21話「堕ちたる熾天」後編
――穏やかな夢を見ていた。
朝起きるのは、いつだって嫌なものだと思う。
もぞもぞと布団の中でうごめく――睡眠時間は人より短くて済む質だけれど、寝床はこの世で一番快適な場所だ。
然らばこの外に出たくないと思うのも必然。
しかし悲しいかな、階下から聞こえてくる活動音――ドアの開け閉めの音、人の足音から目が冴えてしまう。
悲しい。
この程度の物音で目覚めるのだから、睡眠時間はばっちり足りているのだろう。
起き上がる。
布団をどけて、行儀悪く伸びを一つ。
んー、と両腕と背筋を伸ばす。
寝間着の胸元を盛り上げる胸部は、豊満であった。
下卑た俗語で表現すると巨乳である。
つまり重たい。
これでも筋肉量の維持には気を遣っているというのに、無駄な肉がついてしまった。
まったく、世の男どもは猿並みの視線誘導でこれに注目するのだからろくでもない。
別に嫌な思い出があるわけでもないのだが、何となく腹が立つので粛清したくなった。
特にそう、『あたし』のような美人相手ではジェンダーなど関係ないのだ。
そのうち節足動物とかも発情しかねないレベルの美しさ、罪である。
――去勢されろハレルヤ!
特に意味もなければ理由もない胡乱な思考であった。
ゆっくりと、慎重に立ち上がった――化粧台の前に立つ。
当然のことながら、カフカよろしく毒虫になってはいないし、ホラー映画よろしく歩く殺人ケーキにもなっていなかった。
見慣れたいつも通りの自分――身長一五〇センチ足らず、ちんまりとまとまった肢体は肉感的、二〇世紀風の表現ならトランジスタグラマー(トランジスタラジオという小型の電化製品に由来)という奴。
スタイルがいい、というには身長が絶望的に足りない。
だが、いいのだ。
これは美しさに科せられたハンデのようなもの。
我ながら目鼻立ちは完璧――母親譲りの美貌に感謝しかない。
眠たげな目を気合いで開く。
「よっしゃ」
美人完成。
冷静に考えるとまず顔を洗うべきなのだが、少女は思考回路が愉快な人種なので優先順位がおかしかった。
彼女の名は新藤茜。
花も恥じらう乙女であり、学生の身分である。
そのとき、ノック音。
「朝飯だ、起きろ。もう起きてるだろ」
無愛想な声は、実の兄のものであった。
「今ちょっと全裸だから寝てるよ」
何から何まで虚偽に満ちた返答――呆れかえったような兄の溜息。
「いくら何でも頭悪すぎるぞ」
孝一郎は、年の離れた兄である。
文武両道を絵に描いたような男であり、ついでに社会人であり労働者であった。
今のご時世、その気になれば働かずに生きるのも難しくはない――人類連合様様という奴だ――のだが、どうやら茜の身内はそういう安楽な生き方をお気に召さないらしい。
能力もあれば矜持もある、というわけだ。
もちろん、収入の足しがある方が贅沢が出来るというのも否定できないし、茜の堕落ぶりが許されるのも父母の稼ぎのおかげである。
それを思えば立派な志と言えよう。
しかし茜はそうではない。
というか布団の中でごろごろしてるだけで太らず、不潔にならず、美味しいご飯が出てくるならそれが一番である。
もちろん現実には叶わぬ夢だった。
「兄貴って無神経だよねー。すぐ行くから待ってて」
「おう」
顔を洗って、歯を磨いて、朝食を取って、身だしなみを整えて。
たぶん、いつも通りの日常が始まるのだ。
客観的に言っても、豊かで満ち足りた日々。
当たり前と呼ぶには、何もかも眩くて、面はゆい一日。
そんな風に思ってしまうのは、なんだかおかしな気もするけれど。
新藤茜はみんなが大好きだった。
ゆえに、いつまでも見続けられる。
――遠い昔、手放したまどろみを。
◆
走る。
無人の街並みを、サイレンとアナウンスだけが続く戦場を。
立派な三日月型の山羊角の持ち主が、ただひたすらに駆け抜ける。
切れ長の目の奥、琥珀色の双眸は静かに燃えて。
その白皙の口元、固く結ばれた紅唇を見れば、少女が如何に張り詰めているか否が応にもわかろうというものだ。
超然とした振る舞いを常とする、導由峻らしからぬ態度であった。
ハイブーツの高い踵を意に介さず、なめらかに雪上を駆けた――雪上歩行に最適化されたモーションパターンの成果。
亜人種にとっての肉体は、その挙動すら自由に出来る生物機械に過ぎない。
向かう先はUHMA本部ビル、この都市の中心にそびえる巨人の足下、〈異形体〉のすぐ傍に建てられた施設群だ。
周囲にはUHMAの実働部隊から派遣された護衛たち――大型斥力シールドを手にした外骨格と、パワーアシストスーツを着込んだ兵士たちが数名。
戦闘単位としては一分隊以下だが、その移動速度と索敵精度は信頼に値した。
すべて、彼の――塚原ヒフミの用意した護衛である。
ついさっき、遠隔地でヴァルタン=バベシュに敗れ、肉体を完膚無きまでに破壊された青年を思うと胸が痛かった。
彼ならば死にはすまい、と思う。
だが、悪意と謀略の塊のような怪人が、不死の超常種へ何らかの執着を抱いているのは傍目にも明らかである。
だから今、少女の意識はもう一つの肉体へと傾けられていた。
すなわち。
由峻の全神経は賢角人の超空間ネットワークを通じ、敵性ユニットへのクラッキングに用いられていた。
情報処理と無線通信に特化した身体拡張こそ賢角人の真骨頂であり、少女もまた例外ではない。
三日月型に伸びた山羊角が、結晶細胞で構築された脳組織が、そのあるべき役割を果たしていた。
