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当方、角ありの嫁御を求む  作者: 灰鉄蝸
1章:運命の歯車
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7話「あなたの笑顔に誓うとき」



 目にも鮮やかな景色が広がる、紅葉色の散歩道。



 そのすべてを、視覚と嗅覚と聴覚で思う存分楽しむ。

 優しい赤色、虫や鳥の鳴く声、湿った土と草のにおい。

 人工物の多い街並みの中にあって、少女の歩く公園はいささか場違いだった。

 空を見上げれば、水晶の如く透き通った特大のアーチ。太平洋のはるか先、南半球まで伸びた超弩級の質量と体積の持ち主は、その名を〈異形体〉という。


 琥珀色の瞳へその威容を映すと、由峻ゆしゅんは湿っぽい息を吐いた。

 耳をつく小鳥の鳴き声が心地よい。のんびりした歩調を緩めず、ゆったりと周囲の景色を楽しむ余裕があった。

 由峻は切れ長の眼を細め、束の間の自由時間に酔い痴れる。


 もう自分は軟禁状態ではないのだ。


 あれから一週間。

 北日本居住区へ身柄が移り、引っ越しの片付けがようやく片付いた時分である。

 結局、あの事件で彼女の想像したような事情聴取やペナルティは一切なかった。

 元々、彼女は民間人に過ぎないというのがUHMAの言い分だ。

 おかげで、意外なほど普通に引っ越しするだけで済んだ。

 UHMAエージェントの青年へお礼を言いそびれたと気付いたものの、後の祭りだった。

 もっと話したかったのに、惜しいことをしたと思う。

 そんな由峻が、友人が入院している病院を知ったのが二日前。何とか訪ねたいと我が侭をいったところ、UHMAはすぐに手配してくれた。


 友人の見舞いで来ていたことを思い出し、あまりゆっくりしては悪いですね、と気分を入れ替えた。


 今の服装は、由峻自身の趣味――すなわち私服である。

 まず目に付くのは古風なデザインの帽子。

 灰色の大きなマウンテンハットが、黒髪の頭頂部をすっぽりと覆っている。

 上着には欧州との交易が滞りがちになって以来、値が張るツイードジャケット。

 股下にフィットしたコットンパンツと釣り合う衣装。

 全体的にユニセックスな衣装は、貴重な思春期を母親への反発丸出しで過ごした由峻のスタイルである。

 彼女の母シルシュのそれと真逆の装いだった。



 病院の受付は狩猫人の女性だった。

 同じ亜人とはいえ、ふっと気を抜いたときに出会うと新鮮なものだ。個体差の大きい亜人の容姿だが、彼女の場合、名前の通り、猫のような三角形の耳が可愛らしい。

 といっても体毛の類は猫と違っていて、抜け毛の心配はないから、公衆衛生に関わるような職業にも問題なく従事できる。

 そんな当たり前の事実を周知させ、社会の常識とした先人の努力は無視できない。


 エレベーターで四つ上の階へ移動し、広々とした廊下を歩く。

 規則正しい自分の足音の他、やや早足に移動する医師や看護師、見舞客の姿が見受けられた。

 清潔感のある大きな病院だ。すれ違う病院の看護師には、一目でそれとわかる亜人が何人もいた。


 ドアにかかった番号を見て回り、ようやく目当ての場所を見つける。

 五〇三号室。二度のノック。どうぞ、と覇気溢れる声。ドアを開けると、他ならぬ親友、安藤霧子あんどう・きりこはすこぶる元気そうであった。

 よかったと心の底から安堵し、少女はベッド脇へ駆け寄った。久しぶりに目にした霧子は顔色もよく、亜人の娘はほっと胸を撫で下ろす。

 ここで緩みきった由峻が甘かったのである。

 再会早々、二二世紀型野蛮人は言語野に問題がありそうな台詞を吐き出した。



「――由峻からエロい匂いがする。こりゃ男かな」



 数日ぶりに再会した友人は平常運転、人間として不味い方向にアクセル全開だった。

 そこは由峻も慣れたもので、ほとんどポーカーフェイスに近い、博愛主義者の微笑みは崩れなかった。

 そう、少女の赤い唇はいつだって的確な応答をはじき出す。


「わたし、帰っていいですよね」







 熱い。

 うまい。

 中華麺をすするよろこびは忘我の境地。

 塚原ヒフミは新東京のラーメンショップを梯子はしごし、四杯目を平らげていた。

 レベル2の超常種ともなれば、カロリーやミネラルの収支を肉体が整えるため、多少の不摂生は問題ではない。


 鶏ガラの出汁が利いた醤油ラーメン。

 前世紀の混乱が終結して以来、食糧事情の改善もあってか食文化は再構築されている。

 この如何にもといった風情のラーメンもその一つで、ヒフミにいわせれば「中華蕎麦というべき味」の逸品であった。

 四件目にして当たりを引いた、大変結構。

 懐古主義的だが、シンプルな醤油ラーメンが一番だな、と頷きつつメモに感想を書き込む。


 余韻に浸る時間はなかったので、すぐさま店を出た。

 途端、鼻に飛び込んでくる人間の生活のにおい。

 街を歩く人間の数が、ゴーストタウンの類とは桁違いなのだ。当然、人々の体臭が通りに充満している。

 肉体が再生してからこっち、鋭敏になる一方の五感を実感し、ヒフミは浅い溜息をついた。

 仕事柄たっぷり嗅いだ、血肉や排泄物、腐敗したタンパク質の悪臭に比べればどうと言うこともない。


 さて、どうしたものか。

 といっても、先日の事件のことではない。


 あれはもう決着している。生け捕りにしたエクゾスケルトンの搭乗員の扱いで、あの部隊の隊長とは話をつけていた。

 穏便な線で手を打った、と思う。

 基本的に向こうの存続に有利な条件を呑んだのだが、これには理由がある。

 そもそも彼らは一度、一〇年前、とある超人災害で壊滅同然まで損耗した部隊である。ようやく部隊を再建できたところで必要以上に追い詰めるのは、UHMAにとって不利益だった。

