第88話 深淵からの使者
ふと、ロックの視線が揺り動いた。
動いた視線の先にあったのは、キョウカが生み出した氷の“膜”、——雪月花の表層だった。
「雪月花」の内部に含まれる氷の密度は、物質としての質量に紐づけられた魔力の強度が物体自体の硬さ(変形のしにくさ)や濃度をある一定の範囲に閉じ込めるように構成されている。キョウカの魔力効率、及び魔法生成に際する熟練度によってその性質は多面的に変容し、エネルギーの大きさ自体も“空間単位あたり”で考えれば常に断続的な変化を伴っている。その立体的な構造の内側には魔力の使用に伴うエネルギーの質や純度が深く関わっており、言ってしまえば術式特有のルートを介して生成された氷の花は、キョウカのコントロール下にある“仮想物質”と言い換えることも可能であった。
通常の氷に比べて遥かにその強度は増大しており、かつ、「氷」としての基本的な性質は損なわれていない。
これは他の属性、他の魔法形式に於いても同じことが言えるが、断層を覆った「雪月花」の“硬度(物質としての剛性率や圧縮応力なども含む)“は、キョウカの実力を鑑みれば、それ相応の強度や度合いを持っていることが容易に想像できた。元々は攻撃手段に用いられる広範囲への“範囲術式”であるが、魔力の向きや内的情報を書き換えれば、シールドとしての性質に特化させることにも対応可能である。
そうそう打ち破られることはない。
夜月にもいったように、キョウカのことを毛嫌いしているとは言え、彼女の扱う魔法が敵の攻撃によって破られることを想定してはいなかった。いかなる可能性にも常にアンテナを張り巡らせておかなければならないが、——まさか、とは思った。
異変。
それを「異変」と呼ぶべきだったのかどうかは、おそらく見る者によって判断が分かれただろう。
少なくとも、その時点では雪月花の外形が大きく崩れたわけではなかった。六層の天景楼を包むように咲き広がった巨大な氷の花はそれまでと変わらず夜空の下で淡い光を返し、透き通った花弁も、そこから垂れ下がる無数の氷柱も、一見したところでは静止している。
だから、目で見るだけなら「何も起きていない」と答えても不思議ではなかった。
けれどロックは、ほとんど反射的に顔を上げた。
「……夜月」
「うん。分かってる」
隣にいた夜月も、すでに同じ方向を見ていた。
何かが見えたからではない。
先に感じたのはもっと曖昧で、それでいて無視するには生々しすぎる感覚だった。
巨大な氷の奥、視線では届かない場所に細い亀裂が一本あり、その向こう側から途方もなく重い何かが押し寄せてきている――そんな錯覚に近い。
実際、二人が感じ取っていたのは音ではなく、魔力場の変化だった。
一定以上の密度を持った魔力が高速で移動すると、その周囲にはごく弱い圧力差が生じる。厳密には物理的な空気圧だけではなく、その場に満ちている自然魔力の分布までわずかに押し退けられ、静かな水面へ大きな物体を沈めた時のように、目には見えない波が周囲へ先行して広がっていく。
普通なら、人間が肌で感じ取れるほど大きなものではない。
まして雪月花の内側は、キョウカの氷属性魔力によって高密度に固定された領域であり、外部から入り込む微弱な魔力変動の多くは、氷の結晶構造そのものに吸収される。
その雪月花が、軋んだ。
だからこそ、ロックの身体は考えるより先に反応していた。
――何かが来る。
ロックの視線を追った夜月が、天景楼の上空へ目を細める。
「……今の、外からじゃないよね」
「ああ」
短く返しながら、ロックは雪月花の中心付近を見据えた。
「中から押してる」
その言葉を証明するように、巨大な花弁の一枚がかすかに震えた。
咲き誇る雪月花は、遠目には一枚の氷を削り出した彫刻にも見える。だが実際には、単純な氷塊ではない。
キョウカの魔力を核として大気中の水分を段階的に凝固させ、無数の微細な結晶を一定方向へ噛み合わせることで、花弁一枚一枚に巨大な応力を受け流せる構造を持たせている。硬いだけではなく局所的な衝撃を周辺へ逃がす性質があるため、一点を殴った程度では簡単に割れない。
