20話「堕ちたる熾天」前編
「ぼくは、人殺しです」
拒絶にも似た一言だった。
初めてそいつを見たとき、彼女は自分とよく似ていると思った。
人類連合調停局――人類種、亜人種、超常種の三つのカテゴリに分断された地球人の間の争いへ介入するための組織、通称UHMA。
その活動内容は多岐にわたり、異種族の混在する行政や社会の監視から、超法規的な武力行使による災害鎮圧まで、あらゆる業務を担当する。
そんな組織の本部ビルのラウンジにやってきたのは、まだ一〇代半ばの少年だった。社会見学の一貫というのなら可愛げもあろう。
しかし彼の肩書きは人類連合の訓練校の学生であり、つまるところ荒事専門のエージェントになることが約束されている身分だった。
どうかしている、とは思わなかった。
自分自身、リクルートされてきた元一般人、一市民だったのだから。
異能異形の生き方を選ぶのに、年齢も容姿も関係ない。
子供が子供として守られることに例外が生まれる狂気こそ、二二世紀の『文明世界』の抱える歪みであった。
要するに、二人は似たもの同士だった。
「奇遇だね、あたしもだよ」
そう笑って返す。
きょとんとした表情の少年がおかしかった。
その時点で、すでに彼の背丈は自分よりも高かったが、宙に浮かんでいればこちらを見上げざるを得ない。
そう、たとえ身長一五三センチであろうと上から目線が可能になるのである。
要するに当時から、彼女は傍若無人であり、少年は繊細だった。
――報われるべき善はなく、裁かれるべき悪もない。
それは一つの真理のように思えた。
どれほど苦しみ、葛藤し、後悔しようと正しい行いは存在し続ける。
おのれの行いがどんなに罪深く思えたとしても、それ自体が問題にされることなどないのだ。
地球外知性体〈異形体〉や人類連合の秩序に反したなら、そのルールに則って罰されることはあるだろう。
しかしそれは、彼女たちの抱える本能的規範――より多くの人間を生かすという呪縛――を逸脱したものへの裁きではない。
ゆえに。
彼と彼女は、お互いが間違えたとき、裁いてくれる何者かを望んだ。
それが、塚原ヒフミと新藤茜の関係の始まりだった。
◆
空を飛ぶ。
生身ならばとうの昔に意識を失っているであろう、高度二万メートルの高さ――低すぎる気温も薄すぎる酸素も問題なし。
すべては超常種――学名ホモ・ペルフェクトゥスの恩恵ゆえに。
栗毛のショートヘア、西洋人形のように整った顔。
身長一五三センチの小柄な躰と豊かな胸部を覆う、裾の長いダークブルーの上着。
ただ、炯々と灯る苛烈な眼光だけが異様な女であった。
「航空戦力はなし、ね。舐めてるのかな」
独り言すら強風に煽られて、ろくに聞こえやしない。
ふわふわと宙に浮かぶ新藤茜は、作り物だらけの躰で腕組み。
全身義体に組み込めるほどの重力制御ユニットは、未だ、新藤茜以外の地球人には奇跡の産物だ。
目指す先は高度二万メートルに浮かぶ人工島、空ヶ島第七管区。
大規模な重力制御機関によって地球の重力を振り切った空の孤島だ。
島全体を覆うドーム型の屋根が、太陽光を反射してきらきらと輝いている。
文字通り雲の上にある空中島は、地上の天気に関係なくいつでも晴れだ。
のどかな印象さえ受ける景色と裏腹に、管区長ヴァルタン=バベシュによって武装勢力の拠点となっている施設。
人類連合調停局の超人災害対策官・新藤茜の仕事は、この施設の制圧であった。
随伴する戦闘部隊はなく、軌道上から後詰めの無人機が投入されるだけだ。
その理由――百年前、東京都で発生した最初の超人災害、東京一号の残骸。
破壊されたとはいえ、その断片は強力な人体汚染をもたらす。
超人災害が人体を介した連鎖的汚染をもたらす以上、その対処に慎重すぎると言うことはないのだ。
さて、ここからが本番だ。
アウトレンジからの一方的殺戮は、二二世紀になって現実的かつ普遍的なものとなった。
核による抑止力の上位互換として、地球に根を張った〈異形体〉が安全保障を担っているからだ。
