26話「永劫の花」
――この時間が永遠であればいいと思った。
それが叶わぬ願いだとわかっているのに、二人は互いの頭を重ね、角を擦り合わせ、体温を感じあっていた。
情報接合による同調を維持したまま、現実側の感覚器に意識を移す。
引き延ばされた体感時間――現実では二秒と経っていないであろうわずかな間に、〈光輝の王〉はおのれの名前を、記憶を、感情を取り戻していた。
偶発的なエラーだった。
一度はひび割れ、崩れかけた塚原ヒフミの自我――それを再生させたのは、到底、起こりえない偶然の連鎖。
あらゆる情報が渦巻く〈全能体〉の索引から、正確に自分自身の記憶を引き出したことも、それを実行するきっかけがこの肉体に発生したことも、本来はあり得ないことだった。
天文学的確率の事象だ。
導由峻が〈異形体〉に近しい存在だから、起きたことなのかもしれなかった。起こりうる可能性事象への干渉――それがどれだけゼロに近い数字であろうと、存在する可能性であるなら現実にできる力。
煌めくような生命の光が、そこにあると感じられた。
やわらかで、あたたかな由峻のすべてが愛おしかった。雪のように白い肌も、艶やかな黒髪も、切れ長の両目も、すっと通った鼻梁も、優雅な花唇も、超然とした微笑みも、すらりと長い手足も――この世の何よりも美しかった。
その誇り高さに、ヒフミは救われていた。
――何一つ報われず、誰一人救えなかったとしても。
それでもいいと、今この刹那だけは思えた。この腕の中に、彼女の温もりが、息づかいが、魂の輝きがあるのなら。
琥珀色の双眸が、彼を見た。
王冠のような角と自身の山羊角を絡めている由峻の顔は、〈光輝の王〉の側頭部に隣接しているが、視覚器官に頼らず外界を把握しているヒフミにはその表情が手に取るようにわかった。
その澄んだ眼差しは、あの日あのとき、少年の日に出会った姿と変わりなかった。
「塚原さん……最初に言っておきますが」
そう、何故か出会ったあのとき――年端も行かぬ少女の脚を見ていた彼への微妙な温度のように。
どうして、そんなにも悲しげに眼を伏せるのか、ヒフミにはわからない。
しかし嫌な予感だけはしていた。
「わたしは飛び級ですから、高校の制服は存在していません」
この状況でそんな解説をされても困る。
いや、というより、どうしてそんな話題に話が飛んだのかわからない。
少女の思惑が知りたければ、直接、その思考ログにアクセスすればいいだけなのだが――年頃の乙女の頭の中を覗くのは気が引けた。
奥ゆかしい男である。そもそも情報接合という、賢角人にとって生涯の伴侶とするような行為をしている時点で手遅れなのだが、知識としての認識と、実感はいつだってズレるものである。
もちろん困惑するヒフミの思考は、当然、情報接合を通じて由峻にも伝わっている。
「……不可抗力ですが。あなたの破損した記憶を集めるとき、無意識の領域で見つけたのです」
心なしか眼を伏せて。
悲しげに、少女は呟いた。
「――塚原さんに制服デートの願望があることを」
気まずい沈黙が訪れた。
依然として外界では物質分解によって取り出されたエネルギーと、〈光輝の王〉の侵食光の衝突が起きている。
無音の地獄に囲まれながら、互いの頭を重ねる巨人と少女――恐ろしく甘美で情熱的な情景にも関わらず、ものすごい勢いで大切な何かが失われていた。
――知りたくなかった、そんな深層意識!
アクサナに知られたらと思うとぞっとする。たぶん半年ぐらい口を利いて貰えないし、微妙に軽蔑したような目線で見られるのは避けられまい。
残酷すぎる。
「おそらく多感な少年時代を、人連の訓練校で過ごした反動でしょう――ええ、制服デートしたいという願望そのものを、わたしは否定しません。たとえ、あなたが女性の脚に興奮する性的嗜好の持ち主だとしても」
何故か、執拗に追い打ちをかけられていた。
由峻は相変わらず眼を伏せているが、口元が弧を描いて歪んでいるのは隠せない。もとい、たぶん隠す気がない。
〈光輝の王〉は声帯を持たないため、発音こそ出来なかったが、それでも伝えたいことはある。
――君、絶対楽しんで僕の頭の中を覗いてませんか!?
