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当方、角ありの嫁御を求む  作者: 灰鉄蝸
2章:守護者
11/39

8話「ほのぼのアウトサイダー」











 二度目の生は、真っ白な喪失に彩られていた。






 目覚めは不意に訪れた。

 目蓋まぶたを開けると、小山のような黒い影が視界に飛び込んでくる。

 巨大な災害の後を思わせる、都市の残骸だ。

 一目でそれとわかる近代的建築物の群体が、みっしりと密集し、不安定に揺れていた。

 耳をつく音は、波頭が砕ける水音だ。

 おそらくどこかの港。

 どうやら、自分はうつぶせになって倒れているらしい。

 おびただしい数の瓦礫がれきの上に散乱した、虹色に煌めく樹脂のような欠片。

 そろり、身を起こす。

 全身の筋肉は問題なく動いていた。

 生まれたての赤子のような、染み一つない肌が、筋肉の膨張に応じてわずかにふくらむ。

 足先の感覚に奇妙なズレを感じたが、その時点では何がおかしいのか皆目見当がつかなかった。虹色の破片へ足をおろす。

 そっと踏んでみると、ぶよぶよと柔らかく人肌の温もりがあった。


 何もかも未知だった。

 視線を前に向けた『それ』の目に、奇妙な光景が映った。

 二人の男が、まるで決闘を控えているかのように向かい合っている。

 距離にして一〇メートル強は離れていた。


 一人は、動物の被り物をした男。ダークブルーのコートを着込んだ、体格のいい人物だった。

 その右手に、大振りな鈍器のようなもの――柄の長い斧に似た道具――を掴んでいる。

 身振りだけで、向かい合う人物との剣呑な空気が感ぜられた。

 もう一人の青年は、一目でわかる東洋人だった。

 わずかに思い出せる知識。

 東アジアのどこかの国の人間だろうか。

 正直、見分けがつかなかった。

 青年は、おそらく男よりも若いはずだった。

 被り物の男と同じ衣装を着ているが、こちらはどこか、所作に演技めいた印象がある。


――ここは、どこ?


