第92話 闇の彼方より
「ゲホッ……ゲホッ……!」
「ココ、大丈夫?!」
強制的な移動に身体が追いつかず、ココは地面へ転がるように着地した。胸から肩にかけて敷石へ強く打ちつけたらしく、咳き込みながら片手を地面につく。〈ストーン・タッチ〉による移動は安全な転移ではない。術式が指定地点へ対象を強く牽引する以上、移動そのものに成功しても、最後に残った速度を自分の脚や姿勢で殺せなければ、その運動エネルギーはそのまま着地時の衝撃へ変わる。
夜月はすぐに手を伸ばしかけた。
しかし、ココを抱き起こすより先に視線が上を向いた。
今は、立ち止まっている場合ではない。
明らかな異常事態が起きている。
当初の作戦には存在しなかった、不測の事態。
敵が何者なのか。
なぜここにいるのか。
どこから現れたのか。
それらは重要だ。
だが優先順位をつけるなら、いま考えるべき問題はもっと単純だった。
――あれを、どう止めるか。
いくつかの〈ストーン・タッチ〉を経由し、天景楼上空から地上へ降りた夜月たちは、着地とほぼ同時に振り返った。
天景楼の上部を覆っていた氷が、白い氷煙を上げながら溶け始めている。
キョウカの魔力によって形成された氷は、通常の自然氷よりはるかに魔力的な安定性が高い。単純に外気温が上がった程度では、あれほど短時間で形を失うことはない。
にもかかわらず。
表面から次々に水滴が生まれ、屋根瓦を伝って流れ落ちていた。
空気が熱い。
いや、ただ温度が高いというだけではない。
上空で急激に加熱された空気が膨張し、その体積を押し広げることで周囲へ圧力差を生み、その差を埋めようとする大気の移動が、熱を伴った風となって地上まで降りてきている。
言ってしまえば、大規模な熱対流だった。
上空で温められた空気は密度を失って上昇し、本来ならその空いた場所へ周囲の冷たい空気が入り込む。
ところが、いま天景楼周辺では熱源そのものが空域を広く覆っている。
一部だけが温められているわけではない。
広い範囲で大気が膨張しているため、逃げ場を失った熱い空気が横方向や下方向へも押し出され、乾いた熱波となって街路を這っていた。
夜月の前髪が、熱を含んだ風に煽られる。
喉の奥が乾く。
空気を吸うだけで、鼻腔の内側がじりつく。
その中心。
天景楼の屋根の上から、「少女」が夜月たちを見下ろしていた。
赤い瞳だけが、熱に歪む景色の中で妙にはっきりしている。
戦いはいつ起こるか分からない。
聖騎士である以上、街中で突然魔獣へ遭遇することも、任務中に予定外の敵が現れることも想定には入れている。
その程度の覚悟なら、誰もが持っている。
それでも。
今回ばかりは、想定という言葉の外側へいくつもの要素がはみ出していた。
少なくとも、三つ。
一つ目。
黒い球体の性質。
複数属性を内包しながら崩壊せず、接触した魔力や物質を分解している可能性がある、未知の現象。
二つ目。
少女本人の戦闘能力。
キョウカやチサトが交戦してなお完全には制圧できず、それどころかこちらの術式構造へ干渉できるだけの出力を持っている。
そして三つ目。
天景楼に生じていた“断層”。
あれが少女の出現と無関係なのか。
それとも。
そもそも、あの断層こそが彼女をここへ通した入口なのか。
考えれば考えるほど、情報が噛み合わない。
断層ひとつを取ってもそうだった。
外側から空間をこじ開けて侵入したのか。
内側から何かが押し広げたのか。
その違いだけで意味はまるで変わる。
もし外部から開いたのであれば、何者かが天景楼を明確な座標として認識し、そこへ空間干渉を行ったことになる。
逆に内側から開いたのなら。
天景楼そのもの、あるいはその内部に存在していた何かが、少女の出現と関係していた可能性まで考えなければならない。
不可解。
結局、その一言へ戻ってくる。
敵の正体すら分からない。
なのに、脅威だけははっきりしている。
夜月の胸中へ重く残っているのは、先ほど雪月花の防御を突破された事実だった。
単純に「防御力を上回る威力だった」というだけなら、まだ理解はできる。
問題は。
あの攻撃が、シールドという構造そのものを正面から受け止めさせず、内部へ食い込んできたように見えたことだ。
防護術式には、通常、外部から加わる魔力を面で受け止め、圧力を広い範囲へ分散する役割がある。
正面から破壊されるなら、こちらも出力不足という結論を出せる。
だが、術式の防御判定そのものをすり抜けられるのであれば。
必要になる対策は、まるで違う。
可能性そのものは考えていた。
しかし。
考えていたことと、実際に対応できることは同じではない。
相手の性質を読み切れなかった数秒間。
その僅かな遅れが積み重なり、すべての選択を後手へ回した。
ココが弓を引けなかったことも、そのひとつだ。
そんな中。
少女の唇が動いた。
「――ようやく見つけたぞ。壁山とおる!」
夜月の表情が変わる。
「……え?」
少女が天景楼の屋根を蹴った。
赤い眼光が宙へ細い軌跡を残す。
夜月たちへ向かってくる――。
そう思った。
だが違う。
少女はこちらを見ていない。
夜月も。
ココも。
周辺に展開している調査隊も。
武装を整えた聖騎士たちさえ。
最初から眼中に入っていなかった。
その視線の先にいたのは。
現在の状況をほとんど理解できていないまま、ただ皆の指示に従って待機していた男。
壁山とおる。
ただ一人だった。
バンッ――!