人類未到のドローン同時運用によって、大量破壊兵器を用いない「綺麗な無人化」も可能となった今、ゲリラ戦で損耗を強いる戦略すら有効とは言い難い。
三〇万人の兵士がいるのなら、三〇万機の殺戮に特化したドローンを一人一人の頭上に送り込めるのが〈異形体〉なのだ。
その対象が地球人類五〇億になろうとも例外はない。
――つまり、無傷で喧嘩に勝つのが一番楽しいわけだよね。
多くの超人災害対策官は、その任務の性質上、人口密集地での被害を最小限に抑えるため有視界戦闘を選ぶ。
後輩の塚原ヒフミがそうであるように、自らを敵の視界に晒すことで、その悪意と火力の矛先を絞るためだ。
それは同時に、彼らが必殺の殺傷力を秘めていることの現れでもある。
敵にとって、脅威となる戦力だから真っ先に狙われる。
〈異形体〉が電子的な抜け道を潰している以上、敵は自前の生体脳や電脳という本体を持ち込んで破壊活動に及んでいる――超人災害対策官に肉薄されるなど、絶対に避けたい事態のはずだった。
だが、新藤茜の戦いは、常に非対称戦の様相を呈する。
コートのようなUHMA制服の裾を緩め、右腕を『外しやすく』調整。
そのまま肘関節の接合箇所をアンロック、前腕を切り離して放り投げた。同時に、茜の異能〈造物〉が起動――禍々しい虹色の発光を放ち、元右腕がぼこぼこと膨れあがる。
膨らまし粉を入れすぎたパンケーキよろしく、膨張し続けるそれは、元の体積の百倍では効かない巨大な異物を形成。
子供がクレヨンでラクガキしたように、青空のキャンバス地が汚されていく。
超常種の異能は、こうして世界を狂気で書き換えるためにある。
五〇cm電磁投射砲――工場の煙突のような、馬鹿でかい砲身が三つ並んだ異形の装置。
長さ四〇メートルの太すぎる筒型を見て、これが兵器なのだと理解できる人間がどれほどいるものか。
形成された馬鹿でかいユニットを、重力制御で空中に固定。
先ほど切り離した右腕――肘関節断面に送電ユニットを形成、超大型の電磁投射砲へとエネルギーを供給していく。
ホモ・ペルフェクトゥスの持つ遡航再生――変異脳以外の肉体すべてを再生する――を昇華した、創造型超常種の本領発揮だ。
変異脳に蓄えた何十万パターンもの設計図を、必要な質量ごと生み出す権能。
自らの肉体から作り出した物品を、肉体の延長と定義、その駆動に必要なエネルギーすらも『遡航再生の対象』として再定義――無尽蔵のエネルギーが電気回路へ注ぎ込まれる。
その結実。
直径五〇センチメートルの砲弾三つが、電磁力によって瞬時に加速。
大気をプラズマ化させる速度で撃ち出された。
白く染まる視界。
雷鳴のような轟音。
衝撃波で関節が軋む。
それでも茜がばらばらに砕けないのは、肉体が〈造物〉により改造された人工物だからだ。
遠く、空中島で上がる火柱。
高さ数千メートルの黒煙が立ち上る。
全幅二〇キロの全景に比しても、大きすぎる着弾の証――視覚情報に遅れて届く爆音。
世界の終わりのような光景に、胸が躍った。
異能を行使することへのよろこび、超常種のさが。
あそこに突っ込む。
砲撃後の粉じんで視界の効かない爆心地を目指して、両足の股から下を物質変換。
ロケットモーターを形成する。
脚部フレームを中心に、柔らかな人肉を象った体組織が推進装置へと作り替えられていく。
膨れあがる体積に耐えきれず、ストッキングとブーツが相次いで破断した。本当ならば全裸になって肉体を「消費」するのが手っ取り早い。
しかしUHMA超人災害対策官の制服――ダークブルーのジャケット――は、恐ろしく頑丈に出来ており、それがお気に入りの茜としては、いたずらに衣装をパージしたくなかった。
遡航再生によって充填されていく推進剤――着火。
弾丸のごとく突撃。
空気が壁となって躰を叩く。
改造済みの眼球を開いたまま加速し続けた。
音の壁を越える。
生じる衝撃波にも構わず加速。
火線が見えた――対空砲火の洗礼。