ところが今、その内部で生じたわずかな振動が花弁の根元から先端へ向かって伝わっていた。
先端から垂れ下がる細長い氷柱が、ほんの数ミリほど揺れる。
一本。
その隣でも一本。
風によるものではなかった。
周囲を満たす〈嵐雲〉の風はチサトによって制御されており、この付近で氷柱だけを不規則に揺らす流れは発生していない。
ならば振動源は、氷そのものの内部にある。
ぱら、と細かな破片が剥がれた。
最初に飛び散ったのは、雪の粉ほどの小さな氷晶だった。
それが花弁の表面からふわりと離れ、少し遅れて粒の大きな欠片が続く。煙草の煙を口元からゆっくり吐き出した時のように、破片は一定方向へ吹き飛ばされるのではなく、一度丸く膨らむように空中へ広がった。
けれど、動きは軽い。
浮かんでいるように見えながら、一つ一つの粒は妙に素早く軌道を変えている。
夜月の眉がわずかに寄った。
「風……じゃない」
「魔力に弾かれてる」
ロックが低く答える。
雪月花内部の魔力密度が均一である限り、剥離した氷晶は重力と周囲の風に従って落下する。
ところが、局所的に強い魔力が入り込むと事情が変わる。
氷晶の内部には形成時の氷属性魔力が残っているため、より密度の高い魔力場と接触した際にその境界面から押し出されるような力を受ける。水へ油を垂らした時に互いに混ざらず境界を作る現象に少し似ているが、こちらは静止せず、魔力密度の高い場所から低い場所へ向かって粒子そのものが弾き出されていく。
だから、欠片が散っていた。
中心から外へ。
何もない空間から突然噴き出したのではなく、そこに「近づけない何か」が生まれた結果として、周囲の氷晶が押し退けられている。
小さな破片の群れが丸く膨らむほど、その中心だけが不自然なほど空白になっていった。
ロックは黙ったまま目を凝らした。
そこには、まだ何も見えない。
見えないのに。
空気だけが、細く揺れている。
熱による陽炎とは違った。
大気の屈折率そのものが変化しているというより、その場所へ流れ込もうとする周囲の魔力が何度も押し返され、そのたびに空気中の微粒子と水分が微細に揺さぶられている。
目へ映るのは、結果として生じた輪郭だけだった。
空間に、見えない杭でも打ち込まれているような。
そこだけ周囲より厚みを持っているような。
そんな奇妙な圧迫感がある。
ドッ、と。
腹の底へ響くような低い振動が一度だけ走った。
「……っ」
夜月が息を呑む。
雪月花の表面から、一回り大きな氷片が弾け飛んだ。
その中心を突き上げていたのは、断層の奥から急速に膨れ上がる魔力だった。
まだ姿はない。
けれど、先端だけなら分かる。
巨大な魔力の塊がこちらへ近づいた際、その最前部に生まれる圧縮領域――いわば、魔力そのものが作り出す「鋒」だった。
高速で進む船の前に水が押し上げられるように、あるいは空気中を音速に近い物体が進めば前方へ圧力が集中するように、大量の魔力が一方向へ移動するとその進行方向へ存在する自然魔力が行き場を失い、狭い範囲へ押し固められる。
その圧縮された魔力の“先端”が、雪月花の内側へ触れ始めている。
だから氷がまだ直接破壊されていない場所まで震えていた。
結晶は、一枚岩のように見えても完全な均質体ではない。
花弁の内部には凝固した際に生じた微細な境界面が無数にあり、外から加わった力はその境界を伝って広がっていく。強い圧力が一点へ集中すれば、まず目に見えないほど小さな亀裂が生まれ、それが隣の結晶へ渡り、やがて人間の耳でも聞き取れる破断へ成長する。
ロックが見ていたのは、その一歩手前だった。
透明な花弁の内側で、髪の毛より細い白い筋が一本だけ走る。
「……来るぞ」
声を荒げる必要はなかった。
夜月も、もう分かっている。
巨大な雪月花は相変わらず美しい形を保っていたが、その静けさはいまや安全を意味していなかった。
むしろ厄介なのは、これほど大きな力が内部から加わっているにもかかわらず、外見上の変化がまだ小さいことだった。
大きく割れる。
吹き飛ぶ。
光る。
そうした分かりやすい異常なら、対処はしやすい。
