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第90話 空の裂け目に触れる時



 ボッ


 得体の知れない魔力が、黒い球体の中心から吐き出される。


 花弁のように開いた平たい黒の層は、瞬く間に天景楼の上空から旧白鷺城の城域を覆い、その下にある石垣も、本丸跡も、退避路の一部さえ呑み込めるほど巨大な影を生み出していた。


 “何かが、――来る”


 夜月の脚が動いた。


 〈紫電〉によって跳躍へ移った彼女の重心が、一瞬だけ地面の底へ沈み込む。


 次いで、足裏から伝わった圧力が石畳を烈しく穿った。


 靴底の下で砂礫が弾け、敷石の隙間へ溜まっていた土が円状に削り取られる。


 それほどの力を加えているにもかかわらず、傍目には地面を蹴ったという動作さえほとんど見えなかった。


 土埃が舞い上がったのは、夜月の身体がすでに空中へ飛び出したあとだった。


 足の形に浅く窪んだ地面だけが、バチッ、という紫電の残響を残しながら、周囲へ微かな衝撃を広げていく。


 ズッ


 重心が、空中で変わる。


 もちろん重力そのものを書き換えたわけではない。


 踏み切りの瞬間に生じた加速と、身体へ巡らせた〈紫電〉による姿勢制御、それに〈ディスチャージ〉で捉えている周辺の位置情報を重ね合わせ、夜月は跳躍した身体をほとんど無駄なく一つの場所へ向けていた。


 〈紫電〉は、本来なら攻撃動作へ混ぜ込む技術の一つだ。


 とりわけ中距離から一気に間合いを潰し、長大な〈断裁〉の有効圏へ相手を捉える時こそが、彼女がもっとも得意とする使い方の一つである。


 しかし今は違った。


 少なくとも「攻撃」へ転じるために〈紫電〉を選択したわけではない。


 彼女が全身から余分な力を抜いた理由は、一つ。


 できるだけ速く“距離を詰める”ためだった。


 ココのいる場所へ。


 ココはキョウカと同じく、一つの選択を決めきれずにいた。


 思考が止まったのはほんの僅かな時間でしかない。それでも球体内部を〈ディスチャージ〉で直接観測し続けていた夜月との間に、判断の時間差が生まれたことは事実だった。


 夜月は恐れていた。


 球体から漏れ出した濃い魔力がこのあとどのような変化を見せるにせよ、黒い現象からもっとも近い空中位置にいたココが最初に予測不能な作用へ晒される可能性が高い。


 今取るべき行動は「離脱」。


 得体の知れないものが目の前にあり、しかもキョウカの〈白蓮〉さえ何の反作用も残さず消えた以上、無闇に手を出す段階は過ぎている。


 〈紫電〉を使って上空へ跳び上がった夜月は、ココが留まっていた空中の足場へ向けて一気に身体を運んだ。


 瞬きを挟む間もなく視界へ割り込んできた夜月の後ろ姿に、ココの目が僅かに見開かれる。


 夜月は〈断裁〉を縦に構え、その巨大な刃を身体の前へ立てるように両手で支えた。


 次いで。


 ——ぐにゃり、と。


 ゴムのように伸び上がった緑色の「風船」が、〈断裁〉を構える夜月のさらに前へ割って入り、バチンッ、と大きく弾けるように膨張した。


 その「風船」の正体は、粘性を持たされた液体だった。


 風船のように見えたのは、ちょうど夜月とココの周囲を包み込むように広がった液体が均一で滑らかな表面を持つ巨大な楕円体となり、薄い膜を張っていたからだ。


 夜月は、跳び出すより前にある一つの「信号」を送っていた。


 彼女は雷属性の聖騎士だ。


 そして第十九合同巡任班の正式な指揮官ではないにせよ、少なくとも戦闘中の瞬間的な連携という一点において彼女ほど情報の受け渡しを速くできる者はこの場にいなかった。


 通常、班員同士のやり取りには〈通信符〉を用いる。


 通信符同士を事前に共鳴させ、持ち主それぞれの魔力波形を登録しておくことで、音声や短い文字情報、位置情報、危険信号などを共有できる。けれど緊急を要する状況では、符を介して言葉を組み立て、相手がそれを認識するまでのわずかな時間すら惜しい。


