11話「ホモ・パンタシア」
どす黒い闇が、ごうごうとうなり声をあげ夜風を運ぶ。
またこの夢か、と少女は目蓋を閉じる。
見たくもない夢の繰り返し。
見知らぬ風景を映し出す、質の悪いシャーマニズムの産物だ。
その真っ直中で一人、手足の熱が奪われていくのを感じながら、冷たい地べたへ座り込んだ。
おのれが服を着ているのかどうかさえ、定かではなかった。
自分の躰がどうなっているかなど、知りたくもない。
所詮、出来損ないの苦痛ばかり詰まった肉だ。
冷たい凍土へ尻をこすりつけ、じっと空を仰ぎ続けた。
信じられなければ、この世のすべては虚偽に等しい。
生きて、生きて、生き抜いて。
自分一人、騙せない嘘にしがみつくだけ。意味はない。痛みもない。
心や体を傷つけられるほど、本気で信じられるものがなかった。
だから、手をさしのばしてくれた誰かに、甘えるように頬をこすりつける。
心底、愛することも出来ないからそうするのだ。
少女は卑劣で矮小だから、見捨てられる『いつか』を恐れ続ける。
溺れるような悪夢の中、砕け散る雪の粒が見えた。
銀糸のような細いきらめきが、ちらちらと夜空から降り注ぐ。
よく見れば、それは雪ではなかった。
鬼火のようにちかちかと煌めく、無限無数の光の群れ。
失われた数十億の生命の追憶であり、失われた時代を映す万華鏡だ。
灯される記憶には、懐かしい故郷のにおいが染みついている。
帰りたいと思った刹那、凍土の底が抜けた。
もう幾度も体験している現象だった。
遠い、過去の景色への墜落を繰り返し、少女は長い夢を見る。
誰のものでもない――否、見知らぬ死者の記憶へ。
一人の女が、豊かな草原に佇んでいる。
身長は一八〇センチほど、黒い仮面をつけた亜人である。
服の上からでもわかるほど、丸みを帯びた体型は紛れもなく女性のものだ。
足はすらりと長く、むっちりと肉感的な脚線美を描いており、その肉付きが女性的な印象を与えていた。
勇ましさと柔らかな美の融合は、戦女神の風情。
しかし下半身の装いは素っ気なく、軍服じみたズボンとブーツを履いているだけだ。
女性としては大柄だが、第一世代の亜人の中ではむしろ小さい方だった。
春の陽気にも似た暖かい風が吹き付けていたが、ダークグリーンの防寒コートを脱ぐそぶりはない。
彼女は、生来の戦闘生命体である。衣服で体温調節する必要はないのだ。
一見して作り物とわかる、無機質な仮面に開いたのぞき穴は二つ。
宝石じみた両目だった。
琥珀色の双眸には、あらゆる生命を値踏みするような、傲岸不遜の意思。
後頭部から生えた角は二本、透明感のある不思議な質感だった。
さらさらとした黒い頭髪と相まって、まるでバフォメットの偶像だ。
その周囲に、奇妙な動物の姿が見える。
ちょうど人間の子供ぐらいの大きさの、ピンク色の肌をした獣だった。
青々と生い茂る草木を踏みしめ、四足歩行の哺乳類がそこかしこを駆け回っている。
ありふれた草食動物、有蹄類の仲間ではない。全体的に筋肉質な体つきや骨格のバランスはカンガルーに近いが、その顔の造型は類人猿を思わせる。
まったく未知の動物であった。
四方を囲む人工の山脈を背にしていなければ、のどかな風景である。
平地を囲むように隆起した地形は、元々あった山地と接続され、この草原を外界から完全に隔離している。
ここが、かつて北京と呼ばれた土地だとは、〈ダウンフォール〉以前の人類に見せてもわかるまい。
すべての元凶は〈異形体〉、ユーラシア大陸を侵略し、加工していく恐るべき力であった。
荒唐無稽な暴力そのものが、天変地異として起こり続けている。
それがこの大地の現実だ。
標高五〇〇〇メートルに及ぶ山々が平野部に出現したかと思えば、地形を削りながら、巨大な河川が次々と生まれていった。
住民が逃げ出す暇もなく濁流に呑み込まれ、水底へ消えた街は数え切れない。
ユーラシア大陸の地形は大きく作り替えられた。
