22話「怒れる蛇」
まだ夏の名残が深い、秋の入り口。
和らいだ陽光が差し込む公園で、親子二人並んでベンチに腰掛けていた。
「由峻、あなたなら、どんな風に人間を愛してあげられると思う?」
記憶の中で微笑むあの人は、ひどく優しげな顔をしていた。
生来の褐色肌は焼き菓子のようで、彫りの深い顔立ちは異国情緒――日本列島という土地に住まう民族の最大公約数的顔立ちと異なる――を漂わせていた。
娘とよく似た艶やかな黒髪を背に流し、一八〇センチはあろう長身で胸を張る様は、我が母ながら勇ましい。
頭部には大きく歪曲した二本の角――これまた娘に引き継がれた琥珀色の瞳には、いっそ清々しいほどの傲岸不遜の色。
おのれの為すことすべてに意味があり、他者にとって、世界にとって、いつか有益になると信じている人種の輝き。
だから由峻はシルシュが苦手だ。
その功罪を理解した今となっては、なおのこと、容易には受け入れがたい溝がある。
けれど記憶の中では、幼い自分は無邪気に母親を慕っていた。
まだ由峻が六、七歳ほどのときのこと――賢角人に限らず、大抵の場合、亜人種の幼体は人間よりも成長が早い。
脳にプリセットされた倫理励起基準は、人の幼児よりもはるかに早く、亜人の子供に良識と道徳を刷り込むからだ。
元々、電脳化技術を基盤にしている環境適応モッドを用いれば、どんな言語や文化にも適応できる。
背丈も顔つきも、同年代の子供に比べればずっと大人びて見えたはずであった。
だが、それは常識を知っていて手がかからないというだけで、知見が深いわけではない。
「お母様、なんで、人間を愛さなきゃいけないの?」
両足を所在なげにぶらぶらさせ、唇を尖らせて問うた。
幼いながらに、将来の完成された美貌を予期させる顔立ち――そうなるよう遺伝子レベルで父母が設計した造形だ。
一体どういう意図でそうしたのか定かではないが、少女の肌は淡雪のよう。
母であるシルシュの褐色の対極、抜けるような白い肌である。
別段、父親に似ているわけでもない色だ。
両親が話し合って決めたことらしいが、一人娘としては繋がりが感じられず、少し寂しくなりもする。
そういうわけだから、由峻は、母親譲りの二本角と瞳が自慢だった。
「そうね。そこから話すべきかしら――」
シルシュは柔らかに眼を細め、公園の一角に目を向けた。
角を通じた認識のリンクで、その意図を伝えられる。
母の視線の先へ目を向ける。そこにいたのは、一〇代半ばの少年と並んで歩く女性だった。
容姿で判断する限り、二〇代前半ほどにしか見えない。
母から送られた注釈データ――異種起源テクノロジー由来の抗老化の痕跡あり。
「たとえば、あちらのご婦人。実年齢は見た目の二倍はあるでしょうけれど、文字通り、肉体は若々しいまま生きていられる。それを誰もが、格安で受けられるのが人類連合の理想世界――老いの克服は、人間たちが有史以前から求めた夢だったのにね」
どこか皮肉げな声音だった。
それが文明の進歩というものだ、と胸を張ればいいのに。
幼い由峻はそう思い、小首を傾げた。
「多かれ少なかれ、私も由峻も、あの人たちのような普通の人に影響を与えてしまう。それは望もうと望むまいと、避けられないこと」
「わたし、お母様みたいになれないと思う」
ぽつり、と零した言葉は弱音にも似ていて。
しかし結局のところ、それが、当時の由峻にできる現状認識だったのだと思う。
少なからず監視や不自由が付きまとう生活のおかしさは、すでに察していた。
母親が人類連合の要人だからだとしても、少女一人にかける労力としては度が過ぎていた。
そんな娘の言葉に心動かされたのか、そう、と頷いて。
「あなたに平凡な人生を用意できなかったのは、私の唯一の心残りかもしれない」
でもね、とシルシュは微笑んだ。
「ただの人間にできる行いは、吃驚するぐらい限られている。理不尽や不条理に出会っても、それが通り過ぎるよう祈ることしかできない人たちの方が多い。でも、私とあの人があなたに託したモノは、万難に打ち勝つ力になるわ。だからね、由峻。これはあなただけの宿題。どんな風に世界を愛してあげられるのか、何が出来るのか――きっと、いつか、あなただけの答えが見つかるはずだから」
それは通り過ぎた日々。
優しい記憶も、この胸に残る慕情も、何一つとして。
――あの人の犯した間違いを正したりはしない。
だけど、それでも。
かつて彼女が夢見た景色を、否定したくはなかった。
〈異形体〉のため作られた亜人種に、誇りある生を、使命などなくとも幸福に暮らせる世界を与える――その祈りは美しかったから。
そう、自分は知っている。
謀殺されたシルシュが、死の間際に娘へと送信した記憶と知識――導由峻が命を長らえた理由そのもの。
知恵者のすべてを継承したライブラリとして、生存を担保したギフトだ。