 その点、夜月の〈ディスチャージ〉には別の使い方があった。


 彼女自身が展開している電磁領域へ味方の魔力反応を取り込み、〈オートメーション〉によって一時的な接続状態を成立させる。


 それは言葉をそのまま頭へ流し込むようなものではない。


 「退け」。


 「守れ」。


 「右」。


 「今」。


 そうした極端に単純化された行動意図をあらかじめ班内で共有された符号へ変換し、各人へ瞬時に伝える。


 通信符にも、用途に応じて複数の伝達系統が設定されている。


 一般連絡。


 緊急警報。


 救護要請。


 位置同期。


 戦闘時の短縮信号。


 共有する人数と情報量を絞れば絞るほど処理は速くなり、余計な情報の混線も減る。


 夜月の場合、その最終段階を通信符の“外側へ”まで伸ばせる。


 〈ディスチャージ〉の領域内にある電気的・魔力的反応を利用し、自分と対象の間へ一時的な伝送路を作るのだ。


 この領域そのものには限界がある。


 距離が伸びれば精度は落ち、対象が抵抗すれば〈オートメーション〉の接続も不安定になる。


 それでも、少なくとも現在の旧白鷺城内に散開している第十九班の仲間とは、すでに簡易的な“リンク状態”が成立していた。


 そのため。


 本丸御殿の屋根で周辺構造を監視していたシオンは、夜月が〈紫電〉へ移行するよりわずかに前、その行動意図を受け取っていた。


 第十九班の強みは、全員が同じ種類の戦い方をすることではない。


 むしろ逆だ。


 銀桂のココ。


 紫苑のシルバー。


 緋桜の夜月とロック。


 蒼菫のモモカ。


 翠桐のシオン。


 そして白華のとおる。


 所属も専門も、判断基準も違う。


 だからこそ、緊急時に使う行動信号だけは合同巡任が始まった段階で簡略化されていた。


 後退。防御。救護。分散。集中。観測継続。


 それぞれの意味へ対応する短い魔力信号があり、夜月は〈ディスチャージ〉と〈オートメーション〉を介して、それを言葉より先に叩き込める。


 部隊の強さは、単純な魔力量や個人の戦闘能力だけで決まるものではない。


 騎士団や軍務府、封境管理局では部隊評価のために〈実働適性値〉や〈部隊加重値〉といった複数の指標を用いているが、それらも「強い者を何人並べたか」という足し算だけでは算出されない。


 たとえ一人一人の直接戦闘能力が突出していなくても、役割分担と情報伝達が噛み合えば、個人能力では上回る相手を集団として押さえ込むことは十分に可能だからだ。


 とりわけ聖騎士に求められるのは、「個」としての最大出力だけではない。


 他者と同じ戦場に立った際、自分の能力がどれだけ味方を邪魔せず、逆に味方の能力をどれだけ引き出せるか。


 そうした融和性も、実務評価では大きな意味を持つ。


 魔獣災害において単独行動が原則にならないのも同じ理由だった。


 緊急避難のための単独突破や、索敵役による先行、特殊技能者による別働など例外はある。けれど討伐、救助、封鎖、観測、治療、退路確保までを考えれば、複数名で動いたほうが生存率も任務成功率も上がる。


 実際、部隊評価で参照される要素は多い。


 人的戦力。装備と固有霊装。訓練練度。魔法・魔獣・異常現象への知識。索敵と情報分析。指揮能力。救護能力。現場で認められている法的権限。他機関との連携。そして地形や退避路といった環境条件。