けれど今起きているのは、巨大な圧力が極めて狭い範囲へ集中し、雪月花の構造そのものを内側から少しずつ破断させていく現象だった。
力が広範囲へ逃げていない。
一点へ絞られている。
だからこそ、見た目より危険だった。
雨が降り始める直前、まだ数滴しか落ちていないのに、遠くの空だけはすでに暗く沈んでいる――それに少し似ている。
目に見える変化は小さい。
しかしその小ささは、現象そのものが弱いことを意味していなかった。
——パキッ。
乾いた音が響いた。
花弁の外縁から垂れ下がっていた氷柱が根元から折れてゆっくりと傾いたあと、そのまま地上へ向かって落ちていく。
夜月は落下する氷柱を一瞬だけ目で追い、それからすぐ雪月花へ視線を戻した。
「……ロック。あれ」
「ああ。見えてる」
二人が見ていたのは、折れた氷柱ではない。
その奥。
雪月花の中心部だった。
本来なら何層もの氷晶が重なり、向こう側など見えるはずのない場所に、黒い穴が空いている。
小さな亀裂ではなかった。
人ひとりが通れる、といった程度ですらない。
明らかに、相応の大きさを持つ何かが内側から雪月花を穿ち、そこにあった氷そのものを押し退けた痕跡だった。
「……穴?」
ココが思わず口にすると、ロックは返事をするまで少し間を置いた。
「穴、ではある。ただ……割れ方がおかしい」
「外から撃たれた感じじゃない?」
「違う。外からなら破片の大半は内側へ入る。あれは逆だ」
ロックの指摘どおり、穴の周囲にある氷片の多くは外側へ散っていた。
破壊には方向がある。
外部から衝撃を受けたなら、最初に圧力を受けるのは外表面であり、亀裂はそこから内側へ進む。反対に内部から押し破られた場合、表層は最後まで残ったあとに限界へ達した時点で外へ向かって弾ける。
今の雪月花に残された破断面は、明らかに後者だった。
つまり。
何かが外から入ってきたのではない。
雪月花の内側にあった何かが、外へ出てこようとしている。
そこまでは、周囲にいた者たちにも理解できた。
問題は、その先だった。
自然現象でないことは疑いようがない。
キョウカの術式が偶然崩れたとも考えにくい。自然融解なら破断面はもっと広く曖昧になり、魔力枯渇による崩壊なら一地点だけではなく花弁全体へ同時に兆候が現れる。
局所的。
内側から。
しかも、雪月花を構成する高密度の氷属性魔力を押し退けられるほどの力。
条件を並べれば、候補はほとんど残らない。
「……星骸獣?」
夜月の声がわずかに低くなる。
ロックはすぐには頷かなかった。
否定する材料がなかったからではない。
むしろ逆だった。
「たぶんな」
「たぶん?」
「あれを星骸獣だと仮定すれば、説明はつく。でも――」
ロックは、穴の奥を睨んだ。
「俺たちが知ってる星骸獣の魔力量じゃない」
理解できる原因は、一つしかない。
けれどその一つを原因として受け入れた途端、今度は別の矛盾が生まれる。
もちろん、周囲の者たちはわかっていた。
キョウカがシールドを張ったのも、ココが弓を構えたのも。
街中でクリーチャーが現れるなど日常茶飯事だ。
別段珍しくもない。
そして今回の案件が警戒度「3」に該当していること。
調査隊が動いているということ。
この総合的な状況の側面を加味すれば、想定され得る“危険性”についてある程度の措置と対策を取ることができる。
夜月たちの行動は、あくまでマニュアルに則った動きに過ぎない。
考えられる「可能性」を想定することはできても、それはあくまで可能性に対処するまでの動きに過ぎない。
——そう、雪月花に起きた異変は、その可能性が「実体」へと変化するまでの確かな距離を含んでいた。
周りのものたちがうまく認識できなかったのは、——少なくとも認識の処理に対して想定していないことが起きたからだ。
その矛先にあったものは、予測していない魔力の奔流だった。
純度の高い魔力。狭範囲に圧縮された濃度。
雪月花の中心から突き出してきたものは、ロックの予測をはるかに上回る魔力の奔流だった。
ただ量が多い、というだけではない。
余計な揺らぎがほとんどなく、異様なほど純度が高い。そのうえ膨大な魔力が極端に狭い断面へ押し込められているため、本来なら周囲へ拡散するはずの圧力まで一本の進行方向へ集中していた。