ただの人間の男を愛し、娘をもうけた母を突き動かしたのは紛れもなく愛だった。
母の記憶が、惜しみない愛情を保証している。
ああ、だから。
――わたしは、わたし自身の祈りに嘘をつきたくないのです。
◆
朝焼けの空のように。
真昼に煌めく太陽のように。
天体のが織りなす現象のように。
知覚しよう、認識しよう、警戒しよう――この世には、どうにもならない美しさがあるのだと。
――あれは、わたしたちの天敵だ。
自然、歩みは止まっていた。
UHMA本部ビル、治安組織の本拠地へ避難するという選択肢の意味が消え去る。
あれが現れた以上、肉体の保全も精神の保護も意味を持たない。
由峻のみならず、護衛の兵士たちも足を止めていた。
そう、抗えるものではなかった。
地上を照らす光は、人の頭蓋の内側、柔らかな脳組織を犯す輝きなのだから。
小銃を手にした兵士が、跪くようにして動かなくなる。
あるものは道路に倒れ込み、あるものは立ったまま――ヘルメットの内側より、煌めく変異脳を露出させていた。
軍用外骨格を身につけた兵士だけは無事だが、突如として倒れた仲間たちに声も出ないようだった。
これは戦闘ではない。死傷ではない。事故ではない。
不可逆の人体汚染が実行されたに過ぎない。
ゆえに、戦うための意思も技能も抜け落ちて、呆然と立ち尽くすしかない――理不尽とはそういうものだ。
たとえ彼らの末路が、自分を守るためここにいたせいだとしても、謝罪することは出来ない。
少女はただ、空を睨み付けた。
すでに、戦闘駆体〈ムシュマッヘ〉との接続は途切れた。
ヴァルタン=バベシュの動向も、塚原ヒフミの安否も不明だ。
本来ならそちらを心配すべきだとわかっている。
だが、少女の躰に刻まれた本能は、その無駄を許さない。
今ここであれに対処しなければ、すべてが無意味になる。
空いた演算リソースの余剰に、最上位命令系統からの接続を確認――〈異形体〉直々のアクセスだった。
由峻の脳を通じて、人類と異なる空間認識・時間速度で生きる彼らの思考を翻訳。
そうして言語化されたそれを、データ化された大量の添付情報と共にハイヴネットワークへ共有させる。
有角人種の持つ超光速情報通信ネットワークへと伝えられる言葉――理解する。
空を覆う天蓋。
そこにあるのは雲にあらず、物質にあらず。
事象のすべてを支配する翡翠色のオーロラ――禍々しい光の帯を構築するのは、可視化された超物理現象。
否応なく人を作り替え、昇華し、構成元素のすべてを再定義する機構。
ヒトの脳組織に干渉し、再構築し、エネルギー保存則を蹂躙する天恵。
それは超常種、あるいはホモ・ペルフェクトゥスと呼ばれた種の到達点、人間の意識だけを連れ去る救いの腕。
エメラルドグリーンの侵食光――超人災害を示す異形の煌めきが、空一面を覆い始めて六八秒が経過。
――現状予測では一八〇秒後に北半球全域の人体が消失。我らはこれを看破しない。
――四秒後に第一次攻撃・空間破砕処理を実行、時空復元処理まで〇・〇〇一秒の遅延が発生する。
不味い。
一体何が行われるのかは由峻にも定かではないが――おそらくは、地球上で行ってはならない類の天文学的破壊行為。
気付けば、唯一生き残っている外骨格の方へ駆け寄っていた。
「シールドを展開してください。最大出力で!」
ほとんど叫ぶような声に、無心で応える軍用外骨格――身長三メートル近い鎧武者が、肩部の斥力場発生デバイスを展開。
自身と少女、そして動かなくなった仲間たちを守るように不可視の障壁を生み出した。
瞬間。
空が切り裂かれた。
翡翠色のオーロラが消し飛ぶ。
その裂け目から、この世のモノとは思えぬ嵐が流れ込んできた。
滅茶苦茶にかき回された大気が、巨人の絶叫のように放たれて。
ほとんど垂直に、圧縮された突風が地表に向けて吹き荒れる。
街路樹が根こそぎへし折れ、自動車が宙を舞い、ビルというビルの窓ガラスが粉々に割れ飛んだ。
斥力シールドがなければ、なすすべなく全滅していたであろう爆風。
不可視の盾の表面に、ありとあらゆる重量物がぶつかってくる。
粉じんと瓦礫の山が、半球状の斥力シールドの回りに叩き付けられ、明後日の方向に吹き飛んでいく。
ビル表面に車両が激突し、ナノペーストの血が飛び散る。
風が収まる。
幸いにも人体汚染で倒れた兵士たちの肉体は無事だ。
たとえ今は治療方法がないとしても、むざむざと死なせる理由もない。
あたりを見回せば、凄まじい量の粉じんが視界を遮っていた。
半円状の斥力場の外は、霧のように、滞空する塵で覆われているようだった。
二本の山羊角を探査装置として機能させる――幸いなことに電磁波、放射線、熱波は感知されていない。
解き放たれたエネルギーの総量は不明。
熱核攻撃の爆心地のような有様――否、建造物がなぎ倒されていないだけ軽微と言えるだろうか。