接続先――彼女の母シルシュの生み出した戦略兵器の一つ、戦闘駆体〈ムシュマッヘ〉。
対ホモ・ペルフェクトゥスのため設計された唯一無二の機体の支配権を、ヴァルタン=バベシュから取り戻すための干渉だ。
歪曲空間に潜む〈ムシュマッヘ〉の一部を、通常空間へ表出させる。
直径一ミリメートル、全長五ミリメートルほどのセンサー素子――その測定データを変換、五感に対応した感覚データとして読み込む。
見えたのは、二人の超人の激突によって瓦礫だらけになった街並み。
その一角に横たわるもの――腰から真っ二つにされ、頭蓋骨を砕かれた塚原ヒフミの残骸――不死なる異能者の成れの果て。
非常事態を告げるサイレンが鳴り止まぬ中、無人の街並みで動くものはただ一人。
ヴァルタン=バベシュ――燕尾服をまとう異形の亜人種である。
二メートル超の身体の頂点は、二〇世紀のSF映画から抜け出てきたような悪魔的造形。
バイザー型の視覚器官に光を灯し、男はただ、空の彼方を見上げていた。
『あなたは一体、何をしようというのです』
結論から言えば、少女は慎重すぎたのだ。ヴァルタンの圧倒的な武力を警戒するあまり、彼が上空の空中島で仕組んだ破滅的な事象への対処が遅れた。
尤もこのとき、由峻にできることなど何一つなかったのだが。
まず〈ムシュマッヘ〉の各種センサーが、重力波の異常を探知。
発生源はヴァルタンではなく、はるか上空、高度二万メートルの高みだ。
空ヶ島第七管区、東京一号の封印が施された人工島。
その一角で起きた異変は、瞬く間に拡大していった。
空が、光る。
重く立ちこめた鉛色の雲が、音もなく、稲妻のような光を発した。
草木の葉脈を思わせる幾何学模様、幾重にも重ねられた光の綾織り、エメラルドグリーンのオーロラが、空一面へ広がっていく。
それは自然現象と呼ぶにはあまりに整いすぎていて、不自然さゆえか神々しくすらあった。
薄暗い冬の日差しは遮られ、今や、この世のものとも思えぬ翡翠の光が地上へ差し込むばかり。
その光景に、導由峻は恐怖を覚えた。
本能的感情、否、彼女の神経組織を構成する結晶細胞がわなないているのだ。
〈異形体〉トリニティクラスターを構成する三本柱の一つ、極東クラスターの上げる雄叫び。
ありとあらゆる亜人種の結晶細胞と共鳴し、宿敵の到来を知らせる超空間ネットワークの伝令だった。
曰く、警戒せよ。
曰く、備えよ。
曰く、身を守れ。
「聞こえましたかな、由峻様。我らが造物主、父なる〈異形体〉の声を。――これが問いの答えです」
空間が軋む。
〈異形体〉と意思疎通が出来る由峻だから、今、起こっている事象の途方もなさが理解できた。
既知物理法則を掌握する〈異形体〉の支配領域に、制御できない空白が広がっていく。
地球上で起こっている事象のほとんどを視野に収める神の目に、虫食い穴のような暗闇が張り付いていった。
結晶細胞に由来しない超物理現象――超常種の異能と同じそれが、日本列島を中心に拡大している。
「全知に等しき〈異形体〉が恐れ、討ち滅ぼさんとするもの。人間より生まれ、人間だけを愛する超越者。ご覧あれ、種の到達点を」
数百万の変異脳を束ねた最大最悪の超人災害、東京一号。
その戒めが解かれたとき、何が起こるのかは明白だった。かつて〈異形体〉トリニティクラスターを武力行使に踏み切らせ、この地球上に人連領という植民地を築くきっかけとなった事象。
幾何級数的に増大する人体汚染と、それに伴う大規模な超物理現象の出力。
文字通り人智を越えた、全地球規模の異変の再来だ。
『愚かなことを……!』
憤りを吐き出す〈ムシュマッヘ〉が、ヴァルタンに襲いかかることはない。
上空に展開、地上へもその影響を広げつつある東京一号は、その魔手を由峻にも伸ばしている。
結晶細胞のもたらす超空間ネットワークとて、その影響を免れられるわけではないのだ。
本来、戦闘駆体は遠隔操作に対応したユニットではない。
仮想敵であるホモ・ペルフェクトゥスが、本質的に外敵の支配と侵食に長けた種族だからだ。
超空間ネットワークによって繋がった群体は強力無比だが、同時に、群れ全体が汚染される危険を秘めている。
ゆえに戦闘駆体は、亜人種と同化することで起動するスタンドアローンの端末なのである。
所詮、裏口からの不正アクセスでは機能掌握に限度があるのだ。
すでに由峻は、ヴァルタンのからの逆襲を抑えるだけで手一杯の状況だった。
それを知ってか、ヴァルタンは涼しげな顔で上空の光を見やる。
これから生まれ落ちるものを、祝福するように。
「――変異脳の行き着く先を以て、私はか弱い人々すべてへ理想世界を授ける」
◆
乾加奈子は美少女である。
読んで字のごとし、美しい少女と書いて美少女である。
不本意なことに、学生の身分(宇宙人に侵略されて二二世紀になろうと、若人は青春を学校に束縛されるのだ! これは最早、政府の横暴であり革命が不可避ではないだろうか!)である茜は登校と下校をしなければならない。
悲劇である。
その悲しみを慰めるせめてもの救いは、道中を共にする得難い友人の存在であり、そいつがとびきりの美人でいい奴であることなのだ。
人を見下すことはないが「あたしの方がすごい」と言ってはばからない茜にしては珍しく、素直に賞賛している相手と言えよう。
そもそも茜は、自分の容姿と能力に根拠のない自信を持っているが、おのれの容姿を評して美少女とは言わない。