ドーム型の屋根の下、施設内部に引きこもっていた武装集団〈蟻獅子〉の部隊だ。
施設外周の生き残っているセンサーを頼りにした対空砲火らしい。
迎撃の精度、密度共に甘い。
その火線が弾けた――機関砲弾が空中で炸裂、無数の破片となって茜の進路上を埋め尽くす。
エアバースト弾。
瞬間、自身の周囲に対流させていた触媒へ干渉――熱量防壁を一瞬だけ展開。
閃光。
物質が気化する煌めき。
火線の弾道から機関砲の設置位置を予測。
左腕部のレーザー発振器を展開――なめらかな人工皮膚が割け、骨格と一体化したレーザー砲が露出する。
三秒間の連続照射の後、沈黙。
レーザー発振器を収納、再生した右手共々、レーザーユニットの代わりに推進器を増設。
黒煙を上げる爆心地が視界に迫ってくる。
減速を開始、脚部のロケットモーターを切り離す。
両足の再生が始まる中、着地点が大きくなっていく。
彼我の距離はもう一〇〇〇〇メートルを切った。
もう時間がない。
加速される思考の中、自らが超音速突撃をしていると肝に銘じる。
――速い。
――速すぎる。
――最高に楽しい。
戦闘機能に必要のない、胴体の中身を物質変換――逆噴射のための噴射口が、両手の掌からからせり出てくる。
視覚を埋め尽くす砕けた床、壁。
今だ。
両肩、両肘、手首の関節を固定。
体内で生成した高濃度酸素と薄い外気を吸気口で混合させ、物質変換で得た『推進剤』に着火。
瞬間、左右の掌から迸る熱流――猛烈な勢いのジェット噴射が、強烈なGと共に運動エネルギーを相殺する。
全身をがくがくと衝撃が襲う中、遡航再生の働きが感じられた。
空っぽになった内臓が、軋む骨格が、瞬く間に再生し、満たされていく。
通常ならば、ばらばらに砕け散っているだろう負荷。
遡航再生の修復速度が、蓄積されるダメージを凌駕していた。
二秒ほどの制動の後、十分に運動エネルギーを殺し終えたと判断し、重力制御を再開。
胸部に埋め込んだ反重力機関が、万有引力をキャンセルした。
同時に、両腕の逆噴射機構を分解、再構築――レーザーユニットが内蔵された通常の腕に。
ぐるりと辺りを見回すと、まったくひどい有様だった。
なにせ、五〇cmという馬鹿げた口径の砲弾の着弾地点だ。
空中島を覆うドーム型天井の一角に、馬鹿でかい大穴が開いたからこそ、茜の突撃は成功したのである。
当然、その圧倒的な破壊力に食い荒らされた内部は、外壁以上にボロボロだ。
高度二万メートルの薄い空気から人間を守る、幾層もの隔壁は粉砕され、空調やセンサー類のための電気設備の類も丸ごと吹き飛んでいる。
辛うじて残っているケーブルの一部から、ショートして電流が漏れ出していた。
宇宙ステーションよろしく気密性の保たれていた施設は、一瞬で空襲後の廃墟のような有様。
照明も死んでいるらしく、大穴から差し込む太陽光の届く場所以外は夜闇のように暗い。
栗色のショートヘアを右手で撫でつけながら、そんな惨状を一瞥。
先ほどの突撃時にぼさぼさになった髪は、遡航再生の対象外である。
複層構造にもかかわらず、一フロアあたりの天井も高く、一〇メートル近い高さがある。
頭の中に入っている地図と照らし合わせてみたが、内装は大きく変わっていない。
背後で、雷鳴のような音。
先ほど切り離したロケットモーターが、外壁に衝突、爆発したらしい。
その閃光の中、茜は左腕のレーザー発振器を展開、横なぎに熱線を放つ。
着弾光。
人型の何かが、熱線の直撃で赤熱化したのだ。
レーザーの直撃に耐える装甲――おそらくは専用の防御装備を持った軍用サイボーグ。
返礼のような銃火が飛んでくる。
垂直方向に上昇、水平方向の弾幕を回避。
天井近くに滞空すると、茜の聴覚――音響センサがわずかな異音を探知。
大雑把な狙いをつけ、両腕のレーザーを連射。
そのうちの何発かが直撃し、爆発。
熱光学迷彩が解除される――全幅一六〇センチほどの飛行ロボットの群れが、こちらへ向かっていた。
音波から熱光学迷彩を解除していない機体の位置を特定、その数に舌打ちする。