少女が地上へ降りる。
敷石が衝撃を受け、足元から細かな亀裂が走った。
そこには、ちょうど夜月たちとの合流を急いでいたロックがいる。
少し前まで、ロックは上空の戦況を確認しながら〈ストーン・タッチ〉の再配置を進めていた。もともと天景楼の周辺には複数の術式を散らしており、高所、屋根、地上、外周という異なる高度や方角を結ぶことで、誰かが追い込まれても別方向へ逃げられるよう複数の退避経路を確保していたのだが、上空へ黒い球体が出現した時点で、その配置の一部は安全地帯ではなく危険地帯へ変わっていた。高速移動の術式は便利であっても、移動先そのものが敵の攻撃範囲へ入ってしまえば意味がなく、逃げ道として用意した座標が、そのまま死地へ変わる可能性さえある。
まして今回は、ココを離脱させる必要があった。夜月が接触できる位置、二人分の質量を引き寄せても着地できる広さ、敵から直接射線が通らない角度、さらにそこから別の〈ストーン・タッチ〉へ繋げられる距離まで考えなければならず、ロックは戦況そのものに合わせて“安全な点”を動かしていた。
その補助として、彼は地上の土を隆起させ、一部を細かな砂粒へ変えて周囲へ撒いている。幸い、チサトの〈嵐雲〉が残した風域はまだ完全には消えておらず、空気中には緩やかな循環が残っていた。ロックはそこへ魔力を薄く残した砂塵を乗せることで、視界の外まで広がる簡易的な感覚網を作っていた。砂粒が何かに触れれば、ごく僅かな振動が魔力を介して返ってくる。人の足運び、飛来物の通過、地面へ伝わる衝撃――それらを正確に映像として捉えられるわけではないものの、少なくとも「どこで何かが動いたか」を把握するには十分だった。
戦場では、攻撃、防御、救援、索敵、退路の確保といった優先順位が絶えず入れ替わる。だからこそロックは、一つの状況だけへ意識を固定せず、その瞬間に必要な情報を拾い続けることを重視していた。派手な一撃を得意としているわけではないが、誰がどこにいるのか、何が動いたのか、どの位置が危険になったのかを素早く判断し、それを味方の行動へつなげる能力において、彼はかなり優れている。
そして今、その感覚網へ、少女の着地が強い振動となって飛び込んできた。
ヒュンッ、と少女は右手の剣を軽く一回転させる。赤い刀身の周囲には黒い靄のような魔力がまとわりつき、煙のように揺らぎながらも上へ昇ることはなく、刃の輪郭へ吸いつくように留まっていた。ときおり黒い糸のように細く伸びては戻り、そのたびに周囲の空気が微かに歪んで見える。
少女はゆっくりと一歩を踏み出した。長いコートの袖が穏やかに揺れ、硬い靴底が敷石へ触れるたび、カツン、と乾いた音が響く。歩調に急ぐ様子はなく、威嚇するような大げさな動作もない。ただ、自分の進路上に人間が立っていること自体を、大した障害だとは考えていないような歩き方だった。
ロックはその姿から視線を外さず、わずかに腰を落とした。
距離を取るべきだという判断は、すでに頭の中にある。しかし、ここで自分がそのまま後退すれば、少女と壁山とおるを一直線に結ぶことになる。相手の目的が本当にとおるであるなら、自分が道を空ける行動だけは避けなければならない。
「とおる!一旦ここから離れろ!ここはなんとかする!」
声を荒げながらも、ロックの視線は少女へ固定されたままだった。
トッ――。
少女の足が、ごく僅かに地面を蹴る。