自画自賛して美人とは言ってのけるが。
この自己評価の起源は不明だが。
もしかしたら、無愛想にして質実剛健たる兄が、実のところ相当なシスターコンプレックスをこじらせており妹に過保護だった影響かもしれない。
愛されている人間は気が大きくなるのである。
世界三大宗教の神や仏も、きっと信仰を得ているから態度がデカいのだ。
愛はニルヴァーナ、愛はバイオレンス、愛はアポカリプスというわけである。
そんな新藤茜の家族構成は、当然のごとく恵まれている。
父は建築関係の仕事をしていて、何かと自分が関わった建物を自慢にしていた。
身長一九〇センチもある巨体だが、意外と気弱なところがあり、娘の茜が勢いで押し切れば何とかなる親バカだった。
一筋縄でいかないのが、母の方である。
パティシエをしている母は、茜に似て小柄だが、パワフルで笑顔の強烈な人だった。
菓子職人は体力がいる仕事だ。
当然のごとく体力に優れた母と、体格に恵まれた父は無駄に威勢がいい。
兄の孝一郎は父に似たのか、図体がデカい。
茜の矮躯を考えると、兄妹そろって綺麗に両親の身体的特徴を受け継ぎすぎている。
もっとバランス調整しろよ、と遺伝子の配合をふわっと司ってそうな神(特定の宗教に由来しない架空の概念であり、道ばたで便意を催したときなどにも罵倒される運命にある)に毒づくこともしばしばあった。
閑話休題。
そんなわけで、学校から帰る道すがら。
新藤茜は友人から繊細な話題を振られていた。
恋である。思春期である。
人間って大変だよね、と遠い目になってしまう感じのネタである。
勉強はできるが勢いで生きているともっぱら評判の少女にとって、雑に流すことが許されないそれは使用済み核燃料くらいめんどうくさい話題だった。
将来的には寿司ロボットとかになりたい。
寿司ロボットに繊細な話題ふる人間はいないだろう、たぶん。
「ううぇあ? ごめん聞こえなかった、もう一回」
「だから、コウくんのことだよ。茜から見てどうかなー、って。うん、勝率どのぐらいかなーって」
加奈子が、消え入りそうな声でぼそぼそ喋る。
恥ずかしい話題ならなんで口にするかなあ、と思うものの、だからこそ友人に相談するという人間心理もわからなくはない。
茜は生まれつきレベル1(異能行使を極めて限定的、かつ小規模に可能な変異脳の保持者。つまるところ手品ができる一般人である)の超常種で、常に心身の調子がすこぶるいい人種である。
だから、微妙に心の機微に疎かった。
ちなみに「コウくん」とは同級生の男子であり、茜から見ると幼馴染みにあたる少年のことであった。
なるほど、たしかに情報収集する相手として茜は適任に見えるかもしれない。
「先に断っておくけどさ。あいつ、あたしの趣味じゃない。だから、加奈子の参考になるかはびみょーっだね」
好みの相手がああいう輩かよ、と思ったのは言うまでもない。
続けて口から飛び出したのは、常日頃から茜が理想とする基準に関しての言及。
「筋肉が足りないじゃん」
「えっ、スポーツもっとやって欲しいってこと?」
「なんでそうなるかなあ」
呆れたように眉根を寄せ、ぴっと人差し指を立てて口を開いた。
「コナン・ザ・グレートの主演やってたころのアーノルド・シュワルツェネッガーぐらい筋肉あれば好きになってたかな」
真顔だった。
茶化す気配が全くないので、加奈子が困惑した。
「アーノルドさんって誰……?」
二二世紀の昨今、二一世紀より前の文化は貴重品だ。
そして、新藤茜は兄の影響で古い映画が大好きな趣味人だった。
先の文明崩壊〈ダウンフォール〉で基幹インフラを破壊されたせいで、二〇世紀の映像作品のデータは貴重品である。
つまりどういうことかというと、二二世紀を生きる現代っ子が、わざわざ視聴したがるようなコンテンツではない。
よって加奈子の困惑は順当なものなのだが、茜は憤慨していた。
古くさいメイクも映像技術も、一〇〇年以上経っている二二世紀では古典芸能として楽しめる。
それが茜の主張だったが、当然のことながら面倒くさい趣味人の戯れ言である。
それは彼女も自覚しているので、ぐっと感情を抑え込んで深呼吸。
ここでクールダウンできるあたしって最高に格好いいよね! と自画自賛。
「つまり、加奈子にわかるように言うとさ。筋肉モリモリで厳つい顔で、身長が一八八センチぐらいあるオーストリア系アメリカ人っていいよねー」
「コウくんの面影ないよ、ほぼ全否定してるよね?」
件のコウくんはざっと四代遡っても日系でホモ・サピエンスな日本人(亜人種の存在で色々とややこしいことになっているご時世だ)であり、当然のことながら巨体のオーストリア系アメリカ人っぽい要素は一ミリも存在しない。
「ごめん、茜の趣味がよくわからない。あと茶化さないで」
加奈子は美少女である。
しかも怒ると真顔になる類の人種なので、一番怖い。
今はまだ笑顔がやや硬いぐらいだが、このまま放置すると大変なことになる。
ふざけすぎたか、と茜は反省。
できれば真面目に言及したくない話題だったのだが――
「ま、大丈夫だよ。あたしの見立てでは、ちょっと挨拶するだけの仲だってのに、あの野郎はすでに舞い上がってる。こっちから攻めれば陥落するね。ファイト!」
我ながら至極冷静な見立てである。
実際問題、加奈子は奥ゆかしすぎるのだ。