〈異形体〉が行った地形改造は天災と呼ぶべき規模であり、人間にはどうしようもない理不尽だ。
かくして。
その地理的条件――境界に相応しい地形の不在ゆえ、巨大な国土を持たざるを得なかった大国は一変した。
人の営みが生む国力ではなく、〈異形体〉が与える環境や資源、武力がすべてを決める異世界の景色。
ここに人間の居場所はない。
それを伝えると、過激派の亜人は誇らしげにこう言った。
――これこそが文明浄化です。
女にとっては、許し難い愚行であった。
もとより大陸の〈異形体〉に好意的とは言い難い主張の持ち主だったが、おのれが目にした景色によって、完全に決意を固めていた。
――同じ種族ではあるが、二度と同胞とは呼ぶまい。
歪んだ思想の犠牲者たちへ哀悼の意を捧げ、こうなってしまった経緯を思う。
それは絶対者が降臨し、文明の光を掻き消す過程であった。
二〇一二年の〈異形体〉出現は、無数の大国をずたずたに破壊し尽くし、その周辺地域へ被害を拡大させた。
まず海路は駄目だった。
東シナ海から海外へ脱出しようとした難民は、大陸の〈異形体〉と敵対する別の〈異形体〉によって虐殺された。
後に穏健派や共生派と呼ばれ、数百メートルから数千キロメートルの巨体を以て地上を睥睨する支配者たち。
水晶の躰を持つ巨人たちは、この悪行を、人類の存続のため必要な手続きだと判断したのである。
ホモ・サピエンスを根絶やしにせんとする大陸の〈異形体〉と比すれば、『穏健』で『共生』の余地があるといえなくもない。
逃げ遅れた人民へ、過激派〈異形体〉が行ったおぞましい人種改造を思えば、その判断は無為ではなかった。
生きた人間は、生物兵器のキャリアーとして最適だからだ。
これを、英断だと断言する歴史家もいる。
しかし意味があろうとなかろうと、数千万度の超高熱で焼却され、塵も残らず殺戮された民には何の救いにもなるまい。
異種知的生命体にとって、人間の命を尊重する必要性などなかった。
陸路もまた、無数の悲劇を生んだ。
〈異形体〉の介入こそなかったものの、国境を越えて押し寄せる難民を、当事国の軍隊が押しとどめるのに時間は要らなかった。
まるでイナゴの大群だ、と誰かが呟いた。
そこには嫌悪と恐怖があった。
未知の侵略者に汚染されているかもしれない。
曖昧な恐れと、難民の受け入れに伴うデメリットが、強硬手段を後押しした。
中華人民共和国という大国が崩壊してなお――否、その圧力が消滅したからこそ、積み上げられた憎悪は、無力な人間へ傾けられる。
指導者の賢明さだけで、人類すべてが未知の侵略者と戦うため、一致団結できるわけではない。
奪うか奪われるか、そんな極限状況での選択肢において、他者の痛苦を顧みる余裕があるのは一部の例外だけだ。
例外とはすなわち、何千万、何億という死に動じぬ亜人の慈悲深さである。
おおむね人類は、想定のしようがない侵略者に醜悪な姿を晒した。
たとえば日本では、真相もわからない惨事が価値観を反転させた。
ひどく単純な事件である。
北九州に無数の中距離弾道ミサイルが撃ち込まれ、福岡市がクレーターと化したのである。
地上に発生した熱核反応は、そこに住む人間諸共、あらゆる営みを消滅させた。
当時、東北地方に落着していた〈異形体〉は慎重であった。
誰の目にも明らかな被害なくして、未知の知性体の正しさは証明されない。
彼らがこの惨事に介入したのは、一発目の核弾頭が着弾した直後のこと。
この事件で興味深いのは、真相が闇の中にある点だ。
とはいえ、このミサイル攻撃の出所ははっきりしている。
異形体の侵略が発生した二〇一二年当時での名称は、中国人民解放軍第二砲兵部隊――党中央軍事委員会が直接、指揮命令を下す戦略ミサイル部隊である。
当然のことながら、厳重に管理されているセクションだ。
通常なら、現場の暴走で核攻撃が為されることはまずない。
