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当方、角ありの嫁御を求む  作者: 灰鉄蝸
2章:守護者

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11話「ホモ・パンタシア」





 どす黒い闇が、ごうごうとうなり声をあげ夜風を運ぶ。




 またこの夢か、と少女は目蓋を閉じる。

 見たくもない夢の繰り返し。

 見知らぬ風景を映し出す、質の悪いシャーマニズムの産物だ。

 その真っ直中で一人、手足の熱が奪われていくのを感じながら、冷たい地べたへ座り込んだ。

 おのれが服を着ているのかどうかさえ、定かではなかった。

 自分の躰がどうなっているかなど、知りたくもない。

 所詮、出来損ないの苦痛ばかり詰まった肉だ。

 冷たい凍土へ尻をこすりつけ、じっと空を仰ぎ続けた。


 信じられなければ、この世のすべては虚偽に等しい。


 生きて、生きて、生き抜いて。

 自分一人、騙せない嘘にしがみつくだけ。意味はない。痛みもない。

 心や体を傷つけられるほど、本気で信じられるものがなかった。

 だから、手をさしのばしてくれた誰かに、甘えるように頬をこすりつける。

 心底、愛することも出来ないからそうするのだ。

 少女は卑劣で矮小わいしょうだから、見捨てられる『いつか』を恐れ続ける。


 溺れるような悪夢の中、砕け散る雪の粒が見えた。

 銀糸のような細いきらめきが、ちらちらと夜空から降り注ぐ。

 よく見れば、それは雪ではなかった。

 鬼火のようにちかちかと煌めく、無限無数の光の群れ。

 失われた数十億の生命の追憶であり、失われた時代を映す万華鏡だ。

 灯される記憶には、懐かしい故郷のにおいが染みついている。

 帰りたいと思った刹那、凍土の底が抜けた。

 もう幾度も体験している現象だった。

 遠い、過去の景色への墜落を繰り返し、少女は長い夢を見る。

 誰のものでもない――否、見知らぬ死者の記憶へ。






 一人の女が、豊かな草原に佇んでいる。

 身長は一八〇センチほど、黒い仮面をつけた亜人である。

 服の上からでもわかるほど、丸みを帯びた体型は紛れもなく女性のものだ。

 足はすらりと長く、むっちりと肉感的な脚線美を描いており、その肉付きが女性的な印象を与えていた。

 勇ましさと柔らかな美の融合は、戦女神アテナの風情。

 しかし下半身の装いは素っ気なく、軍服じみたズボンとブーツを履いているだけだ。

 女性としては大柄だが、第一世代の亜人の中ではむしろ小さい方だった。

 春の陽気にも似た暖かい風が吹き付けていたが、ダークグリーンの防寒コートを脱ぐそぶりはない。

 彼女は、生来の戦闘生命体である。衣服で体温調節する必要はないのだ。


 一見して作り物とわかる、無機質な仮面に開いたのぞき穴は二つ。

 宝石じみた両目だった。

 琥珀色の双眸そうぼうには、あらゆる生命を値踏みするような、傲岸不遜の意思。

 後頭部から生えた角は二本、透明感のある不思議な質感だった。

 さらさらとした黒い頭髪と相まって、まるでバフォメットの偶像だ。


 その周囲に、奇妙な動物の姿が見える。

 ちょうど人間の子供ぐらいの大きさの、ピンク色の肌をした獣だった。

 青々と生い茂る草木を踏みしめ、四足歩行の哺乳類がそこかしこを駆け回っている。

 ありふれた草食動物、有蹄類の仲間ではない。全体的に筋肉質な体つきや骨格のバランスはカンガルーに近いが、その顔の造型は類人猿を思わせる。

 まったく未知の動物であった。

 四方を囲む人工の山脈を背にしていなければ、のどかな風景である。

 平地を囲むように隆起した地形は、元々あった山地と接続され、この草原を外界から完全に隔離している。