 上手く動かない喉で、そう言おうとした。

 けれど、声は出ない。

 それどころか言葉一つ思い出せず、強い感情がわき上がった。

 自分がどんな言語で思考しているのかさえ不明瞭で、曖昧模糊あいまいもこな胸のうろ

 娘――否、そう呼ぶべき形にまとまった異形は、抑えようのない喪失感を前に涙をこぼす。

 何を失ったのかもわからぬまま、人を人たらしめる感情に突き動かされ、眼球は熱い滴に濡れていく。


 ぱちり、とまばたき一つ。

 頬を伝って顎へ垂れる涙。


 こちらの動揺が伝わったのか、東洋人の青年が歩み寄ってくる。

 眼鏡を掛けた感情のない笑顔。

 だが、決して冷血な印象は与えず、演技めいた胡散臭さか、根の深い不器用さが垣間見えるようだった。

 何の根拠もない印象で、ただの勘。

 それっぽっちの理由で十分なほど、支えが欲しくてたまらなかった。

 少しだけ、目の前の男を信じてみようと思い、おっかなびっくりに指を伸ばす。


 自分の手。

 年若い子供の指。

 少女のものにしては大きすぎ、肉厚すぎる指。


 視界に映ったそれの違和感に気づかず、人の形をしたてのひらへ触れる。

 さし伸べられた手は温かく、不安と恐怖で、凍えてしまいそうな躰に染み入る温度があった。

 くん、と鼻を鳴らす。


 男の指からは、冷たい鋼のような匂いがした。









 さわやかな空だった。

 雀のさえずりが耳に心地よい、しんしんと冷える朝。

 手足がもげようといつでも復活する青年には、疲労の概念が縁遠く、昨晩、帰宅してから一睡もしていない。

 どうやら少し前、脳を吹き飛ばされたのがよくなかったらしい。

 再生してからこっち、青年は以前にも増して人間離れしている。


 とどのつまり、よくあることだ。

 時刻は午前五時三〇分。

 同居人はまだ部屋で寝ていた。

 ならば朝餉あさげの準備でもするのが人の道である。


 塚原ヒフミにとって、人間らしさとは如何に一貫性を保って行動するか、に尽きる。

 それはときに職務への忠実さであり、初恋の誓いに殉じることでもある。

 しかし最も頻度の高いルーチンワークといえば、やはり日常だ。

 水分も養分も睡眠も要らない肉体とはいえ、精神性をそれらしく保つなら、人間ごっこが一番である。

 冷蔵庫の中には地鶏のもも肉。

 同居人が買っておいたものらしいが、特にメモ書きがないのでチルドルームから掴み出す。

 張りのある桃色の肉に、わずかに乗った脂肪が食欲をそそる。

 しかし二人分、焼いて食べるには量が心許ない。


 では、汁物がいいだろうか。この季節、台所には野菜が豊富である。

 つやのいい大根を煮るのもいいし、剥いた皮できんぴらなど作れば、白い飯が大層美味いに違いなかった。

 何より白菜がある。

 鳥の旨みが染み出した醤油仕立ての汁でことこと煮て、うっすら透き通った葉を噛み締めるのもいい。


 しかし、大事なことを忘れていた。

 同居人は猫舌なのである。

 これでは汁物をよそったところで、辛いだけではないだろうか。

 時計を見る。

 五時四〇分を少し回ったところ――時間はまだある。

 だが、手の込んだ料理を仕込むには足りない。

 中途半端な時間が憎たらしい。

 鶏肉で出汁を取るのは確定事項だが、さて。


 この間、胡散臭い丸眼鏡をつけた男が、音もなくキッチンを徘徊し、無言で考え込んでいると思っていただきたい。

 朝っぱらから見たい風景ではない、とヒフミが己の現状を認識するまで三秒ばかり。

 ひとまず、電気周りをチェックすることにした。

 気分転換だった。


 居間と台所をつなぐ通路の壁、家具を埋め込むためのスペースに、その物体は固定されていた。

 男の視線の先は、のっぺりした七〇センチ四方の立方体。