 それらをまとめて見なければ、「その部隊が現場で何をできるか」は分からない。


 アルヴェリオンでも地方支部でも、その考え方は変わらない。


 だからこそ現代の聖騎士任務では、あらかじめ統制された編成で動くことが前提になっている。


 今回のような〈第二級広域異常〉なら、なおさらだった。


 シオンは察知していた。


 夜月から送られた信号を。


 それは自分自身が「危ない」と考えるのとほとんど変わらない速さで、滑らかに意識へ入り込んできた。


 通信符を開き、状況を書き、送信し、相手が読む。


 そんな過程を挟むよりはるかに短い。


 〈紫電〉へ移るために夜月の重心が沈んだ、ほんの僅かな動作。


 その隙間に、すでに仲間たちの判断が入り込んでいた。


 ――〈バブルガム〉。


 シオンが片手を持ち上げる。


 普段の彼を知っている者からすれば、それは少し意外な光景だった。


 シオン・グリーンランドは第十〈翠桐〉に所属する聖騎士であり、建物、橋梁、水路、地脈設備といった構造物の調査を専門としている。


 そして彼は、モモカと同じ水属性の適性も持っていた。


 ただし、シオンが水を扱う理由は治療ではない。


 彼のスキルには〈粘性――ガム〉と呼ばれる特殊な性質があり、魔力を通した物質へ一時的な伸縮性と粘性を与え、その形状を“曲げる”ことができる。


 この性質は、彼の上司にあたる翠桐第三席“リオン・ハートネット”が持つ上級スキル、〈屈折――リフレクション〉に一見すると似ている。


 けれど、実際の働きは異なっていた。


 リオンの〈リフレクション〉は領域型に近い。


 自分が指定した一定範囲の内部に侵入した力や運動の向きを「曲げる」ことを得意とし、その性質上、とりわけ防御や衝撃の受け流しで高い性能を発揮する。


 対してシオンの〈ガム〉は、領域そのものへ働きかける能力ではない。


 対象となる物質へ直接性質を付加する。


 指定した非生体物質へ伸縮性を伴う強い粘性を与え、一時的ではあるもののその形状や応力の逃げ方、変形可能な範囲を自在に変えることができる。


 分類するなら〈操作〉系統。


 シオンは水属性魔法と組み合わせることで、〈ガム〉を活用する術を複数持っていた。


 そして今、上空で膨らんだ「風船」の正体こそ彼の〈ガム〉が付与された液体――〈バブルガム〉だった。


 〈バブルガム〉は夜月とココを包み込むように急速に膨張していく。


 ゴムのように伸びる液体の表面が、瞬く間に広がった。


 艶を帯びた緑色。


 内部では〈ガム〉によって粘度を与えられた液体が、流れながら互いを引き戻し、薄い膜にもかかわらず簡単には裂けない構造を作っている。


 水にしては色が濃い。


 とおるが見れば、たぶん妙な炭酸飲料を思い出したかもしれない。


 ただ、その緑色はシオンの〈ガム〉によって生まれたものではなかった。


 正確に言えば。


 シオンが〈バブルガム〉へ利用している液体そのものが彼の魔力から作られた水ではない。


 「水」。


 少なくとも液体であることに違いはない。


 表面は泡膜のような艶を持ち、内側は透き通っている。水属性の魔力が強く関わっていることも間違いなかった。けれど、その液体を作ったのはシオンではない。


 それは外部から“提供”されたものだった。


 もっとも、この場面でその液体をどう分類するかは重要ではない。シオンの〈ガム〉は、基本的には生物以外の物質へ作用する。ただし対象が通常の生物ではなく、魔力によって外部形成された疑似生命体であり、かつ術者側から性質改変を許容されている場合には例外的に能力を通せることがある。


 泡が緑色であること。液体であること。そして。


 シオンのすぐ隣には、彼女がいた。


 ――第十九班の一人、モモカ・リヴリーだ。


 モモカはシオンが〈ガム〉を発動したのと、ほとんど同時に自らの魔力を展開していた。


 夜月から届いた信号。シオンが取ろうとしている行動。班として今必要になる防御。


 それらを一つずつ確認するような素振りなど見せず、普段の眠そうな表情のままシオンの動きへ寸分違わず合わせている。


 片手には固有霊装。


 その名は〈ウォーターバッシュ〉。


 小柄なモモカには不釣り合いなほど大きな、水属性の戦槌型聖装だった。


 その攻撃的な外見とは裏腹に、モモカは猛烈な勢いで自身の水魔法を生成していた。


 夜月とココを包んだ液体。


 その正体は、モモカの特殊能力――〈空想の友達イマジナリー・フレンド〉によって生み出された疑似生命体、通称〈プリン〉だった。


 緑色は単なる着色ではない。モモカが生成する〈プリン〉は、与えられた役割や形成時の精神像によって魔力波形と外見に差が生じる。彼女はそれを、面倒なので「色が違う」と説明している。


 緑色の〈プリン〉が担うのは、「平和」「均衡」「治癒」といった像を核にした安定形態。攻撃へ極端に寄らず、かといって防御一辺倒でもなく、形状維持、衝撃緩和、魔力媒介、簡易治療補助などへ転用しやすい。そもそも〈プリン〉は、戦闘だけのために作られた存在ではなかった。モモカの身の回りでは、もっとくだらない用途にも頻繁に使われる。


 本を持つ。薬瓶を運ぶ。床へ落ちた包帯を拾う。机の上の道具を分類する。枕になる。椅子の背に挟まる。本人が本を読みながら動きたくない時に、少し離れた場所にある菓子を持ってくる。