だが当時の中華人民共和国首脳部は、事実上、壊滅状態にあった。
〈異形体〉によって内陸の都市は真っ先に破壊され、逃げ出す暇もなく数千万の命が犠牲になったのである。
命令系統が消失し、陸海空の人民解放軍は完全に分裂状態に陥っていた。
今では基地施設自体が破壊されて、関係者は塵も残さず消えてしまった。
ゆえに第二砲兵部隊の核攻撃の責任者は不明のままだ。
党中央軍事委員会の生き残りが命令を下したのかもしれないし、ミサイル基地が乗っ取られた可能性も大いにあり得る。
そして興味深いことに。
――亜人種による人体実験の中には、人間の脳を操作する類のものも多かった。
真相は誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは、暴走した軍部による、仮想敵国への大量虐殺という物語が選ばれたことだけ。
福岡市を地上から消し去った核攻撃がもたらしたのは、犠牲であり憎悪であり、途方もなく純粋な衝動であった。
まず、平和主義的傾向は完全に吹き飛んだ。
狂気にも似たヒステリーが、列島を覆い尽くした。
生きるために、未来のために、みんなのために。
目に見えた恐怖や嫌悪は、あらゆる手段を正当化させる。
漠然とした危機感と共にあった警戒は、容易く暴力へ転換されていった。
とどのつまり、二〇世紀以前から続く歴史の負債は、最悪の形で人類を衰退へ追いやった。
それは裏社会であろうと変わらない。
無数の犯罪組織が辿った末路は平等であった。
なぜなら彼らは人間であり、亜人ではなかったからだ。
法や秩序の庇護下にないアンダーグラウンドにおいて、亜人の振るう力は絶対的である。
人間以上の戦闘能力を備え、兵器がよって立つ物理法則の軛を歪める怪物たちは、速やかに人間の勢力を排除し、成り代わっていった。
マフィアの利益と安全を担保するはずの武力は、暗黒時代において暴落し続けた。
人間の悪意や暴力は、新たな種族にとって格好の食い物だった。
被害者であるという意識は、人間から自制心を剥ぎ取る。
〈ダウンフォール〉という事象、文明崩壊のはじまりが意味するのは、グローバル化した世界の崩壊であり、新時代の到来だった。
まさしく民意の総体として異民族、異種族への弾圧は正当化され、何千万人もの人間が餓死していく。
数少ない無事な文明圏でさえ、どす黒い憎悪と恐怖と苦痛の世界を自ら作り上げていったのだ。
一方、亜人たちは、二一世紀の大半を覆う暗黒世界に生存の機会を見出していた。
黒い仮面の女も、そういった文明社会に潜り込んだ亜人だった。
日本列島に根を下ろした〈異形体〉に作られた彼女は、人間の代理として北京の〈異形体〉と接触しに来ていた。
もう一人の同胞、兄妹と呼ぶべき亜人が、すぐそばに来ていた。草を踏み分ける音を聞き、後ろを振り返る。
そこにいたのは、二メートル三〇センチはあろうかという巨体。若々しい雄山羊の獣頭を持つ巨人だった。
白いふわふわした体毛の合間から覗く、穏やかな瞳。
どこか紳士的な雰囲気のある男で、二重マントのインバネスコートがよく似合っていた。
体格に見合う服装がなかったため、オーダーメイドで仕上げたのだという。
適当な衣料品で仕上げた女より余程、身だしなみに気を遣っていた。
「イオナ」
「探したよ。気分が悪いのなら、そういえばいい」
無邪気にホロコースト紛いの非道を働く亜人たちとの会談は、無事に終わっている。
イオナの言葉は、純粋に身を案じる気遣いに満ちていた。
親友であり兄妹でもある関係。
同じ創造主から生まれたとはいえ、二人の間に血の繋がりはない。
〈異形体〉の結晶細胞と、人間の体組織を掛け合わせた奉仕種族こそ亜人であり、最初の世代である彼らに血の通った両親はいない。
「盗聴は」
「大草原の真っ直中だ、その心配はない……と言いたいところだが。〈異形体〉がある限り、隠し事はできないな」