 ここが、かつて北京と呼ばれた土地だとは、〈ダウンフォール〉以前の人類に見せてもわかるまい。


 すべての元凶は〈異形体〉、ユーラシア大陸を侵略し、加工していく恐るべき力であった。

 荒唐無稽な暴力そのものが、天変地異として起こり続けている。

 それがこの大地の現実だ。

 標高五〇〇〇メートルに及ぶ山々が平野部に出現したかと思えば、地形を削りながら、巨大な河川が次々と生まれていった。

 住民が逃げ出す暇もなく濁流に呑み込まれ、水底へ消えた街は数え切れない。

 ユーラシア大陸の地形は大きく作り替えられた。

 〈異形体〉が行った地形改造は天災と呼ぶべき規模であり、人間にはどうしようもない理不尽だ。

 かくして。

 その地理的条件――境界に相応しい地形の不在ゆえ、巨大な国土を持たざるを得なかった大国は一変した。

 人の営みが生む国力ではなく、〈異形体〉が与える環境や資源、武力がすべてを決める異世界の景色。

 ここに人間の居場所はない。

 それを伝えると、過激派の亜人は誇らしげにこう言った。



――これこそが文明浄化シヴィル・クレンジングです。



 女にとっては、許し難い愚行であった。

 もとより大陸の〈異形体〉に好意的とは言い難い主張の持ち主だったが、おのれが目にした景色によって、完全に決意を固めていた。


――同じ種族ではあるが、二度と同胞とは呼ぶまい。


 歪んだ思想の犠牲者たちへ哀悼あいとうの意を捧げ、こうなってしまった経緯を思う。

 それは絶対者が降臨し、文明の光を掻き消す過程であった。

 二〇一二年の〈異形体〉出現は、無数の大国をずたずたに破壊し尽くし、その周辺地域へ被害を拡大させた。



 まず海路は駄目だった。

 東シナ海から海外へ脱出しようとした難民は、大陸の〈異形体〉と敵対する別の〈異形体〉によって虐殺された。

 後に穏健派や共生派と呼ばれ、数百メートルから数千キロメートルの巨体を以て地上を睥睨へいげいする支配者たち。

 水晶の躰を持つ巨人たちは、この悪行を、人類の存続のため必要な手続きだと判断したのである。

 ホモ・サピエンスを根絶やしにせんとする大陸の〈異形体〉と比すれば、『穏健』で『共生』の余地があるといえなくもない。

 逃げ遅れた人民へ、過激派〈異形体〉が行ったおぞましい人種改造を思えば、その判断は無為ではなかった。

 生きた人間は、生物兵器のキャリアーとして最適だからだ。


 これを、英断だと断言する歴史家もいる。

 しかし意味があろうとなかろうと、数千万度の超高熱で焼却され、塵も残らず殺戮された民には何の救いにもなるまい。

 異種知的生命体エイリアンにとって、人間の命を尊重する必要性などなかった。


 陸路もまた、無数の悲劇を生んだ。

 〈異形体〉の介入こそなかったものの、国境を越えて押し寄せる難民を、当事国の軍隊が押しとどめるのに時間は要らなかった。

 まるでイナゴの大群だ、と誰かが呟いた。

 そこには嫌悪と恐怖があった。

 未知の侵略者に汚染されているかもしれない。

 曖昧な恐れと、難民の受け入れに伴うデメリットが、強硬手段を後押しした。

 中華人民共和国という大国が崩壊してなお――否、その圧力が消滅したからこそ、積み上げられた憎悪は、無力な人間へ傾けられる。

 指導者の賢明さだけで、人類すべてが未知の侵略者と戦うため、一致団結できるわけではない。

 奪うか奪われるか、そんな極限状況での選択肢において、他者の痛苦を顧みる余裕があるのは一部の例外だけだ。


 例外とはすなわち、何千万、何億という死に動じぬ亜人の慈悲深さである。

 おおむね人類は、想定のしようがない侵略者に醜悪な姿を晒した。

 たとえば日本では、真相もわからない惨事が価値観を反転させた。


 ひどく単純な事件である。

 北九州に無数の中距離弾道ミサイルが撃ち込まれ、福岡市がクレーターと化したのである。

 地上に発生した熱核反応は、そこに住む人間諸共、あらゆる営みを消滅させた。