 見た目だけなら神秘的な水属性の疑似生命体なのに、実際の使用目的には生活感がありすぎた。


 モモカ自身、戦闘を得意としていないわけではない。


 ただ、好んではいなかった。


 蒼菫の聖騎士として彼女がもっとも力を発揮するのは、誰かを倒す場面より、倒れた者を死なせない場面だ。


 自分から前衛へ立つことは少なく、第十九班でも基本的な役割は救護と後方支援。


 〈ウォーターバッシュ〉という大きな戦槌を持ちながら、その仕事の大半が治療、防御、状態維持、味方の能力補助なのだから、とおるが見れば武器名と仕事内容が噛み合っていないと感じたかもしれない。


 しかし、支援能力だけを見れば極めて優秀だった。


 とりわけシオンとの組み合わせでは、それが顕著に現れる。


 〈イマジナリー・フレンド〉によって生成された戦闘用〈プリン〉。


 モモカ自身は、それをまとめて〈スライム〉と呼んでいた。


 彼女が一部の蒼菫や翠桐の聖騎士から「スライム使い」と呼ばれている理由は、そこにある。


 空想と水属性魔力によって形成された〈スライム〉には、外部魔力を極端に拒絶しにくい性質がある。


 正確には、あらゆる魔法をそのまま透過させるというより、異なる魔力同士が直接ぶつかった時に発生する反発を弱め、魔力と魔力の境界面を繋ぐ媒質として働く。


 モモカもまた、夜月が送った行動信号を受け取っていた。


 ――〈グリーン・スライム〉。


 シオンの〈ガム〉によって極端な伸縮性を得たスライムが、二人分の魔力を介しながら急激に巨大化していく。


 スライムそのものを生成したのは、モモカだ。


 けれど重要なのは、それがモモカの身体の一部ではなく、体外へ形成された独立性の高い魔力構造体であるという点だった。


 通常、聖騎士同士が自分の魔力をそのまま相手へ渡し、相手の魔力総量を増やすことはできない。


 魔力回路は魂位相と強く結びついている。


 同じ水属性だからといって、シオンの魔力をモモカの回路へ流し込めば、そのままモモカの魔力として使用できるわけではない。


 むしろ無理に行えば、回路の拒絶や属性波形の衝突によって制御を失う危険のほうが大きい。


 第十一〈緋桜〉の席官、雷牙シズネが〈超電導〉によって周囲の魔力流へ高い互換性を持たせられるのも、それ自体が特殊能力だから成立する現象だ。


 しかも〈超電導〉でさえ、他人の魔力をそのまま自分自身の魔力総量へ加算する能力ではない。場に存在する魔力の流れを繋ぎやすくし、異なる術者の魔力同士が干渉する際の損失や抵抗を減らす。


 性質としては、そちらに近い。


 聖騎士の身体を容器に例えるなら分かりやすい。


 容器の外側を大量の水で満たしたところで、蓋が閉じている限り中身は増えない。蓋を開いたとしても、容器そのものの大きさが変わらなければ保持できる量には限界がある。


 人間の魔力回路も同じだ。


 生来の回路容量や魂位相、それを扱う肉体側の耐久限界を無視して、自分が本来保持できる魔力量を際限なく増やすことはできない。


 その点。


 モモカが形成した〈スライム〉は違った。


 それは彼女の身体から切り離された、いわば外部魔力器官に近い。


 そして最大の特徴は、スライム内部に形成される疑似的な〈元素核〉が、他者の魔力と非常に高い親和性を持っていることだった。


 だから。


 シオン自身の身体へモモカの魔力を送り込むことはできなくても——モモカが外部へ作ったスライムという一つの「器」の中ならば、シオンの魔力をほとんど損失なく重ねることができる。


 水という形質。


 そして、外部から与えられた魔力へ合わせて内部構造を変化させる〈イマジナリー・フレンド〉の性質。


 それらが組み合わさることで、〈スライム〉は異なる魔力へ適応しやすい特殊な媒質になる。


 生物のように形を変え。


 分裂し。


 再結合し。


 それでも基礎となる性質を維持する。


 いわば高い分化性と自己維持能力を与えられた、液体状の疑似生命体。


 そこへシオンが〈ガム〉を通す。


 伸ばす。


 曲げる。


 厚みを変える。


 力を受けた部分だけを沈ませ、別の場所へ応力を逃がす。


 モモカ一人では作れない。


 シオン一人でも作れない。


 二人の能力が噛み合って初めて成立する防御だった。



 ——〈スライムボール・バブルガム〉。



 緑色の巨大な膜が、夜月とココを完全に包み込む。


 モモカの〈グリーン・スライム〉を基材とし、シオンの〈ガム〉によって変形性と粘性を与えられたそれは、通常の〈バブルガム〉よりも遥かに厚く強固で、そして――衝撃を受けても簡単には破れない構造へ変わっていた。