それだけの小さな動きだったが、ロックは反射的に重心をさらに落とした。右足を半歩引き、左足へわずかに体重を残す。前へ出ることも、横へ避けることも、後方へ跳ぶこともできるよう、重心を身体の中央付近へ留めた姿勢である。戦闘中に重心を一方向へ預けすぎれば、次の動作へ移る際に必ず一度“戻す”工程が生まれる。その僅かな時間差を作らないために、ロックはあえてどの方向にも完全には力を預けなかった。
つま先へ力を込めたまま、足裏から地面へ魔力を流す。
土属性術士にとって、地面は単なる足場ではない。石や土の内部へ自分の魔力を通し、その振動を術者側の波長へ近づけることで、一定範囲の地質を術式の延長として扱うことができる。ロックが行う“共鳴”は、その中でも特に細かい。地面全体を一度に支配するのではなく、足元から細い魔力の筋を何本も伸ばし、石と石の隙間、土の密度、亀裂の位置まで順に探りながら、どこへ力を加えれば、どの部分が最も効率よく動くのかを先に確かめていく。
これは防御術式を発動する直前の準備でもあった。
少女が正面から踏み込んでくるなら、二人の間へ壁を隆起させる。低い姿勢から潜り込むなら、足元そのものを持ち上げて軌道を崩す。跳躍するのであれば着地点を変形させ、剣を振るなら軌道上へ石柱を差し込む。現時点で何を使うかは決めていない。むしろ決めないことで、相手の動きを見てから最適な形へ変えられる余地を残している。
ブワッ、と周囲の土がゆるやかに浮き上がった。大小さまざまな石片がロックの周囲へ持ち上がり、重力へ逆らうように宙で止まる。それらは攻撃のためではなく、いつでも盾へ変えられる待機状態に近かった。
意識は、あくまで防御へ置いている。
少女との間にはまだ距離がある。少なくとも、普通に剣を振れば届く間合いではない。仮に魔法を使うとしても、術式を組み上げるための魔力変動か、身体のどこかに予備動作が現れるはずであり、それを見てから対処できるだけの余裕は残っている。
そう判断したロックは、ゆっくりと息を吸った。
肺へ入った空気は熱を帯びていたが、呼吸は乱さない。吸って、止めて、吐く。その周期を自分の心拍と合わせながら、足元から返ってくる地面の振動へ意識を重ねていく。少女がどの程度の速度で踏み込めるのか、右手の剣をどの角度から振るうのか、重心がどちらへ移るのか。そのどれか一つでも明確になれば、こちらも地面を動かせる。
少女は剣を下げたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。
ロックは動かない。
ただし、何もしていないわけではない。足元ではすでに複数の魔力経路が地中へ伸び、浮遊する石片の一つ一つにも薄く魔力が通っている。見た目だけなら静かな対峙だったが、その実、ロックの周囲にはすでにいくつもの防御手段が準備され、相手の動きひとつで形を変えられるところまで整っていた。
だからこそ。
ロックはまだ、自分に選択肢があると思っていた。
少女との間に残された距離は、十分な“間”を持っている。攻撃を見てから反応できるだけの空間があり、地面を変形させるだけの準備も終わっている。
少なくとも。
彼が知る戦闘の理屈に従うなら。
その距離は、まだ安全圏の内側だった。
「そこをどけ」
少女は赤い刀身を下げたまま、変わらぬ歩調で前へ進んでくる。声にも苛立ちや威圧はなく、むしろ底の深い水へ沈んでいくような静けさがあった。剣を構える様子もなければ、急激に重心を落とす気配もない。一見すれば無防備とさえ思えるほど緩やかな足取りだったが、だからといってロックが警戒を解く理由にはならなかった。
見るべきなのは、敵が大きく動いたときだけではない。肩の上下、足裏へ移る重心、剣先の僅かな傾き、呼吸の変化、魔力の偏り――戦闘では、そうした一つ一つの挙動が攻撃の予兆になる。今は十分な距離があるように見えても、相手の能力次第ではその距離そのものに意味がなくなる可能性があった。