 日本海を挟んですぐ傍に神話主義者の根拠地がある以上、国内への主義者の侵入は避けられない。

 敵に取り込まれた治安関係者が出るのも避けられないことだ。

 尤も、あの気の毒な隊長は、これから責任問題でてんやわんやだろうが。

 そのとき、右耳のイヤホンが姦しい女の声を吐き出した。


『こちら進藤茜。塚原くん、頼まれてた件、調べ終わったよー』

「どうでした?」


 使っている端末は私物であり、この通信はUHMAのログには残らない。

 本来、暗号化されたデジタル通信しか受け付けない端末へ向け、茜自身がすべての情報処理を担って電波を飛ばしているからだ。

 極端な話、彼女と話したければ、バッテリーとアンテナの残っている端末一つあればいい。

 基地局や通信衛星がなくとも、デタラメな異能でそれを補ってどうにかしてしまうのが彼女だった。

 社会的なインフラを個人で賄えるのだ。個人的な用件を頼むなら、これほど心強い相手もいない。


『結果は白。毎年の健康診断もキチンと受けてるし、ちゃんと病気になって受診してるよ。この分じゃ普通の人間だと思う』

「どうもすいませんね――となると、安藤霧子が護衛に回された理由が不自然です」


 身体的な差異、異形の肉体器官によってそれとわかる亜人と違い、超常種は見た目では人間と変わりない。

 もちろん超常能力を使った事件の一つも起こせばすぐにそれと知れるが、皆が皆、わかりやすい異端になるわけもなかった。

 いわゆるレベル1、レベル2などの超常種の危険度等級は、こういった自覚のない超常種を見つけ出し、管理する上での指針である。


 その具体的な探知方法として有効なのが、医療機関の受診記録の検索だった。超常種独特の生理機能、遡航再生によって肉体の不備が治癒する関係上、彼らは極端に健康だ。

 たとえば義務教育の期間中の若年者、毎年の健康診断がある労働者は比較的わかりやすい対象だろう。

 彼らの場合、なにか異常があればすぐに医療機関が把握してくれる。

 個人の自由と社会の秩序。よくある二律背反だ。

 その完璧でも完全でもない予防の網から零れ、暴走した怪物を処理するのが、ヒフミたちUHMAエージェントの職務であった。


 とはいえ、超常種ならではの窮屈さは彼らにもある。

 まず肉体の再生遡航の関係上、サイキックは簡易なインプラントの恩恵が受けられない。

 顎骨に埋め込む通信装置すら利用できないから、アナログな方式――通信デバイスやセンサーユニットを使った情報送信を用いるのだ。

 軍の秘密作戦の類で、超常種が動員されない理由の一つがこれだった。最初から取れる選択肢が限定されてしまうし、場所によっては目立ちすぎる。

 イヤホン越しの茜の声は、いつも通りの暢気な調子だった。


『賢角人の手回しじゃないの。まあ、どういう事情は知らないけど。あの亜人の子の関係でしょ、ご執心なんだね。あたしの予想も大正解?』

「恋愛がどうこうって与太話ですか。それこそまさか」

『わざわざプライベートに新東京へ赴いて、ねぇ。ストーカーは被害者の心に深い傷を残すから謹んでねー』


 つくづく遠慮のない女だと思う。

 ヒフミの友人、馳馬は下品だが超えるべきでない一線を弁える男だが、茜は違う。

 子供がカエルの尻にストローを突っ込むように無邪気で、どこか歪んだ言葉を投げかけてくる。

 ヒフミはそんな同僚が苦手な一方、突き放しきれない魅力を感じていた。


「ストーカーって……正直なところ、今回の遠出は後始末みたいなものですよ」


 ふうん、と応答したっきり黙り込む茜。

 どうやら興味を無くしたらしい。基本的にヒフミが弄られて終わるあたり、二人の力関係が如実に出た会話である。

 その間、ヒフミは結構な距離を歩きつめた。気付けば、駐車場に置き去りにした自動車の前に到着。

 そこで唐突に話題を切り出したのも、やはり茜だった。


『この躰は本当に自分のものなのか、たまにわからなくならない?』


 ヒフミは声に応じない。

 生身でも通信でも、何度となく繰り返してきたやりとりなのだ。

 お互い、わかりきったものである。茜も返答など期待していなかったのか、一拍おいて好き勝手に喋り続けた。


『あたしたち超常種はみんなそう。暴走しない限りその力へ人間へ向けようとしない。レベル3ともなれば、都市や国家の支配者を気取るのだって簡単なのにね。色んなサイキックを見てきたけど、皆、人格に関係なく行動原理が変容する。博愛主義者でもないくせに"人間のために"生きようとして』


 最近思うんだけどさ、と一拍おいて。


『あたしたち、まるでハイヴを守るミツバチみたいだよね。』


 彼らは身の置き場のない漂泊者などではなく、最初から、外敵を駆除する機構として生まれた仕組み(システム)なのかもしれない。

 そう茜は言っていた。わけもなく不安を覚えて、自動車のドアへ引っかけた指の動きを止める。


「……超常種が飢餓も疾病も無視できるのは、人類に奉仕するためだと?」


 超常種という少数派が、人間の規範から逸脱したのではなく――人類という種族そのものが取り返しのつかない変容を遂げている可能性もあるのだ、と。

 もしそれが事実であるならば、と仮定したものの、ヒフミにとっては思い悩む話題ではなかった。

 彼は本質的に観察者なのだ。

 家族や友人のような関係性があって初めて、人間じみた情動が発生する。だから淡泊な呟きだけを返した。


「今日はいやに暗めの話題ですね」

『ごめんね、好奇心。これからもっと失礼で最低のこと聞くし』

「謝る気ありませんよね、それ。手早くお願いします」


 ヒフミは平常運転の茜に安堵すら感じていた。

 心を掻き乱されることもなく、肉体の命ずるがまま美食の享楽に耽るひとときもいいが、やはりこうでなくては。

 塚原ヒフミは、多分にトラブルを楽しむ類の人種である。

 ゆえに、残酷な問いかけを聞いても心は揺れない。


『ぶっちゃけ惚れてるでしょ、あの由峻って娘に。じゃあ、脳味噌を吹っ飛ばされても意識がある塚原くんに、自分自身の愛情なんてあるの? あなたの自我の置き場はどこにあって、その躰は何を主体に活動しているのかな』