困惑と怒気と疑念を混ぜ込んだニュアンスの言語表現を、データとして送信することはできるのだ。声音などと違って、添付された感情を見誤ることはない便利なコミュニケーションと言えよう。
しかし導由峻は利発で聡明で頭の回転が速い。つまりかわいい。切り返しもきっと素晴らしく上手いに違いない。
この手のヒフミの思考は由峻に筒抜けだった――無防備極まりない、開けっぴろげな少女への好意的評価の数々が、直接、閲覧されていた。
実のところ、下手に策を練るよりこれが効いている――心なしか頬を赤く染め、由峻が呟いた。
「実は……驚かないで欲しいのですが。私は年上の男性が慌てふためくのが好きなようです」
吃驚するほど意外性がない秘密だった。
その告白に意味はあるのか、と問いたくなる程度に。
この賢角人の少女は、いい性格をしている嗜虐性癖者だ。
――知ってる。
「えっ」
そんなはずありません、とでも言いたげな横顔だった。
この子は何を言っているんだろう、とヒフミは遠い目をしたくなった。残念ながらレベル3の肉体に目はないので、もう一度、繰り返すことにした。
――ずっとそうだろうと思ってた。
「…………え?」
導由峻は天然だった。
◆
二人の他愛のないやりとりはそう長く続かなかった。
ヒフミも由峻も本質的に実務家であり、眼前の脅威を捨て置いたまま二人きりの世界で惚気られなかったのだ。当事者の名誉のためにも明言されねばならない事項――決して、自身の特殊性癖を見抜かれていたと知った少女がすねたからではない。
二人は今、情報接合によって形成された仮想世界に意識の主軸を移していた。現実の時間経過に対し、何万倍にも引き延ばされた主観時間を使えるこの空間は、非常に優れた性質を持っていたからだ。自我の維持のための思考透析を除き、ほとんどの情報を即座に共有できる。言語によるコミュニケーションでは、どうしても省略される膨大な情報量を、即座にやりとりして把握できる。
これがよかった。
〈全能体〉の降臨とそれによる超広域の人体汚染現象――未曾有の大災害を前にして、互いの持てるすべての知識と能力を動員し、対等に意見を交わし、思考を加速させていく。
その知的交流が、ヒフミと由峻にとっては何よりも楽しかった。
ひょっとしたら、二人で談笑したデートよりも楽しいかもしれないぐらいに――隠し事もなく、すべてをさらけだして協力し合う時間が尊く思える。
だが、打てる策など最初から限られてもいた。どれだけリスクの少ない方法を探しても、そんなものは都合よく転がってはいない。
ヒフミ――人間としての自己認識を核としたアバターの姿――は、一番確実なプランを提案した。
「君の停滞フィールドが、僕たちを守る盾です。矛は僕が務めればいい」
停滞フィールドの展開によって、外界を吹き荒れる物質分解の嵐は無力化される。その一瞬に、〈光輝の王〉の全能力を使って敵の制御中枢を狙撃、自壊に追い込み、一連の人体汚染現象を終わらせる――それがヒフミの立てた作戦であった。
馬鹿馬鹿しいほどの出力差がある〈全能体〉と〈光輝の王〉だが、この方法ならば勝機はあった。
今、空ヶ島上空に出現している球体は、〈全能体〉の本体ではない。レベル4の〈導管〉、西暦二〇三五年の共鳴禍で汚染された変異脳をベースとした門に過ぎないのだ。
おそらく時間を超えて争っているのであろう、〈異形体〉と〈全能体〉の戦いの全貌など、ヒフミには想像もつかない。だが、頭上に展開している超空間構造体の脆さはわかっている。
こちら側に露出しているのは〈全能体〉の一部分であり、それ単体では存在を維持できない。侵入経路になっている〈導管〉を破壊すれば、都市上空に姿を現した巨影も機能を停止するはずだった。
「〈異形体〉が〈全能体〉と拮抗状態にあり、外部からの救援が期待できない以上、妥当な作戦だと思います。停滞フィールドの展開も〈三本足〉から了承を取り付けました……ですが、あなたの情報体はそれに耐えられるのですか?」
由峻の問いかけこそ、最大の懸念事項だった。
元より、停滞フィールドによる防御に失敗すれば、物理的に二人の肉体は消し飛ぶ運命にある。
それはいい。
しかし塚原ヒフミの超常種としての姿――〈光輝の王〉の能力は、敵と同時におのれを滅ぼしかねない両刃の刃だ。
たとえ作戦に成功したとしても、異能行使の反動で彼の人格が消失しては意味がない。
けれど、本当は二人ともわかっていた――それはどんなに問うても、避けられないリスクだということを。
それでもなお綺麗事を貫くには由峻は幼く、また賢すぎた。
「――わからない。正直、僕にも結果は断言できない。だけど、ええ、嘘はつきたくないから言いますが」
ヒフミとて、二度も三度もボロボロになる趣味はない。
結果論としてそうなっているとしても、それが望ましいわけではなかった。
それに。
「君には笑っていて欲しいから、僕は生きて帰りたい」
歯の根が浮くような台詞だ。
きっと馳馬あたりなら、いけしゃあしゃあと言うんだろうなと思いつつ、ヒフミは少女の目を見た。