 当時、東北地方に落着していた〈異形体〉は慎重であった。

 誰の目にも明らかな被害なくして、未知の知性体の正しさは証明されない。

 彼らがこの惨事に介入したのは、一発目の核弾頭が着弾した直後のこと。


 この事件で興味深いのは、真相が闇の中にある点だ。

 とはいえ、このミサイル攻撃の出所ははっきりしている。

 異形体の侵略が発生した二〇一二年当時での名称は、中国人民解放軍第二砲兵部隊――党中央軍事委員会が直接、指揮命令を下す戦略ミサイル部隊である。

 当然のことながら、厳重に管理されているセクションだ。

 通常なら、現場の暴走で核攻撃が為されることはまずない。


 だが当時の中華人民共和国首脳部は、事実上、壊滅状態にあった。

 〈異形体〉によって内陸の都市は真っ先に破壊され、逃げ出す暇もなく数千万の命が犠牲になったのである。

 命令系統が消失し、陸海空の人民解放軍は完全に分裂状態に陥っていた。

 今では基地施設自体が破壊されて、関係者は塵も残さず消えてしまった。

 ゆえに第二砲兵部隊の核攻撃の責任者は不明のままだ。

 党中央軍事委員会の生き残りが命令を下したのかもしれないし、ミサイル基地が乗っ取られた可能性も大いにあり得る。

 そして興味深いことに。



――亜人種による人体実験の中には、人間の脳を操作する類のものも多かった。



 真相は誰にもわからない。

 ただ一つ確かなのは、暴走した軍部による、仮想敵国への大量虐殺という物語が選ばれたことだけ。

 福岡市を地上から消し去った核攻撃がもたらしたのは、犠牲であり憎悪であり、途方もなく純粋な衝動であった。

 まず、平和主義的傾向は完全に吹き飛んだ。


 狂気にも似たヒステリーが、列島を覆い尽くした。

 生きるために、未来のために、みんなのために。

 目に見えた恐怖や嫌悪は、あらゆる手段を正当化させる。

 漠然とした危機感と共にあった警戒は、容易く暴力へ転換されていった。


 とどのつまり、二〇世紀以前から続く歴史の負債は、最悪の形で人類を衰退へ追いやった。

 それは裏社会であろうと変わらない。

 無数の犯罪組織が辿った末路は平等であった。

 なぜなら彼らは人間であり、亜人ではなかったからだ。

 法や秩序の庇護下にないアンダーグラウンドにおいて、亜人の振るう力は絶対的である。

 人間以上の戦闘能力を備え、兵器がよって立つ物理法則の軛を歪める怪物たちは、速やかに人間の勢力を排除し、成り代わっていった。

 マフィアの利益と安全を担保するはずの武力は、暗黒時代において暴落し続けた。

 人間の悪意や暴力は、新たな種族にとって格好の食い物だった。


 被害者であるという意識は、人間から自制心を剥ぎ取る。

 〈ダウンフォール〉という事象、文明崩壊のはじまりが意味するのは、グローバル化した世界の崩壊であり、新時代の到来だった。

 まさしく民意の総体として異民族、異種族への弾圧は正当化され、何千万人もの人間が餓死していく。

 数少ない無事な文明圏でさえ、どす黒い憎悪と恐怖と苦痛の世界を自ら作り上げていったのだ。

 一方、亜人たちは、二一世紀の大半を覆う暗黒世界ディストピアに生存の機会を見出していた。





 黒い仮面の女も、そういった文明社会に潜り込んだ亜人だった。

 日本列島に根を下ろした〈異形体〉に作られた彼女は、人間の代理として北京の〈異形体〉と接触しに来ていた。

 もう一人の同胞、兄妹と呼ぶべき亜人が、すぐそばに来ていた。草を踏み分ける音を聞き、後ろを振り返る。

 そこにいたのは、二メートル三〇センチはあろうかという巨体。若々しい雄山羊の獣頭を持つ巨人だった。

 白いふわふわした体毛の合間から覗く、穏やかな瞳。

 どこか紳士的な雰囲気のある男で、二重マントのインバネスコートがよく似合っていた。