イオナが微笑む。
腹の探り合いや情報戦を何より好む、生まれながらの陰謀屋。
「それで、君は今後の展開をどう考える?」
角を使って情報的に直結すれば、音声言語を使う必要などなかった。
しかし二人の間では、出来る限り人間の真似をしていこうと決めている。
まず当面の敵は、人間社会なのである。
その思考や生態を理解するには、行動をトレースするのが手っ取り早い。
仮面の女が首を振った。
半透明の山羊角が、首の動きに合わせて左右にぶれる。
「全面戦争にはならないわ。当面は、人間をけしかけての冷戦でしょうね。お互いに、亜人として生きるための基盤作りの方が大事よ」
「我々はともかく、ユーラシアの友人たちもか」
ユーラシア大陸の中央部を支配する亜人は、神話主義者と呼ばれている。
彼らの特徴は、人類に対する無条件の残忍さだ。
サリンやVXガスがばらまかれた戦場で、離脱するヘリのローターをへし折り、後退中の戦車の搭乗員を外へ引きずり出す。
化学兵器に蝕まれ死にゆく人間を見下ろし、種の優越を確認する暗いよろこび。
「主命のままに虐殺をしても、よりどころがないのよ。愚かで哀れな、善導すべき存在が必要だった……他人事ではないわね」
神話主義者たちの非道の裏にあるのは、道に惑う子供のような心だ。
〈異形体〉の降臨から時間が経ってない現状、多くの亜人が若者であり未熟者であった。
純真さゆえに、彼らはどこまでも残酷になれる。
彼女が戦わねばならない流れは、この亜人の暴虐そのものだ。
そのためにはまず、強固な組織を作らねばならない。
既に、彼女の仲間たちは集団を作り、協力することのメリットを十分に学習している。
しかし共通の理念や目的が見いだせない以上、如何に利点を説かれたところで烏合の衆にしかならない。
情報ネットワークを前提に設計された賢角人だけならまだしも、他の種族を巻き込むには弱い。
それでは希望がなさ過ぎるから、彼女はそのお題目を作りたかった。
「私たちには未来が必要なのよ、イオナ。人間はもちろん、父なる〈異形体〉さえ私たちを道具として作り出したに過ぎない。自発的に大義を築かなくちゃいけないの」
「つまりは、飼い犬ではなく飼い主になろうというわけか。勝算は?」
「あるわ。勝ち目のない勝負事に、あなたを引っ張り込むような賭けはしない」
随分信用されたものだ、というぼやきに構わず、女は忌々しいほど青い空を見上げた。
一片の曇りもない透き通るような碧空。
その鮮烈な青を背景にして、数え切れない数の巨塔が林立している。
雨後の竹の子か、盛り土に突き立った卒塔婆のごとき異様な光景だ。
その根本に埋まっているのは、おびただしい数の人間と文明の残骸である。
〈異形体〉。
人類を殺戮し、管理を望む者達。
煌々と輝く黄褐色の瞳が、自らの誇りと共に、祈るような言葉を紡ぐ。
「母なる〈異形体〉より授けられた、シルシュの名に誓って――血の一滴に至るまで、新時代へ捧げてみせましょう」
少女はまだ、この記憶の持ち主を知らない。
◆
うるさい。
それが意識の感ずる現実だった。
甲高いアラーム音を鳴らす目覚まし時計を黙らせる。太くて頑丈そうな指。
今でも自分のものとは思えない、亜人の肉体の証。
亜人種を呼び表す名前はいくつかある。
俗称にして最もポピュラーなデミ・ヒューマン。
あるいは学名のホモ・パンタシア。
後者の表現は、些か文学的すぎるきらいもあるが、『幻想的な人』とはよく言ったものだとアクサナは思う。
まるでハイファンタジーの物語に出てくるヒューマノイドが、平和な街並みで暮らしている。
これほど異質な風景もそうあるまい。
閑話休題。
ともあれ、一番、当たり障りのない表現はニューマンなのだが、使っている人間を見たことがない。
布団から出たくなくて、寝台の上でもぞもぞと横着する。
ロシアに比べれば日本の冬は暖かいらしいが、祖国の記憶すら曖昧な少女には関係ない。