対して、由峻の反応は驚くほどあっさりしていた――いや、心なしかアバターの頬が上気しているとか、先ほどより笑みが深くなっているとか、そういう言外の変化はある。
この時点でのヒフミには知るよしもないことだったが、情報接合の本質は、このような他愛のないやりとりにこそあった。身も蓋もないことを言ってしまうと、現実に比べて仮想世界の中で無限にイチャつける。
「そういえば、塚原さん」
ふと、彼女が柔らかに微笑んだ。
「あまり、わたしに敬語を使わなくなってきましたね」
「ははあ……そうかな」
「ええ、とても好ましい変化だと思います」
「君にそう言われると後が怖い」
割りと本音だった。
塚原ヒフミは、この娘の前では振り回されっぱなしだ――尤も由峻に言わせれば真実は真逆であり、自分こそが振り回されていると主張するだろうが。
何もかも普通からかけ離れていて、きっと、異形と呼ぶほかない二人は。
それでもこのとき、ありふれた恋人のように会話していた。
―――夢のように。
◆
結論から言おう。
地上から光の雨が放たれたのは、都市上空の異変からほどなくしてのことだった。
眩い輝きが、さながら雷の嵐のごとく孔――球体のようにも見えるそれを刺し貫き、破壊していく様を。
多くの人が、その光を目撃していた。
UHMA本部ビルでは、連絡が取れなくなった相棒を捜す高辻馳馬が、貴重なデータの採取に夢中のエティエンヌ=ラキルがそれを見た。
市街戦から撤退した超人災害対策部・強襲制圧班の軍用外骨格が、人智を越えた光を見上げていた。
大穴の開いたシェルターの天井から、アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァはその光を目にした。
その数秒前、塚原ヒフミはたしかにそこにいた。
現実に意識を移す――仮想世界での語らいに用いた主観時間に反するように、こちらでの時間はほんの数秒しか経過していない。
いつまでも夢に浸っていられないのは、我ながら損な性分である。
停滞フィールドの展開は上手くいった。
無害な可視光線だけを選別して透過する無の領域――フィルタリングの調整は由峻がリアルタイムで実行し、物質分解によって生まれた膨大なエネルギーを消し去っている。
盾が順調ならば、あとは矛たるヒフミの仕事だった。
〈光輝の王〉の能力は、同調型超常種としてのヒフミのそれの延長線上にある。だからこそ可能な攻撃があった――侵食光の撃ち合いでは、〈全能体〉の一部にすら勝つことは出来なくとも。
それを支える変異脳に対して、塚原ヒフミは致命傷を与えられる。
同調型超常種の異能〈結線〉の超広域使用――数百万人の情報体との同調と、それによる機能不全、自壊の誘発。
一〇年前、初めての恋人を、家族を、街の住人を皆殺しにした行為の再演だ。
――情報体の転換行程、射出座標の設定を完了。
超光速の侵食光にヒフミ自身という桁違いの高次元情報体を乗せ、〈昇華体〉を打ち砕く。
たった一つの、冴えたやり方だった。
放出。
幾条もの雷となって天へ昇る――刹那、世界が光に埋め尽くされて。
――到達する。
そこには、祈りの海があった。
上を見ても、下を見ても、周囲を満たすのは銀色の泡。その一つ一つが、見知らぬ人々の夢であり、思い描いた幸福を叶える夢だった。
苦痛はなく、不正義は他者を傷つけることなく昇華され、安らぎによって調和を迎える人類世界。
かつて東京一号と呼ばれた超人災害の成れの果て、数百万人の犠牲者を取り込んだ超空間構造体。
だが、ここは広すぎ、大きすぎ、多すぎる。
幾百、幾千、幾億を超えて兆を超えようかという泡――数え切れないほど球体の中には、さらに小さな泡があり、入れ子のようになっていた。一体どれほど多くの人間が、この中にいるというのか。
そして何よりも。
ヒフミは、その光景の美しさに心打たれていた。
愛する人に巡り会い、孤独に傷つくことなく愛される若者がいる。
わが子の手を取り、笑いながら歩く父母がいる。
優しい父母に愛されて、何不自由なく育つ子供がいる。
穏やかに孫子と触れ合い、貧しさにも病にも怯えずに暮らす老人がいる。
銃を手に取ることなく、誰もが手を取り合える優しい国を持つ大勢の人がいる。
天変地異に命奪われることなく、文明と知性のよき半身だけが永続する時間がある。
それは、どうしようもなく正しい、誰もが願う幸福のかたちだった。
わかっている。
これは〈全能体〉が見せる夢物語、あらゆる時空から収奪した可能性事象――この宇宙を成り立たせる時空間資源によって運営される楽園だ。
人間のためだけに三千世界のすべてを消費する、人智を越えた征服と収奪と播種の成果物。
その副産物として、かつてヒフミが見てきたような無数の悲劇が、惨劇が作り出されているのだ。導由峻が人のかたちすら奪われ、道具として使い潰される悪夢とその本質は同じだった。
なのに、泣きたくなるほど、その幸福が尊く思えた。
ああ、そうだ――誰も傷つかず、何も失われず、人がしあわせに生きていける世界があったなら。
――どんなによかっただろう。