「ココ!」


 上空へ浮かび上がった夜月が、鋭く名前を呼んだ。


 ココはまだ、夜月たちの行動へ割り込めていない。弓を構えた姿勢のまま、引き絞った弦を指先に掛け、いつでも射抜ける体勢を保っている。だからこそ夜月は、ただ注意を促したのではなく明確に彼女の動きを止めるために声を飛ばしていた。


 〈ディスチャージ〉の領域内では、空間を満たす電磁的な揺らぎを介して、周囲にいる者の思考をある程度まで拾うことができる。


 もっとも、それは相手の頭の中に浮かんだ文章をそのまま読み上げるような能力ではない。


 人間が何かを考え、判断し、身体を動かそうとするとき、脳から末梢神経に至るまでには微弱な電気的活動が生じる。通常ならば外部から識別できるほど大きなものではないが、〈ディスチャージ〉はその微細な変化へ魔力的な電磁場を重ね、筋肉へ命令が届く直前の反応、感情の昂りに伴う神経活動、さらには魔力回路の出力変化までを一つの「波」として受け取っていた。


 そこから夜月が読み取れるのは、言葉そのものというよりも“意思が向いているおおよその方向”だ。


 撃つ。逃げる。守る。迷う。


 そういった行動へ移る直前の傾きを、周囲の電磁的な変化から先回りして察知する。


 だから精度にはばらつきがある。感情が強く動いているほど輪郭は鮮明になる反面、冷静な相手や複数の意思が入り乱れる状況では波形が重なり、読み違えることも珍しくない。それでも今ココの中にある意思だけは、夜月には充分すぎるほどはっきり伝わっていた。


 ――矢を放とうとしている。


 夜月が止めたかったのは、それだった。


 もちろん、ココ自身を危険から守る意味もある。しかし意図としては、先ほどキョウカの攻撃を制止したときに近い。未知の対象へ不用意に刺激を与えることを避けるため、攻撃という選択そのものを一度止めようとしていた。


 弦を押さえているココの指が、ほんのわずかに揺れる。


 放すか。


 止めるか。


 迷いがどちらか一方へ傾こうとした、その理由は単純だった。


 目の前の「闇」が、弾けた水飛沫を無理やり逆再生したように、急激に膨れ上がったからだ。


 夜月の予感は当たっていた。


 球体から滲み出していた黒いものは、自ら領域を広げようとしているのではない。もっと内側に存在する「何か」を外へ押し出すため、その通り道を作るように動いていた。



 ドッ――!



 シオンが展開したシールドへ、黒い奔流が正面から叩きつけられる。


 液体にも煙にも見える闇は、一度ぶつかっただけでは止まらず、濁流のように盾の表面へ広がると、その丸みに沿って左右へ分かれ、押し包むような勢いで流れ込んできた。


「くっ……!」


 シオンが奥歯を噛み、急いで魔力出力を引き上げる。


 展開そのものは間に合っていた。


 ただし、完成には届いていない。


 モモカのスライムを外殻として借りているため、何もない空間から防壁を組み上げる場合に比べれば立ち上がりは格段に早い。外形を先に用意できるぶん、シオンが行うべき工程はその形へ魔力を流し込み、必要な硬度と弾性を与えることに絞られるからだ。


 さらに〈ガム〉によって付与される伸縮性は、単に表面を柔らかくするための性質ではない。


 外側へ伸ばせるものは、当然ながら内側へ縮めることもできる。


 たとえば同じ量の物質を十の広さへ薄く引き延ばすのと、一の広さへ押し込めるのとでは、単位面積あたりに存在する質量も魔力量も大きく異なる。シオンはその性質を利用し、攻撃を受ける正面だけを局所的に収縮させることで、スライム外殻と魔力膜の密度を高め、一時的に防御力を集中させようとしていた。


 理屈の上では、正しい。


 問題は、その処理に必要な時間だった。


 黒い奔流は、シールドが充分に締まりきるより速い。


 しかも軽くない。


 流動体のような柔らかさを持ちながら、衝突した瞬間には大量の水を高所から叩きつけたような圧力を生み、盾全体をじわりと押し込んでくる。完全な液体なら横へ逃がせるはずの力さえ、内部に含まれる魔力が粘性の代わりを果たしているのか、シールドへまとわりつくように残っていた。


 バシャァァッ――!