 体格に見合う服装がなかったため、オーダーメイドで仕上げたのだという。

 適当な衣料品で仕上げた女より余程、身だしなみに気を遣っていた。


「イオナ」

「探したよ。気分が悪いのなら、そういえばいい」


 無邪気にホロコースト紛いの非道を働く亜人たちとの会談は、無事に終わっている。

 イオナの言葉は、純粋に身を案じる気遣いに満ちていた。


 親友であり兄妹でもある関係。

 同じ創造主から生まれたとはいえ、二人の間に血の繋がりはない。

 〈異形体〉の結晶細胞と、人間の体組織を掛け合わせた奉仕種族こそ亜人であり、最初の世代である彼らに血の通った両親はいない。


「盗聴は」

「大草原の真っ直中だ、その心配はない……と言いたいところだが。〈異形体〉がある限り、隠し事はできないな」


 イオナが微笑む。

 腹の探り合いや情報戦を何より好む、生まれながらの陰謀屋。


「それで、君は今後の展開をどう考える?」


 角を使って情報的に直結すれば、音声言語を使う必要などなかった。

 しかし二人の間では、出来る限り人間の真似をしていこうと決めている。

 まず当面の敵は、人間社会なのである。

 その思考や生態を理解するには、行動をトレースするのが手っ取り早い。

 仮面の女が首を振った。

 半透明の山羊角が、首の動きに合わせて左右にぶれる。


「全面戦争にはならないわ。当面は、人間をけしかけての冷戦でしょうね。お互いに、亜人として生きるための基盤作りの方が大事よ」

「我々はともかく、ユーラシアの友人たちもか」


 ユーラシア大陸の中央部を支配する亜人は、神話主義者マイソロジストと呼ばれている。

 彼らの特徴は、人類に対する無条件の残忍さだ。

 サリンやVXガスがばらまかれた戦場で、離脱するヘリのローターをへし折り、後退中の戦車の搭乗員を外へ引きずり出す。

 化学兵器に蝕まれ死にゆく人間を見下ろし、種の優越を確認する暗いよろこび。


「主命のままに虐殺をしても、よりどころがないのよ。愚かで哀れな、善導すべき存在が必要だった……他人事ではないわね」


 神話主義者たちの非道の裏にあるのは、道に惑う子供のような心だ。

 〈異形体〉の降臨から時間が経ってない現状、多くの亜人が若者であり未熟者であった。

 純真さゆえに、彼らはどこまでも残酷になれる。

 彼女が戦わねばならない流れは、この亜人の暴虐そのものだ。


 そのためにはまず、強固な組織を作らねばならない。

 既に、彼女の仲間たちは集団を作り、協力することのメリットを十分に学習している。

 しかし共通の理念や目的が見いだせない以上、如何に利点を説かれたところで烏合の衆にしかならない。

 情報ネットワークを前提に設計された賢角人だけならまだしも、他の種族を巻き込むには弱い。

 それでは希望がなさ過ぎるから、彼女はそのお題目を作りたかった。


「私たちには未来が必要なのよ、イオナ。人間はもちろん、父なる〈異形体〉さえ私たちを道具として作り出したに過ぎない。自発的に大義を築かなくちゃいけないの」

「つまりは、飼い犬ではなく飼い主になろうというわけか。勝算は?」

「あるわ。勝ち目のない勝負事に、あなたを引っ張り込むような賭けはしない」


 随分信用されたものだ、というぼやきに構わず、女は忌々しいほど青い空を見上げた。

 一片の曇りもない透き通るような碧空。

 その鮮烈な青を背景にして、数え切れない数の巨塔が林立している。

 雨後の竹の子か、盛り土に突き立った卒塔婆のごとき異様な光景だ。

 その根本に埋まっているのは、おびただしい数の人間と文明の残骸である。


〈異形体〉。

 人類を殺戮し、管理を望む者達。

 煌々と輝く黄褐色の瞳が、自らの誇りと共に、祈るような言葉を紡ぐ。



「母なる〈異形体〉より授けられた、シルシュの名に誓って――血の一滴に至るまで、新時代へ捧げてみせましょう」