先ほどまで展開されていた〈ディスチャージ〉の効果は、すでに切れている。
夜月は迷わず魔力を足元へ落とした。
細い電流が敷石の隙間へ潜り込み、その下にある湿った土や鉱物質を伝って広がっていく。空気中へ電磁場を展開する〈ディスチャージ〉ほど広域かつ高精度ではないが、電気は導電経路さえ確保できれば、ある程度の距離を隔てても情報を運べる。まして今、夜月とロックは同じ地面の上に立っている。物理的には離れていても、術式上は一本の導体で繋がっているのと大差なかった。
夜月から送られてきた情報が、ロックの感覚へ流れ込む。
相手の属性傾向。
魔力の質。
そして、先ほど夜月自身が黒い球体へ接触したことで得た、攻撃特性に関する追加情報。
〈ディスチャージ〉の領域内ですでに大まかな数値は拾っていたものの、夜月はその短い時間の中でさらに解析を進めていた。
問題は、単純な魔力純度ではない。
少女の周囲に存在する単位体積あたりの魔力密度だけなら、十二騎士団に所属する上位席官と比較しても極端な差はなかった。高密度であることは間違いないが、それだけならロックたちが過去に相手をした強敵の範囲内に収まる。
異常なのは、その魔力が持つ“量としての厚み”だった。
魔力を持つ存在を評価するとき、単に「濃い」「強い」と表現するだけでは戦闘能力を正確には測れない。同じ密度の魔力でも、それをどれだけ広い領域へ維持できるのか、どれほど長時間保持できるのか、同時にどれだけ多くの術式へ分配できるのかによって、実際の脅威度は大きく変わる。
そこで用いられる指標の一つが、自己情報量――量記号〈S〉だった。
すべての生物、無生物、そして魔力を帯びた構造物には、その存在がどれほど多くの状態情報を保持しているかを示す“自己情報”がある。肉体の複雑さ、魔力回路の数、属性構成、術式を維持するための内部秩序、それらをまとめて定量化した値がSであり、数値が大きいほど、その対象はより多くの情報を崩さず保持できる。
魔力戦闘において重要なのは、自己情報量が大きい存在ほど、一般に多量の魔力を高密度のまま維持しやすいという点だった。
たとえば、同じ百という魔力を持つ二人がいたとして、一方はその百を一度に放てるが、もう一方は十ずつしか扱えないとするなら、瞬間的な戦闘能力は大きく異なる。反対に、出力だけが高くても数秒で枯渇するのであれば継戦能力は低い。
つまり必要なのは、総量だけでも瞬間出力だけでもない。
どれほどの情報構造を維持したまま、平均してどれだけの魔力を戦闘へ回せるのか。
その実用上の指標として算出されるのが、AP――Average Powerだった。
夜月が送ってきた値。
三六〇〇S。
もちろん、これは固定値ではない。魔力は呼吸、負傷、精神状態、術式の稼働数、周囲の属性環境などによって絶えず増減するため、瞬間的な最大値と最低値にはかなりの幅が出る。その変動を一定時間観測し、戦闘中に安定して維持できる平均値へ落とし込んだものがAPである。
十二騎士団に所属する一般的な席官の平均APは、およそ一二〇〇S。
眼前の少女は、その約三倍。
単純に「三倍強い」という意味ではない。
だが、同程度の魔力操作技術を持つ者同士なら、使える術式の規模、同時展開数、防御へ回せる余力、戦闘継続時間、そのすべてで圧倒的な差が生まれ得る。
ロックの表情が変わった。
夜月からの伝達が届いた直後、足元へ流していた魔力を一気に広げる。
ゴォッ――!