 湿ったものを高速で擦りつけるような音が響く。


 闇は球状の〈ガム〉に沿って滑り、触れた部分だけを大きく撓ませながら後方へ抜けていった。その動きは水に近い。それなのに、通り過ぎたあとには空気そのものを押し潰したような重たい感覚が残る。


 夜月たちがそれを受け止めた頃には、キョウカもすでに動き始めていた。


 視線だけでチサトへ合図を送る。


 目的は、球体の内部に潜んでいる「気配」の正体を確かめること。


 闇雲に近づけば危険だ。


 そんなことは、キョウカ自身が誰より理解している。


 未知の魔力反応。観測不能に近い内部。


 先ほどまで存在しなかった黒い奔流。


 安全だけを優先するなら、距離を取って解析するべき状況だった。


 けれど彼女たちに課せられた役目は、魔物の出現によって人間界が脅かされる事態を防ぐことにある。そして今いる場所は人の生活圏から切り離された山奥でもなければ、被害を許容できる無人地帯でもない。


 ここで引けば、その後ろにあるものが危険へ晒される。


 だから退けない。


「チサト!」


「はいはい、行ってらっしゃい!」


 返事とほとんど同時に、〈嵐雲〉の出力が跳ね上がった。


 天景楼周辺を巡っていた風の流れが一本へ収束し、キョウカの足元へ集まってくる。その上昇気流へ身体を預けるように地面を蹴ると、彼女の身体は重力に逆らって一気に持ち上げられた。


 天景楼の最上部。


 チサトが立つ屋根の高さまで駆け上がったキョウカの背後へ、今度は圧縮された空気の塊が叩き込まれる。


 〈エアリアルドライヴ〉。


 これは単純に強い風で相手を吹き飛ばす術ではない。


 進行方向とは逆側に高圧の空気を瞬間的に形成し、それを一気に膨張させることで、対象へ加速のための推力を与える。地上であれば足場を蹴ることで反作用を得られるものの、空中では身体を押し出すための固定点が存在しない。〈エアリアルドライヴ〉は、その失われた足場を風圧そのもので代用する術だった。


 ドンッ、と背中を押されたキョウカの身体が、空中でもう一段階加速する。


 向かう先は球体。


 狙いは、その内部。


 さらに言えば――中心だった。


 固有霊装〈五月雨江〉は弓だ。


 充分な距離がある状況では圧倒的な制圧力を発揮する一方、対象へ近づけば近づくほど、弓を引くための空間も、矢を加速させる距離も失われる。キョウカにとって適切な間合い――いわば自分の攻撃能力を最大限に引き出せる領域は、すでに通り過ぎていた。


 それでも速度を落とさない。


 十数メートル。


 十メートル。


 距離が削られていく間にも、右手には魔力が集まっていた。


 ギュンッ――。


 視界の脇から、鋭い何かが飛び込んでくる。


 扇状に広がる刃。


 長く伸びた柄。


 チサトの固有霊装――三叉戟だった。


 〈エアリアルドライヴ〉を放った直後、チサトは自らの聖装を上空へ投げ、その軌道をキョウカの飛行線へ重ねていたのである。


 ただ渡したわけではない。


 投擲された三叉戟は追い風を受け、キョウカ本人を追い越しかねない速度まで加速している。


「少し早いぞ……!」


「そのくらいキョウカちゃんなら楽勝でしょー?」


 横を抜ける寸前。


 キョウカが右腕を伸ばす。


 指が柄へ触れ、滑りそうになった手のひらを握り込むと、飛翔していた三叉戟がそのまま彼女の腕へ収まった。


 同時に、白い霜が走る。


 柄から刃へ。


 刃から先端へ。


 キョウカの魔力を核として周囲の水分が急速に結晶化し、三叉戟の表面を薄い氷の層が包み込んでいった。


 本来は細身で扱いやすさを優先した意匠だったものが氷を纏うにつれてわずかに長くなり、刃先は細く、輪郭はより鋭く整っていく。しかしキョウカが氷を付与した目的は、刃を尖らせることだけではない。


 むしろ重要なのは、内側だった。


 三叉戟には、すでにチサトの風属性魔力が通されている。


 魔力は術者の身体を離れた時点から少しずつ拡散する。空気中へ放たれた香りが時間とともに薄まっていくのと似ており、何の処置も行わなければ、密度も指向性も徐々に失われてしまう。