 少女はまだ、この記憶の持ち主を知らない。









 うるさい。

 それが意識の感ずる現実だった。

 甲高いアラーム音を鳴らす目覚まし時計を黙らせる。太くて頑丈そうな指。

 今でも自分のものとは思えない、亜人の肉体の証。


 亜人種を呼び表す名前はいくつかある。

 俗称にして最もポピュラーなデミ・ヒューマン。

 あるいは学名のホモ・パンタシア。


 後者の表現は、些か文学的すぎるきらいもあるが、『幻想的な人』とはよく言ったものだとアクサナは思う。

 まるでハイファンタジーの物語に出てくるヒューマノイドが、平和な街並みで暮らしている。

 これほど異質な風景もそうあるまい。

 閑話休題。

 ともあれ、一番、当たり障りのない表現はニューマンなのだが、使っている人間を見たことがない。


 布団から出たくなくて、寝台の上でもぞもぞと横着する。

 ロシアに比べれば日本の冬は暖かいらしいが、祖国の記憶すら曖昧な少女には関係ない。

 一〇〇年以上も時間が経ってしまったからなのか、この作り変わった獣じみた躰のせいなのか。

 一二月はとにかく寒い。何とか起き上がって時計を見る。


 午前六時三四分。

 もう四分も経っている。

 背中にかかっていた布団を跳ねのけた。

 慌てて部屋のドアを開け、階段を駆け下りる。

 今日も元気にニンジャめいた着地。

 無駄に格好つけた動作は、アクサナの密かな楽しみだ。

 二階の個室を与えた保護者は、あれでも少女のプライバシーに配慮している。

 勢いそのままに洗面所へ忍び込み、音もなく鏡の前に立つ。

 夢見が悪いと、朝の人相まで悪くなるらしい。

 どこか気むずかしそうな表情に、へたれた三角形の外耳がいじ


 狩猫人しゅびょうじんという亜人種の特徴、つまり俗に言う猫耳だ。

 狩猫人のそれは、人間の耳にいくつかの感覚器官を増設し、外部に拡張した部位であり、〈異形体〉によって身体機能を強化された人工種族、サイボーグ的存在としての側面が強い。

 この耳はその代表的部位で、ある種のフェロモン――化学的情報伝達手段――を捉えるセンサーの他、人の可聴域外の音を聞ける優れものだ。

 外に張り出ている部分、耳殻こそ猫のようだが、人間の耳の機能もきちんと残っている。


 耳の筋肉を意識して動かす。

 ぴくぴくと痙攣し、ぴんと三角形に立った猫耳。

 これでよし。

 蛇口から溢れ出す温水に両手を浸し、前屈みになって顔を洗う。

 水の飛沫がはね飛び、プラチナブロンドの頭髪が濡れて、しっとり銀色に煌めいた。

 水気を切るため、タオルで優しく皮膚の水を吸わせる。

 鏡を見れば、スラヴ系の色素の薄い肌はミルク色、きめ細やかな手触りは確認済みだ。

 ガラス玉のような青い瞳が、鏡の中の半人半獣を捉えている。



 どうやら自分は美人らしい、と気付いたのはヒフミに拾われてからのことだった。

 昔の記憶では実感していなかったこと。

 父母には愛されていたし、使用人たちも親切だったが、距離が近すぎてわからなかった。

 それ以上は考えるのやめて、とことこ居間へ歩いていく。

 寒さに強い足裏が、こういうときだけ頼もしい。


『今週の朝のニュースは! 北日本居住区の天狗、そして四つん這いの露出狂についてです!』

「……ん?」


 多目的モニターに映るのは、地上波のテレビ放送。

 一時期、ほとんどの文明世界で情報インフラが壊滅したせいか、この手の俗なテレビ番組はまだ生き残っている。

 テレビ放送は受動的コンテンツであり、メディアリテラシーを養えないという批判がある一方、古き良き時代を望む人間は多い。

 文化的懐古主義、あるいは文化復興運動と呼ばれるもの。

 それは特定の時代への憧憬、人間への無根拠の信頼――妄信的ヒューマニズムや、民族主義の思想が混ざり合った代物で、二一三四年の極東では無視できない時代のうねりであった。