周囲の砂が噴き上がった。
今のロックにとって、地面へ足をつけていることそのものが大きな利点だった。夜月のように電磁波を空間全体へ拡散させることはできないが、土属性術士は自分の魔力と地中の物質を共鳴させることで、術式の有効範囲を足元から外側へ伸ばすことができる。
この“共鳴”には深度がある。
表面だけへ魔力を通す浅い共鳴なら、地面を隆起させたり簡単な石壁を作ったりする程度で済む。そのぶん発動は速い。
一方で、より深く地中へ魔力を浸透させれば、広い範囲の土壌密度や岩盤の位置まで把握できるようになり、地形そのものを一つの巨大な術式構造として扱える。ただし範囲が広がるほど制御すべき情報量も増えるため、術者側には高い集中力と魔力処理能力が要求される。
今のロックは、その深度を一段引き上げた。
戦闘の“幅”が広がる。
前後左右だけではない。
地中。
足元。
壁際。
相手の退路。
そのすべてが、攻撃にも防御にも転用できる領域へ変わっていく。
――〈アースシェイク〉。
ロックは地面を動かした。
悠長に相手の出方だけを待つつもりはなかった。
三六〇〇S。
その数値が意味するものを理解した以上、完全な後手へ回るほうが危険だと判断したのだ。
バッ、と塵が舞う。
平坦だった地面が中央から押し上げられ、緩やかな波のように湾曲する。敷石の継ぎ目が裂け、その下の土が盛り上がったことで、近くにあった低い石壁まで根元から傾き始めた。
乱暴に地震を起こしているわけではない。
ロックは地中へ通した魔力を複数方向へ分け、それぞれの層を違う速度で持ち上げている。地面全体を一度に跳ね上げれば、自分や味方まで姿勢を崩しかねないが、部分ごとに変位量を調整すれば、敵の進路だけを歪ませることができる。
さらに、隆起した土から細かな砂を切り離す。
浮遊した粒子がロックの周囲へ集まった。
一粒一粒は小さい。
だが内部へ魔力を通し、外側から圧力を加えて高密度に圧縮すれば、ただの砂粒でも高速で射出した際には十分な衝撃体になる。
とはいえ。
ロックの目的は、少女をこの一撃で倒すことではなかった。
観測。
それが第一だった。
砂をさらに凝縮し、数十から数百の小さな“ブロック”へ分ける。大きな弾丸を一発作るより、小型弾を多数用意したほうが魔力消費を細かく調整でき、射角も増やせる。何より、相手がどう防御するのかを複数方向から確認できる。
後方では、夜月とシオンがすでに支援へ入っていた。
地面を通る夜月の電気。
そして、シオンの水。
水分を含んだ土は、乾いた土より電気的な伝達効率が高い。もちろん純水そのものは優れた導体ではないが、地中の水分には鉱物由来のイオンが溶け込んでいるため、魔力による電気信号を運ぶ媒質としては十分に働く。
シオンの水は、その導電経路を安定させる。
夜月の電気が情報を運び。
ロックの土が形を与える。
三人の術式が、地面の下で一つの複合的な魔力網を作り始めていた。
ロックは右足を踏み込み、相手から視線を外さないまま地面へ片手をついた。
〈砂弾〉が動く。
正面だけではなく、斜め上、左右、足元に近い低い軌道まで、それぞれ異なる射線を描きながら空間へ散り、少女の周囲へゆるやかな包囲を作るように滑っていった。ただしそのすべてが少女自身を直接狙っているわけではない。ロックが見ているのは命中の成否ではなく、攻撃をどう受けるかという反応そのものだった。剣で払うのか、魔法で防ぐのか、身体をずらして避けるのか、それとも何もせず受け止めるのか――防御の仕方ひとつで、相手が近接型なのか、術式型なのか、あるいは常時展開型の防御を持っているのかまである程度は絞り込める。
そのため、砂弾の威力は意図的に抑えてあった。高密度に圧縮した大きな一発を撃つよりも、小さな弾体を数多く作り、発射角度や到達時間にばらつきを持たせたほうが、相手の挙動を観測するには都合がいい。攻撃を受けた側は、正面の一発だけなら最小限の動きで処理できても、複数方向から時間差で迫れば、どうしても防御機構の癖を晒しやすくなる。
ロックはさらにいくつかの弾道を外側へ大きく膨らませ、少女の側面を回り込ませた。これは命中率を上げるためというより、視線と意識を散らすためのフェイントに近い。その間も彼が注視していたのは、少女の右手に握られた赤い剣だった。
外見だけを見れば、刃渡りも形状もごく一般的な近接武器に近い。だが、魔力を用いる戦闘において、武器の見た目と実際の間合いが一致する保証はない。刀身から斬撃を飛ばす術式もあれば、刃そのものを魔力で延長するものもある。さらに厄介なのは、空間や媒質へ干渉することで、物理的な距離を無視して効果だけを届かせる類いの能力だった。
だからこそ、一度は動かさせる必要がある。
剣を振るのか。
構えるのか。
あるいは、使わないのか。
その答えを引き出すために、ロックは砂弾の配置を組んでいた。
ボボッ、と圧縮空気が連続して弾けるような音が鳴り、数十から数百の砂弾がそれぞれ異なる軌道へ加速していく。一発ごとの質量は小さいが、魔力で密度を高められた粒子群は、速度さえ乗れば十分な衝撃を持つ。それでも今回は殺傷を目的としていないため、弾体の結合はあえて弱く設定され、何かにぶつかった際にはすぐ粉塵へ戻るよう調整されていた。
先頭を走っていた数発が少女へ迫る。
ドドドッ――!