そのありあまる性能を十全に発揮すれば、男の一人二人は手玉に取れるだろうに。
しかし友人のそういう気性を、茜はこよなく愛していたので、野暮は言わないと決めていた。
「それ、本当?」
その言葉を信じたいが、気休めかもしれないし希望的観測で動いて後悔したくないし、と実に人間的葛藤を体現する加奈子。
茜は浮かべていた笑みを消し、神妙な声で告げた。
「こればっかりはさ、嘘じゃないよ」
返されたのは、花開くような乙女の笑顔。
「――うん、ありがとね、茜」
いつかの帰り道、夕日が差す中で。
茜はそっと友達の恋を応援していた。
それは、追憶だった。
――懐かしい、夢だね。
足を止める。
閉じた目蓋を開き、強く、事実を噛み締めた。
――まだ思い出に浸る歳じゃないっていうのにさ。
その気になれば、いつまでもまどろんでいられる平和。
それが嘘偽りなしに安らぎに満ちた日々だから、虚構に気付くのも早かった。
すべての超常種は、より巨大なシステムの一部として人から人でなしへと生まれ変わる。
ホモ・サピエンスという直立二足歩行の哺乳類から、超常能力を出力するための装置へと変質する。
目覚めの深度が浅いうちは、そんなことは意に介さず生きていられる。
かつての茜がそうだったように、ただの人間と変わらず日常を営めてしまう。
空を見上げれば、瞬くものは尽きぬ輝き。
それは恒星の燃え尽きる光にあらず、時間も空間も超えて、ただ人間のために収集された救いのかたち。
無限に連なる幸福と不幸、希望と絶望、進歩と停滞、快楽と苦痛、安寧と不安――相反するあらゆる可能性を収めた神の索引が、新藤茜の然るべき人生を並べ立てていた。
〈■■■〉の観測したすべての事象――記録であり過去であり事実であるものの総体――かつて、彼女がまだ人間でいられたあの頃を、新藤茜はたゆたっていた。
ここには、失われたものすべてが収められている。
何より、茜の生が肯定されていた。
嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも、何一つ不要ではなかったのだと。
目を閉じれば、今すぐにでもあの懐かしい夢の続きを見られるだろう。
――そういえば。
乾加奈子は底抜けに明るい少女だった。
勉強も茜より得意だったし、運動以外はおおむね格上だったと認めてやってもいいぐらいに上出来だった。
そのくせ心底、他人を見下すことが出来ないお人好しと来ている。
これで好ましく思わないわけがない。
当時の新藤茜にとって、加奈子は欠かすことの出来ない大切な友人だった。
あるいは、親友だったのかもしれない。
結論から言おう。
乾加奈子は二人の共通の幼馴染みに告白し、無事、両想いであったことが知れる。
まったく出来過ぎないい話だった。
晴れて恋人同士になった二人を、茜は祝福していた。
人としての美徳を損なうことなく長じた友人と、おおむね及第点の信頼できる幼馴染み――つまりは新藤茜という傲岸不遜な少女にとって掛け値なしの賞賛――が理想的に上手くいっている。
なんと喜ばしいことだろうか。
実際のところ、彼女は件の幼馴染みを憎からず思っていたし、きっかけがあれば、一歩先に進んだかもしれない程度には好きだった。
それは人間風に言うなら、異性愛の感情に似ていたのだけれども。
けれど少女はホモ・ペルフェクトゥスだった。
新藤茜という人間は、自分自身の感情すらざっくり割り切れる人種だ。
一介の自分大好き人間としては「謙虚で愛に満ちたあたしって格好いい!」と納得している性分なのだが、どうにも、兄の孝一郎からは不器用に見えるらしい生き方。
――愛してるんだけどなあ。
新藤茜はみんなが大好きだった。
愛していた。
愛しているから、みんなに幸せでいて欲しかった。
不幸も苛立ちも苦痛も、愛しいものと触れあえば忘れられるような、ぬるま湯のような優しさに浸っていてほしかった。
なるほど、たしかにこの世界はろくでもない。
ある場所では〈異形体〉に屈した人類が平和を謳歌し、ある場所では〈異形体〉と戦い続ける人類が尊厳を謳い、ある場所では平和も尊厳も与えられなかった人類が獣のように野垂れ死ぬ。
胸が張り裂けそうなほど悲しく、痛ましい現実だ。
ああ、けれど。
この日々が無価値なわけではない。
剥き出しの地獄に貼り付けられた、薄っぺらい書き割りの日常に過ぎないとしても――大切な人たちが、幸せでいられるなら価値はある。
ゆえに。
茜がみんなを愛しているとしても、見返りは必要なかった。
鳥が空を飛ぶように、息をするように人を愛していた。
そうせずにはいられないのだ。
呼吸をして、瞬きをして、食事を取って、排泄物をひり出すように。
そのありようが美しかろうと、汚れていようと、人間を愛おしく思わずにはいられない。
茜は直感していた。
自分は何一つ注ぎ足されずとも、みんなを愛していられるけれど。
きっと父も母も兄も、加奈子もあいつも――愛されずに愛し続けることは出来ないのだ。
愛は、欠落を埋め合わせるための祈りだ。
人は長じる。人は老いる。人は衰える。
幼子の無垢なる全能感はやがて否定され、肉体も精神も倦み疲れながら生きていく。
呼吸するだけでは生きていけないから、朽ちていく心身を埋め合わせる祈りを欲してしまう。
少しずつ壊れながら、いつか心臓の鼓動が消えるその日まで、生きることしかできない存在のさが。
それが愛であり、幸福という奴なのだ。
