それは積乱雲です。
空がくすんだ。一瞬のうちに色彩を失って、僕の眼に降りたった。水の玉が、汗ばんだ僕の首筋をさあぁと駆け抜けた。
突然の雨。時雨? 小雨? 温暖前線。寒冷前線。上昇気流? 下降気流。
さっき習った。復習、だ。受験の入試のためだけの復習。憶えてねえよそんなの、と小声で舌打ちしたのは後ろの席の朝比奈だった。
「憶えてんの、榊」
朝比奈は前のめりになるように僕に話しかけてきた。さかき、と僕の苗字を呼ぶ彼の声に、身がすくむ。
「なにを」
「これ、理科の、復習……」
「憶えてないよ」
ぶっきたぼうな声が出て、心臓が高鳴った。怒らせたかもしれない、彼を。
そうだよな。
朝比奈は大人しく、席に戻った。
昔から、苦手だ。「朝比奈わたり」という珍しい名前のこの同級生が。整った顔で平然と他者を虐げて、それでも時に漠然と、優しく接してくる朝比奈が、僕は苦手だった。
一年生の時から知っていた。同じクラスだったのだから、知らないはずはないけれど、僕は常に彼から好かれるように、もっと言えば嫌われて虐げられないように、逃げてきた。けれどもう限界のような気もする。なにかが溢れそうだ。なにが? 自分にもそれは分からなく、ただ僕はその感情に「怒り」という名前をつけた。今まで押し込められてきた朝比奈への怒りという思いが爆発しそうに震えているのだと、思っていた。
「朝比奈」
「え」
僕は小さく後ろを振り返った。朝比奈が素っ頓狂な声を出す。表情が柔らかい。人を虐げている時の少年の、あの残酷で冷徹な光を、今彼は眼に宿してはいない。
「朝比奈」
「どうしたの」
「俺、お前のこと嫌いだから」
眼が、彼の眼が。冷徹に光る。
「……意味分かんない」
「嫌いなんだ、俺きっと、朝比奈が嫌い」
「なんで? 嫌いにした理由は? 俺なんかした」
「してない。ただ俺が、傲慢なだけだから」
光。朝比奈わたりの目に宿ったそれの正体を、僕は今知った。そして、心臓が引きちぎられそうな思いになった。ごめん、と口をついてでる。
朝比奈わたりは、泣いていた。
「……嫌いとか、意味分かんない。なんで。俺は、ただ、榊」
「うん」
「……いい。もういい」
「ごめん」
「いいから。前向けよ。俺が泣いてるってばれたら、居づらい」
僕は朝比奈の涙の理由を考え考え、そして自分の中にくすぶりつづけた「思い」の理由を察した。「怒り」などには到底届かない、そして似ても似つかない、鏡に映るような真逆の感情。怒りではなかった。それは僕の大切な、そして残酷な何か。僕と朝比奈は、きっともう戻れないだろうと思った。
ただ、関係を。
この関係を続けていくしか、僕らはもう、そばにいることはできないと悟った。
その時にかぎって、僕は先生に当てられ、やり場のない気持ちで言った。
「それは、積乱雲です」
fin
男子をかくことが好きです。楽しいので。