爆発物を抱えた自爆ドローンの編隊、四〇。
茜は自らの周囲、半径八メートル圏内に熱量障壁を再展開――数十万度のプラズマが爆発物ごとドローンを蒸発させる。
だが、その対応のための数秒で、敵は大きく距離を詰めていた。
膝関節の下、もう一箇所の関節を設けた獣脚で飛び跳ねる異形――銃器で武装したカンガルーと昆虫の合いの子のようなキメラどもが七体。
茜を包囲するように現れた軍用サイボーグたちは、電磁機銃の他に、対空ミサイルランチャーを携行している。
誘拐された市民の脳から作られた戦闘サイボーグの群れ――結晶細胞と結合し、一種のジェネレータへと加工された生体脳を救うことは何人にも出来ない。
あの義体化兵士たちを動かしているのは、戦意と憎悪だけをすり込まれたデータ人格なのだ。
人間もどきの戦闘機械に対し、一瞬、茜は眼を細めた。
「あなたたちは兵士じゃない。洗脳の被害者だからね。だから」
殺す。
放出された粒子状の物質、茜の異能から逃れる術などない。
大気中へばらまかれた粒子群が、軍用サイボーグたちの潜伏場所へ到達する――熱波が生まれた。
彼女に銃口を向けていた七体のサイボーグが、躰の内側から炎を吹き上げて踊り狂う。
暴発した銃弾があらぬ方向へ飛ぶ中、揺れる人影――まるでファイヤーダンス。
だがその実態は、電脳を熱で焼き切られ、機能不全を起こした人工筋肉のあげる断末魔だ。
真っ先に制御中枢を破壊された残骸が、次々と地面へ倒れ込む。
「人間らしく死のっか」
新藤茜の異能〈造物〉は、文字通り、エネルギーと物質を無から生み出す超常能力である。
彼女は自身の肉体の複製と改造にこの力を利用しているが、攻撃的に転用すれば、このような死を産むことは容易い。
極小の『茜たち』――粒子レベルに細分化されてなお、彼女の一部として定義される粒子状分身。
失った血肉を補うサイキックの遡航再生は、『物質とエネルギーの無尽蔵の補填』を意味する。
ゆえに粒子状分身に弾切れはあり得ない。自らの熱に焼かれ破壊されるもの、放出された熱を遮断するもの、自己複製するもの――膨大な量のエネルギーが、半永久機関を形成した彼女の肉によって循環する。
急激な放出だったために、出力は六〇〇〇度が限界。
それで十分だった。
太陽表面とほぼ同じ温度の熱に包まれば、大抵の素材は溶解する。
対レーザーコーティングのされた装甲があろうと、関節やセンサーは無事では済まなかった。
〈蟻獅子〉の装甲表面の耐熱処理は、恒常的に超高熱を発し続ける粒子を想定していない。
溶けた関節、装甲が、揮発と液化を繰り返して内部構造を食い荒らす――液状に半壊したサイボーグが、熱で蕩けた床へ流れ落ちた。
すべての敵の機能停止を確認後、再びホバー状態で移動を開始。今の茜には、数秒の感傷すら煩わしい。
――人命は重いけどね。
それでもなお、このような所行が必要とされるからこそ、この世界は地獄なのだ。
焼けただれた装甲と人工筋肉、炭化した生体脳の残骸を背に、施設深部へ急いだ――何もかもが手遅れにならないことを願って。
◆
予想された抵抗は皆無に等しかった。
施設のセキュリティを力業で突破――物理的に破壊し続けた――したものの、装甲車両や外骨格による襲撃はまるでなかった。
散発的に、先ほど倒したのと同じ型のサイボーグ――殺人カンガルーとでも呼びたくなる造形――が銃撃してきたが、まるで脅威にならなかった。
施設の規模に比して、あまりにも手薄すぎるのだ。
すでに三〇を越える隔壁を突破し、人工島の基礎部分にまで進んでいる。
この島が自然のものならば、地下と呼んで差し支えない深部である。
ふわふわと滞空しながら、重力制御を水平方向に働かせ、通路の向こう側へ落ちていく。
大型車両の行き来を想定しているのか、通路自体が広々としている。
それでいて人の気配は皆無で、機材搬入用の車両やロボットを除けば、そもそも人間の痕跡自体が見受けられない。
「飽きた」