 馬鹿に哲学的だな、と思う。与太話にしては重すぎるが、茜にしてみれば当然の疑問だったのだろう。

 超常種は社会的にも物理的にも人類の範疇を逸脱した生命であり、その異形のあり方は肉体機能に由来している。

 だが、いくら彼らといえど限度はある。通常ならば――つまりヒフミは例外中の例外だ――脳やそれに類する重要器官を失えば、遡航再生による肉体の復元も止まる。

 その意思が掻き消え、意識の一欠片も残さずに霧散していく終わり。

 それが超常種にとっての死だ。

 割りと繊細な問題だったが、ヒフミの答えは決まっていた。

 なにせ彼は一途な男なのである。年下の女の子を好いてしまっても構わないと考えている。


「さあ。好きだから関係ない――って言い切れたらよかったんですけどね。いやはや、正直、難しいところです」


 無論、青年は葛藤の分だけ断言は避ける質であった。

 小賢しい言い回しだったせいか、茜の白けたような声が返ってくる。


『女々しいなあ』

「女々しくないと人間やってられない体質なんです。ご寛恕かんじょを」


 彼は未だ、自身の立場を決めかねているサイキックだ。

 遠い未来、人類が辿る運命を選択できても、自分自身のこととなるとてんで駄目だった。

 少しでも人間へ近づこうと足掻くのか、生来の超常種として生きるのか。

 一〇年以上前、あの古城の史跡で少女に問いかけられたときの返答すら忘却してしまった。


『屈折してるねぇ。まっ、あたしはそういうところが面白いと思ってるんだけどね』


 それっきり茜の声は止んだ。

 イヤホンは沈黙し、人混みの雑音だけが耳に届く。我ながら仲がいいのか、悪いのかわかりかねる女人だった。

 古人曰く、女心と秋の空――要するに天候不順みたいなものである。

 これを雅と楽しむ趣味人ではないので、そういうものかと納得するしかない。


 自動車のドアを開け、運転席へ座り込む。モーターを起動させると、ナビゲーションシステムに目的地を問われた。

 そこから先はほとんど自動的。胸の端末から目的地を転送、受理される。

 向かう先は、治安関係者の利用する総合病院だ。そろそろ、彼女を迎えにいかねばならない。









 結局、見舞いらしい空気だったのは最初の挨拶だけで、病室から出る頃には気安い友人同士の会話に戻っていた。

 おそらくそれが、霧子なりの気遣いなのだ。

 そして彼女たちは似たもの同士の友達だから、お互いの隠し事を突かぬまま、楽しく話すだけでよかった。

 どこか達観した距離感あっての友誼ゆうぎだった。

 角による情報リンクを通じ、不穏な連絡が来ていた。

 病院の一階に待ち受ける影をおくびにも出さず、由峻は歓談を終えた。病室から出て二〇歩、エレベーターを用い一階まで直行。

 病院の一階とはいえ、相当な規模の施設である。

 広々とした待合室に隣接して、軽食を出すカフェや雑貨屋、ネットワークへの有線接続コーナーが設置されており、老若男女、種族を問わず利用者がひしめていた。

 今や無線通信インフラは、〈ダウンフォール〉後の時代では限られた地域の特権だ。

 二一世紀中の混乱中、神話主義者や超常種の破壊活動によって、無線通信が妨害されたこともあり、公共施設には有線接続デバイスの設置が義務づけられている。

 その雑多な人々の中を見渡すと、目当ての人物はすぐに見つかった。二メートル近い巨漢の上、牧神パーンのような白亜の山羊頭などそういるものではない。


「いったい何の用ですか、イオナ」


 思わず、声が固くなっていた。

 当初の用事が済んだ由峻を待ち受けていたのは、最も苦手とする男との対面であった。

 イオナ=イノウエはすこぶる上機嫌で、にこやかな笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。

 淡い若草色の着物と黒い羽織姿、どうやら最近は和装がブームらしい。

 老いぼれを自称するわりに筋骨隆々、筋肉の塊のような肉体は健在であった。近寄ってこられると中々、威圧感がある。


「強いて言うなら雑談だ。そこの喫茶店でいいかね」


 カフェは照明の明るい、清潔感を強調した店舗だった。

 あまり由峻の好む雰囲気の店ではなかったが、自分の後見人でもある男の願いとあっては無碍に断るわけにもいかず、気乗りしないまま奥の席に座る。

 ただでさえ第一世代の異相で目立つのである。せめて少しでも目立たない位置を取りたいのが人情だろう。

 クッションに豊かな臀部でんぶを沈ませ、マウンテンハットを膝の上にのせた。

 わざと硬くしてあるのか、少しお尻が痛い。肉体の異形性が稀な由峻など良い方で、元々、お世辞にも日本的体格とは言いがたいイオナは窮屈きゅうくつそうだった。

 由峻はアイスコーヒーを、イオナはブラックを頼み、向かい合うようにして席に着いた。


「さて――ひとまず無事、転居が済んだようで何よりだよ。私としては、もう一波乱ぐらいあるかと思っていたのだが」

「ぬけぬけと。何のために予防線を張ったと思っているのですか」


 由峻は人類連合へ引き渡される前、母の記憶から引き出した知識を元に、新型の操縦デバイスの設計データをばらまいたのである。

 現行品より三〇年は未来の代物だった。

 肝心な部分だけ、意図的に抜いてあるのがミソで、実現性が高いと知れた時点で大事になったのは言うまでもない。

 その取り扱いを巡り、様々な勢力の思惑が入り乱れ、結果的に手を出した組織のすべてが消耗した。

 つまるところ、先の襲撃は敵にとっても最後の手段だったのである。

 最早、由峻へ手を出せる余力のある組織は残っていない。


「君のやり口は褒められたものではないな」

「あなたの教育については感謝しています。あるべき権利に足りない分は、自分で買い戻すしかないでしょう」

「……色々と教育を間違えた気がするな。君の父御に合せる顔がない」


 しばらく顔も見ていない父親――アラスカに亡命してそれっきり――のことを持ち出されても、由峻の微笑みはゆるがない。

 主義者の亜人アニラに襲撃され、ヒフミを助けるため停滞フィールドを展開して以降、自身に生じた変化が原因だった。

 これまで培ってきた人間性、ある種の贅肉が削ぎ落とされ、透き通っていくかのような精神の変調。

 母の人格情報との混濁が、情動に影響を与えたらしいとまでは理解できていた。

 魂が水晶に包まれていくかのような錯覚。

 それもいい、と思った。

 心のどこかが、際限なく非情に染まっても構わない。


「意外ですね。あなたにもそんな感情があったのですか」


 やや皮肉げにそう言っても、イオナは怯むことなく饒舌じょうぜつに応じてみせた。


「ふむ、君の前では見せないようにしているのでね。そもそも我々、亜人は進化の軌跡を辿ることなく、人類の叡智の上澄みだけを取り込んだ種族だよ。感情表現は、すべての知性体にとって必要不可欠なものではない。あれは人類の発達させてきたコミュニケーションツールの一つだ。個々の脳を連結するハイヴ=ネットワークを持つ賢角人や、超常種は事情が違う」