 家庭用発電機の筐体だ。超人犯罪者という人間大の武力の塊が闊歩する昨今、送電線などテロの格好の標的である。

 〈ダウンフォール〉中の反省を踏まえ、人類連合参加国の間では、この小型の発電機――文字通り『電気を生む』ことに特化した低純度の結晶細胞――が無料で配布されている。


 特に異常はない。

 あっても困るのだが、汁物と猫舌のパラドクスを打ち破るには至らず、男は眉をひそめた。

 いつも浮かべる胡散臭い笑みが引っ込んでいる。

 幾分いくぶんか、本気で考え込んでいた。

 そのとき、ヒフミのズボンから着信音が鳴ったのは天命といえよう。

 端末を取り出し、モニターの簡易文字情報を見やる。

 公私ともに友人の男からだった。

 念のため、サイキックとしての知覚機能を発揮――自宅の玄関の前に、一人分の反応があった。

 厄ネタのにおいがしたので、通話モードに入ると同時に切り出した。


「塚原ヒフミです。ご用件はなんでしょうか」

『話は後だ、家に入れてくれ』


 通話の相手、高辻馳馬たかつじ・はせまは身長が二メートル近く、山男が現代戦の要諦ようていを頭に叩き込んで歩き回っているような生命体だ。

 そもそも人外と怪獣しかいない組織で、ただの人間が悠々と過ごしている時点で、愉快な人物なのは約束されている。

 誰が朝の六時前、家に入れたいと思うだろうか。


「馳馬、突然だが僕には感情がないとか、親に捨てられたとか、そういう感じの同情されるべき事情がある。早く家に帰れ」

『嘘つきは死ぬ、仏の教えだ――頼む、匿ってくれ』


 そも、たった今思いついた口上なのだから、ヒフミの補佐を担当する男とて知っているわけがない。

 口から出任せは失敗したものの、若干、苛ついた声をみるに効果は十分であった。


「全裸の女が玄関口に立ってるような経験は二度としたくない、わかりますね?」

『おい待て、いつの話だ』

「君と初めてあったときのやつです。まあ、あのときは僕が訪問客だったわけですが」


 ヒフミはそのまま施錠されたドアの前に立つと、ロックを解除。

 諦め混じりと見せかけて、わずかに口の端がつり上がっている。

 ヒフミはひどい奴なので、基本的に楽しそうな事件を好む。二重の鍵を開いてやると、高辻馳馬は勢いよく玄関へ滑り込んできた。

 二メートル近い巨漢も、こうなっては形無しだ。


「前言撤回するの早すぎないか」

「ははっ、やだな。この世には大事なものがあります。娯楽ですよ」

「手前、朝っぱらから喧嘩売ってるよな……」


 心外ですねぇ、と首をかしげた後、ヒフミは底意地の悪い笑みを浮かべた。

 ついでにシモネタが飛び出した。


「やれやれ……じゃあ貸し一つです。僕が繁殖相手として認識できる範囲の女の子でいい」

「人を舐めくさった態度は一貫してるよな、お前。どこの星に棲息してるんだよ、そんなもん」


 塚原ヒフミは自他共に認める変人であり、超常種サイキック――学名ホモ・ペルフェクトゥス――と呼ばれる異種族だ。

 彼らは大概の場合、驚異的な生命力と自己完結した生態により、社会性や他者への性愛が抜け落ちている。

 ヒフミもご多分に漏れず、人間の女を性の対象として見られぬ上、性欲まで周期的という昆虫じみた男だった。

 つまり無茶ぶりだ。


「さあね。ただまあ、チンパンジーだって、つがいにオランウータン持ってこられたら怒るさ」

「女全般に類人猿認定喰らわすな。何様だよ……まあ、女に夢見るよりはマシだが」

「ん?」


 聞き逃せない台詞に、ヒフミは眉根をしかめて応じた。

 それをどう取ったものか、馳馬は気の毒そうな顔で言葉を喋り出す。


「だってほら、お前童貞だろうし」


 ああ、こともなげに頷き、ヒフミは友人の誤解を訂正した。