 破滅的な時代が終わり、理想化された過去へ熱意を傾ける余裕が出来ていた。

 それにしても低劣な見出しだ。

 バラエティ番組の類とはいえ、もう少しマシな見出しはないのだろうか。アクサナは社会に批判的な十代の子供だ。


 無言でいつもの定位置にお尻をおろす。

 少女の体重から逃れるように、尾てい骨の延長線上にある尻尾が動いた。

 狩猫人の尻尾は、フェロモンの散布に使う重要な部位だ。

 匂い付けが薄れていたので、尻尾を動かしてクッションにこすりつけ、自分の定位置であることマーキング。

 人間的とは言い難い行為にもすっかり慣れてしまった。

 尻尾を構成するのは、高純度の結晶細胞である。筋肉もフェロモンの分泌腺も、細長い肉塊の中にすべて詰まっている。

 気配を察知したのか、ヒフミがキッチンから顔を出してきた。


「おはようございます。今日はオムレツですよ」

「おはよ-……オムレツって、この前の意趣返し?」


 思わず聞き返してしまった。

 以前、何となく朝食にオムレツを作ってみたところ、ヒフミに上から目線のアドバイスをされたのである。

 妙に嬉しそうな笑みが印象に残っているが、表情筋が信用できない男なので気にしないようにしている。

 喜ばれたのが嬉しかったなんて、子供っぽい感情なんかなかったのだ。


「いえ、自分でも作ってみたくなったんです。また作ってくれると嬉しいな」


 それはそれは幸せそうな笑み。

 二〇〇年前の陸軍将校みたいな丸眼鏡がなければ、もうちょっと格好良いと思った。

 すぐに直前の思考を取り消す。

 こんな奴、人に親切すぎるぐらいでちょうどいいのだ。

 特に理由のない反抗心を丸出しにしてみる。

 一人で百面相しているうちに、食卓へ二人分の食事が並べられていた。

 お皿に乗ったプレーンオムレツ、タマネギとベーコンが具のコンソメスープ、レタスのサラダ。

 そしてこんがり焼けたトースト。

 思わず、向かいに座った青年の顔を見やる。


「どうしたの?」

「なんとなくです」


 ヒフミがご飯派なので、朝食は大抵、白米に合う味付けになっている。

 珍しいこともあるものだ。

 だが気まぐれなら、そういうこともあるだろう。

 塚原ヒフミは、行く当てのなかった少女を引き取り、善意で面倒を見ている物好きな男だが、普段の行動基準はいい加減だ。

 割りと刹那的というか、享楽主義者みたいなところがある。

 そのくせ、ちっとも楽しそうではない。

 まるで、自分にとって楽しいことを探し求めているみたいに。


『ここ、北日本居住区の中心地、空ヶ島では奇妙な噂が――』

「ねえ、ニュース見ようよ」


 空ヶ島(そらがしま)

 都市の上空に〈異形体〉から分岐した人工島が建設され、第二の都市として機能していることから、この街はそう呼ばれる。

 空に浮かぶ鬼ヶ島――怪物が住むおとぎ話の舞台――そんな誹謗中傷にも似た語源を持ちつつも、北日本居住区の開発を推進した亜人が面白がり、そのまま定着してしまったのが事の起こりらしい。