〈異形体〉の声が聞こえた。
――敵性存在の物質化を確認。第二次攻撃は追って通達する。
――避難せよ、逃亡せよ、生存せよ。
対象の物質化。
つまり、先ほどまでの光帯とは違う形態に追い込んだのだろう。
言葉だけの宣言しか来なかったために、ハイヴネットワークでは、賢角人たちが詳細を求めて情報収集を繰り返していた。
どうやら近隣の賢角人で、外を出歩いている物好きは由峻ぐらいらしい。
尤も、そうでもなければ先ほどの爆風で死んでいることだろう。
じっと、粉じんが収まるのを待つ。
最初に見えたのは、水晶のように透き通ったアーチ状構造体――〈異形体〉極東クラスターの足だ。
環境操作を放棄しているのか、直径数キロメートルの巨体が作る影が街に落とされている。
そして。
まず最初に見えたのは、赤黒い壁だった。
油彩画に塗りつけられた絵の具のような、重苦しい、キャンバスにへばりつく血の赤。
おおよそ正気の光景ではなかった。
鈍色の雲はどこにもなく、切り裂かれた光帯の向こう側にあるべき青空もなく。
ただ、そこにあるのは血と肉の色。
膨れあがった季節外れの入道雲――成層圏に軽々と到達するそれは、人体の部品が絡まり合った積乱雲だ。
見えてしまう。
〈異形体〉の知覚する景色と紐付けられた光学的情報が、彼女の視覚に流れ込んでくる。
彼らは生きていた。
脈打つ生命の熱を持っていた。
幸福を感じる精神を伴っていた。
丸々と膨らんだ白い肉があった。
曲線を描くふくらみの頂点にはへその穴。子を孕んだ妊婦の腹が、蜂の巣のようにびっしりと並んでいる。至る所に開いた穴は、あるときは目蓋であり、あるときは口腔であり、あるときは女性器であった。
目蓋から涙が流され、口腔から唾液があふれ、陰唇から血が流される。
植物の蔦のように赤い舌が踊り狂う。
生白い人の腕が、うごめきながら宙へ伸ばされている。
無限に等しい数の人の目が、口が、腕が絡まり合って蠕動していた。
かと思えば、何をするでもなく生えた指の草原があった。
意味もなく勃起した陰茎の肉林があった。
ぶらぶらと揺れる心臓が、奇妙な果実のように連なる果樹園があった。
色とりどりの臓物が光る肉の農園があった。
丸々と膨れあがった肉塊が、至る所に開いた目蓋から瞳を覗かせる。
無垢なる赤子の瞳。
活発なる子供の瞳。
成長した大人の瞳。
衰退した老人の瞳。
紛れもない人間の目が、地上を見下ろしていた。
憎しみを持たず、怒りを持たず、悲しみを持たず、迷いを持たず――ありとあらゆる苦悩から解き放たれた知性が、幸せそうに眼を細めている。
気が狂いそうなほど醜悪で、救いがたいほど統一性のない人肉結合体――縦の大きさだけで、全長一〇キロ以上はあろうかという肉の雲塊。
正しく人の成れの果てであり、忌むべき救いのかたち。
その側面が、ぱっくりと横一文字に裂けた。
おびただしい量の体液を、スコールのように地上へ降らせ、肉が変形していく。
断面に出来上がった空洞が整形され、口腔ができあがる。
盛り上がった肉が引き延ばされ、数千メートルの長さを持つ舌が伸ばされる。その舌を隠すように歯茎が生まれ、横の裂け目を覆うように頬肉が蓋をしていった。
鼻梁ができあがる。無数の目が寄せ集まり、特大の複眼を形成していく。
雲と見まごうほどの肉塊が、だまし絵のように人の顔へ近づいていた。
大きな口が開かれて。
音が。
産声が。
聞こえた。
――お゛ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁあ゛あ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁあ゛あ゛
ソプラノからバスまで千差万別の響き、聞くものの意思を揺るがすような調べ。
気付くと、〈異形体〉とのリンクが切断されていた。
頬を冷たい汗が伝い落ちる。
先ほどの爆風で吹き飛み、粉じんに汚された雪が道ばたに山積しているのが見えた。
顔色の悪い由峻を気遣ってか、声をかけられた。彼以外の護衛はすでに倒れているから、実質的に二人きりのようなものだ。
『大丈夫ですか?』
「……ええ。ありがとうございます。これから、どう行動するのですか」
問いかけに彼は少し黙り込み、ぴくりとも動かない仲間たちの成れの果てを見た。
『――まだ無事な我々だけで避難を続行します。戦闘用外骨格の制御系には、結晶細胞の同化フレームが用いられています。共鳴汚染に対しての耐性は十分です』
対超人災害用のシェルターの外殻にも、同様の処理が施されている。
裏を返せば、シェルター内部に逃げ遅れた人間は確実に汚染されているということだ。
この近隣、都市中枢部はその重要性に比例してかシェルターの規模、数共に充実しているが、空ヶ島郊外ともなれば逃げ遅れた人間がいてもおかしくない。