空気が連続して弾け、少女の周囲に乾いた衝撃音が重なった。ほぼ同時に、圧縮されていた砂塊が崩れて白茶けた粉塵へ変わり、その煙が彼女の身体を包むように広がっていく。
ロックは動かなかった。
視線だけを、煙の向こうへ固定する。
地面の変形も止めていない。足元から伸びた魔力流域は地中へ広がったまま、隆起した土や浮遊する砂粒を絶えず制御しており、彼の両脚は術式上、ほとんど地面と一体化した状態に近かった。土属性術士にとって、この状態で不用意に跳んだり大きく移動したりすることは、自分から感覚器官と制御回路の一部を切り離すのと同じになる。相手のAPを考えても、わざわざ近距離へ出ていく理由はない。
ならば、この場所を維持する。
地形を変えながら。
砂を動かしながら。
相手が何をするかを、できるだけ多く拾う。
それがロックの選択だった。
煙の中から、新たな着弾音が続けて響く。
ボンッ、ボンッ、と乾いた音が重なり、後続の砂弾も次々に何かへぶつかって砕けていく。だが、少女の右手は動いていなかった。剣を払った様子もなければ、左手を上げた気配もない。身体を捻って回避するでもなく、歩みを止めることさえしていない。
それでも。
砂弾は届かない。
ロックの目が細くなる。
――壁。
そう考えるのが、もっとも自然だった。
粉塵の向こうから、少女の姿がゆっくりと現れる。数秒前とほとんど変わらない歩調で、赤い剣を下げたままこちらへ進んでくる。その姿には攻撃を受けた緊張も、回避した直後の重心の乱れも見えず、まるで砂弾の存在そのものが最初から問題ではなかったような穏やかさが残っていた。
(……魔法障壁か?)
ロックはそう仮定しながらも、すぐには決めつけなかった。
判断材料は目で見えたものだけではない。
砂弾が何かへ接触した瞬間、その衝撃は弾体内部へ通していた魔力回路の乱れとなり、ロックの元へ返ってきていた。砂塊は魔力で形を維持している以上、外部から圧力を受けて崩れれば、どの位置で、どの方向から力を受けたのかをある程度まで逆算できる。
さらに今回は、そこへ夜月の特性が重なっている。
一つ一つの砂粒には、あらかじめごく微弱な電荷が与えられていた。
ディスチャージの領域内ほどではないが、彼女の特性がここでも生きていた。
——「オートメーション」の、追尾能力。
後方からの支援は、すでに地面を通して“繋がっていた”。
ロックの足元には、血管のように微細な“ケーブル”が伸びていた。
彼女からの電気的なエネルギーを介して、自らの技に彼女の特性を付与する。
地面を通じて繋がった複合的な魔力流域を駆使し、地面や砂を操作していた。
だからこそ、より繊細な魔力の動きを頭の中で追うことができた。
威力を落としているとはいえ、反応があまりにも緩い。
避けようとする素振りすらない。
ロックは最初の砂弾が弾けた時点で、その異様な“感触”を掴んでいた。攻撃が防がれたこと自体は想定の範囲内である。もともとあの砂弾は敵へ損傷を与えるためではなく、防御手段や反応速度を測るために撃ったものなのだから、届かなかったことに驚きはない。問題なのは、少女が攻撃を受けているという事実そのものにほとんど反応を示していないことだった。
ロックは全身を覆う砂の層をさらに厚くしながら、地面についていた右手へ力を込めた。皮膚の表面を砂で包んでいるだけではない。細かな粒子を魔力で圧縮し、それぞれが互いの位置を補うよう何層にも重ねることで、衝撃を一点で受け止めず、外側から内側へ段階的に分散できる構造へ変えていく。硬い岩を一枚まとえば強い衝撃で割れる可能性があるが、粒子の層に僅かな可動域を残しておけば、外力を受けた瞬間に粒同士が微細にずれ、運動エネルギーの一部を摩擦と変形へ逃がすことができる。鎧というより、全身へ薄い地層をまとっている状態に近かった。
その間も砂弾は止まらない。異なる角度から滑り込んだ粒が次々と少女の周囲へ到達し、そのたびに何もない空間へぶつかったように砕け、細かな砂埃を噴き上げていく。煙は次第に濃さを増し、やがて少女の輪郭だけでなく、その背後にある街路や天景楼の一部まで白茶けた幕の向こうへ隠し始めた。
おそらく、これだけ撃っても命中はしない。