「勘違いなんてらしくないな、馳馬。楽しくないのは認めるけど――ゴリラの繁殖風景を見る方がマシなぐらいです」

「……嘘だろ」


 一言いったきり、馳馬は絶句した。

 まるで自分の母親が近所の犬と交尾していたといわんばかりの顔。

 この世の終わりのような表情を浮かべて、男は声を絞り出す。


「お前、人間の女とやったことあるのかよ。山羊とか鶏とか牛じゃねえぞ」

「実に差別的で嬉しい台詞だな」


 軽やかに笑うヒフミの双眸そうぼうは人殺しの目だった。

 真顔で残忍な台詞を吐き出す高辻馳馬も同様である。

 この男、元々は陸軍の特殊部隊出身であり、筋金入りの兵隊だった。

 朝っぱらから低劣な会話を交わす当人たちは、じゃれ合いと挑発の中間、聞くに堪えない醜怪しゅうかいな会話を重ねていく。


「売られた喧嘩は買いますよ。表に出ろ」

「ああ、すまん。相手の女の子の名誉を穢すつもりはなかった。許せ」

「違う、そうじゃない。僕の心象が最悪だ」


 険悪さと悪意の混ざった奇怪な友情という、形容しがたい空気を醸成する二人。

 その緊張を打ち破ったのは、階下の騒がしさに目を覚ました若人であった。

 幾分か軽い、階段を下りる足音がしたかと思えば、六段ほど抜かして飛び降りてくる影。

 小さな――そう、子供の背丈だった。

 すとん、と軽い着地音。

 パジャマ越しにわかる躰の線よりずっと太く、肉厚の足が音を消している。


 ヒフミの同居人の、輝くような銀髪が朝の薄い光に照らされている。

 色の薄いプラチナブロンドのミディアムヘア。

 その合間、側頭部と耳の間をつなぐように人ならざる器官があった。

 ぴん、と三角形に尖った行儀のいい一対の耳。

 髪色と同じ色の毛に覆われたそれは、猫のような獣の耳だった。

 パジャマの後ろからは、これまた白銀の尻尾。


 西暦二一三四年にありふれた亜人種――狩猫人しゅびょうじんだ。


 おそらく客観的な基準で観察する分には、将来の美貌が約束されている――そういう少女だった。

 冷徹な博物学者よろしく詳細な観察に意味はない。


 これは、成り行きで保護者を務めるヒフミの悪癖だった。

 何故、少女が階段を飛び降りたのかと言えば、おそらく格好いいからだ。

 深い意味はまるでないし、年頃らしい初々しさすらあった。

 本当なら叱りつけるべきだが、直前の会話が会話だけにヒフミは口を開かなかった。


「あのさあ……人の家で下世話な会話やめてくれる? 今、朝の六時なんだけど」


 銀の頭髪に青い双眸。

 北方の人種特有の容姿が、冴え冴えとしたハスキーボイスによく似合う。

 前世紀に絶滅したアムールトラの風情。

 ヒフミの同居人ことアクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァ、泣く子も黙る一四歳の冷たい瞳だ。

 こういうときに限って役立たずの友人に見切りをつけ、ヒフミは調子のいい台詞を切り出す。


「ははあ。じゃあご飯にしましょうか――鳥雑炊でどうかな」


 猫舌にして猫っぽい亜人の少女は、無言で保護者のすねを蹴り上げた。











 その昔、ロシアという国の資産家の家に一人娘がいた。

 ちょうど、冷戦だ、核戦争のハルマゲドンだ、と謳った時代も過ぎ去ったころの話だ。

 終わりの見えない緩やかな貧困の蔓延と、これまた落としどころのない紛争が、ぱちぱちと熾火おきびのように弾ける愉快な時代。

 さてさて、世界をぐるっと見回したら、もちろん彼女より不幸な人間なんて腐るほどいるし、もっと豊かなお金持ちだってたくさんいただろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 こんな風にばっさり切り捨てて、個人的不幸を反芻はんすうする程度に身勝手。