これだけの規模の超人災害なら、空ヶ島のみならず、日本列島全域にその汚染を広げていてもおかしくはない。
新東京の友人たちを思いだし、少しだけ胸が痛んだ。
今、自分が心を痛めたところで事態は好転すまい、と思考を切り替える。
『今はあなたの身の安全が最優先です。UHMA本部ならば、ここより安全と考えます』
わかりました、と頷いて。
頭上に、巨大な影を見た。
それはさしづめ、腹のふくれたシュモクザメのような機影――ガンシップ。
塚原ヒフミを援護するため呼ばれたはずの、対地攻撃機が黒煙を上げて失速していた。機体側面から突き出た砲身――大口径レールガンや粒子ビーム砲がねじ曲がり、火花を上げていた。
高度を保てず、どんどん斜めに傾いでいくのがわかった。
重力制御エンジンに損壊を確認、異常重力波を放ちながら機体が変形、圧縮されている。
重力制御による航空機にとって、最も忌むべき末路。
機内のあらゆるものが壊れたエンジンに引き寄せられ、乗員は脱出もままならず圧死する。
敵に撃墜されたのだ、と理解する。
由峻がコントロールを失ったあと、〈ムシュマッヘ〉の電子戦能力を使ったのであれば――撃墜も十二分に可能だ。自己を砲弾並みの速度にまで加速させる超人、ヴァルタン=バベシュ。
両目と二本角を全力行使、敵の所在を確認した。
見つけた。
同時に理解した。
敵もこちらを捕捉しているという事実を。
右の角を失い、側頭部を溶解させられてなお健在の悪鬼――ヴァルタン=バベシュ。燕尾服姿の怪人が、墜落するガンシップの上にいた。腰から何かをぶら下げ、こちらを見下ろす悪魔的風貌。その足が、機首を蹴り上げる。
跳躍。反動でひしゃげたガンシップが、地面に激突。炎を上げて重力制御エンジンが自壊し、ねじれた機体が道路を塞ぐように横たわる。
逃げ道を潰された。
来る。
思わず、由峻は目を閉じた。
◆
瞬間、由峻を抱きかかえて軍用外骨格が飛んだ。搭乗員のUHMA局員は、少女の肉体にかかるGを度外視、五体を粉砕されるよりはマシと判断して跳躍。
全身の人工筋肉に用いられた結晶細胞が、搭乗員の神経組織と結合し、超物理現象を行使する。
一時的重量軽減――三メートル近い装甲の塊とは思えぬ機敏さを発揮。
すでに彼の分隊は全滅しており、状況から見て塚原対策官の援護は望めない。
あるいは、退避した外骨格装着者ならば、と思いながらデータリンクと援護を要請。
応答なし。
頭上に君臨している超人災害の影響か――あらゆる無線周波数に返答がない。
着地する。
最大限の慣性制御を発揮し、せめて少女の躰にかかる負荷が最小限になるよう調整。
彼女の両足が接地したのを確認後、自身はさらに跳躍、横へ八メートル移動。
着地したヴァルタンを目視する。
肩部の斥力場発生デバイスを最大出力で展開、同時に、背面サブアームに保持したスマートランチャーへ榴弾を装填。
迷わず連写モードで発砲――四〇ミリグレネードが次々と投射される。
敵が強力な重力制御を持つ第一世代亜人種なのはわかっている。
ならば、重力制御を利用した重量物の投射は予想されて然るべき――UHMAの前線要員として当然の対処。
近接信管のグレネードが、ヴァルタンの重力障壁に捕まって誤作動。
相次いで爆発する――牽制に対するお返しとばかりに、棒を一閃した。
ヴァルタンの超高密度ロッド――塚原ヒフミに半壊させられてなお、五〇トン以上の質量を持つ打撃武器――が、地面に向けて振るわれる。
その軌道の向かう先にあるのは、汚染され動かなくなった兵士たちの肉体だった。
直撃。
一瞬で人体が原形を留めなくなるほどの衝撃。
肉が引きちぎれ、ぐしゃぐしゃに砕けた五体が飛んでくる
砕け散った死骸が、砲弾であった。
仲間の頭部だったものが潰れる。
頭蓋骨の中身、翡翠色の変異脳をさらけ出して弾け飛ぶ。
潰れた肉から血が噴き出し、半円状の斥力場を一瞬だけ血で汚した。
あまりにも凄惨な景色に、一瞬、彼は動揺した。
加速された思考において、〇・一秒にも満たない遅延。
秒速二〇〇〇メートルの速さで迫り来る怪物にとって、恰好の獲物だった。
肉薄――斥力場の効果範囲ギリギリまで突っ込んできたヴァルタンが、左手をかざした。
重力障壁の攻撃転用だった。
掌サイズにまで効果範囲を狭めた過重力場が、斥力シールドをえぐり取った。
刹那、軍用外骨格のFCSに管理された銃口が、ヴァルタンを捉えた――銃弾が放たれる前に銃身が消し飛ぶ。
手首のスナップだけで振るわれた棒が、胴体にめりこんで。
それっきり、外骨格は動かなくなった。
◆
「あ、あぁあ……!」
導由峻はすべてを見ていた。
倒れた護衛たちの肉体が粉砕され、その死骸を浴びせられた外骨格が、完膚無きまでに蹂躙される様を。
言葉にならない音が、喉からあふれ出た。