進行を止めることさえ難しいだろう。
それでも構わなかった。
砂煙そのものにも意味がある。
少女の視界がどれほど塞がれるのか。視覚に依存して行動しているのか。粉塵が周囲へ回り込んだとき、見えない防御領域がそれをどう処理するのか。攻撃として役に立たない粒であっても、条件を少しずつ変えながら当て続ければ、観測できる項目はいくらでも増やせる。
ロックは煙の向こうにいる少女との距離を、視覚ではなく地面から逆算していた。
足音。
着地の圧力。
一歩ごとに地表へ伝わる荷重の移動。
少女が地面へ足を置けば、その力は土や石の内部を弾性波として広がっていく。もちろん距離が離れるほど振動は減衰し、地質が複雑なら波形も崩れるが、今の地面はすでにロックの魔力と深く共鳴している。彼にとっては、地面そのものが巨大な感覚器官へ近づいていた。
一歩の長さ。
歩行速度。
左右どちらの脚へ重心を多く乗せているか。
立ち止まったのか、それとも速度を変えただけなのか。
それらが、足裏から返ってくる細かな振動の違いとして分かる。
距離は、まだ十分にある。
仮に少女がここから一気に踏み込んでくるとしても、“最初の動き”までは隠せないはずだった。どれだけ高速で移動できる者でも、質量を持つ身体を動かす以上、静止状態から速度を得るには地面を蹴るか、魔力によって別方向から力を受ける必要がある。加速そのものを省略できない限り、地面へ加わる反力、空気の変化、魔力の偏り、そのどれかには必ず兆候が生まれる。
しかも、今はロック一人の感覚だけで見ているわけではない。
夜月の電気的な観測網が、地中を介して重なっている。
ロックが振動から質量の移動を読む一方で、夜月は電場や魔力分布の変化を拾う。片方では見落とし得る兆候も、異なる原理の二つの観測手段を重ねれば補完できる。単純に反応速度そのものが上がったわけではないが、「攻撃が始まった」と認識するまでの情報不足が減るため、結果として対応へ移れる時間は大きく増していた。
すでに少女は、その複合的なテリトリーの内側にいる。
ロックは警戒を途切れさせないまま、意識の比重を再び足元へ移した。
周囲の地面は、すでに元の形を残していなかった。平らだった敷石が押し上げられ、その下では土と岩盤が、巨大なゴム膜を内側から押したように緩やかな起伏を作っている。波打った地表はロックを中心として全方向へ広がり、その起伏が大きくなるたび、地下へ張り巡らされた魔力経路も太くなっていった。
右手を強く押し込む。
掌と地面の接点から、大量の魔力が流れ込んだ。
狙うのは表面ではない。
もっと深い。
敷石の下にある土層を抜け、そのさらに奥に横たわる硬い岩盤へ力を届ける。
――岩。
ロックの意識が、一つの形を描いた。
一本の柱を、そのまま真上へ突き上げるのではない。
地下に眠る岩盤の一部へ圧力を加え、その周囲との結合を残したまま持ち上げる。根元を地中へ繋げておけば、隆起した岩は単独の飛翔体ではなく地面そのものの延長として扱えるため、魔力の供給を切らずに軌道を変えられる。
そして。
その岩を一本ではなく。
巨大な波として前へ送る。
ゴゴゴゴッ――。
少女へ続く地面が大きく膨らみ、その内部から岩の柱が姿を現した。柱と言っても、真っ直ぐな円柱ではない。太い岩塊が幾重にも連なり、地面を這う巨大な生物の背骨のように立体的な曲線を描きながら隆起していく。その先端は徐々に細まり、やがて巨大な指先にも、牙にも見える形となって少女へ向けられた。
――〈クラッグフォール・レベル2〉。
別名、“ゴーレムの手”。
〈クラッグフォール〉は、単純に岩を飛ばす術式ではない。
地中に存在する複数の岩層を魔力で連結し、それぞれへ異なる方向の圧力を与えることで、巨大な岩塊そのものを関節のある構造物のように動かす。レベル1では一本ないし数本の隆起を直線的に発生させる程度だが、レベル2になると岩同士の接続点を維持したまま順番に変位させられるため、途中で進行方向を変えたり、相手を囲うように湾曲させたりすることが可能になる。
岩そのものを高速で射出する技に比べれば、瞬間的な速度では劣る。
代わりに。
面積が広い。