一〇〇年以上も時間が経ってしまったからなのか、この作り変わった獣じみた躰のせいなのか。
一二月はとにかく寒い。何とか起き上がって時計を見る。
午前六時三四分。
もう四分も経っている。
背中にかかっていた布団を跳ねのけた。
慌てて部屋のドアを開け、階段を駆け下りる。
今日も元気にニンジャめいた着地。
無駄に格好つけた動作は、アクサナの密かな楽しみだ。
二階の個室を与えた保護者は、あれでも少女のプライバシーに配慮している。
勢いそのままに洗面所へ忍び込み、音もなく鏡の前に立つ。
夢見が悪いと、朝の人相まで悪くなるらしい。
どこか気むずかしそうな表情に、へたれた三角形の外耳。
狩猫人という亜人種の特徴、つまり俗に言う猫耳だ。
狩猫人のそれは、人間の耳にいくつかの感覚器官を増設し、外部に拡張した部位であり、〈異形体〉によって身体機能を強化された人工種族、サイボーグ的存在としての側面が強い。
この耳はその代表的部位で、ある種のフェロモン――化学的情報伝達手段――を捉えるセンサーの他、人の可聴域外の音を聞ける優れものだ。
外に張り出ている部分、耳殻こそ猫のようだが、人間の耳の機能もきちんと残っている。
耳の筋肉を意識して動かす。
ぴくぴくと痙攣し、ぴんと三角形に立った猫耳。
これでよし。
蛇口から溢れ出す温水に両手を浸し、前屈みになって顔を洗う。
水の飛沫がはね飛び、プラチナブロンドの頭髪が濡れて、しっとり銀色に煌めいた。
水気を切るため、タオルで優しく皮膚の水を吸わせる。
鏡を見れば、スラヴ系の色素の薄い肌はミルク色、きめ細やかな手触りは確認済みだ。
ガラス玉のような青い瞳が、鏡の中の半人半獣を捉えている。
どうやら自分は美人らしい、と気付いたのはヒフミに拾われてからのことだった。
昔の記憶では実感していなかったこと。
父母には愛されていたし、使用人たちも親切だったが、距離が近すぎてわからなかった。
それ以上は考えるのやめて、とことこ居間へ歩いていく。
寒さに強い足裏が、こういうときだけ頼もしい。
『今週の朝のニュースは! 北日本居住区の天狗、そして四つん這いの露出狂についてです!』
「……ん?」
多目的モニターに映るのは、地上波のテレビ放送。
一時期、ほとんどの文明世界で情報インフラが壊滅したせいか、この手の俗なテレビ番組はまだ生き残っている。
テレビ放送は受動的コンテンツであり、メディアリテラシーを養えないという批判がある一方、古き良き時代を望む人間は多い。
文化的懐古主義、あるいは文化復興運動と呼ばれるもの。
それは特定の時代への憧憬、人間への無根拠の信頼――妄信的ヒューマニズムや、民族主義の思想が混ざり合った代物で、二一三四年の極東では無視できない時代のうねりであった。
破滅的な時代が終わり、理想化された過去へ熱意を傾ける余裕が出来ていた。
それにしても低劣な見出しだ。
バラエティ番組の類とはいえ、もう少しマシな見出しはないのだろうか。アクサナは社会に批判的な十代の子供だ。
無言でいつもの定位置にお尻をおろす。
少女の体重から逃れるように、尾てい骨の延長線上にある尻尾が動いた。
狩猫人の尻尾は、フェロモンの散布に使う重要な部位だ。
匂い付けが薄れていたので、尻尾を動かしてクッションにこすりつけ、自分の定位置であることマーキング。
人間的とは言い難い行為にもすっかり慣れてしまった。
尻尾を構成するのは、高純度の結晶細胞である。筋肉もフェロモンの分泌腺も、細長い肉塊の中にすべて詰まっている。
気配を察知したのか、ヒフミがキッチンから顔を出してきた。
「おはようございます。今日はオムレツですよ」
「おはよ-……オムレツって、この前の意趣返し?」
思わず聞き返してしまった。
以前、何となく朝食にオムレツを作ってみたところ、ヒフミに上から目線のアドバイスをされたのである。