 そのとき、注文した品が出来た、とカウンターからの声。立ち上がろうとしたイオナへ「わたしが行きます」と告げて立ち上がる。

 転院の目線が一瞬、由峻の大きな角へ向いた。この恥ずかしさだけは慣れないな、と思う。

 二人分の注文を受け取って戻ってくると、老人は物珍しげにこちらを見ていた。

 小首を傾げながら、彼の分のコーヒーを渡す。イオナは上機嫌でこれを受け取り、砂糖も入れずに熱い中身を啜りはじめた。

 どうやら由峻に親切にされたのが嬉しかったらしい。

 変なところで愛嬌のある老人だった。少女がアイスコーヒーに口をつけ、一息ついたところを見計らい、イオナは再び喋り始めた。。


「……さて、我々の体組織、結晶細胞は究極の記録媒体だ。本来、DNAに束縛される肉体構造を変容させ、亜人という、拡張性と多様性に富んだ種を短期間で確立させた。しかも高純度構造体に至っては、この宇宙の熱収支を覆す能力まで持ち合わせている――重要なのはこの二大要素だよ、君。我々は〈異形体〉によって加工されたホモ・サピエンスの亜種だが、そうではないにもかかわらず、同じ特徴を持った異種もいるのだ」


 獣頭が見ているのは眼前の少女ではなく、どことも知れぬ遠い場所だった。

 まだ見ぬ地平へと投げかけられた視線の先は、由峻にもわからない。どこか遠い場所ばかり見つめている男だ。

 目の前の自分を見もせず、そのくせ関わってくる彼のことが、導由峻は苦手だった。

 イオナ=イノウエとて、なにも悪巧みばかりしている人間ではない。

 むしろ饒舌に物事を人に教えるのが大好きな、ある意味、厄介な教師でもあった。


「サイキック、進藤茜の熱量障壁などはその際たるものだな。あれはプラズマに近い状態で固定されてはいるが、突き詰めれば彼女の肉体の延長に過ぎん。その構造物を制御するための器官、維持するためのエネルギー。違法建築のように増設をくり返し、数多くのプロセスを踏んだ末の形態だ。どれほどエネルギー効率の悪い現象だろうと、必要な出力を用意できるなら実現する。超常種の肉体は、独立した一つの宇宙と言ってもいい」


 その末が前世紀の大崩壊、〈ダウンフォール〉による大量死だ――そう告げると、不意にイオナがこちらを見た。

 宙へ向けられた眼差しが自分を射貫くのを感じ、その緊張に心臓の鼓動が早くなる。少女の白皙がやや俯く。樹脂で出来た安っぽいテーブルに目線が落ちるだけで、逃げ場はなかった。

 ここから先は、お前にも関わりがある。そう告げる無言の眼差しだった。


「由峻、文化は生活によって変容し淘汰されていく。しかしね、ごっそりと人間が消え失せたとき、そこにあるのは淘汰ではない。二度と戻らない、無意味な喪失だよ。ホモ・サピエンスは、過去一万年以上に渡る情報の蓄積、文明社会というアドバンテージを失いつつある」


 無論、そうなるようにユーラシアの神話主義者たちが手を回したのは想像に難くない。

 その原因が人間同士に殺し合いになるよう、あおり立てるのが彼ら好みのやり方だ。

 飢餓と貧困と不満をたっぷり味わい、現状を打破する方法を提示されれば大半の人間は飛びつく。

 そこに国家や民族や人種の差異はない。平等なる地獄、ホモ・サピエンスの野蛮さと愚かさを証明し、自らのイデオロギーを正当化する主義者の余興。

 その状況をイオナたち、穏健派が利用したのも必然と言えよう。

 人間同士の紐帯よりも濃く、はるかに有用な隣人として、亜人種は国家へ浸透していった。


「そうやって追い詰めすぎた結果、超常種が生まれたのです。亜人種の生存を担保してくれるのは今や、安定した文明社会……人間への差別や迫害は百害あって一利なし、というべきでしょうね。だからこそ、あなた方、第一世代の長老たちは文明を復興させた」

「左様。尤も、我々にとって都合のいい形に作りかえたことは否定しない。今後の千年間は資源に困らない世界だ、何の異議もあるまい――そう浅はかに考えていたら、二二世紀はこの様だったがね。とはいえ、由峻。我々が提示したのは選択肢にすぎない。かつて人間は、どんなに信じられなくても人間を信じて生きるしかなかった。それ以外の選択肢を示されたのなら、どちらを選ぶのかはそこに生きる人々の自由だ。そうあるべき姿、イデオロギーなどありはしない」


 長すぎる口舌を前に、常々、由峻の抱えていた反発が首をもたげる。

 懐に忍ばせた刃を抜くように、言葉を発して問いかけた。


「死と混乱に乗じて、一つの国を乗っ取るようなやり方に選択の余地があったというのですか?」

「人口の半分近くが死ねば、それまでの社会構造は維持できなくなる。人間が自力で立ち上がる姿は尊いが、その間に消えていく命が必要な犠牲だったことなどないさ。しかし君の言うことも尤もでね。人類連合、ひいてはそれを運営する我らの有り様は、隔絶した武力を背景にした侵略そのものだ。だが……地球人への侵略や征服で、我々が得られる利益など存在しない」


 結局のところ、人類という枠組み自体に同胞愛などないのだと、この老人は言い切るだろう。

 であればこそ平和と秩序の維持を以て、人類を安定させねばならないのだ、とも。


「彼の〈ダウンフォール〉によって多くの民族、文化が断絶した。残存している文化は出来る限り保存されるべきだと、穏健派〈異形体〉は考えている。文化の受け皿としてのみ人間の価値は担保され、前世紀の難民焼却のような事態は避けられる、と。だが、それだけでは足りない。一二〇年もの時間が経てば、当初の理念や武力だけでは足りなくもなるさ――調停者が必要なのだよ」