悲嘆と呼ぶには熱すぎて、絶望と呼ぶには激しすぎる激情。
その名前を自覚する前に、少女の思考は中断された。
衝撃。
灼熱。
それが激痛なのだと理解するのに、時間は要らなかった。
「ぐ、がっ……」
苦悶のうめきと共に、食道を熱い液体がせり上がる。
鉄の味、真っ赤な血が唇を伝い落ちた。
血の泡を吹きながら、下半身の感覚がないことに気付く。
両足が地面から浮いている。
杭を腹に打ち込まれたような感覚――腹部から背中まで貫通する何かを目視した。
足下から映えたガラスの杭に、腹部を刺し貫かれている。
ぶらぶらと揺れる両足――背骨ごと神経組織を粉砕されたのだ。
コートが、ブラウスがどす黒い血に染まる。
デニムのショートパンツに内臓の破片がこびりつく。
伝い落ちる臓器と体液にストッキングが染まる。
口を突いて出るのは、潰れた蛙のようなうめき声。
呼吸すら放棄したいような苦痛と、それ以上の激情が思考を支配する。
一七〇センチはあろう由峻の躰が、二、三メートル空中へ持ち上げられた。
六五キログラムの体重が、腹を貫く三本の凶器によって支えられている。
当然のごとく、皮膚が断ち割れる。筋肉が断裂する。
ミンチになった臓器を掻き分け、無事だった内臓が圧迫された。
こみ上げる吐き気――吐瀉物すらなかった。代わりに血を吐き出す。
肉片混じりの体液を。
獣のようにうめき、苦しみにあえぐ少女の中のとびきり冷静な部分が、この攻撃が可能な存在をライブラリから探し出す――答え合わせはすぐに出来た。
舗装道路が盛り上がり、土砂を巻き上げながら、悪夢めいた巨体が姿を現す。
サソリのような形状、ガラス細工で出来た節足動物の趣――戦闘駆体〈ギルタブルル〉。
恐るべき蠍人間の名を冠した、シルシュの作品の一つ。
ハサミがあるべき両前足から、無数の触手を生やした昆虫もどき――由峻の脳にある設計データが正しければ、全幅一八メートル、全長七〇メートルにも及ぶ巨大なユニットである。
うねうねと毒蛇のようにうごめく触手の群れと、それに腹を撃ち抜かれたおのれ。
生理反応としての涙――不思議と恐怖はなかった。
それ以上の激情が胸を占拠している。
その濡れた瞳をどう思ったか、ヴァルタン=バベシュがこちらを見上げた。
片角を切り落とされ、右側頭部を破壊された第一世代亜人種――悪魔的造形の頭部を持った賢角人。
彼の口元に浮かぶのはサメの笑みだ。
「ご安心を。あなたの脳と神経組織には使い道があります。手足と内臓と五感は切除させていただきますが、導由峻という資源は有効活用できる」
二ヶ月前、自分を襲った亜人アニラを思い出す。
ヒフミによって撃退されたあの超人もまた、由峻を殺そうとはしていなかった。
敵の支援者にして内通者――おそらくはクライアントと言うべき男の言。
なるほど、それも道理だろう。多くのブラックボックスを残し、暗殺された天才シルシュ。
その頭脳の中身が手に入るのだから。
幼い自分を生かした保険が、今度は命を脅かされる原因になっている。
何もかもが皮肉だった。
微笑もうとしても、引きつった口元は上手く動いてくれない。
重力と体重によって絶えず杭のような触手がズレて、少しずつ内臓を破壊しているから、痛みはいつまでも新鮮なままだった。
まるで気休めのように、男は笑った。
「塚原ヒフミの肉体は完全に機能を停止、これがその証ですな――お礼を申し上げましょう、由峻様」
そう言って、腰からぶら下げていたそれを放り投げる。
それが何であるのかわからなかった。
聡明な彼女らしからぬ反応――全身を支配する苦痛が、洞察と観察と推論をおろそかにさせていた。
いや、より正確に記述するなら、それは実に人間的な反応で。
現実逃避だった。
それには両目がなかった。鼻がなかった。
上半分が丸ごと消失し、頬の肉が裂傷でごっそりとそげ落ちた顔の残骸だ。
死後硬直で強ばった口元にだけ、見覚えがあった。
顎から上を失った生首が、ごろり、と地面を転がる。
導由峻は、今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
ごぼごぼと血の泡を吹き出し、口元を汚し、もがき苦しむことしかできない。
「私の目的は達成されました――今このとき、東京一号が解き放たれたタイミングで、彼の脳を破壊できた。あなたへの慕情あればこそ、彼はここに居合わせてくれたのですから」
そう言えば、今着ている服装は、文字通り彼とのデートのために用意したのだった。
本当にどうしようもないぐらい遠回りで、迂闊で、そのくせ情熱を秘めた青年が好きだった。
ああ、でも。
どこまでも人間を守りたいと願いながら、自身を孤独へひた走らせるその生き様を、導由峻は悲しいと思った。
尊いと感じた。愛おしいと思わずにはいられない。