妙に嬉しそうな笑みが印象に残っているが、表情筋が信用できない男なので気にしないようにしている。
喜ばれたのが嬉しかったなんて、子供っぽい感情なんかなかったのだ。
「いえ、自分でも作ってみたくなったんです。また作ってくれると嬉しいな」
それはそれは幸せそうな笑み。
二〇〇年前の陸軍将校みたいな丸眼鏡がなければ、もうちょっと格好良いと思った。
すぐに直前の思考を取り消す。
こんな奴、人に親切すぎるぐらいでちょうどいいのだ。
特に理由のない反抗心を丸出しにしてみる。
一人で百面相しているうちに、食卓へ二人分の食事が並べられていた。
お皿に乗ったプレーンオムレツ、タマネギとベーコンが具のコンソメスープ、レタスのサラダ。
そしてこんがり焼けたトースト。
思わず、向かいに座った青年の顔を見やる。
「どうしたの?」
「なんとなくです」
ヒフミがご飯派なので、朝食は大抵、白米に合う味付けになっている。
珍しいこともあるものだ。
だが気まぐれなら、そういうこともあるだろう。
塚原ヒフミは、行く当てのなかった少女を引き取り、善意で面倒を見ている物好きな男だが、普段の行動基準はいい加減だ。
割りと刹那的というか、享楽主義者みたいなところがある。
そのくせ、ちっとも楽しそうではない。
まるで、自分にとって楽しいことを探し求めているみたいに。
『ここ、北日本居住区の中心地、空ヶ島では奇妙な噂が――』
「ねえ、ニュース見ようよ」
空ヶ島。
都市の上空に〈異形体〉から分岐した人工島が建設され、第二の都市として機能していることから、この街はそう呼ばれる。
空に浮かぶ鬼ヶ島――怪物が住むおとぎ話の舞台――そんな誹謗中傷にも似た語源を持ちつつも、北日本居住区の開発を推進した亜人が面白がり、そのまま定着してしまったのが事の起こりらしい。
テレビのチャンネルを変える。真っ当な天気予報に安堵する。けばけばしい番組は苦手だった。
「ヒフミ、ああいう番組好きなの?」
「まさか。苦手ですけど、色々ありましてね」
また『いろいろ』か。
この前、好きな人が出来たとか何とか、言っていたときもそうやって誤魔化していた。
もちろん、ヒフミは嘘をつけない青年ではない。
この無様な言い訳も、アクサナへ嘘をつかないための方便なのである。
その特別扱いが、気にくわなかった。
騙されたら騙されたで悔しいのに、自分でも訳がわからなかった。
「この街も大概ですよ、ええ。テロやカルトよりは安全ですが」
「え、本当に天狗出るの?」
ヒフミは沈痛そうに目を下に落とした。
ほかほかと湯気を上げるオムレツ。
「冷める前に食べましょうか」
「あっ、うん」
ケチャップの入ったチューブを逆さにして、ツヤツヤと輝く黄色い卵焼きへ投下。
甘ったるいトマトベースの香り。チューブから飛び跳ねたケチャップを、指先にこすりつける。
行儀がいいとは言えないが、一回やってみたかった――ヒフミが注意するよりも早く、唇から突きだした舌で舐め取る。
手首から指の末端まで、分厚い皮膚で覆われた亜人の指。
二の腕まで続く筋肉のせいか、大して鍛えてもいないのに肉付きがいい。
右の人差し指は少しざらざらで、ケチャップのせいか、アメリカ人が好きそうな味だった。
「んー……行儀悪い」
「次からはやらないように」
「はぁい」
やや間を開けて、ヒフミが重い口を開いた。
先ほどの下品なバラエティ番組に関する言及を考えていたようだ。
「昨日、服を着ていない方が出ました。クスーシャも気をつけてください」
笑えばいいのか怖がればいいのか、判断がつかない妙な雰囲気だった。
おそらくヒフミ自身、笑い飛ばすには嫌な光景を見たに違いない。
それでも心配されているのが嬉しかったのに、アクサナの舌が吐き出すのは軽口だった。
「ぼくが思うに、ここにはもっとファンタジーが必要じゃない?」
◆
「あまり怖い話ばかり聞かせるものじゃないよ」