愛されることを望むのは、人間がそれだけ脆い生き物だからだ。
もしケーキを切り分けるみたいに、愛を配り歩けるのなら――それを本当に必要としている人間からピースを選べばいい。
――未練だね。
なるほど、これは幸せな夢だ。
それは素晴らしい甘美さを伴っていたが、夢は、いつか終わらせねばならない。
もう結末を知っている過去を、いつまでも反芻するほど茜は怠惰ではないのだから。
――あたしにとっては二回目だ。
超人災害に飲み込まれ、茜が辿り着いたこの世ならざる場所。
恍惚と幸福に満ちたまどろみが、超人災害によって『ほどけた』人間の安らぎだった。
その心地よいゆりかごから、茜が帰ってきた理由。
あの日、あのとき。救いに満ちた眠りを振り切り、すべてを燃やし尽くして生まれ直した再誕の日。
それは、新藤茜と乾加奈子が共に進学してからしばらく経ったころ。
当時、茜の生活は充実していた。
実家から通える距離の進学先は好都合だったし、そこに気心の知れた友人がいるとなればなおさらだ。
今ではもう、何を学ぼうとしていたのかもおぼろげな記憶だけれど。
ただ、楽しかったことは覚えている。
仕事の都合で、兄の孝一郎は実家からいなくなっていたが、特に不都合もなく、順風満帆な日々であった。
幸いにも、件の幼馴染みと加奈子の関係はいい具合に進展しており、実は彼氏が異常性癖を持っていたとか、暴力を振るうクズだったとか、借金を山ほどこしらえていたとか、そういう感じのトラブルもない。
密かに最悪の事態を想定していた茜としては嬉しい限りである。
無論、これらの懸念事項を口に出したことは一度もなかった――何もかも上手くいっていた。
けれど、この世界はろくでもなくて。
人間はとっくの昔に終わりを迎えていたようなものなのだ。
突然、超人災害は起きた。
UHMAの区分において超常種のレベル4、人体汚染とその連鎖的拡大を伴う共鳴禍。
一つの街を飲み込み、そこに住まう数万人を瞬く間に変質させた。
頭蓋骨を突き破った変異脳が咲き乱れる、異形の花畑が、犠牲となった人々の結末である。
レベル1の超常種であり、ほぼ耐性を持たなかった新藤茜も、抗うことなくそれに飲み込まれた。
その発生源となったのは、乾加奈子その人だった。
おそらく特に意味のない覚醒で、偶然であった。
少し運が悪かったのか、よかったのか。
ともかく、そうして彼女たちの日常は消えてなくなった。
――何故、どうしてだなんて問いに答えは出ない。
共鳴と変異、醜悪な崩壊に彩られた救いの最果て。
あらゆる苦しみから逃れ、尽きることない愛を注がれる安らぎの彼岸。
内分泌系に支配された脳という臓器が解け、神経組織のゆらぎに過ぎない意識が、滅びを知らぬ超空間構造体に転写されていく。
それは確かに、人があらゆる信仰で語り継いできた、この世ならぬ楽園に似ていて。
ぐるり、と。
周囲を見渡せば、誰もが満ち足りていた。
如何なる境遇に生まれ、どんな人生を歩んでいたとしても、人は完全に満たされることはない。
だから完全な幸福を得る方法は吃驚するぐらい単純だ。
――人間をやめてしまえばいい。
そこには、かつて少女が願った幸福の極致があった。
あらゆる思想、階級、人種、民族、年齢の人間が誰とも衝突することなく、おのれを満たす世界を得られる場所。
人体における心身の経年劣化を超越した意識が、何かを強いられることもなく、ただ存在を許されていた。
それでも。
人間が異質な知性体の一部として拡張されていく景色を、新藤茜は愛せなかった。
それは願いだった。
ただひたすらに、滅びを願った祈りのかたち。
祝福する――どれほど苦しみもがくとしても、人は生きるに値すると信じずにはいられない。
殺戮する――ゆえに人を逸脱したお前たちは生きていてはいけないと、焔の吐息を吐き出す。
――ああ、これがあたしだ。
怒りも嘆きも苦しみも悲しみも、何もかも燃えてしまえばいい。
肉を蕩かすよろこび――永遠に続く夢のような安らぎが、あたしの魂を奪うというのなら、そんなものは焼き尽くせばいい。
この世ならぬ肉塊を滅ぼす術がないというのなら、天から降り注ぐ硫黄と火を作ってしまえばいい。
脳裏に浮かぶのは、親しい人々の顔。
――愛してる。
激情が、彼女を再誕させた。
一度目の誕生のとき、産道を滑り落ちて産声を上げた。
二度目の誕生は、熱核プラズマの産声で周囲を灰燼へ帰した。
大好きなお父さんもお母さんも、誰よりも心許していた親友も、生まれ育った街の営みも――何もかも燃やし尽くした。
夢見る父の頭蓋を踏み潰し、溶け合う母の脳を焼き尽くす。ねじれ、ひしゃげ、頭蓋骨を突き破って咲き誇る変異脳の花々を握りつぶす。
数えきれぬほど増えた異形の腕は、熱く燃えていて。
互いをかばい合うように、半ば溶け合った恋人たちのオブジェ――裸身が絡まり、微笑みながら顔の半分が溶け合った男女の立像――を打ち砕いた瞬間、愛おしさがこみ上げてきた。
苦しかった。悲しかった。
ああ、それでも。
それが血の繋がった家族だから、大切な友達だから、初恋に等しい人だったから安堵した。
――正しく殺してあげられた。
溜息一つで周囲の家屋が蒸発する。
巻き添えになった変異体たちが、跡形もなく消し飛んだ。
お前たちの存続を許さないと、街と一つに溶け合った何万もの命を奪い尽くす。
本当にいい気分だった。
――燃えてしまえ!