雪月花の中心が穿たれ、そこから夜空へ細長い何かが伸びていく。
ロックの感覚では、それは「線」に近かった。
もちろん、本当に空中へ光の線が描かれているわけではない。
天景楼を見上げた先、巨大な氷花の中心から吐き出された高密度魔力が、周囲の自然魔力を押し退けながら一直線に進んでいる。その境界で生じた圧力差と魔力密度の偏りが、ロックには一本の実線のように知覚されていた。
「……なんだ、あれ」
思わず漏れた声に、夜月もすぐには答えなかった。
優れた聖騎士ほど、魔力を「目だけ」で追わなくなる。
そもそも魔力そのものは、必ずしも可視光として存在しているわけではない。人間が風そのものを見ることはできなくても、木の葉の揺れや肌に当たる圧力から風向きを知るように、経験を積んだ聖騎士は周囲の魔力場の揺らぎ、皮膚へ伝わる微細な圧迫感、自身の魔力回路に生じる共鳴、さらには属性同士が接触した際に起こる反発までまとめて捉え、その結果を「そこに何かがある」という感覚へ変換する。
だからロックには分かった。
あれは単なる魔力漏出ではない。
明確な方向性を持っている。
こちら側へ押し出されるだけではなく、何かを貫くことを前提に圧縮された魔力だった。
つまり、攻撃だ。
しかも厄介なことに、その魔力の流れを逆算すれば、発生源は雪月花のすぐ内側ではない。
「深いぞ」
ロックが低く言った。
「え?」
「雪月花の中で作られたんじゃない。もっと下だ。かなり奥から、一気に上まで抜いてきてる」
夜月の表情が強張る。
断層内部のどこまで続いているのかは分からない。
しかし長い距離を進んできたにもかかわらず、あれほどの密度を維持している。
それ自体が異常だった。
普通、放出された魔力は距離に比例して少しずつ散る。
何もない空間を進ませるだけでも周囲の自然魔力と干渉し、術者との接続が弱くなれば構成情報まで崩れ始める。まして岩盤や地下水脈、異なる属性を含む鉱物層を何層も貫いてきたのなら、減衰はさらに大きくなるはずだった。
それなのに、目の前の一撃にはほとんど鈍りがない。
まるで、地中深くから天景楼まで一本の砲身でも通っているかのようだった。
「——〈縛〉」
キョウカは断層の中から出てきたものが敵の「攻撃」であるということを察知し、雪月花の外部に散りばめていた『残雪』と呼ばれる補助魔法を1箇所に集める。
『残雪』は、キョウカが作り出した擬似的な“フィールド”だ。
自らの魔力を実体化した上で、その表面化された魔法領域の内側に、互換性のある魔力媒質を閉じ込める。
この場合で言えば、雪月花の氷の表面に『残雪』を練り込ませることで、具象化された魔法の“分子領域“に、より細分化された魔力効率を落とし込むことができる。
基本的な性質として、「魔法=術式」とは物質と非物質の間を行き来する電子回路のようなものだ。
魔力はその回路の上を流れるエネルギーそのものであり、形を生み出すための「媒体」である。
魔法はキャンパスに描かれた絵であり、「魔力」というペンを使って描かれた線である。
魔力というペンを使って書かれた“文字”は、時間的、あるいは空間的に限られた領域の中で動くことしかできず、キャンパスの「外」に絵を描くことは、原理的に不可能と見ることができるだろう。
紐を結ぶように。
また、破れた紙をテープで貼り合わせるように。
キョウカは魔力操作に於いて、より高度な回路を組み込むことに長けた操作系の能力者だった。
一度実体化された魔法を別の形に変換することは、魔力の流れや構造をよく理解しているものでないとより高度な領域において細かい操作が難しくなる。
雪月花は「霧雨」に比べて魔力出力量が多い分、単位時間あたりに操作できる領域が格段に下がり、空間あたりの質量濃度、及び魔力流域に於いても、通常の魔力操作に比べて編集できる量や“範囲”が限定される。
しかし、キョウカは自らの魔力を実体へと変換する上で、より細分化された手法を取る傾向にあった。