「あら、この子はこういうお話が一番好きなのよ。ねえ、可愛いクスーシャ」
父母の声。
まだ彼らが仲違いしていなかった頃、おのれの不自由を自覚せずにいられた幸せなひととき。
もう信じられなくなったから、その記憶まで嘘のようだった。
アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは、かつて幸福とは言い難い少女であった。
ロシアの新興財閥として成功者の地位にある父親と、若く美しい母親。
すべてを台無しにしているのは、他ならぬ愛娘の存在だった。
不幸とはすなわち、理由もわからない病に冒され、延々と苦しめられるだけの少女そのもの。
一流の医者も、高価な先進医療も、抹香臭い加持祈祷も、娘を溺愛する父親の試みはすべて役に立たなかった。
病魔に蝕まれた肉体は何も変わらない。
熱っぽい気怠さと、いつ終わるともしれない苦痛の連続。
ああ、頭が痛い。
おのれを律するには、弱く脆く愚かでありすぎた。
外を見ろ、誰も彼もが寒さに凍えているではないか。
凍えないために金と酒をあるだけ望み、冷たい冬に追いつかれるまで生きて、生きて。
そんな風に外界を蔑みながら、自己憐憫に浸る以外の物語を知らない愚か者がいた。
癒えぬ病に苦しみ悶え、友達の一人も作れず、屋敷と病院しか知らない子供。
物心ついたときから、苦しさだけが付きまとう人生だった。
呼吸をするたびに気管が痛み、手足の感覚が薄れていくばかりで、明日に希望がもてなかった。
長い間、室内にこもっていたせいで足腰は弱り果てていた。
少し階段を上るだけでも一大事だから、屋敷にはエレベーターが据え付けられている。
いつしか、少女は動き回るのをやめていた。
自室の窓から見下ろせるのは、よく整えられた庭園だけだ。
それで十分だった。
天蓋付きの寝台の上で、ゆっくりと身を起こす。
熱っぽい躰は汗まみれで、パジャマもすぐ取り替えねばならない。
躰の節々が痛み、内臓も常にしくしくと違和感を発している。
少しでも楽しいことに熱中したかった。
寝台の横に据え付けられた台座から、ピンク色のタブレット端末を手に取る。
薄い板型の端末さえ、片腕で支えるには一苦労だった。
冗談抜きで、スプーンより重いものが持てない日が来るかもしれない。
――どうでもいい。
タブレット端末を指でつつき、ブックマークしているサイトを表示。
挿絵入りの幻獣図鑑が液晶モニターに映る。
紙の本が一番好きだったが、自分で持ってくるのは論外だし、一々、使用人を使うのも億劫だ。
その点、端末は軽くて便利でいい。
反面、道具が便利になればなるほど、ちっとも自由になれない自分の肉体への疎ましさが募る。
はあ、と溜息。
喉の奥がただれたように痛んだ。
もう慣れっこだったから、構わずに東欧やロシアのカテゴリをタッチする。
真っ先に閲覧するのは、ドラゴンのページ。
ジルニトラ、ズメイ、ズメウ、ジラント――善悪の区別なく、おとぎ話の世界に羽ばたく竜を調べる。
どうしようもなく見知らぬ人間が恐ろしいのに、行ったこともない土地の、顔も知らない人々の物語が好きだった。
少女は幻想を愛している。
子供っぽい趣味だとよく笑われたし、女の子らしくないとも言われた。
それでも竜のような力強さが欲しかった。
しかし絵空事は少女にとって都合のいいものではない。
少女の住む街、モスクワの守護聖人はゲオルギイ。
ドラゴン退治の逸話を持つ聖人だ。
言うまでもないことだが、古来、悪竜は民の敵である。
竜への憧憬も、自分の歪んだ願望の産物なのだと痛いほどわかっていた。
それでもアクサナは空想を愛している。
どうにもならない現実の写し身としてそこに溺れ、運命への諦観と、他人への羨望を隠すために。
いやなところばかり目につく父母を、苦痛にあえぐ寝台の上のおのれを、暴力と腐敗で汚れた屋敷の外を。
この世のすべてを呪いながら。