 そういう娘が一人、父親に溺愛されていたのだ――おそらくきっと、数少ない記憶が確かなら。

 かつて娘には、どうしようもないことが三つあった。


 一つ目は病弱な体のこと。

 二つ目は母様が父様と不仲になったこと。

 三つ目は翼も鱗も牙も爪も尻尾も自分には無いこと。


 竜になりたい。

 悠々と空を飛んで、財宝を蓄えては人間を返り討ちにするおとぎ話の悪役みたいに好き勝手したい。

 当時、まだまだ子供だった娘だ。

 それにしたってお姫様でも英雄でもなく、竜になりたいというのは奇矯すぎる。

 とはいえ夢見がちな人間はどこかにいるもので、幸か不幸か、そいつは情報化社会の洗礼を浴びてなお健在だった。

 ドラゴンに憧れる女の子という天然記念物は、かくして奇跡的にその純粋さを保っていたのである。


 それが神のご意志に背いていたのかどうか。

 百年以上も経ってから、少女が猫みたいな耳と尻尾を持って目覚めたのは、その罰なのかもしれない。

 古来、怪物は異形や異相の持ち主である。

 そういう意味では、願いを叶えたといえよう。






 それが今では胡散臭い男二人と純和風の食卓を囲むのだから、真に運命は奇っ怪である。

 アクサナは三角形の耳をぷりぷり怒らせて、フローリングの床に敷かれたござの上、座布団にお尻をおろす。

 収まりの悪い尻尾を左手で直し、そっと体重を預ける。

 床に座るのは苦手だが、家主のよくわからない趣味により、この家には西洋風のテーブルと椅子のセットが著しく不足している。

 彼女の勉強机はその法則に反逆した英雄その一であり、アクサナにとっていやししの一つであった。


――と、自分では思っているものの。


 そもそも躰に染みついているのは、この地で身につけた動作なのだから馴染まぬわけがない。

 やたら姿勢よく正座する少女の振る舞いは、その容姿に目を瞑れば純和風といえよう。

 静かに腰を下ろした少女の眼下、テーブルには薄く湯気を立てる茶碗が一つ、取り皿が二枚。

 おひたしと卵焼き、炒り豆腐の大皿が乗っている。

 半ばあきれたような目で、茶碗に盛られた粥を見る。

 鶏肉の脂と、醤油の色でうっすらと褐色に染まった汁。

 そこに泳ぐ米粒の一粒一粒を見やり、ほうっと息をつく。


 猫舌の人間へ粥を差し出す悪行、許すまじ。


 じゃあお前が作れよ、というのは禁句だ。

 そもそも、家事とは労働の一種なのである。

 その不出来を見咎めるのは全人類の義務であり、自分へのお目こぼしを期待して見逃す奴は労働効率を下げる大馬鹿だ。畜生だ。どうしようもないはな垂れだ。

 元深窓の令嬢らしい感性ゼロ。

 それがアクサナだった。

 スプーンと箸がそれぞれ一組。

 まったく、計画性のないメニューである。


「ヒフミ、ひょっとして『ぼく』のことが嫌いなわけ?」


 ぬっと身を乗り出して、テーブルの向かいの青年を見つめる。

 まず、丸眼鏡がいただけない。

 世の中、もっと格好いい意匠の眼鏡などいくらでもあるのに、塚原ヒフミはいつも丸眼鏡をかけている。

 伊達である。

 巷で流行の、民族主義と懐古趣味をはき違えたコスプレ集団――文化復興運動と言うらしい――だって、あんな悪趣味な眼鏡はしない。

 「極右の軍部が国を牛耳ってた頃の陸軍将校風」と書き出せば、一体どんな趣味なんだと言いたくもなる。

 さりとて軍事趣味者というわけでもなく、むしろ銃器や火砲の類を目にすると作り笑いが微妙に強ばっている。

 理由は、撃たれると死ぬほど痛いから。

 挽肉ミンチからでも蘇るのだ、二〇世紀のB級スプラッタ映画にでも出演すればいいのに。


「何を馬鹿な。嫌いな相手に朝食作るほど善良じゃありませんよ、僕は」


 この男、こっちの気など知りもしないでニコニコ笑っている。

 ひらひらと手を振って、身を乗り出すのは品がよくない、と注意してくる始末。

 一方、横に目を向ければ、無言で飯を食う大男の姿。

 朝食までごちそうになる駄目な大人の見本、高辻馳馬はアクサナの斜め右に陣取っている。

 粥が冷めるのを待つ家人の前で、はふはふと粥を食らうのだ。図々しさ以外何も見いだせない。


「この粥美味いな。お前にこんな趣味があるとは――」

「料理が趣味だなんて誰が言ったんですか。僕は麺料理以外、努力する価値を見いだしていません」


 どうやらヒフミは、片手間で作った料理だと言いたいらしい。

 納得できない顔で椀の中身をかっ込むと、馳馬は二杯目を催促。

 他人の家でここまでくつろげる人種も早々いないよね、とアクサナが思っていると、ヒフミがしたり顔で口を開く。


「そう、上達は誰にでも出来ます――寝なければいいんですよ」

「ぼくに言わせればそれ、人間は無理だから」


 豆腐も味噌も醤油も、その原材料までさかのぼれば、人類連合の保有する人工島群で作られたものだ。

 アクサナの言葉をどう思ったのか、ヒフミはにこやかに切り返してくる。


「僕は肉体的な疲労はないからね。人間の面倒を見ると、ほどよく人間的な営みになってちょうどいい」

「ヒフミー、趣味で人間やってますみたいな台詞やめなよ」


「厳然たる事実です。僕は個々の事情に則さないヒューマニズムが、伸びきった麺料理ぐらい嫌いでね。よくない、非常に良くない。そう、前時代的だ――って、なんですかその目」


「別に。めんどくさい大人だなあって」


 眠たげな半眼で年上の男を一睨み、少女はスプーンに乗せた粥にふーふーと息を吹きかける。

 先に器によそっておいたのか、男二人の椀に比べて湯気が出ていない。

 食べやすくて助かるけどさ、とアクサナ思ったものの口には出さない。

 兄とも父ともつかない、奇っ怪な保護者。

 それがヒフミへの評価であり、また二人の間にある独特の距離感だった。

 こういう気遣いは出来るくせに、他のところはまるでなってない男だ。


 ヒフミは胡散臭い笑みを浮かべると、いつの間にか空になった茶碗へ白湯を注いだ。

 ずずっと一杯飲み干し、何をどう思ったのかアクサナへ


「僕が面倒くさいのは否定しないけど、種族的特性ですよ。超常種は、行きすぎるとご飯食べなくても活動できますから。それこそ、カルマ思想やらベジタリアンやらこじらせたカルトが本尊にしたりね?」