通常より大きな魔力を具現化・具象化しようと考える時、魔力を出力する上での障害は周囲の環境や敵の状態、自らの魔力総量、純度、その他様々な内外的要因が加味されるが、基本的な戦術としては、「魔力効率」という側面に於いてもっとも直線的なアプローチが、部分的にも全体的にも利用される。
聖騎士の戦術に於ける基本原則の一つは、いかに【ローリスクハイリターンの行動】の選択・対応を連続できるかだ。
中途半端な魔力操作や、魔法を構成する上でのアプローチは、かえって戦況を不利にしてしまう要因となりかねない。
他の聖騎士たちと比べて、キョウカはより用心深い立ち回りを徹底しようとする。
それは彼女の魔力コントロールの技術と、魔法に対する知識の高さがあってこそ成り立つ“方法”だった。
雪月花の形状を変化させる。
その選択を、この“場面”で取れる術士はそうそう居ない。
巨大な質量を伴う魔法には、遠隔で操作できる範囲や領域が相対的に限られてしまう性質にある。
席官クラスともなれば、常に魔力と魔法量の接合部をリンクできる領域で自らの「技」を扱える環境にさえいれば、出力する魔法自体の質量や密度を条件に見合う環境下に於いて自在に変化させることができるだろう。
より高度な戦いの場における「魔力」という流域に於いて、彼らは常に流動的な「属性間物質」を出し入れできる状態にあると言える。
キョウカは天景楼から離れた場所にいた。
すなわち、雪月花からはある程度離れた場所にいた。
それにも関わらず、遠隔でその形状を変化させようとした。
大気という空間、及び自らの魔力流域を通じて分子レベルの「氷」を操作する場合とは勝手が違う。
雪月花を形状ごと変化させるには、それ相応の時間とエネルギーが必要だった。
その物理的な障害をすり抜けるかの如く、美しい氷の花弁は、僅かな空気の揺れの中に煌めいていた。
穴が空いた雪月花の中心が急速な修復を見せたのは、ちょうど、砕けた氷柱が落下する数秒後のことだった。
「残雪」によって常に流動的な形状の変化を可能にできるネットワーク下にあった「花」は、敵の攻撃を封じ込めるように中心に向かって収縮した。
ギュルッ
回転するように、氷の表面が中心に滑る。
氷の中から飛び出してきた魔力を封じ込めるように、圧縮される質量が白く濁る氷塊に犇く。
さざめく青。
火花のようにうねる粒子。
きめ細やかな模様の変化が、空間の中を泳いだ。
躍動する花の輪郭が、しなやかな線の内側に鋭い弧を描いた。
——空を駆ける線。
その軌跡は、まるで空を切り裂く“刃”だった。
ロックの視線の先にあったのは、チサトの風域によって強化状態にあった氷の“層”が、何の前触れもなく綻んでいく「様子」だった。
柔らかい水の中を進むように飛び出してきた鋭利な”物体”は、空間に線を描くように、濁りのない軌道をサッと伸ばしていた。
——バッ
最初に臨戦態勢へ移ったのはココだった。
彼女は一歩で立ち位置を変え、雪月花に穿たれた穴と、そこから飛び出した正体不明の飛翔物、その両方を同じ視界へ収められる位置まで身体を滑り込ませる。距離でいえばこの場にいる者の中では飛翔物へもっとも近い。けれど彼女が見ているのは、目の前を走る物体だけではなかった。
ロックと同じく、ココもすでに二つのことを認識している。
あれは外から飛び込んできたものではなく、断層の内側からこちら側へ抜けてきたこと。
そして、その周囲には不自然なほど純度の高い魔力がまとわりついていることだ。
ココは弓を持ち上げ、弦へ指を掛けた。
まだ引かない。
撃つための動作へ移りながらも、頭の中では別の処理が走っていた。
――あれは、何をするためのものだ。
飛翔体に意思があるのか、それとも誰かが放った単純な投射物なのか。自律的に軌道を変える性質を持つのか、接触時に炸裂するのか、あるいは物理的な衝突そのものではなく、周囲の魔力構造へ干渉するための媒介なのか。
見た目だけでは、まだ判別できない。
ただし、雪月花へ残された破断痕から読み取れる情報はあった。
氷を穿った力の向きは、明確に内側から外側へ向いている。
しかも、破壊範囲に対して飛散した氷片が必要以上に少ない。