 キョウカの氷は、それを防ぐための「殻」になった。


 液体を冷却すれば、自由に動いていた分子の運動が抑えられ、固体として一定の構造へ固定される。それとまったく同じ現象ではないものの、キョウカは氷属性の魔力によって三叉戟の表面へ安定した魔力層を作り、その内側にあるチサトの風属性魔力が外部へ散るのを抑えていた。


 外側に氷。


 内側に風。


 二人分の魔力を、一つの武器へ重ねる。


 空中を駆けながら成立させるには、互いの出力と癖を知り尽くしていなければ不可能に近い連携だった。


 背後では〈エアリアルドライヴ〉の残した風が、夜空へ鋭い一本の線を刻んでいる。


 キョウカはその線の先端を走っていた。


 空気へ足を置くように身体を捻り、風圧そのものを踏み台へ変える。生身の跳躍とは違い、蹴り返す地面が存在しない以上、少しでも力の向きを誤れば身体は回転し、投擲へ使うはずのエネルギーまで逃げてしまう。


 だから腰を固める。


 肩を開く。


 右腕を引き、三叉戟を後方へ溜める。


 脚から腰へ。


 腰から背骨へ。


 背骨から肩へ。


 身体の各部で生まれた力を途中で散らさず、一本の連なりとして右腕へ流し込んでいく。


 白く染まった三叉戟が、さらに低い音を鳴らした。


 運動エネルギーは、単純に考えるなら質量と速度によって決まる。


 特に速度の影響は大きい。


 キョウカ自身の飛翔速度。


 チサトが与えた風圧。


 三叉戟そのものが最初から持っていた投擲速度。


 そして最後に、キョウカ自身が腕を振り抜くことで加える速度。


 それらを同じ方向へ重ねることで、一本の武器へ可能な限り大きな運動量を集中させる。


 視線は逸らさない。


 黒い球体が、急速に視界を埋めていく。


 恐れが無いわけではない。


 正体も分からない。


 何が出てくるかも分からない。


 それでも、迷いによって腕の軌道を僅かにでも乱せば、ここまで積み重ねた力が全部無駄になる。


 だからキョウカは、ただ一点だけを見る。


 球体の中心。


 腕を振り抜いた。


 ドッ――!!


 空気が破裂したような音が響いた。


 乾いた爆発音の奥に、どこか泥を踏み抜いたような湿った重さが混じる。


 白く凍りついた三叉戟が、球体の表面へ真正面から突き刺さった。


 黒い靄を割る。


 細かな粒子が周囲へ散り、丸みを帯びていた球面が槍の形へ押し込まれるように変形する。


 深く。


 さらに深く。


 キョウカは身体の回転まで加えた。


 肩甲骨が大きく動き、腰から伝わった捻りが腕へ抜け、その最後に三叉戟へ届く。前へ進む身体そのものの速度を失わないまま、回転運動だけを穂先へ追加する。


 直線的な推力。


 回転による捻り。


 その二つが接触点へ重なる。


 ゴッ……!


 球体の表面が、さらに大きく陥没した。


 手応えはある。


 だからこそ、キョウカには分かった。


 ――入る。


 このままなら貫ける。


 球体を構成している黒いものは、少なくとも外殻だけを見れば完全な固体ではなかった。細かな粒子状の魔力が高密度で循環し、互いに押し合うことで球形を維持している。その密度は異常なほど高いが、物理的な壁とは性質が違う。


 ならば一点へ充分な力を集中させれば、そこへ一時的な空洞を作り、内部まで武器を送り込める。


 キョウカが狙っているのは、——その先だ。


 魔力が発生している中心。


 球体の形を維持している核。


 それが生物なのか、術式なのか、それともまったく別のものなのかは分からない。


 それでも、中心には何かがある。


 そこへ届くだけの力を、この一投へ詰め込んだ。


 数メートルにも満たない距離。


 吐息を止めていたキョウカの口元から、細い白煙が漏れる。


 指先まで血が巡る感覚があった。


 そして――違和感も。



 ゴォッ……!