――消えてしまえ!
――ああ、あたしが殺してやる!
それが新藤茜という人間の終わり、超人としての始まり。
愛と炎に彩られた追憶の、正しい幕切れだ。
◆
目を開く。
四角く切り取られた青空と、うっすらかかった雲が見えた。
瀕死に追い込まれる前、茜がいたはずの閉鎖空間の面影はどこにもない。
そこは、ただひたすらに雑多で、猥雑で、息苦しいほどに人にあふれた街並みだった。
天へと伸びた林立するビル群はまるで巨人のようで、その足下を行き交う人混みは蟻の行進に似ていた。
空を見上げても、高く高く伸びたビル群に切り取られ、決して広がる青空などとは言えない都市。
そんな街角の隅っこ、硬いアスファルトの上に新藤茜は横たわっていた。
遡航再生の働きか、綺麗に消し飛んだはずの首から下も修復されてきている。
身を起こそうとして失敗。
再生を終えている右腕で自分の躰を触り、納得した。
胸部は問題ないが、腹腔の中身と腰から下がない。ちょうどへその下、腰、臀部、両足が不在であった。
つまり腹筋がないということで、人体構造を模倣したこの身体では起き上がれるはずがない。
発声器官には問題なし。
生体部品ではあるが、改造済みの箇所だ。
聴覚と視覚も正常に動作している――幻覚ではなく、実際にセンサー類が認識している物質的宇宙だという理解。
あの夢、つまり変異脳への同調汚染は断ち切ったが、その結果、帰還した現実がこれとは。
何もかもおかしなことばかりだった。
茜を瀕死に追い込んだ戦闘駆体〈ギルタブルル〉は影も形もなく、異形の神像も、神殿のような核爆弾の群れも見あたらない。
平穏無事を絵にしたような昼下がりである。
――人が行き交う都市の路上で、下半身のない女が全裸で横たわっていている現実以外は。
へそから下を失い、断面を晒して横たわる全裸の茜を誰一人気にも留めない。
目を合わせないどころか、最初から視界に入っていないかのような振る舞いだ。
透明人間になったような気分だが、そのくせ、歩行者も自転車も、道ばたに横たわる茜を器用に避けていく。
群集心理の働きとこじつけるには、いささか行きすぎた奇怪な風景であった。
こう、目に止めないけど避けていくって覚えがあるよね、と連想。
最低の事実に直面した。
――あたしの、裸を、犬のうんこ扱いか。
自尊心が傷つく限りである。美術館に展示すべき美女に何という仕打ちだろうか。
屈辱に顔をしかめ、ふと気付いた。
目に見えているからといって、本物とは限らないというシンプルな事実に。
新藤茜の異能は、無尽蔵のエネルギーを生み出し、制御することさえできる。超高温のプラズマを用いた熱量障壁などは、その最たるものだ。
無論、その制御には粒子状分身という回りくどい応用プロセスが必要だし、問答無用で外界の事象を左右できるわけではない。
だが、端から見ればそれは、太陽表面と同じ熱量を自在に操るように見えることだろう。
つまり超常種ならば、一見、奇跡にしか見えない事象を起こせる。
変異脳一個でこれだけの芸当が出来るのだ。
汚染された数十万、数百万の変異脳が集ったのであれば――核爆発の瞬間、生じた熱量すべてを制御下におくことも可能だろう。
おそらく、核爆発は起きた。
だが、その際に生じた膨大な熱量は、そっくりそのまま休眠状態の東京一号に食われたのだ。
でたらめな事象だが、かといってあり得ないと言い切ることは出来ない。
そもそも、〈異形体〉と人類のファーストコンタクトにおいて、最も鮮烈に機能したのが熱核兵器の無力化――停滞フィールドによるエネルギーの消去だったのだから。
人類の科学では到達できない、超物理現象の申し子たちに不可能はない。
それで、ようやく、目の前の風景の正体に思い当たる。
「この場所自体が、東京一号の内部ってわけだ」
口の端をつり上げ、右手を使って躰を起こした。
果たして、茜の敵意に反応したのかどうか――それまで彼女を無視していた通行人が、一斉に足を止めた。
こちらを振り返る。老若男女問わず、その顔はことごとく待ち足りた笑みを浮かべていて――
カーディガンの前が、背広のボタンが、ジャケットのファスナーが開き、重たい音を立てながら臓器がこぼれ落ちた。
ぼとぼとと中身を出し終えた、空っぽの人間もどきが地面に落ちる。
こんもりと路面へぶちまけられた肉塊だけが、後に残されていた。
水っぽい音と共に、もぞもぞと何かがうごめいている。
小さな手足が突き出され、大きな頭が、ゆっくりと起こされていく。
産声を聞いた。
おぎゃああああああああああああああ。
気付くと、アスファルトの道路だと思っていたものが、生ぬるい肉の熱を伝えていた。
周囲にそそり立つビル群は、あるときは腕のように、あるときは性器のようにうごめき、呼吸音の合唱を奏でている。
ぶよぶよと膨れたピンク色の粘膜が、道路でありビルであり都市であった。
理解する。
ああ、ここは胎盤なのだ。
新世界を育む子宮、まだ外界を知らぬ赤子が育まれ、いずれ生まれ落ちるためのゆりかご。