質量が大きい。
何より、地面と繋がっている。
少女が右へ避ければ右側の岩を持ち上げ、左へ逃げれば左側を塞ぐ。正面から破壊されたとしても、崩れた岩そのものを次の防壁へ使える。攻撃であると同時に、敵の進行方向を限定するための地形制御でもあった。
ロックがここで選んだのは、撃破ではない。
防御だった。
ただ、その判断へ完全な確信があったかと問われれば、答えは違う。
防御へ意識を傾けること自体は間違っていない。少女の戦闘能力は危険指数を大きく上回り、正体も能力も分からない以上、無理に前へ出て一撃を狙うより、相手の攻撃を観測しながら味方の準備時間を確保するほうが合理的だ。
だが。
未知の相手に対して、一つの戦術へ自分を固定することにも危険はある。
ロックが支配できる地形には限界がある。仮に少女が戦線そのものを捨て、別方向へ高速で移動したなら、それを追うためにはこちらも地面との接続を一度弱めなければならない。深い共鳴状態は広域制御や防御へ強い一方、術者自身の機動力とは相性が悪い。足裏を通して大量の魔力を地中へ流している以上、大きく跳躍すれば接続面積が消え、その瞬間だけ制御可能な地盤の範囲も狭くなる。
それでも、ロックは機動力を捨てた。
全身を砂で覆った理由も同じだった。
自分が追うのではなく。
ここで止める。
そのために、自らを“壁”へ近づけた。
後方には夜月たちがいる。
さらに奥には、市街地がある。
少女が本当に壁山とおるだけを目的としているのか、それとも途中で標的を変える可能性まであるのか、それさえ分からない。
ならば少しでも時間を稼ぐ。
その間に、より多くの情報を取る。
能力の性質。
攻撃の間合い。
防御の構造。
魔力の消耗。
何か一つでも弱点へ繋がるものを見つける。
ロックの中で、それが最も現実的な選択になっていた。
グオオォッ――!
巨大な岩の波が少女へ向かって伸びていく。
迷いがなかった、と言えば嘘になる。
頭の中では、いくつもの可能性が今も交差していた。
防御へ徹する判断そのものには筋が通っている。相手との距離、こちらが確保している空間、地中へ展開した魔力流域、後方にいる味方まで含めれば、地面を利用して進行を阻害することは極めて自然な選択だった。
それでも。
どうしても拭えないものがある。
未知。
そこだけが、判断の中へ小さな棘のように残っていた。
最初の砂弾が何らかの防御によって止められたことはいい。
あれは倒すための攻撃ではない。
届かなくても構わない。
本当に気になるのは、そのとき少女が見せた“挙動”だった。
いや。
正確には。
何も見せなかったこと。
普通、初めて対峙する相手から攻撃を受ければ、たとえ絶対に破られない防御を持っていたとしても、人間は何らかの反応を示す。視線だけを向けることもあれば、飛んできたものの軌道を確認することもある。戦闘経験のある者なら、威力、速度、属性、次弾の有無を無意識にでも探ろうとする。
それは恐怖とは別の話だ。
危険を感じているかどうかでもない。
未知の情報へ反応するという、生物としてごく自然な情報処理だった。
ところが。
少女にはそれがない。
砂弾が正面から砕けても。
側面から回り込んでも。
周囲が砂煙へ覆われても。
歩幅も。
姿勢も。
視線も。
ほとんど変わらなかった。
よほど自分の防御へ自信を持っている。
そう考えることもできる。
だが、本当にそれだけなのか。
たとえば、こちらの攻撃を最初から脅威として認識していない。
あるいは。
認識する必要そのものがない。
自分の周囲へ近づいたものが、本人の意識とは無関係に処理されるような防御機構を持っているのだとすれば、あの無反応にも説明がつく。
ロックはそこまで考えたところで、僅かに奥歯を噛んだ。
まだ仮説にすぎない。
証拠も足りない。
それでも少女の悠然とした歩みを見ていると、その考えだけが落としきれない汚れのように意識へ残る。
こちらは攻撃している。
防ごうとしている。
進ませまいとしている。
なのに。
少女だけが。
まるで最初から戦闘に参加していないかのような顔で、こちらへ歩いてくる。
そのことが。
ロックには何より不自然だった。