もし単純な大出力攻撃なら、衝突点を中心にもっと広い亀裂が走り、周囲の花弁まで巻き込んで砕けてもおかしくない。それが起きていないということは、放たれた力が面ではなく、かなり狭い一点へ集約されていた可能性が高い。
いわば、大槌で壁を叩き壊したのではなく、太い針を高速で突き通したような壊れ方だった。
だから余計に、判断が難しい。
破壊力は高い。
けれど、無差別ではない。
狙って穴を開けたようにも見える。
ココの視線は飛翔物を追い続けていたが、意識の半分は雪月花の開口部へ残したままだった。
穴の空いた中心。
その向こう。
まだ何かいる。
そう考えたほうが自然だった。
(……攻撃? いや、それにしては……)
最初に浮かんだ答えは単純だった。
キョウカの防御を突破するために放たれた攻撃。
現状だけ見れば、それがもっとも筋が通っている。
断層の内側に敵がいて、閉じ込められた空間から外へ出るため、雪月花へ向けて高密度の魔力を撃ち込んだ。
それなら穴が開いた理由も説明できる。
だが、ココの中でどうしても引っかかるものがあった。
攻撃にしては、魔力の残り方が妙だった。
通常、魔力を推進力や破壊力へ変換した投射物は、目標へ接触した時点でその多くを消費する。物理的な矢なら運動エネルギーを失い、魔術であれば構築した術式が崩壊し、残った魔力は周囲へ拡散する。
ところが、雪月花を貫通してなお、あの飛翔物は高い密度を維持していた。
つまり、あれは「壁を壊すために力を使い切ったもの」ではない。
もっと先に目的がある。
あるいは――雪月花を破ること自体が、そもそも主目的ではなかった。
そう考えた途端、弦へ掛けた指にわずかに力が入った。
予測していなかった現象が視界へ割り込んだ時、人はまず、それを既知の何かへ当てはめようとする。
攻撃。
投射物。
突破。
そう分類できれば、対処も決まる。
だが今回は、その分類がまだ固まらない。
何が起きたのか。
どこから来たのか。
何を狙っているのか。
その三つの答えが同時に揃わないまま、飛翔物だけが先へ進んでいる。
だから、この場にいる者たちの動きにはほんのわずかな焦りが混じっていた。
誰も取り乱してはいない。
けれど、普段なら一つの判断へ使える半呼吸ほどの時間が、今回は足りない。
ココも例外ではなかった。
それでも弓を構えられたのは、理屈より先に、戦場で何度も磨いてきた感覚が反応したからだ。
敵意と断言できるほど明確ではない。
殺気とも違う。
ただ、こちらへ向けられた何らかの意思がある。
その輪郭だけは感じ取れた。
問題は、その輪郭へ「攻撃対象」という名前を与えるより先に、状況が進んでいたことだった。
ゴボッ
何かがこぼれる音。
それは繊細な肌触りを含んでいて、かつ重厚だった。破裂したわけではない。何かが、“破れた”わけではない。しかし——
キョウカの意識は、断層の表面に向けられていた。
ココと同様、シールドを壊した「物体」が“シールドを壊すための攻撃である”と、判断していたがためだった。キョウカの次なる意識は、「シールドの修復」に向けられていた。雪月花が破損した箇所を治すように目まぐるしい速度で収縮したのは、その意識が”破壊された“という認識の最短距離に紐付いていたからだった。
その判断自体は間違いではなかったと言えるだろう。この場にいる誰もが、断層の内部を塞ぐためにその選択への意識を最初に注力したはずだ。
シールドが破壊された直後の、取るべき一つの行動としては。
反応が、——わずかに遅れた。
ココは弓を引き上げながら、ほんの一瞬だけ狙いを定めきれずにいた。目の前を横切った飛翔体は、誰か一人を狙って放たれたものではなく、軌道の終点そのものが雪月花の防護領域へ設定されていたように見える。つまり、あれの目的が最初からシールドの破壊だけだったのなら、すでに役目は終わっている。
ならば、本当に警戒すべき場所はどこなのか。
ココは視線をずらした。
――防壁の向こう。
飛翔体が通過した穴、そのさらに奥で、断層側からこちらへ押し寄せている魔力の奔流。