 由峻はこのとき、本当に救いようもない地獄を見た気がした。

 もし地球人類が己が種族の尊厳死を望んでも、その意思は決して省みられない。

 その善意の牧場を望み、推進してきた集団こそ、由峻やイオナの属する亜人だった。突出した一代限りの才能を、大脳と直結したハイヴ=ネットワークによって共有し受け継ぐ種族。


 白皙に汗一つ浮かべず、己と対峙する亜人の娘。

 その成長した姿を好ましく思い、イオナ=イノウエは好々爺然とした佇まいで笑ってみせる。

 真っ白な山羊面に浮かぶのは、心の底から人類を愛して止まない純粋な好意。




「君が真にその力を有益に振るいたいのであれば。私と共に来たまえ――我らは賢角人ホーンド・ワイズマン、人類のため献身と奉仕に生きる種族だ」




 少女の黒髪が、顔の上下に合わせて揺れる。

 細められた両目に宿る瞳は透き通った琥珀色で、真実を欲するように炯々《こうこう》と輝いている。

 口を突いて出てきたのは、胸中のそれよりも、はるかに穏やかな言葉だった。


「何故、そこまで傲慢でいられるのです。わたしには、彼らの上位者になりたい気持ちなどありません」


 イオナが、間を取るようにしばし黙り込む。

 由峻が思うに、彼と彼女は根本的に思想の前提条件が違うのだ。

 人間の世界が滅んでいく景色を見てきた老人と、緩やかな共生を謳う秩序の下、軟禁生活を強いられた彼女では、経験してきた事物が異なりすぎている。

 にもかかわらず、その齟齬を埋める手段、賢角人の角の恩恵――情報共有を使わず、言葉でやりとりしていること自体、イオナの意図の一つに違いなかった。

 人間的な思考、人間的な意思疎通、人間的な価値観の相違。

 その差異を観察したがっているような気がした。


「こう考えてみてはどうだね。我々は本質的に人間とは違う生き物だ。ゆえに、その利害を超越して手を差し伸べられる存在である、と」


 イオナはそういって、屋上から見える〈異形体〉へ視線を移した。

 太平洋を真っ直ぐ横切る水晶のアーチ、結晶細胞の群晶クラスターとは、すなわち地球最大の異種知的存在のハードの一部だ。

 その美麗な全容がよく見渡せる澄んだ空さえ、今の少女には禍々しいものに見える。赤道を跨いで地上に君臨する、天から降ってきた水晶の器はどこか無気力だ。

 生命を殺し、文明を壊し、終焉の審判を待つかのような絶対者。


「人間の作る集団は、どれだけ力を持とうと、他者と次元が違う強大さには至らない。いつか必ず、衝突する相手が出来る。足下をすくわれた瞬間、強者の慈悲は傲慢へ堕ちる。人類愛、地球市民のような言葉が虚偽になるのは、人類という種の作るコミュニティの必然だ。本当の意味で公平な世界秩序、自己保身を考えるまでもない調停者になりうるのは――少なくとも人間ではない」


 イオナ=イノウエは歴とした亜人種であり、人類とは違う種族である。

 躰も、脳も、そこに宿る心も、人の近似値であって人間そのものではない。

 人間がいなくても幸せに回る仕組みを素直に信じられるのは、彼自身がその薄ら寒い景色に違和感を感じないからだ。

 頭部の山羊角が、いやに重たく感じられた。

 その重量に引きずられるように顔を上げ、視界に映らぬ海の彼方を思う。

 日本海と東シナ海の空を埋め尽くし、ユーラシアへ落下した〈異形体〉の尖兵を阻む、無人兵器の防御網。

 その恩恵はじりじりと人類の生存領域を取り戻しつつあり、いずれは過激派〈異形体〉の被支配地域を解き放つだろう。


 一度も、人間の意思と献身を必要とせずに。


 それが一〇年後になるのか、五〇年後になるのかはわからない。一つだけ確かなのは、人類の自立すら必要ない楽園が待っていることだけだ。

 何度も何度も、自分になにが出来るだろうかと問い続けてきた。そして今、少女の心は波一つなく穏やかだった。

 たぶんきっと。

 由峻が子供の頃、少年の姿形を胸に刻んだとき、結論は出ていたのだ。


「わたしは、あなたの言葉を甘受するわけにはいきません。その物言いも、その理想も、人の命を手段に貶めてしまう。ロマンチストなのは結構ですが、わたしたちはいつから人命を売り買いする悪魔になったのです?」


 導由峻は微笑みを崩さず、ただ琥珀の瞳を炯々と煌めかせておのれの意思を叩きつける。

 そこに迷いはなかった。


「あなたが賢しげに語る、最良の管理者なしでは存続も覚束ない理想世界ユートピアになど用はありません。よしんば、あなたの言葉が正しいとしても同じことです。何の思索も経ずについていくほど、わたしは安い女ではありませんよ」


 穏やかな退嬰と平和のうちに、すべてが不可逆の変貌を遂げる未来。それが認められない由峻は、どのみち、ここで彼の手を取るわけにはいかない。

 由峻にとって、イオナの露悪的な言葉はどこまでも相容れなかった。

 その有り様は信仰に似ていた。救いのない現実への抵抗として――綺麗事を選びたいと強く思う。

 それは賢角人の長老たちの言うような、人類の理想的管理とは異なる祈り。

 現実主義の対極にある、少女の抱いた無垢な欲望だ。導由峻はもう無知ではいられない。


 この命を使って、その信仰を貫こうと決めたのである。


 獣頭の老人が笑みをこぼした。

 仕方ないな、と諦めるような笑み。

 それは今まで、由峻が見たことがない類の表情だった。

 まるで雛の巣立ちを見守る親鳥。

 畳み掛けるように決別の言葉を投げかけようとした刹那、山羊面が心の底から愉快そうに歪む。


「ちなみに、今の私の台詞は、シルシュがよくいっていた決まり文句でね。君自身の嘘偽りない決意が聞けて嬉しいよ」


 不意打ちのような暴露だった。


「……謀りましたね」


 うめくように呟き、呆然とする少女。

 さながら鋼の刃のような半眼で老人を睨みつけた。

 自分の切った啖呵の恥ずかしさのあまり、知らず、頬に赤みが差してしまう。

 白皙はくせきに血が上り、ほんのりと薄い桃色に色づいた。唇がふるふると震える。これだから、いつまで経っても苦手意識が抜けないのである。


「私の本音ではないということだ。君自身の意見が育っているようで大変結構、ならば好きにしたまえ。私に出来る助力はしよう。ああ、それと。これは純粋に好奇心から訊くのだがね」