ヒフミの父母はただの人間だった。きっと、生まれたかもしれない弟/妹もそうだったろう。
ああ、今さら気付いた。
――ぼくは、誰も、殺したくはなかったのか。
馬鹿げた話だ。
自身へ抱いた憎悪の起源は、こんなにも簡単な感情だったなんて。こんなにも人間から遠ざかった姿形を選んで、それに相応しい力を得た先で自覚するには遅すぎる。
ヒフミをヒフミたらしめる冷酷な理性は、それが〈結線〉の成果だと警鐘を鳴らしていた。
心が揺らいでしまうのは、同調の副産物――この銀色の泡を構成する、誰かの情報体の感じる幸福に引きずられているのだ、と。
ここにあるのは、与えられた最善の幸福に溺れる生だ。
だから羨ましく思える。
運命から逃れる物語、運命に抗う物語を人が好むのは、多くの人間にとって現実が理不尽に満ちているからだ。
どうにもならない不幸によって、思い描いた未来を奪われる理不尽に怯え、それを超克せんとして無数の信仰/偶像/物語を作り上げてきた。
そうして人は自由意思の素晴らしさを謳い上げる。
だが、もしも。
運命が自分にとって都合のいいものだったなら、人は迷わずそちらを選ぶだろう。
人間の強かさとはそういうものだ。
同調の輪を広げる。
ここにあるのは、人の祈りだった。時代も人種も宗教も国境も越えて、人類という種族が逃れ得ない苦痛の裏返しとしての信仰。
どんなに共感が押し寄せてきても、破壊のための前準備を緩めない。
それがどんなにおぞましい行いか、彼にはわかっていた。
一度、ヒフミはこの都合のいい幸福を否定した。自身の存在をなげうってでも、果たさねばならない誓いがあったからだ。
しかしその覚悟も決意も、他者の幸福を踏みにじる悪行の免罪符にはならない。
――見えている。
泡と泡の合間をたゆたう無数の影。
多様で荘厳な、さまざまな色と形を持つ化身――すべての神と天使、人の信仰の至る姿があった。
無数の顔と目を持ち、あまたの可能性を体現する〈全能体〉の端末たちだ。彼らは驚くほど無防備に、ヒフミの存在など素知らぬ顔で浮動しているだけだった。
〈光輝の王〉という姿へ収斂した塚原ヒフミもまた、この中から生まれた存在である。
けれど、今は違う。
彼は自ら選んだ。彼らの一部として救われることではなく、由峻の生きていける世界を。
ゆえに、ここに彼の居場所はない。
不意に、見知った影が見えた。
帰る道を忘れてしまった子供のように、途方に暮れている後ろ姿があった。
――クスーシャ?
呼びかけた瞬間、弾かれたように振り返る少女。プラチナブロンドの銀髪碧眼、柔らかなミルク色の肌。
何事かを訴えかけるように、口を開くアクサナ――顔をくしゃくしゃにして、今にも泣きそうな表情で、声を上げているのがわかった。
けれど言葉は伝わらない。
瞬間、ヴィジョンが脳裏に浮かんだのだ――この世ならざる幻影、あるいは本能にも似た警鐘が割り込む。
七つの首を持つ竜が見えた。
それは死の化身だった。河川の激流が海へ向かって流れ落ちるように、人々は竜の顎に自ら飛び込んでは噛み砕かれていく。
燃え上がる舌が命を舐め尽くし、あまねく人を破滅させる。恐ろしい輝き――苛烈な憤怒そのものが、世界を満たすのがわかった。
幻影が去ったころには。
泡の飛沫に紛れて、少女の影は消え去っていた。
それから、どれほどの時が過ぎたろうか。
仮想世界における時間経過は、現実のそれとは大きく異なる。今、ヒフミが体感している時間など、現実では〇・〇〇〇〇一秒にも満たない。そうわかっていても、悠久の時を過ごしたかのような退嬰を、錯覚し始めていた。
すでに、この接合点を破壊するために必要な数の同調は終わっている。
だが、ヒフミ自身が払う代償が不確定だった――〈昇華体〉を形作る数百万人分の情報体への同調と破壊――そのフィードバックによって、どんな損傷が起きてもおかしくはなかった。
それが怖い。
今まで、不死の肉体を頼りに戦ってきたからこそ、縁遠かった感情。
――僕は、死ぬのが怖いのか。
どういうわけか、人間離れした後に、人間くさい感情に襲われていた。
迷いなく我が身を捧げるには、大切なものが多すぎた。
集積された可能性事象がきらきらと流動し、人々の情報体は、銀色の泡のように可能性事象の大河の上を浮かんでいる。
美しい眺めだった。
ここにあるものは、人間を幸福に彩るためだけに集められた宇宙のバリエーションだ。
可能性事象の大河に〈結線〉の網を伸ばした――どうしても、知りたいことができてしまったから。
しばらくして。
――塚原ヒフミは、それを選んだ。
同調したすべての意識体に干渉。破滅の引き金を引く。
刹那、死の津波が訪れた。
男が死ぬ。女が死ぬ。幼子が死ぬ。老人が死ぬ。父が死ぬ。母が死ぬ。子が死ぬ。国が滅ぶ。文明が滅ぶ。
数え切れない無数の魂が、叫んでいる。
おぞましい感覚に意識が埋め尽くされる。数え切れない死が、苦痛が、灰色の時間が自我を塗りつぶす。
人格の抵抗する余地などない絶望が、滅びという理不尽への憎悪が精神を引き裂いていった。
断末魔の悲鳴が記憶に刻まれ続け、毒に蝕まれたように手足が壊死していく。