その感情の起点が、父母に設計された亜人種としての仕様なのだとしても。
恋情に嘘偽りはなかった。
――その末路が、こんな。
ただ、塚原ヒフミに幸せになって欲しかった。誇って欲しかった。その生を尊び、愛おしいと慕うものがいると伝えたかった。
ぐるぐると渦巻く感情を余所に、頭が冴えていくのがわかった。
不死なる超常種が、遡航再生を停止させた理由。
ヴァルタンの言葉が確かなら、それは頭上の東京一号の影響に他ならず――この男は、最初から自分の賭けに勝っていたのだ。
「由峻様……あなたの存在は、地球人類の絶望そのもの。人は最早、ホモ・サピエンスとして歩むことなど叶わないという、シルシュ様の祈りのかたちです。あの御方は、人の愚かさも醜さも弱さも、等しく種の限界に過ぎぬと断じた――人類連合の思想的指導者は、その実、誰よりもホモ・サピエンスに見切りをつけていた。それは人間への裏切りなのですよ」
ああ、やはり。
「あなた自身に罪はない。しかし、生まれたことが間違っている。〈異形体〉の理想世界が、ヒトを家畜へ変える過ちであるように、正されねばならない」
何故、わざわざ自分に対してこうも雄弁なのか、ようやく納得できた。
それは、この超人を悪逆へ走らせた理由と同じもの――彼自身を絶望させた光景への報復だ。
長い長い陰謀の果てに、ヴァルタン=バベシュは禊ぎを行おうとしている。
シルシュの残した兵器と、その最高傑作を潰し合わせて。
ようやく彼の断罪は終わるのだ。
「……人間の命はあまりに脆い。死によってあらゆる意味を剥奪される。こうも無惨に蹂躙されるならば、せめて、尊厳が保たれる場所へ導かねばならない」
男の呟きは、懺悔にも似ていて。
眼下の怪物を見た。戦闘駆体〈ギルタブルル〉――ヴァルタンの計画に賛同者がいたとは思えない。
この男の行動原理から察するに、他者に重要戦力を担わせるとは思えなかった。
そのような状況下で最も安易な運用法を、由峻は知っている。
母がそれを懸念していたと覚えている。
人間の脳をえぐり取り、洗脳し、中央算処理装置として組み込めばいい。
ここにあるのは、貶められ、生を否定され、あらゆる命を暴力装置に利用された犠牲者だけだ。
激情が、その輪郭を鮮明にしている。
――嘆かわしい。
この胸の激情は。
――怒りなのですね。
刹那、魂が水晶に包まれていくかのような錯覚を覚えた。
――思考中枢の機能制限を解除。形態変容を開始。
亜人種のそれとは異なる、より根本的な変化――脳組織の完全なる結晶細胞化――人間性と全機能の調和のときが訪れた。
思考が最適化される。
人の脳を模していた疑似生体が、瞬時に組み変わる――目の前の脅威を打破しうる機能を獲得する。
結晶細胞によって構築された演算処理装置。思考する神の目。超物理現象を引き起こす最良のファクター。
数多の宇宙を観測し、認識し、介入する地球外知性体の存在階梯に届いた。
ああ、今ならわかる。
これが、シルシュの託した宿題の理由だ。
見果てぬ夢、人の肉体と精神に収められた万難に打ち勝つ力。
「――何がおかしい?」
ヴァルタンが訝しみ、首を傾げた。
損壊したバイザー状視覚器官に、疑念の色が灯る。
すべての仕事をやり終えた男が、思わず、問うてしまうほどの違和感。
主要臓器の七割を破壊され、間もなく頸椎を引き抜かれる娘の浮かべる表情ではなかった。
切れ長の眼を細め、由峻は微笑んでいた。
口の端から血の泡を零しながら、顔を上げた。
腹を撃ち抜き、脊柱を断裂させた触手などそしらぬ顔で、唇を血で濡らしながらせせら笑う。
「人間の生に意味などなく、価値などなく、冷厳たる死に抗うことは出来ない――そんな当たり前のことを、賢しげに語って終わりですか?」
ぞっとするほど静かな声だった。
怒りでも憎しみでもなく、淡々と事実を確認するだけの口調――釣り上がった口の端は、抑えられない感情の一端であった。
「存外、甘いのですねヴァルタン。あなたの悲観主義は底が浅い。人の躰は容易く壊れ、病に腐り、精神はそれに従属する――それは一〇〇年も前に通り過ぎた絶望です。だから、わたしたちが作られたというのに」
戦闘駆体はスタンドアローンの兵器であり、賢角人といえど、遠隔操作では制御しきれない。
そして超物理現象を行使する以上、末端はヒト細胞と融合した中枢と繋がっているのだ。
由峻の胴体を貫通し、脊柱に接触している触手は好都合な存在だった。
肉体に食い込んだ触手――分子破壊デバイスから、その構造を解析。
由峻を構築する結晶細胞と共鳴させ、根本の制御系へと侵入。
「あなたのさえずる尊厳とは、有史以来、この世のどこにもあり得ない夢物語。ただの幻想です。たとえこの世界から〈異形体〉が消え去ろうと、決して人の手には渡ることはないでしょう」
汚染を開始する。