唇を尖らせながら、未完成のまま放棄されたエレベーターシャフトを下る。
この施設は、そこかしこに撤去されたと思しき設備があった。
まるで立ち入りを拒絶するかのように、生身の人間では行き来できないエリアが多すぎる。
それにしても、と茜は呆れた。
警戒しながらゆっくり降下しているとはいえ、六〇秒経っても終わらない縦穴とは恐れ入る。
その足下――丈の長いスカートから伸びた素足。
再生を終えた両足は、ストッキングとブーツが弾け飛んだおかげで着るものがない。
おかげで場違いなことこの上ない。
――素足は恥ずかしい、っていうのも妙な話だよね。
そうこうしているうちに、床へ足が接触した。
人工皮膚に通った触覚が、ひやりとした感触を変異脳へ伝える。
冷たいことは冷たいが、凍えるほどではない。
生身の人間でも、きちんと衣服を着ていれば快適に過ごせる程度の気温だ。
空調によって一定に保たれた室温は、機械装置の可動に最適な温度――熱を発する大型機材が稼働している可能性が高い。
閉じられた扉をレーザーで焼き切ると、倒れた金属製の扉が、硬い音を響かせた。
遠く、山彦のように反響する音。
扉の向こうに広がっていたのは、驚くほど広い空間であった。
天井までの高さは五〇〇メートル以上、水平方向の広がりも二〇〇〇メートル以上はあろうかと言う長大な吹き抜け構造。
とても屋内施設とは思えない広さであった。
部屋の中央部には直径二〇〇メートル近い巨大な柱があり、重量物を支えるように上へ伸びていた。
何より、薄暗い施設内通路と異なり、この空間だけは柔らかな明かりに満ちている。
光源を探し、天井を見上げた。
瞬間、茜の小柄な躰が震えた。
西洋人形のような顔に、皮肉気な笑みが浮かぶ。
「……これが、東京一号の封印ってわけ?」
最初、茜にはそれが立体物に見えなかった。
人の五感のスケールでは、到底、全貌を把握できないもの。
キロメートル単位での砲撃戦を得意とする茜のセンサー群だからこそ、辛うじて理解できたに過ぎない。
二〇〇メートルの柱のように見えたもの――それは、途方もなく巨大な足。
全方位に淡い光を放つ光源は、そのはるか上でうずくまる獣の似姿。
異形の神像がそこにあった。
古代インドの神々を思わせる造形のそれは、終末神話の巨獣を思わせる威容に満ちていた。
四本の足で胴体を宙に浮かし、一対の腕で『発光する塊』を抱きかかえた獣――推定、全長一五〇〇メートルの巨体。
それは母の胎盤で育つ胎児のようにも、我が子を抱く聖母のようにも見えた。
その巨体のすべてを高純度結晶細胞、〈異形体〉と同じ体組織で構築されたユニット――人類連合創設者の一人、亜人の科学者シルシュの残した遺産の一つだ。
――戦闘駆体ってやつか。
この神像に抱かれている球体が、この部屋を照らす光源の正体だった。
七色の煌めき、プリズムの輝きを放つもの。
一五〇〇メートルの巨体と比べてしまうから小さく見えるが、あの球体自体、数百メートルの大きさがあるはずだ。
――東京一号の残骸、か。
そこでようやく、茜はこの空間のおかしさに気付いた。
まず、重力場の乱れ。
あれだけの巨体を支えるため、確実に重力制御が行われているはずなのに、その形跡が一切感じられない。
そして何よりもおかしいのは。
超常種である新藤茜の変異脳に、一切影響しない東京一号だ。
目視できるほどの距離で、何の変調も来さないなどありえないことだ。
人体汚染を懸念したからこそ、茜はあらゆる戦闘員の投入を断ったのだから。
最初の超人災害が、死んでいるわけではない。
淡く発光する球体は、未だ、活性化していることの証左。
小康状態なのか、あるいは。
――でも、今の優先事項はこれじゃない。
彼女の読みが正しければ、この封印を丸ごと吹き飛ばせるろくでもない置き土産があるはずなのだ。
重力制御による浮動で、まっすぐに空間の中央部へ向かう。
ちょうど神像の真下に、目的の区画はあった。