美しい、幸福を描いた万華鏡が失われていく。
たくさんの人を傷つけて、たくさんの命を奪い去って――そうすることでしか、ヒフミは人を守れない生き物だった。
――それでも。
この手は、誰かの未来を守れたのだと信じた。
◆
「塚原さん」
甘いにおいがする。
目を覚ますと、そこにいたのは由峻だった。
どうやらここが現実側だと気付けたのは、自分は仰向けになっていて、少女が顔を覗き込んでいたからだ。
空を見る。
〈全能体〉の末端――虹色の球体はひび割れ、幾筋もの亀裂から光を漏らし自壊していた。地上を覆っていた人体汚染の干渉波もすっかり消えている。
ああ、自分は役割を果たせたのだと安堵して。
すでに、この肉体がレベル3〈光輝の王〉のものではないと知った。人間大の上半身を、由峻に抱き起こされている――巨人の肉体は真っ先に過負荷で消失し、塚原ヒフミの自己認識に沿った肉体だけが残されていた。
想像以上に自分の受けたダメージは大きいらしく、すでに、腰から下の感覚がなかった。ぎこちなく首を動かせば、ガラスのように砕けた足首。
なるほど、これは手遅れだ。
「お疲れ様でした」
由峻は脱いだコートを足下に敷いて、ヒフミに膝枕をしていた。
その表情は不思議と穏やかで、役目を終えた男をねぎらうようにも見えた。
瓦礫の山が広がり、打ち倒された異形の死骸が、彼岸花となって咲き誇る花畑の真っ直中――死のにおいに満ちた場所で二人きり。
崩壊していく〈全能体〉が、幾何学模様を描く発光現象を起こす度、風が吹いて花が揺れる。ヒフミはそれが温いのか寒いのかわからなかった。
まだ触覚は残っているから、少女の膝の柔らかさはわかったのが不幸中の幸いか。
彼女の体温がわからずとも、その存在は伝わってくる。
言葉もなく、多くの時間が過ぎていった。
先に口を開いたのは、ヒフミだった。
「やっと、わかった……どうして、僕が、人間に憧れたのか」
少女は何も語ることなく、ただ黙して男の言葉を聞いていた。
慈愛に満ちた眼差しが、優しく青年を見守っている。
「……光なんだ。素晴らしいことも、恐ろしいことも、それを照らし出す灯りがなければ見つけられない……人間は、ずっと、僕にとってそういうものだった」
光そのものに善悪はないけれど。
照らし出された可能性を見出すこと、ただ存在するだけの事象に意味を与えること。
暗闇に差す、一筋の光になりうること――それが人間の素晴らしさではないか、と。
――数え切れない出会いが、自分の生に意味を教えてくれたように。
導由峻が、あの笑顔に誇れる生き方をくれた。
イオナ=イノウエが、人を守るため力を振るう生業を与えた。
新藤茜が、いつか自分が間違っても止めてくれると言ってくれた。
高辻馳馬が、軽口を叩き合う友達として彩りを与えていた。
アクサナが、当たり前の日常の尊さを思い出させてくれた。
つらく悲しいこともあった。
だが、塚原ヒフミという超常種にとって、人の世界が眩しかったのは――生きる意味を見出すに足るものがあったからだ。
無限に集められた可能性事象に触れて、塚原ヒフミの胸中に訪れたのは、そんな感傷めいた思いだった。
「あなたは、そんな風に、人間を愛しているのですね」
どこか寂しげに、由峻は呟いて。
白くなめらかな指先で、ヒフミの頬を撫でた。
「塚原さんは、ちゃんと生きて帰ってきてくれましたね――正直、綺麗に自爆してそれっきりだとばかり思っていました」
「……ひどいね、その言いぐさは」
「ええ、あなたはひどい人です。いっぱい、人を心配させています。お詫びに……そうですね。春には、あなたの妹さんも呼んでお花見しましょう」
ああ、そうだ。
ちゃんと家に帰らないと、家族との約束が守れない。一緒にクリスマスを祝うんだった。
アクサナが待っている。あの子は人見知りで、寂しがりで、愛情深い娘なのだと自分は知っている。
彼女がどんな理由で、〈全能体〉に利用されていた存在だとしても知ったことか。アクサナには、幸福になる権利があるはずだった。
いつまでたっても再生されない両足を見ながら、そんなことを思った。
遡航再生は十全に働いていない。その残滓のような生命活動の補填だけが、塚原ヒフミの命を繋ぎ止めている。
「――死なせません。わたしが、あなたを必ず助けます」
こうなることはわかっていたのです、と由峻は目を閉じた。
涙こそ流れていないが、その表情はとても悲しげで――そんな顔をさせたくなかったのに、これでは本当に甲斐性なしのひどい奴になってしまう。
「人格も記憶も肉体も、あなたの情報体さえあれば――」
再生させてみせる、と由峻の横顔が物語っていた。
ああ、言わねばならないことがある。右腕を持ち上げて、由峻の角に触れる。やわらかで、なめらかで、美しい三日月型の山羊角。
意思の強い、琥珀色の瞳が好きだった。その眼差しに捉えられると、子供のようにドキドキした。
――君に、恋をした。
どんな言葉にしても、この胸の奥にある感情を表すことはできないと思った。
「……夢を、見たんだ。百億の悪夢よりも、千億の楽園よりも大切な……君が幸せになる夢を」