矢を向けるべきなのは、目の前を飛び去った残骸ではない。何かが侵入してくる可能性を考えるなら、その「入口」を押さえるべきだった。
選択そのものは間違っていない。
断層が外部空間と接続している以上、そこから第二波、あるいは本体そのものが現れる可能性は捨てきれない。まして、先ほど雪月花を貫いた一撃は、単純な投射魔法として片づけるには魔力密度が高すぎた。攻撃のためだけに、あれほど大きなエネルギーを一点へまとめたとは考えにくい。
ココは弓を構え直し、矢の先端をただ一箇所へ重ねるように意識を研ぎ澄ませた。
その時だった。
視界の端を横切っていた飛翔体が、空中で何かへ衝突したように膨らんだ。
音は小さい。
けれど、魔力の変化は明確だった。
薄い膜を内側から破ったような破裂が起こり、黒い飛翔体はまとまりを失って、大小さまざまな断片へ砕け散る。
ココの意識が、すぐそちらへ引き戻された。
飛散したものは、光の筋を引いていた。
天景楼の真下から見上げていた者たちには、それが夜空を横切る流星群のように見えただろう。ただし、普通の流れ星とは決定的に違っている。
明るくない。
むしろ黒い。
それなのに輪郭だけが淡く発光して見えるのは、黒い物質そのものが光っているからではなく、その周囲で圧縮された大気と魔力がわずかに励起され、境界だけが薄い光膜となって浮かび上がっているためだった。
黒い線の外縁には、墨汁を水へ垂らした時のような滲みがまとわりついている。
けれど、完全な液体にも見えない。
細長く伸びたあとでも途中で千切れず、曲げられれば弾性を持つ素材のように元へ戻ろうとする。表面は水より滑らかでありながら、その内部には粘性を感じさせる遅い揺らぎがあり、さらに細かな粒子が靄となって混ざり合い、黒い本体と境界のないまま流動していた。
液体。
気体。
魔力。
そのどれか一つだけで説明するのは難しい。
むしろ、魔力によって微粒子状の物質が一つの流体として束ねられている、と考えたほうが近かった。
黒い靄――いや、黒い「物質」。
少なくともココには、ただの光や魔力の残滓には見えなかった。
周囲にいた者たちも、異変に気づいて一斉に顔を上げる。
その半歩前で、ココは弓ごと身体を反転させた。
ぱつ、ぱつ、と乾いた破裂音が断続的に響く。
四散した黒い断片の中心へ照準を合わせ、細い指先で弦を引きながら、ココは魔力の流れを追った。
黒い断片は落ちない。
それどころか、散り散りになったあとで運動の規則そのものを変えていた。
一本の細い線が上へ跳ねる。
別の一本は横へ走り、途中で身体を捩るように曲がる。さらにその後方から遅れて飛び出した黒い筋が、一度大きく伸びてから縮み、最初の線を追いかけるように空中を滑っていった。
無数の線が、まるで自分の進路を選んでいるかのように空を泳いでいる。
軽さだけなら糸に近い。
ところが、伸び縮みする動きにはゴムのような弾性があり、曲がる角度は気流に流された物体のそれではない。
一度弾けた場所から、重力へ逆らうように黒い線が次々と持ち上がる。
細い。
速い。
そして、不自然なほどよく曲がる。
ココには、それが無数の蛇に見えた。
もちろん、本当に生物というわけではないだろう。
見る者によっては、黒い稲妻。
ある者には、ほどけた糸。
あるいは、空中へ撒き散らされた血管のようにも見えたかもしれない。
けれど、ココが問題だと感じたのは形ではなかった。
動きだ。
「……やっぱり、減ってない」
小さく漏れた声のそばで、目の前で起きている違和感を再度確かめる。
先ほども述べたように、投射された魔力は距離と時間に比例して拡散する。
術者の身体から切り離された時点で供給源を失い、周囲の自然魔力との濃度差によって少しずつ外へ漏れ出していくためだ。術式によって殻を作れば減衰を遅らせることはできるが、それでも完全には防げない。
まして、今のように一つの飛翔体が数百、数千の断片へ分裂したなら、表面積は飛躍的に増える。
同じ体積の物体でも、細かく砕けば空気へ触れる面が増えるのと同じで、魔力も小さく分けるほど外部へ散逸しやすい。普通なら、あの瞬間こそ急激に弱くなるはずだった。
なのに。
——増えている?