 韜晦した、食えない老人といった風情で話すイオナの目つきが一変した。

 草食動物たる山羊の獣頭ながら、人食いの悪鬼を思わせる無機質な双眸。

 その氷のごとき冷たい眼差しに射られても、由峻は動じない。

 皮肉なことにその緊迫した空気によって、少女の動揺は一掃されていた。


「何故、操縦デバイス絡みの騒動を引き起こした? 私が信用できなかったとしても、あれは人が死にすぎた。君が幼少の砌、ヒフミに感化されたのは把握しているが、その清く尊い志は、人の生き血を啜って成し遂げられるようなものかね。これでは綺麗事とは呼べん、最初から破綻しているぞ」

「すべて、わたしの望みのためです」


 感情の上下の感じられない穏やかな声音。

 それが、おのれの喉から発せられたものだと実感できなかった。

 導由峻が信じ続ける理想は、異種であっても各々の幸福を掴める世界だ。

 だが、由峻が実際に選んでしまったのは、大勢の人間の命を淡々と消費する方法であり、その選択すら自身の思考の結果と言い切れない。

 母シルシュと融け合った叡智の泉が、目的への最短距離を辿る道を示していただけ。

 その残酷さを自覚しながら、悪を飲み込もうと決めた。



「母の為した悪行の清算のためなら、どんな悪名も被りましょう。その結果に無粋な言い訳を重ねようとは思いません。それがわたしの流儀です」



 無慈悲な誇りと慈悲深い祈り。

 ある種の二律背反ではあるものの、少女の精神は分裂しておらず、ひどく歪な形で調和している。

 二つの相反する精神性こそ、彼女の心の縮図と言っても差し支えない。

 生命や理想を尊ぶ一方、おのれの誇りを以て、自他の命を計量する有り様。

 総体としてみれば、その言動が行き着く果ては明らかだった。冷めたコーヒーを飲み干し、イオナは苦々しげに口を開いた。


「……修羅道だな。血まみれの手を差し伸べて、理想を説くのかね。その誇りと祈りはいずれ、君を焼き尽くす業火になるぞ」

「わたしは、それ以外の生き方を知りません」


そ れはきっと、普通の子供が成長する中で親元から離れるようなありふれた景色。

 三〇年は未来の先端技術――そんな餌に躍らされ、何も得ずに死んでいった情報機関のエージェントたちは、この巣立ちに巻き込まれて死んだも同然だった。

 心身の尺度が違う異種が、人間の作り上げた社会制度の中で生きようとすれば、そのズレは致命的になる。

 内心の憂慮ゆうりょを表に出さず、イオナが飄々《ひょうひょう》と喋られるのはひとえに慣れと年の功であった。


「つくづく難儀な若人だな、嘆かわしい。では精々、シルシュが作り上げたゆりかごへ挑むが――」


 結局、イオナは皆まで言うことが出来なかった。原因は単純、明らかに二人へ近づいてくる足音のせいだ。

 思わず、由峻が音の鳴る方へ顔を向ければ――そこには特徴的な胡散臭い笑み、一つ。

 一九三〇年代に陸軍将校でもしていそうな丸眼鏡、UHMAの制服の上から羽織ったグレーのコート。

 それは忘れたくても忘れられない、少女の生の転機となった青年だった。


「塚原さん?」

「お久しぶりです、お二人とも。お邪魔しちゃいましたかね」


 わずかに両目を見開く由峻へ向け、にこやかに笑ってみせるヒフミ。

 ほとんど一緒にいた時間がないというのに、すでに旧知のように気安い物言いであった。

 二人の間にある独特の距離感に当てられたのか、イオナは席を立って退散しようとしている。


「おやおや……老人は退散するとしよう」

「先生、ご自身のコーヒー代は出してくださいね」

「師への敬意が微塵も感じられんな」


軽口に対し、ヒフミは嫌そうに顔を顰めた。


「うちの制服はともかく、スーツと下着を買い直す羽目になりましてね。せめて僕の財布に優しい振る舞いをしてから言ってくださいよ」

「そのための高給取りだろう。羨ましい限りだね」

「他人事風に喋るのはよくないですよ、ええ」


 はて、と惚けるイオナだったが、二人の間では慣れたやりとりだった。

 そもそもヒフミの感情表現の類は、この老人の立ち振る舞いを基調としている。

 幼少の頃から覚醒した超常種であるヒフミにとって、人並みの情動とは他者の模倣だ。思春期の間も影響を受け続けた結果、今では胡散臭い表情が顔に張りついてしまったのである。


 白々しいやりとりだよな、とヒフミは思う。


 そもそも彼が病院を訪れたのは、イオナからのリークあってのことだ。

 素知らぬ顔で偶然のように演じてみせるあたり、思慮深いと言うべきか、腹黒いと貶すべきか。

 いずれにせよ、師がこの娘に嫌われている理由は何となく察せられた。ひらひらと手を振ってカフェを出て行く老人を尻目に、青年は口を開いた。


「本局の方で色々あってですね。僕は当分、あちこち飛び回る本業をお休みして、あなたの近くで待機することになりました。まぁ専属ってことになりますね。UHMA超人災害対策官、塚原ヒフミです。改めてよろしくお願いします」