現在地点から観測した、導由峻の人としての未来の可能性――それが、〈結線〉でヒフミの閲覧した可能性事象の索引であった。
そう、あのとき自分は恐ろしかったのだ。塚原ヒフミがいなくなったあと、IFの悪夢のように、由峻が失われてしまう未来が。
彼が守った現在の延長線上にある未来は、無限無数のバリエーションと共に存在していた。
その中には、アクサナがいて、馳馬がいて、茜がいて、由峻がいた――たしかに、自分が消えて失われるものはあるだろう。だが、それは何も残らないということではない。
そこには一つの結論があった。
――塚原ヒフミがいなくても、導由峻は幸福な人生を歩める。
たとえそれが、ヒフミのいない場所で、顔も知らない誰かと添い遂げた結果だとしても――初めて、心の底から笑えると思った。
この子は、しあわせになれる。
「僕の手が届かない場所でも、君が幸せになれるなら――それは、きっと、嬉しいことだから」
それだけで救われた気がした。自分は賭けに勝ったのだ。
たった一つ、塚原ヒフミの全存在を用いて貫くべき誓いは果たされる。
「わたしは、ずっとあなたの傍にいます。夢などではありません――あなたも、わたしも、幸せになるのです」
ヒフミの言葉が、態度が、濃密に漂わせる死のにおい。それに抗おうとするかのように、由峻は微笑んだ。
その姿が愛おしかった。
叶うならば、その言葉の通りであって欲しいと思う。
だが、もう限界が近かった。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も途切れ途切れになっていく。まるで壊れかけのカメラが、断続的に音と光を拾っているかのような有様。
恐ろしい勢いで、この躰が朽ち果てていくのがわかった。これまで肉体の維持に使われていた経路が、別の何かに変わっていく実感。
「ありがとう」
――君がいてくれたから、僕は僕でいられた。
ガラスのように砕けていくヒフミの指先を、そっと少女が握りしめた。血の一滴も流れない。体液が流れ出す先から、幾何学模様の光と共に質量ごと消失している。
それでも声帯は正常に働いてくれた。発声に必要な腹が残っているうちに、ありったけの想いを伝えようと決めた。
ああ、きちんと伝えるべきことなんて、一つしかないじゃないか。
感謝があり、恋情があり、愛情があった。
「――君を、愛している」
限界が来た。
もう何も聞こえない。何も見えない。言葉一つ発せない。
暗い――いいや、暗闇すら塗りつぶす白い光がやってくる。恐ろしい気配が近づいてくる。
刹那。
ヒフミは、取るに足らないちっぽけな願いを見出した。
はじめて、自分のためだけに欲しいと思ったもの。
もがくように手を伸ばして、
何の意味もなく、その願いは蹂躙された。
ヒフミの肉体が爆ぜる――骨格を、はらわたを、血肉を、皮膚を消し去りながら躍り出る五〇億の光の巨腕。
塵のように握りつぶされ、引き裂かれ、蹴散らされた死骸が宙を舞う。
その情報体が打ち砕かれ、意味をなさない飛沫となって拡散しきるまでの刹那。
輝かしい勝利のラッパ、絢爛たる哄笑が聞こえる。遠く、悲鳴のような少女の声を掻き消すほどの歓喜の合唱だった。
断末魔のごとき干渉波を残して。
塚原ヒフミは到達する。
――死すら終焉を迎えた永劫に。
砕 け る 。
壊 れ る 。
見 ろ 、 見 ろ 、 見 ろ !
自 ら の 真 な る 躰 を 認 め る が い い !
無数の腕や腹や口が、あらゆる方向に無限の姿を示している。
あまたの外敵をその牙で噛み砕き、星々を戯れに握りつぶし、その輝きで全世界を呑み込むもの。
角 度 が 変 わ る 。
直径五〇キロメートルの〈導管〉が崩壊する中、それは始まった。
破壊された超常種の肉体を新たな経路として、凄まじい量の干渉波が放出される――不可視にして不可聴の断末魔は、地表ではなく宇宙に向けて昇っていった。
地球の大気層を振り切り、文字通り、光を凌駕する速度で虚空を走る波動が辿り着いたのは、ぎらぎらと煌めく熱核融合の塊だった。膨大な量のエネルギーを物質から取り出し、ニュートリノや電磁波として出力する巨大球体。すでに誕生から四六億年の時を経た、プラズマ大気層に覆われた主系列星である。
地球生命の活動の源たる星、太陽。この天体を構成する全質量/核融合反応が変質する。高次元の情報体そのものである超光速波が、物質宇宙に存在する質量/エネルギーを、自らの肉体へと置換し始めたのだ。
まるで受精卵のように太陽が脈動する。
直径一三九万キロの恒星を繭とする幼体――この時間軸において、正しく器として機能する形態の獲得。
暗く光のない宇宙に、七色の光が満ちあふれていった。
角 度 が 変 わ る 。
彼はそうして、ちっぽけな夢から覚める。
微睡みから目覚め、真実の姿へと回帰するときがきたのだ。
誰もがそうであるように。
――長い、夢を見ていた。
悪しき殻を打ち破ることでしか、救えないものものがある。