ヴァルタン=バベシュによって洗脳を施され、指向性を与えられた犠牲者の脳。
外部からの入力に従い、憎悪の対象を切り替える報復精神の権化。それが戦闘駆体〈ギルタブルル〉――汚染環境での都市制圧を想定した戦略兵器、動く超人工場を統括するシステムの正体だった。
結論から言えば、電子的攻防は一瞬で決着した。
えぐり取られた数十人分の生体脳――精確にはそれと結びついた結晶細胞のもたらす思考速度――程度の計算資源では、今の由峻とは拮抗し得ない。
純然たる演算処理能力の差異が、制御系を征服。
戦闘駆体〈ギルタブルル〉を構築する高純度結晶細胞を奪い取り、腹を撃ち抜いた触手をそのまま肉体に取り込む。
戦闘兵器として設計された細胞群を再定義、失われた体組織へと変換する。
欠損した肉体を修復し、〈ギルタブルル〉を統括する群体脳たちへクラッキングを仕掛けた。
――眠りなさい。
異常に気付いたヴァルタンが、棒を構え戦闘態勢に入ろうとした瞬間、分子破壊デバイスの触手が彼を襲った。
神速の棒術が、飛来した触手すべてを払い落とす。
重力障壁を展開し、続く第二波を防いだ――彼の手足に、激痛が走る。
特殊繊維で編まれた燕尾服を突き破り、無数の断片が表皮を貫通、体組織に食い込んでいた。
「結晶細胞の疑似生体……シルシュ様は、まさか!」
四肢に食い込んでいるのは、結晶細胞の欠片だ。
えぐり取られ、血と共にこぼれた少女の肉片。
ついさっきまで、導由峻の臓器として、有機物のように振る舞っていたもの。
その正体は、〈異形体〉と同じ高純度結晶細胞の塊だ。
それが本来の姿を取り戻した――宙に散った無数の鱗が、第一世代亜人種の四肢を侵食する。
皮膚を突き破り、筋肉を変成し、神経を汚染する端末群。
「――戦闘端末〈ドラゴンスケイル〉。あなたを罰するための兵装です、楽しみなさい」
うねうねとうごめく〈ギルタブルル〉の触手が、急速にその体積を減らす。
否、消えていく。
桜の花びらのように薄く、小さな断片へと姿を変えて、空間を埋め尽くしている。
〈ドラゴンスケイル〉の一つ一つが、意思を持つかのように加速。
文字通り、視界を埋め尽くすほどの戦闘端末が、極小の刃となって殺到する。
ヴァルタンは重力障壁を再出力――しかし、手足に食い込んだ〈ドラゴンスケイル〉が、彼の指令に反してシールドを弱めようとする。
最早、自分のものではないかのように痙攣する手足――弱まった重力障壁の一点目がけて、〈ドラゴンスケイル〉が雲霞のように押し寄せた。
それは正しく竜の悪逆。
超絶の武技も、圧倒的な身体能力も、重力と慣性を操る異能も――何の意味もなく切り裂かれ、食い散らかす暴虐である。
由峻はその光景を、ひどく醒めた眼差しで見つめていた。琥珀色の瞳に宿るのは、祈りにも似た透明な意思。
人ならざるものの目が、静かに、救済を夢見た男のすべてを踏みにじる。
「尊厳を担保するものは、生命体としての強度です。何故、諦めたのですか?」
腹を貫いていた触手を完全に吸収し、血で汚れた衣服のまま、地面に足をつける。おのれの臓物と血液で汚れた装束すら、今の彼女の前では些細なことだ。
口元の血をハンカチで拭い、唇を湿らせて。
〈ドラゴンスケイル〉を打ち払い、地面を這いずるヴァルタンを見下ろした。
「……強者の論理だ……人間は、この煉獄でそんな余裕を持てはしないッ!」
手足の肉をえぐり取られ、骨とわずかな生体アクチュエータだけが残った超人――〈ドラゴンスケイル〉によって切り裂かれた肉体は、血も涙も流さない。
この男が一〇〇年近い時間を生き、そのように自己を改造してきたからだ。
ヴァルタンの、慟哭にも似た言葉は正しい。
人が人である限り、能力の差異が、寿命の長短が、容姿の美醜が、新たな差別を生むだろう。新たな迫害を生むだろう。新たな苦痛を生むだろう。
それでも希望を謳おう。理想を掲げよう。大義を知らしめよう。
知性体としての不全を抱え、獣性のはけ口を求め、いつか訪れる死の間際まで争う――そのような痛みを背負ってまで、人が人であることの意味を。
「もっと美しく、もっと強く、もっと賢く、もっと豊かに。さらなる高みを目指す浅ましさこそ人間、わたしたちの原型となった種族――その弱さを許せないなら、最初から救済など謳うべきではなかった!」
たとえば、誰よりも美しくいたいと思うこと。――それゆえに他者を妬む。
たとえば、誰よりも権力を得たいと思うこと。――それゆえに他者を殺す。
たとえば、誰よりも賢明でいたいと思うこと。――それゆえに他者を蔑む。
人を愛するとは、醜さを許し、愚かさを赦すことだ。
百の悪の中から、煌めく一の善を見つけ出すことだ。
不完全で満たされず、欠落を埋めようと生き続ける業の塊――それが人間なのだから。
ヴァルタン=バベシュは、人間の置かれた境遇を哀れんだ。