 テレビのチャンネルを変える。真っ当な天気予報に安堵する。けばけばしい番組は苦手だった。


「ヒフミ、ああいう番組好きなの?」

「まさか。苦手ですけど、色々ありましてね」


 また『いろいろ』か。

 この前、好きな人が出来たとか何とか、言っていたときもそうやって誤魔化していた。

 もちろん、ヒフミは嘘をつけない青年ではない。

 この無様な言い訳も、アクサナへ嘘をつかないための方便なのである。

 その特別扱いが、気にくわなかった。

 騙されたら騙されたで悔しいのに、自分でも訳がわからなかった。


「この街も大概ですよ、ええ。テロやカルトよりは安全ですが」

「え、本当に天狗出るの?」


 ヒフミは沈痛そうに目を下に落とした。

 ほかほかと湯気を上げるオムレツ。


「冷める前に食べましょうか」

「あっ、うん」


 ケチャップの入ったチューブを逆さにして、ツヤツヤと輝く黄色い卵焼きへ投下。

 甘ったるいトマトベースの香り。チューブから飛び跳ねたケチャップを、指先にこすりつける。

 行儀がいいとは言えないが、一回やってみたかった――ヒフミが注意するよりも早く、唇から突きだした舌で舐め取る。

 手首から指の末端まで、分厚い皮膚で覆われた亜人の指。

 二の腕まで続く筋肉のせいか、大して鍛えてもいないのに肉付きがいい。

 右の人差し指は少しざらざらで、ケチャップのせいか、アメリカ人が好きそうな味だった。


「んー……行儀悪い」

「次からはやらないように」

「はぁい」


 やや間を開けて、ヒフミが重い口を開いた。

 先ほどの下品なバラエティ番組に関する言及を考えていたようだ。


「昨日、服を着ていない方が出ました。クスーシャも気をつけてください」


 笑えばいいのか怖がればいいのか、判断がつかない妙な雰囲気だった。

 おそらくヒフミ自身、笑い飛ばすには嫌な光景を見たに違いない。

 それでも心配されているのが嬉しかったのに、アクサナの舌が吐き出すのは軽口だった。


「ぼくが思うに、ここにはもっとファンタジーが必要じゃない?」







「あまり怖い話ばかり聞かせるものじゃないよ」

「あら、この子はこういうお話が一番好きなのよ。ねえ、可愛いクスーシャ」


 父母の声。

 まだ彼らが仲違いしていなかった頃、おのれの不自由を自覚せずにいられた幸せなひととき。

 もう信じられなくなったから、その記憶まで嘘のようだった。


 アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは、かつて幸福とは言い難い少女であった。

 ロシアの新興財閥オリガルヒとして成功者の地位にある父親と、若く美しい母親。

 すべてを台無しにしているのは、他ならぬ愛娘の存在だった。

 不幸とはすなわち、理由もわからない病に冒され、延々と苦しめられるだけの少女そのもの。

 一流の医者も、高価な先進医療も、抹香臭まっこうくさ加持祈祷かじきとうも、娘を溺愛できあいする父親の試みはすべて役に立たなかった。

 病魔に蝕まれた肉体は何も変わらない。

 熱っぽい気怠さと、いつ終わるともしれない苦痛の連続。

 ああ、頭が痛い。


 おのれを律するには、弱くもろく愚かでありすぎた。

 外を見ろ、誰も彼もが寒さに凍えているではないか。

 凍えないために金と酒をあるだけ望み、冷たい冬に追いつかれるまで生きて、生きて。

 そんな風に外界をさげすみながら、自己憐憫じこれんびんに浸る以外の物語を知らない愚か者がいた。

 癒えぬ病に苦しみ悶え、友達の一人も作れず、屋敷と病院しか知らない子供。

 物心ついたときから、苦しさだけが付きまとう人生だった。

 呼吸をするたびに気管が痛み、手足の感覚が薄れていくばかりで、明日に希望がもてなかった。

 長い間、室内にこもっていたせいで足腰は弱り果てていた。

 少し階段を上るだけでも一大事だから、屋敷にはエレベーターが据え付けられている。

 いつしか、少女は動き回るのをやめていた。

 自室の窓から見下ろせるのは、よく整えられた庭園だけだ。


 それで十分だった。

 天蓋てんがい付きの寝台の上で、ゆっくりと身を起こす。

 熱っぽい躰は汗まみれで、パジャマもすぐ取り替えねばならない。

 躰の節々が痛み、内臓も常にしくしくと違和感を発している。

 少しでも楽しいことに熱中したかった。

 寝台の横に据え付けられた台座から、ピンク色のタブレット端末を手に取る。

 薄い板型の端末さえ、片腕で支えるには一苦労だった。

 冗談抜きで、スプーンより重いものが持てない日が来るかもしれない。


――どうでもいい。


 タブレット端末を指でつつき、ブックマークしているサイトを表示。

 挿絵入りの幻獣図鑑が液晶モニターに映る。

 紙の本が一番好きだったが、自分で持ってくるのは論外だし、一々、使用人を使うのも億劫だ。

 その点、端末は軽くて便利でいい。

 反面、道具が便利になればなるほど、ちっとも自由になれない自分の肉体への疎ましさが募る。

 はあ、と溜息。

 喉の奥がただれたように痛んだ。

 もう慣れっこだったから、構わずに東欧やロシアのカテゴリをタッチする。


 真っ先に閲覧するのは、ドラゴンのページ。

 ジルニトラ、ズメイ、ズメウ、ジラント――善悪の区別なく、おとぎ話の世界に羽ばたく竜を調べる。

 どうしようもなく見知らぬ人間が恐ろしいのに、行ったこともない土地の、顔も知らない人々の物語が好きだった。

 少女は幻想を愛している。

 子供っぽい趣味だとよく笑われたし、女の子らしくないとも言われた。

 それでも竜のような力強さが欲しかった。


 しかし絵空事は少女にとって都合のいいものではない。

 少女の住む街、モスクワの守護聖人はゲオルギイ。

 ドラゴン退治の逸話を持つ聖人だ。


 言うまでもないことだが、古来、悪竜は民の敵である。

 竜への憧憬も、自分の歪んだ願望の産物なのだと痛いほどわかっていた。

 それでもアクサナは空想を愛している。

 どうにもならない現実の写し身としてそこにおぼれ、運命への諦観と、他人への羨望を隠すために。

 いやなところばかり目につく父母を、苦痛にあえぐ寝台の上のおのれを、暴力と腐敗で汚れた屋敷の外を。












 この世のすべてを呪いながら。












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