忌まわしい〈異形体〉の妨害が、あまたの人の情報体を歪めていた。不完全な〈昇華体〉に囚われてしまった無数の魂を、正しく導くための破壊。歪んだ形態から解き放ち、収穫しなおすための行程だ。
破壊によってのみ成し遂げられる再生があり、そのために親と敵対する子がいる。
たとえばそう、〈光輝の王〉がそうであるように。
それは古き世界を打ち砕き、新たな世界の始まりを告げる祝福の名である。
親殺しもまた、天地創造の循環に組み込まれた機構の一部――自由意思という可能性の選択とて、無尽蔵の時空間資源を持つ天の采配の前では歯車に過ぎない。
全知全能の神意とは、疑うもの、敵対するものすら因果のより糸とせしめる絶対者なのだ。
盤石たる運命の名の下に、塚原ヒフミの命は正しく消費され、その意味を全うした。
誰もが願うしあわせのために、我が身を捧げる磔刑の救世主――かくあるべくして生まれた彼の化身である。
そう、すべては成し遂げられた。
――我はここに顕現した。
彼は到達者である――地球人類という種族が、幾星霜の彼方まで生き延びた証明。
彼は簒奪者である――過去/現在/未来に存在する、無限の可能性を収奪する器。
彼は模倣者である――人の願う神、祈る対象として存在するあまねく偶像の似姿。
それは途方もなく巨大な構造体だった。
太陽系の果て、外縁天体にまで広がる光の奔流は、神々の姿を宿した無数の翼。
万華鏡のように光を反射し、見るたびに模様を変える羽根は、その一つ一つが人の祈りであり、信仰であり、生涯であった。
翼の根元にあるのは、かつて太陽と呼ばれたもの――無数の眼を持ち、無機質でありながら有機体を思わせる質感――燦然と光り輝く黄金の球体だ。
――我が名は〈全能体〉、汝らの願いの器なり。
今この瞬間から、この宇宙は実存としての神を得たのだ。
生物機械たる人体を超越し、超空間構造体という筐体を得た情報体――究極的に人を救うものとは、矛盾する幸福のかたちをも成立させる神の愛である。
〈全能体〉の持つ時空間資源、この宇宙で起こりうるあらゆる可能性事象――無限のバリエーションを持った事象の海――を収めた索引は、すべての人に与えられた祝福だ。同時にそれは、知的生命体の認知する有限の世界を超克する術。
ここでは叶わぬ願いはなく、失われる幸福はなく、また永遠に飽くこともなく、満ち足りた生を謳歌できる。
人を人たらしめる主観的認識の維持に、有限の肉体など必要ないのだ――肉体の持つ原始的な欲求と、知性により付与された想像力が人間性の定義であるならば。
それを再現した入出力さえあれば、それは物質宇宙と何も変わりない現実である。外界から入力される知覚と、人体から出力される行動の調和があれば、人はそのゆりかごの中で生きていける。
――我は始まりも、中間も、終わりもない普遍の救済機構。
ここに人類の裁定は完遂された。
あらゆる人間は救済され、あらゆる選択は応報され、あらゆる知性は善導される。
完全無欠の幸福な結末が約束されている。
大いなるものの声は、太陽光と同時に地表へやってきた。
瞬間、地球上で起きていたあらゆる紛争、闘争、生命活動が停止する。
それが戦禍であれ、貧困であれ、犯罪であれ、暴力であれ――人は悪行から逃れられぬ存在であり、それゆえに、あらゆる場所に犠牲者が生じてしまう。
運命を呪い、人間を嫌い、社会を憎み、神などいないと絶望する人々。そして死を目前にして怯える命にこそ、その声は届いた。
――人は救われねばならない。
天上から降り注ぐ、慈悲に満ちた声。太陽光と共に飛来した共鳴禍は、建築物はおろか地殻そのものを透過し、地球の反対側にまで浸透していた。
肉体の生命活動を自ら放棄した人々の頭蓋骨に声が染み渡ると、脳組織が変異脳へと作り替えられ、自動的に、侵食光を躰の内側から外側へ放射――肉体の全質量をエネルギーへと転換。
そうして生まれた幾千、幾万、幾億もの情報体は、七色の光を振りまいて昇天した――彼らを救う〈全能体〉の下へと。
いつまでも、いつまでも。
青空も宵闇も切り裂いて、眩しい虹の柱が立ち上がる。
天へと昇る七色の流星雨によって、この星の幼年期は、静かに終焉を迎えようとしていた。
◆
何が起きたのかわからなかった。
青年の躰が爆ぜるように消え失せて。
目も眩むような七色の光が放たれ、恐ろしいことが起きている。
導由峻の人間としての情動は、凍り付いたように動かなかった。目の前で起きたことを理解していながら、それを拒むための思考停止。
だが、少女を超人たらしめる部分――結晶細胞の神経組織と角は、冷静に事実を俯瞰している。
〈全能体〉の完全な降臨。
その結果を引き寄せるためにヒフミは破壊され、それを呼び水として〈全能体〉は受肉した。
だから、因果はとても簡単に説明できる。
塚原ヒフミが現在を守ったとしても――その先にある未来が、決断に報いるわけではなかった。
そうして守った人間が何を願うかは、保証されていないから。
西暦二一三四年現在、地球上に存在する五〇億の人類は、そう遠くない将来、いずれ死を迎える。
そして〈全能体〉の救済とは、その死の瞬間、怯える命を取りこぼすことなく救うことなのだ。