ACCF構成員の脳から抽出したデータと、UHMA本部の情報開示で示された事実。
反吐が出るような現実は、いつだって人間自身が作り出している。
三〇秒後の滑空後、素足で床に降り立つ。
ぺたぺたと足音を立て、目的地へと歩み寄った。
それは、いにしえの神殿に似ていた。
古代ギリシャの神殿を思わせる太い円柱状の構造体が、等間隔で並んでいる。
環を作るように並ぶオブジェは、見ようによっては祭壇のようにも見えた。
眼を細め、異形の装置群へ歩み寄る。定期メンテ用のナノマシンが充填された密閉型装置――おそらく、二一世紀前半には開発され、この空中島へ運び込まれていたであろうもの。
超人災害・東京一号を消し去るための備え。
放射能を示すハザードシンボルを目にし、茜は口の端をつり上げた。
「勘弁して欲しいよねえ、ほんとさ」
彼女が目にしているのは、人類連合による日本再建の暗部だった。
〈異形体〉がもたらした恩恵は、地球全体のミリタリーバランスを激変させた。
核ミサイルを互いに突きつけあうことで、核兵器を安易に使えなくする相互確証破壊が破綻したように。
その影響は、異種起源テクノロジーという異物の混在に留まらない。
望まれれば、如何なる物品も技術も分け与えてきた〈異形体〉、そして人類連合が陳腐化させた技術の中には、地球製技術も存在する。
たとえば、核兵器の開発ノウハウがない日本が、首都直下地震と内戦で荒れ果てた国体で核弾頭の開発に成功することだって簡単だろう。
自国民を焼き尽くすための戦略核を。
粒子状分身を使って、精密探査を実行――さらなる悪意を感じ取る。
通常の水素爆弾は、起爆に原子爆弾――核分裂爆弾を用いる。
言うなれば、核融合反応という特大の爆薬に火をつけるため、原爆を用いる大がかりな爆弾なのだ。
だが、ここにあるのはさらに救いのない代物だった。
異種起源テクノロジーによって実現した、小型高出力のレーザー照射装置を起爆に用いる純粋水爆。
起爆に原爆は用いないことから、綺麗な核兵器とも呼ばれる代物だ。
人類の抱いた超常種への悪意と憎悪そのもの――すべてを無に還すため生まれた死の化身。
地球人類と地球外知性体の共同作業は、核出力一〇〇メガトンの水爆として結実していた。
ここにある核爆弾の一つ一つが、広島型原爆の約六六〇〇倍の破壊力を宿した悪夢の産物。
林立する神殿じみた柱の正体は、無数の純粋水爆を収めた自爆装置の群れなのである。
――問題は、これを設置した連中の正体なんだよね。
少なくとも二〇三五年の旧日本政府崩壊以降、つまり人類初の超人災害、東京一号が発生してからのことだろう。
おそらく、その後の日本内戦のどさくさに紛れて、この核爆弾――壮大な自殺装置は設置された。
ヴァルタン=バベシュが支援していた組織の原型も、その時代にあったはずだ。
反亜人組織ACCF――反文明浄化戦線。
〈蟻獅子〉のような過激派組織の温床とささやかれる国際テロネットワークだ。
その主張は単純で、〈異形体〉来訪後に地球に播種された異物――亜人種の根絶を謳っている。
人類のための世界、侵略以前の黄金時代を取り戻すのだ、と。
二二世紀がある程度の安定期に入ったからこそ、支持される思想だった。
消えゆく旧人類の断末魔、世界のあちこちで勃興する民族主義、文化再現運動から人材をリクルートし、テロ実行要員を仕立て上げてきた機構。
〈異形体〉の手足たる人類連合や、それに組する人類勢力に反発し、政府機関や市民を狙った攻撃を繰り返している。
過激派〈異形体〉やその尖兵たる神話主義者がいる中、同胞を殺す反体制側の人間たち。
一見、非合理的な行為だが、その実態の救いのなさに比べればどうということはない。
そもそもACCFという組織自体が、亜人勢力の傀儡として発足した組織なのだから。
あとになって人類国家の操作が加わり、組織は誰にも実態を把握できない畸形の怪物になり果てた。
最早、ACCFに一貫した組織としての戦略目標などないのだ。