 三叉戟を中心に生まれた衝撃が、波紋となって周囲へ広がる。


 風が震える。


 黒い粒子が揺れる。


 キョウカの氷属性魔力と、チサトの風属性魔力がぶつかり合うことで白く濁った空気の向こう側に、今までとは異なる「乱れ」が生まれた。


 耳の奥で、ザザッ、と雑音が鳴る。


 電波障害の中へ入り込んだときのような、不規則で不快なノイズだった。


 砂を混ぜた水を指で掻き回したような感触。


 あるいは、正しく噛み合っていた歯車の間へ、突然異物が入り込んだような引っかかり。


 キョウカの攻撃によって大気が乱れること自体は不思議ではない。


 だが、その乱れのほとんどは球体の外側で起きている。


 問題は内側だった。


 暗闇の奥。


 キョウカが三叉戟を送り込もうとしている、その先から。


 何かが――近づいてくる。


「……近づいてる?」


 自分の攻撃が相手へ向かっているのではない。


 向こうからも、こちらへ来ている。


 キョウカは三叉戟の行方より先に、周囲を走る衝撃波の形がおかしいことへ気づいた。


 本来なら接触点から球面に沿って均等に広がるはずの波が、一部分だけ途中で折れている。


 波が何かへ当たったのだ。


 しかも、その「何か」は止まっていない。


 こちらへ向かって移動している。


 気づいた時には、もう距離がなかった。


「なっ……!」


 それまで三叉戟の形へ柔らかく陥没していた球体表面が、突然、別物のように硬化する。


 いや。


 硬くなったのではない。


 手のひらへ返ってきた感触が違う。


 表面そのものが硬化したのなら、抵抗は先端から徐々に大きくなるはずだった。しかし今起きたのは、それまで進んでいた槍の前方へ、途中から巨大な壁を差し込まれたような停止だった。


 ガッ――!


 三叉戟が潰れる。


 長く伸びていた氷の穂先が圧縮され、耐えきれなかった部分から白い亀裂が走った。金属製の本体まで大きく撓み、前方へ進んでいた運動エネルギーが行き場を失って、槍全体を横へ折り曲げようとする。


「……何だ、これは…!」


 命中している。


 貫入も始まっていた。


 途中までは、確実に理論通りだった。


 だからこそ奇妙だった。


 三叉戟を止めたものは、球体の外殻ではない。


 もっと奥。


 黒い粒子の向こう側に、別の何かが存在している。


 それも単に硬いだけではない。


 高速で飛来する三叉戟が持つ運動量と、氷と風――二種類の魔力による術式圧力を、ほぼ同時に受け止めている。


 普通なら、受け止めた側にも反作用が生じる。


 物体同士が衝突すれば、押した側だけでなく押された側にも同じだけの力が返る。その衝撃を逃がすには後退するか、変形するか、別方向へ分散する必要がある。


 ところが目の前の「何か」は、そのどれもほとんど見せていない。


 まるで、三叉戟が持っていたエネルギーそのものを、そこだけで飲み込んだように。


 一体、何が――。



 ズッ。



 視界が、不意に横へぶれた。


 考えが形になるより早く、首元へ強烈な圧力が食い込む。


「がはっ……!」


 喉が潰れ、肺へ落ちるはずだった空気が途中で止まった。前へ突き進んでいた身体も、見えない壁へ縫い留められたように急停止する。


 三叉戟が折れ曲がった、そのほとんど直後だった。


 黒い球体の奥から、一本の腕が伸びている。


 近い。


 あまりにも、近すぎた。


 キョウカは球体を貫くため、自分から安全距離を捨てている。五月雨江が最も力を発揮する間合いも、回避へ転じるための余白も削り、攻撃だけへ身体を預けていた。


 その代償が、今になって喉元へ食らいついている。


 数十メートル先から飛んでくる攻撃なら、軌道を読む時間がある。数メートルまで近づいた相手でも、肩や腰の動きから次の動作を予測できる。


 だが、ほとんど触れ合う距離で、それまで巨大な魔力反応そのものへ紛れていた「何か」が突然腕を伸ばせば、目で認識し、危険と判断し、身体へ回避命令を送るまでの時間そのものが足りない。


 まして、球体全体が異常な魔力の塊だった。


 本来なら生物の位置を割り出すための「魔力反応」という手掛かりが、あまりにも巨大な背景へ呑み込まれている。森の中から一本の木を探すのではない。眩しい光の中心から、さらに小さな光だけを見つけ出せと言われているようなものだ。


 そして今。


 その見落としていた何かが、キョウカの首を掴んでいる。


 黒い手だった。


 指がある。


 掌がある。


 関節があり、その先には腕が続いている。


 獣の四肢としては、あまりにも形が整いすぎていた。


 禍々しく歪んだ魔力をまといながら、その腕の持ち主が暗闇の底からゆっくりと輪郭を浮かび上がらせていく。


 キョウカの目が、大きく見開かれた。


 星骸獣の脚ではない。


 触手でもない。


 獣の爪でもない。


 見間違える余地など、ほとんど残されていなかった。


 彼女の首を掴んでいたものは――人間の腕だった。


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