 努めて平静を取り繕ったつもりだったが、失敗しているらしい。

 由峻の端正な顔に罪悪感らしき影が落ちていた。


「わたしのせい、ですね」


 そもそも、ヒフミが通常の業務から開放されたこと自体、尋常な事態ではない。

 人類連合調停局の対策官が配置されたのは、それだけ彼女が重要視され、潜在的に超人災害と同等の危険度を持つと判断されたからである。

 少なくともヒフミは嘘偽りなく、少女の危険性を報告書に書き記したし、上もそれを懸念事項として深刻に受け取めた。

 とどのつまり、よくある話だった。


 彼らは普通の幸せを掴むだけで、奇蹟のような巡り合わせを要求される生き物だ。だからこそ、塚原ヒフミは超人を殺す超人となり、導由峻は血まみれの求道を選んだ。

 ヒフミは先日、由峻を押し止めたと満足した自分をぶん殴ってやりたかった。

 現実は真逆なのに。

 すでに少女は取り返しのつかない選択を済ませてしまっていて、そこに青年が介在する余地はない。

 視界へ混じる異物を感じ目線を動かす。

 するとこちらを気遣うように、少女の右の手のひらが頬へ伸ばされていた。

 優しげな表情の由峻が、白魚のような指でヒフミの頬を撫でる。


「そんな悲しい顔をしないでください。すべて、わたしが決めたことです。怒り、憎まれこそすれ、哀れみを買うほど愚かではないつもりです」


 奇妙な誇り高さを感じて、ヒフミは何とも言えない気持ちになった。

 その部分は変わらず、彼の好きな娘の立ち振る舞いだったからだ。

 近すぎる距離は健全ではない気がして、指から逃れるように身を引いた。

 ようやく自身の大胆な行為に気付いたのか、少女の白い頬に赤みが差した。雑念を振り払っているのか、頭を振るたびに立派な山羊角が目だった。

 ヒフミは困ったような笑顔を仮面にして、どうにか口を開く。


「この感情は、僕の我が侭の産物です。未熟で至らない身ですが、大目に見てください」

「では、その……照れくさいので、そういう取りつくろった口調をやめてくれますか」


 急に調子を変えた由峻が、ずいっと顔を近づけてくる。

 思わずのぞけった。

 つい先日の騒ぎの時には見られなかった仕草だった。

 あのときは無防備な感じがしたとはいえ、基本的に清楚な振る舞いだったはず。

 嗜虐性癖者の片鱗が垣間見えたのはご愛敬。

 ここまで踏み込んでくる娘だったろうか。

 そのとき、出し抜けに既視感デジャビュを感じた。

 あれはそう、十年以上前の記憶――古い城の史跡で出会った少女は、こんな風に小悪魔めいていた気がする。

 ヒフミの中で作り上げた偶像アイドルが打ち砕かれ、生身の女の子の息遣いが滑りこんでくる。

 鼻に飛び込む吐息からはミントの香りがした。

 途端、少女の琥珀色の瞳が冷たい色を孕んだ。


「塚原さん、ご自分のはしたなさを自覚した方がいいと思います」


 やや申し訳なさそうな声と裏腹に、由峻が半眼でこちらを睨んでくる。

 自分の色々と間違ってる五感の働かせ方のせいだろう。

 正直、自分でもどうかと思っている部分だけに否定できず、ヒフミは真顔で謝意を表明しようと決意。

 すなわち自爆である。


「公衆の面前で土下座までなら、喜んで」


 前時代的かつ伝統的な日本文化、腹切りめいた儀式と言えよう。

 それを聞いてどう思ったのか、由峻は呆れたように溜息をついた。


「塚原さん、いきなりプライドを下限まで放り捨ててませんか」





 その後、カフェを出た二人――支払いはヒフミが受け持った――は、今後の規定について細々と話し合った。

 ヒフミの配置は、由峻の行動を制限するものではなく、あくまで彼女に身に降りかかる不測の事態に備えたものである、と。

 勿論、それが建前なのは二人とも承知していたが、少なくとも軟禁状態に置かれることはない。自身の責務にかけて、籠の鳥にはさせない。ヒフミがそう言うと、由峻はおかしそうに笑ってこう切り出した。


「あなたがどんな経験をしてその道を選んだのか、なにも知らないままです。もっとお話をしましょう……その方が、悲しみも苦しみも後を引きません」

「――ん?」


 おかしい。ヒフミは寒気が止まらない自分の躰を訝しみ、理性的な思考の末、違和感の正体を理解した。

 最後の一言から不穏な空気が滲み出ているのだ。


「なんで、悲しみと苦しみが前提なんだ」

「その方がきっと楽しいですよ?」

「いや、僕にそう言う趣味はない」


 塚原ヒフミは混乱している。

 青年に対して好意的なことだけは伝わってくるのが、より状況を混沌とさせていた。

 由峻は不思議そうな顔をすると、涼やかな声を発した。


「では、言葉でなじられたり、からだで責められる方がいいのですか」

「待った。その解釈はおかしい」


 最早、疑いの余地はない。

 この賢角人の少女は、ヒフミがどれだけ現実から目を背けようと――変態なのだ。

 震天動地の出来事だった。

 ヒフミは空を仰ぎ、わけもなく泣きたくなった。

 待て、こうして心身とも無事に育ってくれているじゃないか。

 それはとてつもない幸運の産物だろう、と膝から崩れ落ちてしまいそうな自身を叱咤しったする。

 わりと一途だった青年の心に、胸が潰れるような痛みが走るのも無理からぬこと。

 男はいつだって夢追い人である。精神的に追い詰められたヒフミが顔を上げると、すでに病院の外だった。


 風が、髪を撫でた。

 その感触に、思わず空を見上げると、抜けるような碧空を背景にして、現実離れした大きさのアーチがどこまでも伸びている。


 地球最大の〈異形体〉トリニティクラスター。

 その三つの足の一つ、極東クラスターが根を張った大地。

 そこがヒフミと由峻の帰るべき場所だった。どちらともなく足を止め、黙り込んだ刹那を見計らい、由峻が口を開いた。


「わたしは母の所業が嫌いです。ですが今、やってみたいことが出来ました」


 その両の瞳は現実の風景を見てはおらず、成層圏の向こうにすらない遠方をすがめ見ていた。

 切れ長の目を細めても映らない、夢幻でしかない場所。

 ここではないどこか。

 はるか古より謳われてきた、海の彼方、見知らぬ理想郷を求めるように。


「……現実離れしているとは思うのですが。わたしたち亜人は、人間と超常種、両方の隣人にだってなれると思うんです。今は無理でも、いつかきっと、そうした方が賢い世の中にしてみせます」