「やめてよ、そういう話題。そりゃ」


 アクサナから見て正面、ヒフミの後ろに大画面モニターが設置されている。

 思わず手元の端末でモニターの電源を入れると、契約したテレビ局のニュース番組――亜人資本の会社だ――が映った。

 一時期、文明崩壊〈ダウンフォール〉によって断絶した文化体系も、二二世紀ともなれば各々の形で再建されていた。

 映像とともに、三十代半ばのニュースキャスターの饒舌な日本標準語が流れてくる。


『あなたはっ! この神州の大和民族が得体の知れない怪獣どもに指図されてもいいと仰るのかッ!』

『魚を守るためです。国籍に関係なく、ルールを守れない人間は死ぬべきでしょう』


 モニターの中は地獄絵図だった。

 見るからに暑苦しそうな中年男が、勢いよく持論を叫んでいるかと思えば、その向かいのインテリ風の男が、淡々と狂った台詞を吐き出す。

 文化復興運動の過激派と、これまた、極端な環境保護運動家の熱い舌戦である。

 まともな感性の持ち主は五分と経たず、この世の地獄を垣間見ることになりそうな布陣だった。


「すげえ、金貰っても見たくないデスマッチだぜ」

「この二人、真っ黒ですよ。ACCF(反文明浄化戦線。反亜人主義を掲げる国際的テロ支援ネットワーク)から援助受けてるってのが有力です。アホなので泳がされてますけど」