意味もなくかつての日々に擬態する、不死なる人肉都市。
かつて東京都と呼ばれたものに近しい、人間と建造物の混淆体だ。
茜を包囲するように、ずるずると地面を這いずり、子供のような人型が近づいてくる。
頭頂部が奇妙にねじれ、亀裂の入った頭部の赤子――否、赤子と呼ぶには大きすぎる。
地面を這いずるそれは、頭から足まで一メートルはあるだろう。
赤の頭部のねじれが、ぐにゃり、と変じた。まるで花のつぼみのように、赤黒い肉の花弁が開いていく。
茜は恐怖を感じなかった。嫌悪感すらなかった。
ただ、悲しかった。
目がない。
鼻がない。
耳がない。
脳がない。
彼らにあるのは、空っぽの頭蓋骨と鳴き声を奏でる口だけ。
超人災害によって失われたもの――母の胎内で生まれることなく昇華された胎児たち。
確固たる自我を持つことなく、不死と安寧の楽園へと連れて行かれた子供が生まれ直そうとしているのだ。
あるいは、超人災害がなければ。
彼らは、この世界で産声を上げたかもしれない。流産して水子になったかもしれない。母子共に亡くなったかもしれない。
そんな可能性さえ失ったもの――ただの一度も生まれることなく、ただの一度も死ぬことなく人を逸脱した存在だ。
――ああ、殺してあげよう。
正しく生まれることが出来なかったならば、せめて人間のように死ぬべきだ。
手首から先の修復が終わっていない左手は、生体組織が再生しておらず、剥き出しの骨格が覗いていた。
内蔵火器と排熱装置を収めた骨格は、微細な分子機械によって構築された仮のもの。
その左腕を質量変換、血液から作り上げた可燃性液体の噴射機構を構築、即席の火炎放射器を作り上げる。
レーザー砲に比べれば効率の悪い武装だが、別のことにリソースを裂いている今はこれが限度だ。
迷うことなく、噴射口を異形の子供のかたちへ向けた。
火炎が、吹き出す。
着火、燃焼、急激な酸化現象。
悲鳴とも鳴き声ともつかない音が聞こえた。
母へ助けを求める、未熟な生命の物まねだ。
赤子のかたちをしていながら、彼らはどんな賢者も英雄も得られなかった恩恵に身を浸す不死者だった。
炭化しながら再生を続け、膨らみ弾け、組織液を垂れ流す赤子のかたちを見やる――哀れみを込めて。
胸を占めるのは、醜悪な救いに刈り取られたものへの怒りだ。
「あたしは、この力が間違ってはいなかったと知っている。こんなにも苦しくておぞましい行いが、どうしようもなく正しいと信じられる」
父母を焼き殺し、友達と幼馴染みを吹き飛ばしたあのときのように。
大切なものを焼き尽くし、その首を刈り取りながら、血塗れの道が保証する未来を知っている。
信仰でも打算でも予測でもなく、自明の理としてそれを確信していられる。
ただの人間が生まれ、育ち、やがて死に追いつかれていく景色――愛おしいものたちの始まりと終わりを守る術を。
燃えさかる太陽のような笑みは、たとえ世界が滅びようと笑い続ける異形の証。
くだらない、と一蹴する。
「たかが一〇〇メガトンの核爆発で満足するような神様が、あたしに勝てるわけないでしょ?」
千切れた下半身の断面を見た。出血は止まっている。
遡航再生によって補充された分子機械群が、傷口を塞ぎ、異能を支える臓器を構築し終えていた。
迷うことなく、右手をおのれの腹部へ叩き入れた。
皮膚を突き破り、脈打つはらわたを掴み取る。
首から下が丸ごと吹き飛ぼうが、新藤茜にとっては些事に過ぎない。
創造型超常種のレベル3、あるべき自己のかたちすら改造し尽くした超人にとって、おのれの肉体などただの道具だ。
それが茜そっくりの全身義体でも、熱量操作の媒体となる粒子状分身でも構わない。
すっかり作り直したこの躰にあるのは、生命を絶ちきるための暴力と熱量だけだ。
だから。
心臓はない。
肺臓はない。
肝臓はない。
腎臓はない。
膵臓はない。
脾臓はない。
腸管はない。
子宮はない。
卵巣はない。
――そんなもの、いつでも作り直せるから。
この世ならぬ色彩、七色に輝く肉塊が、ぐずりとこぼれ落ちる。
右手で引きずり出したそれは、無尽蔵の質量とエネルギーを生み出す異能の根源。
新藤茜が作り替えた生体組織――魂と生命のすべてが溶け合った彼女の本質。
あらゆる生命を司る臓器が溶け合った万能工場だ。
元素を、質量を、エネルギーを生み出し、循環させ、新藤茜という個を永遠たらしめるもの。
生命はその系譜を繋ぐため繁殖する。
無性生殖を、有性生殖を、単為生殖を――自らの映し身を、半身を産み落とす。
人の生殖は、母胎を危険に晒してなお子を残そうとする業そのものだ。
その行為そのものに意味はないけれど、人はそこに繁栄や未来や愛情を望んでしまう。
きっと、そこに永遠を夢見るから。
ゆえに、永遠を手にしたモノに、生殖は不要となる。
それが超常種の至る答え。
個体それぞれを種の到達点と定める「完全なる人」の最果て――超物理現象を無限に増殖させ続ける閉じた生態系だ。
すべての超常種は知っている。
未来を謳うものすべて、種の存続を叫ぶ生命すべてが、自らの存在と相容れない場所にいることを。