ただ、テロ行為を支援する仕組みと現地要員だけが存在し、その時々のパワーゲームのプレイヤーに利用されているに過ぎない。
「で、あれは何かな」
この核爆弾を収めた柱の中心に、不似合いな建物があった。
三階建てビルほどの四角い建屋――その頭上にある巨獣に比べれば、驚くほど単調で面白みがない建造物。
機材搬入用の扉をレーザー光線で焼き切り、浮遊状態で侵入する。
プリセットされた設計図から監視用ドローンを作成、建屋の外に設置しておくのも忘れていない。
これで外の異常もすぐにわかるというものだ。
ドローンでは障害物の突破が十分に出来ないので、茜本人が踏み込むしかないのが難点であった。
入ってみると建屋の中は意外に広く、人員の宿泊施設も兼ねていたらしい。
未開封のレトルト食品、寝袋だったと思しき布きれがそこかしこに見受けられる。
積もった埃から見て、数十年前には放棄されたであろう施設の痕跡だった。
――いや、皆殺しにされた、の間違いかな。
明らかに襲撃の痕跡を感じさせるもの――床に穿たれた銃痕。
錆び付き、へし折れた自動小銃だったもの、引き裂かれたボロボロの迷彩服。
そして首から上を失った白骨死体の群れ。
伝染病防止に散布されたのであろう、薬剤塗れの死骸の成れの果てだ。
まるでどうでもいいゴミのように、埋葬どころか廃棄もされずに封鎖した部屋に捨て置かれていたものたち。
二一世紀に消滅した防衛組織――旧日本国・自衛隊の装備品。
一〇〇年近く前に死に絶えたであろう、旧時代の存在の残り香。
人間だけの世界の亡骸が、悪夢じみた新世界の怪物に見下ろされている。
そこに、人間の生命活動の痕跡があるから、茜は眉をしかめた。
おそらくこの部屋は、長らく遺棄され、使われてすらいない。
封鎖された扉を強引に蹴り飛ばし、清潔感のある通路へ出た。
こちら小まめに清掃されているようで、きちんと電気まで通っている。
一本道の通路だから、迷うこともなかった。
――まるで病院だね。
白く清潔感だけがある廊下は、子供のころ苦手だったものを想起させる。
全体的に不用心な印象を受ける施設だが、ここは極めつけだった。
電子ロックはおろか、施錠すらされていない扉を開く。
新藤茜はこの日初めて、怒りを抱いた。
「……なるほどね」
そこはいくつもの水槽が並ぶ工場だった。
シリンダー状の生命維持装置がずらりと並び、多くの命を生かしている。
その回りでは、人工授精によって誕生した胎児がすくすくと水槽の中で育っていた。
頭蓋骨を切り開かれ、脳だけの状態で生かされている無数の生存者たち――人工子宮で育つ胎児の群れ――生の苦痛にあえぐ命とこれから生まれ出でる命。
超人災害の発生条件、欠乏にもがき苦しむ人間がそこにいた。
そして最も影響を受けやすい胎児が、そこにいた。
建屋を取り囲む水爆は、ただの起爆装置だ。
水爆の核融合反応のように、より大きな災厄を呼び起こす呼び水として、二つの装置は密接に絡み合っている。
史上最大規模の核爆弾によって起爆されるもの――超人災害・東京一号。
さて、どうする。
手っ取り早いのはレーザー照射装置を破壊し、純粋水爆の起爆を阻止することだ。
この建屋の中の生命活動を断ち切ったところで、水爆が炸裂すれば、東京一号の封印も無事では済まない。
何よりこの人工島自体が、北日本居住区の上空にあるのだ。
まったく冗談ではない。
そのとき、建屋の外からの映像に異常が発生――水爆のレーザー照射装置の起動準備を示すランプが灯る。
続いて、監視用ドローンからの映像が途絶。
破壊されたのだ、と判断する。
迷うことなく左腕のレーザーユニットを展開、出力最大で建屋の天井部分を焼き切った。
落下する天井を回避、垂直方向に急上昇。
脱出の瞬間、右腕に形状変更の命令を伝達、肘から先をパージして投擲――急激に体積を増した腕が、傘状の盾となって茜の胴体を防護。
耐レーザーコーティングの施された防御皮膜のプリセット。
その即席の盾に、幾筋もの熱線が叩き付けられた。
