たな可能性事象を発生させるには、直接、下位宇宙で活動する以外に方法がない。
それがこの宇宙を支配する根本原理であり、生命はその生涯を通じて、可能性事象という時空間資源を増やし続ける。
人類史の分岐点に遍在する自動機械、物理法則のように振る舞い、人類に干渉する超空間構造体――塚原ヒフミがそういう存在になり果てたとしても、彼が刻んだ轍は残るのだ。
その祈りの残響は、時空の広がりに向かって無限に反響し、あらゆる分岐宇宙で導由峻の誕生を是としていた。
「嘆くために、恋したのではありません……忘れるために、愛したことなど一度もなかった……!」
あのとき互いの魂を重ねたから、生まれたものがあり残されたものがある。
それは愛だった。
失われたはずの右足に、あたたかな熱を感じた。
見れば右の膝から下、欠損した部位がその血肉を取り戻していく。
遡航再生。
超常種に固有の恒常性、〈異形体〉の天敵たる〈全能体〉の眷属にだけ与えられた能力――致命的な欠損を引き金に、ヒフミの残した加護が覚醒したのだ。
本来、塚原ヒフミに与えられていた経路が、丸ごと由峻のものになっている。
にもかかわらず、由峻の存在を〈全能体〉が理解することはない。支配することはできない。
その断絶こそが、彼の刻んだ愛の存在証明。
本当に仕方のない人ですね、と眼を細める。
「塚原さん……いいえ、塚原ヒフミ。あなたは、本当にひどい人です。こんな風に愛されたら、他のしあわせなんて目に入るわけないでしょう」
薔薇色の頬をしたたり落ちる涙は、よろこびの熱をともなっていた。
こんなにも自分を泣かせることができるのは、塚原ヒフミだけだろう。
左足に残ったハイブーツを脱ぎ捨て、二本の足で立ち上がる。そよ風に揺られて、黒い長髪がふわりとはためいた。
涙もそのままに微笑む。
「さようならは言いません。わたしにも、身勝手な夢ができましたから――」
朝露に濡れた花弁のような、やさしい笑顔だった。
この命は数え切れないほどの呪いに、悪に満ちていたけれど。
心の底から信じられた――それでも、この恋は間違っていなかったのだと。
――だから、決めました。
幾重にも重なった光の結界ごしにも、その存在は目視できた。
頭上に輝く黄金の太陽、すべての人の祈りを束ねた救済機構――かつて塚原ヒフミと呼ばれた超常種の末路。
そっと目を閉じて、由峻は誓いの言葉を捧げる。
あのとき、ついぞ、彼に返せなかった告白を。
祈るように。
夢見るように。
焦がれるように。
「――あなたを、愛しています」