 こともなげにヒフミが言う。

 一般人でも調べればわかる程度の背後関係で、アクサナの前で雑談のネタに使っても問題ないらしかった。

 何となく、距離を感じた。

 ヒフミたちの職業が、隠し事なしで洗いざらい喋れるような、平和な仕事ではないとわかっているのに。

 アクサナはこういう不器用な善意を感じたとき、自分の身勝手さが嫌になる。


 思春期特有の面倒な思索の罠。

 そこに陥りかけた少女を救ったのは、馳馬の暴言だった。


「こいつらのお友達っていやぁ、似非ダーウィニズム信者もいるだろ。超常種は二〇億人死んで目覚めた素晴らしき進化だ! って真顔でほざく類の」

「お互い、嫌な知人持ってますよねぇ。泣いていいですか」

「お前と一緒にするな、俺のは一般論だ」


 いい加減、この会話に突っ込まずにいられるわけもなかった。

 さっき感じた優しさのようなものは彼女の思い違いで、男どもは一秒も考えずに喋っているんじゃないかと疑惑が浮上。

 心なしか銀髪の合間に生えた猫耳も、ぴくぴくと痙攣している。

 狩猫人というのは難儀な亜人で、他の種族に比べて感情の波が表に出やすいのだ。はたと馳馬の方に目を向ける。

 あぐらをかいた足の脇に、一冊の紙の本があったのだ。

 このご時世、流通システムが断絶した関係で物理メディアは珍しい。

 何となく『懐かしく』なって、アクサナはそっと手を伸ばした。

 腕の細さに比べて、肉厚で不格好な亜人の指。

 その違和感のある五指で本をつまみ、題名を読み上げた。


「かちくじん……? やぷ――」

「クスーシャ、その本は速やかに馳馬へ返却してくれると嬉しいな」


 ヒフミは愛称で少女を呼び、静止。

 もちろん、顔は胡散臭い笑みを貼り付けたままなのだが、よく注意してみると、目蓋まぶたや唇の一部がひくひくと震えている。

 ちゃらんぽらんな風を装う割りに、保護者としては真面目な男である。

 目が笑っていなかったので、渋々、馳馬へ本を返す。


「馳馬、愉快犯なら教育の余地があるぞ。一般人はペーパーブックの古典アングラ小説を読んだりしない」


 友人からの絶対零度の視線もどこ吹く風、高辻馳馬は真面目そうな顔で少女へ向き合った。

 不良だ。

 上手くいえないが、断じて見習ってはいけない反面教師が目の前にいる。


「アクサナ、お前も年頃なんだから俺たちに付き合って汚れるなよ。あと二杯目の粥をくれ、頼む」


 少女は、ここまで態度がでかいと大物に見えてくるんだね、と学んだ。

 瞬間的な怒りに頭に血が上る。

 白い頬が赤々と染まり、猫のような耳と尻尾も威嚇するようにぴんと立つ。


「ぼくがこうなったの、誰のせいだよ! そしてどんだけ図々しいんだよ!」

「図々しくなきゃ、軍を辞めて商売敵のところに再就職したりしないもんでな」


 倍近い年の差にもかかわらず、馳馬とアクサナの会話は妙に弾んでいる。

 この男、精神年齢を下げたり上げたりすることにかけてはプロである。

 高辻馳馬はあくまで人間であり、亜人種やサイキックのように超自然的力を持たないが、その精神性は紛れもなく異形だ。

 人間的な価値観、〈ダウンフォール〉後の日本で育った常識を持ちながら、それを放り捨てることにためらいがない。


「社会人としての信用なくしてるよね、それ」


 少女の冷や水を浴びせかけるような言葉に、馳馬は五秒ほど黙り込んだ。

 一応、自覚はあったのか。

 不真面目で駄目な大人リストの暫定一位にあった心の機微は、猫科の亜人の想像力を凌駕する。


「おい、冷静になるな。俺が悲しくなる」

「知らないよ……」


 なんだか怒鳴ったのが馬鹿らしくなって、肩を落とす。


「クスーシャ、食事中に怒鳴るのはマナー違反だ。つばが飛ぶし、見苦しいし、うるさい。いいことがないですよ」

「じゃあ、馳馬を拾ってこないでよ。もっと常識がある人がいいな、茜さんとか」


 二人の職場の同僚の名前を出すと、男どもは地獄の蓋が開いたかのごとく沈黙した。

 その顔色が、面白いぐらい青ざめていく。

 二杯目の粥を椀に貰って犬のように顔がほころんでいた大男が、今や悪鬼のような表情、陰々滅々たる調子で声を絞り出した。


「服は『着せられるもの』だとか、真顔で抜かす女が常識的なわけねえだろ」

「新藤さんを参考するのは止すんだ、人類が滅ぶ」


 およそ女扱いどころか人間扱いされていない。

 これって職場の陰湿ないじめって奴だよね、とアクサナは思う。

 じろりと一睨み。

 軽蔑の目線を送ったが、いい年こいて男二人は醜態を隠そうともしない。

 それが侮蔑や排斥ではなく、純粋に本能的恐怖からの態度だと悟るには、アクサナは経験や知識が足りなさすぎた。

 件の人物が、少女の前では親切な大人を演じていたこともあり、大いに誤解が広がる。


「ああもう、いいよ。二人とも面倒くさいなあ!」

「クスーシャは、流石に年上への配慮が足りないと思うな」


 いきなり真顔で諭してくるものだから、アクサナはますます腹立たしくなって、憎まれ口を叩いた。


「ヒフミこそさ、いい加減彼女の一人も作ったら? 」


 いろいろな意味で配慮も思いやりも足りない言葉だった。

 気まずくなった少女は思わず目を反らし、黙々と冷めた粥を口に運ぶ。

 表情こそ何でもない風を装っているが、耳はひっきりなしに左右へ揺れているし、アクサナの動揺は誰の目にも明らかであった。

 情緒不安定、思春期らしい娘である。

 おのれの暴言を口に出してから後悔し、そろそろとうつむいた視線をヒフミへ合わせる。

 塚原ヒフミはいっそ腹が立つぐらいの笑顔だった。


「好きな人ならできましたけど」


 はぇ、と気の抜けた声をもらし、アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは動きを止めた。

 粥をすくって口に運んでいたスプーンが、指をすり抜けてテーブルにぶつかる。

 えらく古典的なショックの表し方だよねこれ、と頭の一部だけは妙に冴えていたが、総じてアクサナは気が動転していた。


「いやはや、人生って複雑怪奇ですね。僕にとっては驚天動地の出来事ですよ」

「――もうすぐ日本沈没するの?」

「無駄に文学的な天変地異ですね。そこは竹の花が咲くと言うべきでしょう」


 後に彼女は、このときの保護者の台詞が何一つ間違っていなかったと知ることになる。








 つまり、天変地異が起きた。











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