圧倒的上位者の介入により、尊厳すらなく、ただの数として生かされる家畜の未来を否定した。
この男を突き動かしているのは、凄惨な過去から導き出された絶望の現在である。
導由峻は、超人に守られた人間の選択に憤った。
超常種という異能者に、同胞殺しの悪逆を背負わせ、世界を委ねる堕落を拒絶した。
彼女の誇りと祈りの向かう先は、停滞した現在を打ち砕く激動の未来である。
塚原ヒフミへ愛を伝えた一人の少女がいるように、地球人類すべてを変えようという怪物がいた。
亜人種という種族を作り出した天才シルシュ――その記憶と知識と人格のすべてを継承し、必要に応じて管理する超人。
由峻は、それゆえに立ち止まらない。
亜人種が、人類種と超常種という二つのヒトの間に生まれた意味を再定義しよう。
それは〈異形体〉の意図したような侵略、民族浄化と人間牧場のツールであってはならない。
ああ、もっと鮮烈な理由が必要だ。
導由峻にあるのは、燃え上がるような情熱と、冷徹な人間存在への眼差しだけでいい。
無慈悲な誇りが、人の停滞を許さない。
慈悲深い祈りが、人の尊厳を信じ続ける。
もし人間のありように、性能に限界があるというのなら、必要な分だけ改良すればいい。
人を人たらしめるものの定義を書き換えればいい。それが足枷となるときが来たのなら、異性愛も同性愛も家族愛も同胞愛もかたちを変えてしまえばいい。
より洗練された知性を得ること。
より至福に満ちた生を謳うこと。
より完成された善へと至ること。
今すぐすべての人間を、そのような生きものに変えようというのではない。それが自然な進歩なのだと、誰もが考えるようにすればいいのだ。
自明の理として選ぶときが来るまで、人間社会を誘導すればいい。
一〇〇年では無理だろう。ならば五〇〇年かけよう。五〇〇年で無理なら一〇〇〇年かけよう。
その果てしない歳月の中で、苦しみ、もがき、次代の種の礎となるよう人間を導けばいい。
そう、きっと人間はこの誘惑に勝てない。
未知を恐れ、苦痛に怒り、選択に迷い、満たされない貪欲さこそ、人が超克できない欠陥なのだから。
「すべての欲が、祈りが、取るに足らない路傍の石ころになり果てるまで、人のかたちを変えればいいのです」
「そんなものが人間であってたまるか……!」
「いいえ、それこそが人間の定義となるのです――」
ウジ虫のように地面を這いつくばる男へ、少女は凄絶に笑いかけた。
おのれの吐いた鮮血を紅のようにして、嗜虐性をあらわにして。
「――この世のすべてを征服し、理不尽を押しのけ、あらゆる制約を乗り越えて、今日の限界をせせら笑えばいい! それこそが人間賛歌、昨日の絶望を踏み潰し、顧みることなく前に進む人の未来です」
この世界は、夜に似ている。
一寸先も見通せぬ暗闇の向こう側に、幸福や未来があると信じられないとき、人は怯え立ちすくむ。
それでも夜道は恐ろしいから、温かな光を目指して歩くのだ――いつか、死という断絶に追いつかれるその日まで。
――絶望など、死の間際にいくらでも出来ることです。
ヴァルタンの狙いがなんであれ、この男は嘘を言っていない。
塚原ヒフミの肉体は機能を停止した。本来、変異脳を破壊されても復元する同調型超常種が、その生態を放棄した。
塚原ヒフミの異能〈結線〉が、人体を操る不可視の糸であるならば――その糸を束ねる操り手が、彼の肉体である保証もない。
たとえば、そう、頭上に浮かぶ赤黒い積乱雲。最初の超人災害が、今ここで復活している。
まだ、塚原ヒフミの死が確定したわけではない。
機能を停止した〈ギルタブルル〉から、ありったけの結晶細胞を収奪し、由峻はよしとした。
最早、地面を這いずり回る以外、何も出来ないほど傷ついたヴァルタンを一瞥。
全身を切り裂かれ、異能を剥奪された敗残者――ヴァルタン=バベシュは、そんな怪物を見上げる。
どうしようもなく遠い、畏怖すべき竜に。
ただ、呟いた。
「我ら亜人種の悲願……ヒト細胞と結晶細胞の完全なる融合体、造物主の一族へ連なるもの……この星で生まれ落ちた最も新しき〈異形体〉よ。それが、答えか……」
◆
恐ろしい夢を、見ていた気がした。
何もかも間違えてしまったような違和感と共に、いつもの日常を始めようと目を覚ます。
目蓋を開く。
飛び込んできた視覚情報が信じられなかった。
何度も瞬きして、それが見間違いでないことを確かめる。
辻褄が合わない。
今の自分がここにあるための前提条件、あの日あのとき、彼の生を規定した憎悪の原点。
嘘だ、と声を上げようとして。
涙があふれた。
そんな『少年』のことを心配して、恋人が顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、ひっふみー?」
この手で殺めたはずの、少女がそこにいた。