 その行動と理想の矛盾を処理できないまま、由峻はうつむき加減に綺麗事ただしさを告白した。

 自分がただの無力な人間だったのなら、無邪気に信じているだけでよかった。

 だが、導由峻は世界で唯一、〈異形体〉トリニティクラスターと対話できる能力を持った知的生命体である。

 シルシュが世に出さなかった『作』品の知識と合せれば、十分すぎる影響力を確保できるはずだった。

 彼女は否応なく、大勢の人々の暮らしを揺るがす道を歩むだろう。

 だからこそ迷いがあった。

 今以上の地獄を作り出さないと、確証が持てるわけではない。

 だが。



「それでいいと思いますよ」


 青年は穏やかに笑っていた。

 そのたたずまいを見て、思っていたよりずっと彼が若いことに気付いた。

 先日、胡散臭くて信用できたものではないと感じたときと同じ服装なのに、顔に浮かべる笑み一つで印象が変わっている。


「交渉ごとならともかく、自分の中の一番大事なものを諦めちゃ駄目だよ。最初から妥協することありきの理想なんて、誰にとっても嘲笑の対象にしかなれない」


 声に宿る苦い響きは、ヒフミ自身の実体験なのかもしれなかったが、それを尋ねようとは思わなかった。

 何故なら今、少女はかつてなく喜んでいるのだから。

 どうしようもなく嬉しかった。


「それにね。みんながみんな、君のいう綺麗事ただしさの敵になるわけじゃない。昔、人間が作る社会に溶け込みたかったら、人間になるしかないと思った時期もあった。けれど、それじゃ救われない奴らが多すぎる。化け物でもいいなんて絶対に言わせちゃ駄目です。君の信じる理想はきっと、そういう人たちの救いになる」


 あたたかな返答が、祝詞のように導由峻を包み込む。

 何も彼のためだけに抱いた理想ではない。

 だが、囚われの身を嘆くだけの娘にきっかけを与えたのは、紛れもなく目の前の超常種なのである。

 塚原ヒフミに肯定されて。

 少女ははじめて、自分が前に進めたのだと実感していた。

 無力を嘆く幼年期を終え、少しずつ自由を勝ち取り、今ようやく踏み出せるのだと思った。

 そして。



――胸の奥で疼く感情に、名前を与えようと決める。



「あなたは昔からそうですね。出会ったばかりでも、わたしの味方をしてくれます」


 柔らかく微笑む由峻の言葉が、他ならぬ自分へ向けられていると気づき、ヒフミは驚愕した。

 まさか。

 いや、自分が惚れているから相手にとっても特別であるはず、などという思い込みはよくない。

 それでは実に童貞的発想である。悲劇の元だ。

 ヒフミは煩悩を沈めるべく、南無阿弥陀仏を心の中で唱えた。

 当人は冷静なつもりである。阿弥陀仏の慈悲に縋っている時点で台無しだが。

 その様子から青年の錯乱を察したのか、由峻は少しだけ不満そうな声を出す。


「塚原さんは、ご家族に望まれたから人間になりたかったんじゃありませんよね。もう一〇年以上も前のことですけど、わたしはきちんと覚えています」


 強い風に煽られ、烏の濡れ羽色の髪が泳いだ。さらさらとした黒い絹糸の質感。

 亜人の娘が小脇に抱えたマウンテンハットがとどめだった。

 力強く伸びた山羊角を見て、塚原ヒフミはおのれの浅はかさを思い知った。

 お互いが相手の正体を把握しているなど、都合がよすぎると思っていたが。

 結果的に現実を見ていなかったのは彼の方である。


「ええっと……いつから気付いてたんですか」

「教えてあげません」


 たじろぐヒフミを見るたび、由峻の微笑みに喜悦のような色が垣間見えた。

 完全に遊ばれてるよな、と沈痛な顔になった青年は、せめて胸を張って駐車場まで歩こうと固く決意する。

 穴だらけになった男の見栄に残された、なけなしの残骸である。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 はたと足を止める由峻。

 周囲の人影はすべて、超常種としての異能で索敵済みだ。

 何か異常でもあったのかと、思考を対策官としてのそれに切り替える。

 どうしたんですか、と声をかけるより早く、由峻がこちらを振り向いた。



 彼女の赤い唇が発したのは、予想外にもほどがある言葉。


「塚原さん。わたしは欲深で恥知らずな女ですが、誰にでもこんな風に接するわけではありませんからね」


 強烈な台詞だった。

 顔に浮かべる微笑みは、先ほどから一貫してアルカイックスマイルであり、到底、その発言意図の参考にはならなかった。

 考え込むヒフミを横目に、亜人の娘は自由奔放である。

 戸惑うように顔をしかめる彼を見て、仕方ないですね、と呟いて。

 小脇に抱えたマウンテンハットでその大きな二本角を隠し、くるりと躰ごと向き直る。



 そして、どこか頼りない青年へ――無造作に右手を差し出した。



 人を好きになるのは簡単だ。

 天地の森羅万象を敵に回そうと、たった一つの感情だけを信じ続けるだけでいい。

 たとえそれが勘違いや、何者かに刷り込まれた始まりでも構わない。

 恋情の正体が如何なる謀略の産物であろうと、いずれ、感情の昂ぶりを重ねていけば些細な事実に成り下がる。

 したたり落ちるしずくの一滴が、永劫の時をかけ、夏の嵐にも動じぬいわおを削るように。



――人間になりたいって、本当に、あなたがそう思ったの?



 呼び起こされるのは、遠い昔、自分の発した問いかけ。

 あのときの少年の返答は面白かった。冴えない上にズレていたから印象的で、今でも一言一句違えずに思い出せる。



――うん。普通の人間の方が、可愛いお嫁さんを貰えそうだと思う。



 身も蓋もなかった。間の抜けた答えもあったものだと思う。

 それがどれほど、超常種という生き物にとって切実な願いだったのか、今の由峻には痛いほどよくわかっている。

 繁殖欲求はおろか、その必要性すら失った完全なるホモ・ペルフェクトゥス

 当時は冗談だと思っていたから、軽く受け流してしまったけれど。

 自分は浅はかにも、きっと素敵な出会いがありますよ、と分別めいたことを言って。



――そのときは、わたしがお付き合いしてあげましょうか?



 馬鹿な約束をしたものだ。

 ああ、この分では彼は覚えていないのだろう。

 どんな風に距離を詰めればいいのか見当もつかなかったけれど、これが恋なのだと思った。

 イオナと重苦しい会話をした後だというのに、不思議と怖くはない。


 種族の違う青年へ向け、少女は、ほころぶような笑顔を浮かべた。

 春が終われば散る桜花ではないのだと、おのれを誇示するように。





「わたしは、あなたのことをもっと知りたいと思っているんですよ?」





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