対空レーザー、射線の大本は同じフロアの床――核爆弾が並べてあるフロアで、高出力レーザーを乱れ討ちする敵の神経が信じられなかった。
ここは純粋水爆のすぐ傍なのだ。
ゆえに、茜は熱量障壁の展開をためらった。
彼女の異能は、単純なエネルギー量だけなら原爆よりもはるかに大きな熱を扱っている。
熱遮蔽こそしているが、万が一、超高温のプラズマが漏洩したならば、容易に核燃料を誘爆へ導く恐れがあった。
その躊躇が命取りだった。
まず、最初に茜の左腕が消し飛んだ。
凄まじい衝撃――横なぎに飛来した『何か』によって躰がばらばらにされていく。
下腹部を刺し貫かれた。
生体部品のための人工血液があふれ出す。
攻撃方向を視認しようとした右目が、顔の右半分ごとえぐり取られた。
右足の膝から下が千切れ飛ぶ。
だが、まだ変異脳は無事だ。
敵の攻撃の正体――腹を貫くワイヤーから、何らかの投射兵器だと推測。
ほぼ再生の終わっている右腕を内骨格ごと再構成、それ自体を砲身へと変貌させる。
粒子状分身を撃ち出す粒子ビーム砲だ。
原理は実に単純、それ自体が超高熱を発し自滅していく茜の一部を、水鉄砲の要領で勢いよく叩き付ける。
直撃した部位の分子結合を破壊後、超高熱が周囲を焼き尽くす代物だ。
有効射程距離は五〇〇メートルもないが、彼我の距離を考えれば十分すぎる出来だ。
砲口の先には、巨大な影。
戦車よりもはるかに大きな、得体の知れない昆虫のような何か――迷うことなくトリガー。
〇・一秒後――敵機の爆発は起こらず。
〇・三秒後――床や壁が穿たれることもなく。
〇・五秒後――右腕の砲身が、肩ごと持っていかれた。
ようやく彼女は、何が起きたのかを理解した。
――停滞フィールドの盾。
超物理現象によってあらゆるエネルギーを無へ還元する〈異形体〉の権能――その再現というべきか――が、茜の一撃を防いでいる。
ほとんど怪獣と呼びたくなるような化け物が、眼下から茜を睨み付けていた。
たとえるならそれは、ガラス細工で出来た全長七〇メートルの節足動物。
水晶のように透き通った外殻――この怪物を構成するものが高純度結晶細胞であることを示唆。
昆虫の節足の代わりに、一本一本が人の胴体ほどもある、人間そっくりの腕が生えていた。
全体的にサソリのようなシルエットだが、鋏があるべき部位に、無数の触手を束ねた腕がある。
悪夢の産物のようなそれが何であるのか、新藤茜は知っている。
抉られた顔の右半分から、どろりと組織液があふれ出した。
「門番ってわけ、か」
結晶細胞と脳組織の結合体、異種起源テクノロジーの原点にして到達点。
超常種を仮想敵とした戦略兵器の一つ。
――戦闘駆体〈ギルタブルル〉。
〈蟻獅子〉の主力と目された軍用サイボーグ、義体化兵士の数が少ない理由を悟る。
脳をえぐり取られたマンション住人の末路――子供の脳は水槽に浮かぶ供物、大人の生殖器官は胎児を作る原材料、残りの脳は眼前の怪物へ組み込まれた。
想定よりもはるかに危険な存在へと昇華された生体脳の群体が、茜をなぶり殺しにしようとしている。
しくじった、と自分の間抜けさに歯がみした。
残った左目が、こちらへ飛来する触手――接触型の分子破壊デバイス――を辛うじて捉えた。
脳組織を打ち砕くはずの一撃。
重力制御装置を働かせ、直撃の瞬間、頭の位置をズラす。
気付くと生首だけの状態で、地面へ落下していた。
分子破壊デバイスが、UHMAの制服ごと、茜の胴体を、皮膚を、乳房を、臓器を肉片へと解体。
視界の隅で、何もかもが手遅れになっていく。
核爆弾を収めた巨柱の群れが、起爆を示すランプを灯して。
熱核融合の禍々しい発露――核出力一〇〇メガトンの太陽が生まれ出でようとした刹那。
はるか頭上で煌めく七色の球体が、ぐにゃりと歪むのがわかった。
かつて、自身が超常種として目覚めたときと同じ感覚。
怖気と共に、本能的な安堵を覚える音。
たしかに聞いた。
――〈■■■〉の産声を。