全人類を〈全能体〉の干渉から守らんとした男の決断は、五〇億の人類――あるいは過去未来にまたがる、死に屈する人類すべてを敵に回したのだ。
――生きたい。
そんな当たり前の願いの群れが、ヒフミを破壊した腕の正体だった。
次なる霊長という夢の結実、時空間すらも支配下においた超越的知性体。それが地球人類の行き着く進化/退化の極点だ。
まだ見ぬ未来を、丘の向こうに広がる豊かな世界を求めて、前に進むのが人間だというのならば――もう、彼らが前に進む必要はない。はるか彼方より、その歩みの到達点がやってきたのだから。
この星で生じた生命体の中で唯一、想像力を理由にして産み増え殺し続ける知性体。
その頭脳ゆえに可能性を知覚し、その確定していない未来のために同胞を殺す獣――それもまた人間だった。
由峻は今まで、人の生命を、尊厳を踏みにじる同胞を嫌悪してきた。よしんば亜人種がホモ・サピエンスに能力的に勝っているとしても、それは肉体拡張の結果であり、後天的に穴埋めできる程度のハードウェアの性能差でしかない。
そんなものを絶対的優越と勘違いして、他者を傷つける愚劣さを憎んできた。
そう、大勢において加害者と被害者の構図は明確だった。人間が相対的弱者であり、神話主義者の亜人や〈異形体〉によって虐げられる犠牲者だからだ。
彼らの悪意や暴力が、自分や母親を襲ったとしても、いずれ解決すべき問題の一部でしかなかった。シルシュの作り上げた理想世界/暗黒世界の歪みに根ざす、人々の怒りや憎しみは当然である。その過程で流れる血があるとしても、それに報いる、よりよい明日を築くしかないのだ、と。
明確な使命感と義務感、そして潔癖な正義感が、導由峻を今日まで動かしてきた。
人の愚かさも、醜さも、弱さも許そうと誓った――それが自身に課された生き方なのだと信じて。
やはり、少女は傲慢だったのだ。
考えたこともなかった。人間すべてが、絶対的支配者として君臨する世界など。
その結果が、何をもたらすのかを、ようやく思い知らされている。
空は満天の青空。
緞帳のように季節を覆いつくしていた冬の雲は跡形もなく消え失せ、煌めく黄金の太陽だけが宙に浮かんでいる。
由峻は何もできず、路面にへたれ込み、呆然と空を見上げていた。
ちらちらと降りつもる、燃える雪を見た。
花びらのように宙を舞う、美しい光の飛沫。
それが剥き出しの角に触れた瞬間、燃えるような感情が胸中に生まれた。跳ね起きるように腕を伸ばして、白熱する雪の結晶――砕け散った魂の欠片に触れる。
幾条もの光が天へ昇っていく中、由峻が見ているのは、失われた存在の残した祈りだけだった。
――君と一緒に生きる未来が、ほしい。
彼が最後に望んだもの。
はらはらと舞い落ちる燃える雪は、桜の花びらのように綺麗だった。
「塚原……さん」
愛しさがつのった。
あの人は、何も諦めてはいなかった。
塚原ヒフミは、導由峻と共にある未来のために生還しようとしていたのだ。
頬が濡れている。気付かぬうちに流れ落ちていた涙は、滂沱として止まることがない。
おぞましい光が、地上に降り注いでいた。
七色の侵食光を放ちながら、この星のすべてを照らし出す黄金の太陽――無数の目を持ち、無数の翼を持ち、無数の姿と共に君臨する絶対者。
全方位に広げられた銀色の飛沫は、その一つ一つが、集積された可能性事象の体現だ。この地上に生きる人間すべてを見守るための瞳――五〇億の天眼を持つ人類救済機構。
あらゆる角度に無限の姿を示す、神々しい万華鏡の翼。
そのすべてに既視感があった。塚原ヒフミの情報体と同じ手触り、同じ声音、同じ輝きがそこにある。
大いなるものの呼び声が聞こえる。
――喝采せよ、万人に不死の門は開かれた。
彼であって彼でないものが、人を救いたいとうそぶいている。
凍えるような孤独も、際限のない悲しみも、青臭い人への憧憬も――彼を彼たらしめたものは、すべて摩滅されていて。
由峻を愛していると言ってくれた、あの優しい青年の面影はどこにもなかった。
燃える雪を全身に浴びながら、彼女は理解した。
「あぁ……あ、あああぁぁ……!」
わかる。
わかってしまう。
もう、どこにも彼はいないのだと。
今さらになって、何もかもが手遅れなのだと悟る。
天の光はすべて人――荒れ野へと放たれた種子から芽吹いた、永劫に咲き誇る花。
それは汚泥の上に咲き誇る、蓮花のように美しかった。
――ヒフミを犠牲にして、完成した絶景。
征服者にして収奪者にして繁殖者たる霊長のおぞましさを、理解できていなかった。
自他の幸福のためならば、あらゆるものを足蹴にして繁栄を選び取れる怪物の群れ――生まれて初めて、邪悪が憎いと思った。
頭が真っ白になるような悲嘆と、憎悪と、絶望が思考を焼き尽くして。
「うわああぁあああああぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
涙は止めどなく流れ続け、叫びが声帯を震わせ続ける。
魂の深奥からわき上がる激情、世界を焼き尽くすような怒りが、由峻を支配していた。
――それを、人は慟哭と呼ぶ。