彼女はそれをよしとした。
不滅の愛とは、その存続に他者を必要としないことだと受け入れた。
それでも、こう思うのだ――こんなにも愛しい人間のありようを、苦しみを、死に追いつかれるまで羽ばたく生命のもがきを消させてなるものかと。
それは妄執だった。
それは暴力だった。
それは独善だった。
〈■■■〉のもたらす救いの甘美さを知っているから、許せなかった。
自分の異能がそのためにあるのだとしても、知ったことではない。
新藤茜の祈りは一つ。
神の御座へ手を届かせながら、そのありようを否定すること。
〈■■■〉に背き、ただ一人の超人へ堕ちること。
それが超常種のレベル3、完全に人を逸脱したホモ・ペルフェクトゥスの定義だった。
愛している。
よろこび笑い、苦しみ叫び、いつか訪れる死から逃れようと走り続ける人の群れを。
それがどれほど残酷でも、身勝手でも、新藤茜はそうせずにはいられない。
周囲を埋め尽くす超人災害の成れの果てを前に、新藤茜はただ笑う。
西洋人形のように端正な顔立ちが、救いがたい愛に染まる。
脈打つはらわたを、頭上へ掲げた。
「これが、あたしの命だよ」
どくん、と。
刹那、視界を白く染めあげる閃光。
確信と共に、おのれの本質をさらけ出した。
――報われるべき善はなく、裁かれるべき悪もない。
祈るような言葉の後、光だけが生まれる。
その結果として新藤茜の肉体も、不死なる胎児と子宮も、血肉で彩られた都市も、すべての物質が崩壊した。
数十万の不死者が悲鳴も残さず蒸発する。元素の一欠片すら残さぬ熱量。あらゆる質量がエネルギーへと還元され、その空白を埋めるように、『それ』は生まれ落ちた。
激震。
時空間を歪め、軋ませながら、灼熱が表出する。
白熱するプラズマ、燃えさかる炎の柱。
ゆらりゆらりと揺らめく影は、三六対七二枚の翼手。
輪を描くように生えたそれは、一本一本が長さ五〇〇〇メートルにも及ぶ翼であり腕であった。
粒子状分身を生成し、制御する長大な臓器――その身を燃やしながら自己再生を続ける粛清器官。
無数の翼の根本、本体というべき部位は、ちょうど船首像に似ていた――美麗な流線型を描く、手足も顔もない女神のかたちだ。
それはさながら、熾天使のごとき輝き。
――超常種レベル3〈天の女王〉。
文明世界最強の超常種が、その力の一端を解放した証であった。
ある種の棘皮生物のように、七二枚の翼を広げた異形。鱗粉のように周囲を漂う粒子状分身が、プラズマの熱を吸収、自壊していく――急激に冷やされた大気は、まるで何かの通り道のようで。
剥き出しになった翼の表面を覆うように、無数の瞳が開かれる。
レンズ状の器官が、きらりと煌めいて。
閃光。
数十万の熱線が放たれ、遡航再生を終えようとしていた疑似東京――血肉によって再現された都市型人体――を焼き払った。
超高出力のレーザー砲撃に切り裂かれ、東京都庁(西暦二〇三五年まで旧東京都の行政を司っていた大型建造物のこと)が斜めに崩れ落ちる。
その炭化した断面から、遡航再生の働きで血と肉が吹き出た。
窓の一つ一つに張り付いた人面が、泣き叫んでいる。
瞬間、その顔の一つ一つにレーザー光線が叩き付けられ、跡形もなく蒸発。
穴だらけの道路から、沸騰した血液が噴き出し、レーザー砲撃の洗礼を免れた街並みを飲み込んだ。
ねじれ、ひしゃげた自動車が、その本性をあらわにする。
血を沸騰させ、焼けた臓物をぶちまける車両の群れ。
降り注ぐ熱線の雨は、疑似東京をことごとく焼き尽くしていた。
子供のかたちをした肉塊が集う保育園を蒸発させ、大人のかたちをした肉塊が歩き回る新宿駅を消し飛ばし、無数の手がうごめく東京タワーを煮溶かした。
新藤茜は自己認識の怪物だ。
たとえ躰が人型の兵器になろうが、炎の柱になろうが、変わらず自分自身だと信じられる。
この腕は、愛しきものすべてを葬り去る御使いの導き。
〈異形体〉によって超空間通路へと放逐され、今まで戒めに縛られていた肉体だ。
翼長一〇キロメートルの異形こそ、超常種としての茜のあるべき姿、その愛の極致。
――戦おう。
おそらく、すでに外界へと東京一号は解き放たれている。
その内部へ取り込まれた茜にできるのは、徹底的な破壊である。
つまるところ、遡航再生の修復速度を上回る攻撃で、この空間を破綻させる試みだけだ。
外部からエネルギーを取り込み、自己拡張する超人災害と、無尽蔵のエネルギーを生み出す異能の茜では相性が悪すぎる。
だが、地上にはもう一人、UHMAの超人災害対策官がいる。
新藤茜が誰よりも警戒し、信頼する後輩が存在している。
警戒に値する異能の超常種がいる。
信頼に値する実績の対策官がいる。
親愛に値する精神の持ち主がいる。
そう、あらゆる超人と人間の天敵たる彼ならば、たとえ自分が敗れようと問題なく制圧するだろう。
そのために彼女たちは存在する。
文字通り、周囲の世界を焼き尽くしながら、茜は祈る。
何故なら、自分たちは。
――愛するものを殺めた守護者だから。