少なくとも、ココの感覚ではそうだった。
一本一本の黒い線が強くなったというより、空域全体に存在する魔力の総量が膨らんでいる。
「なんで……?」
遠隔操作型の魔法なら、術者が外部から魔力を送り込んでいる可能性はある。
けれど、それにも限度がある。
距離が離れるほど送信損失は増え、まして高速で飛び回る無数の断片すべてへ正確に供給を続けるとなれば、術式の制御負荷は跳ね上がる。
それ以上に奇妙なのは、増え方だった。
じわじわ供給されたのではない。
破裂した瞬間を境に、空域全体の魔力密度が一段階跳ね上がっている。
飛び終えたミサイルが着弾地点で爆薬を起爆するように、それまで内部へ閉じ込められていた別のエネルギーが、構造の崩壊をきっかけとして一斉に解放された――そう考えれば、現象だけなら説明できる。
つまり。
あの飛翔体は、飛ぶための魔力とは別に、内部へ何かを抱えていた。
ココが視線を向けたのは、黒い物質が飛散したからではない。
その少し前、目には見えない魔力圧の跳ね上がりを感じ取ったからだった。
爆発。
そう呼ぶのが、一番近い。
ただし炎も熱もない。
放出されたのは、黒い物質と、それを束ねていた膨大な魔力だった。
四方へ広がっていた黒い線が、大きく弧を描きながら上空へ伸びる。
一見すると無秩序だった。
しかし、ココはすぐに違うと気づく。
「……戻ってる?」
散っていたはずの線が、それぞれ別々の方向から同じ場所へ向かい始めていた。
一本ずつ見れば複雑に湾曲している。
ところが全体で眺めれば、中心点だけは一致していた。
まっすぐ戻るのではない。
螺旋を描く。
遠回りしながら角度を変え、互いの線と交差することなく、ある一点を中心として周回し始める。
数え切れないほどの軌道が、空に巨大な球面を描いていった。
そこでココは、もう一つの異常に気づいた。
黒い線は、中心へ吸い込まれているわけではない。
中心から一定の距離を保ちながら、その周囲を回っている。
もし単純な引力だけなら、すべては最短距離で中央へ落ち込むはずだ。
けれど実際には、内側へ向かう力と横方向へ流れる力が釣り合い、黒い物質は中心へ衝突することなく周回している。
——〈渦〉だった。
水の渦と同じように、内側へ引き込む流れと回転方向の速度が同時に存在し、その二つが黒い線を螺旋軌道へ閉じ込めている。
ただし、水と違って重力はほとんど関係していない。
中心に形成された高密度魔力場が周囲との間に強い勾配を作り、黒い物質を内側へ引き寄せる一方、それぞれの断片が持っていた運動量が完全には失われず、横方向の速度として残っている。
その結果。
黒い線は落ち込まず。
逃げもせず。
中心の周囲を巻きながら、少しずつ密度を上げていく。
空中に、一つの球が作られ始めていた。
黒い渦。
初めは人間一人を包む程度だったものが、周囲の線を取り込むにつれて膨らみ、その外縁では大気が押し退けられて細かな乱流を起こしている。
空間そのものが歪んでいるように見えるのは、そのためだった。
厳密には空間が曲がっているのではない。
急激に高まった魔力密度によって周囲の空気が圧縮され、温度と密度に局所的な差が生まれ、光が通過する際の屈折率まで不均一になっている。
熱い路面の上に陽炎が浮かぶ現象に近い。
ただし、原因になっているのは熱ではなく魔力だ。
球の輪郭越しに見える天景楼の屋根が、わずかに揺れて見えた。
黒い線と線が幾重にも絡み合う。
一本が外側を回り。
別の一本がその内側へ潜り込み。
さらに細かな靄が隙間へ入り込みながら、球体の密度を埋めていく。
中心へ向かう魔力の流れは、狭い水路へ大量の水を一度に流し込んだ時のように滑らかではなく、細かな渦と逆流を何度も作りながら絶えず形を変えていた。
それでも、全体としての形だけは崩れない。
むしろ時間が経つほど、球面ははっきりしていった。
ゴォ……、と低い音が天景楼の周囲へ広がる。
空気を押し退ける振動だった。
音というより、巨大な鼓動が大気そのものを震わせているように近い。
一度。
間を置いて、もう一度。
球体が脈打つたびに表面の黒い靄が膨らみ、すぐに内側へ引き戻される。
ココは弓を構えたまま、その中心を見つめていた。
飛翔体は消えていない。
役目を終えて砕けたのでもない。
あれは、最初からここまでが一つの工程だったのだ。
防壁を破る。
内部へ入り込む。
外殻を捨てる。
保持していた魔力と黒い物質を解放する。
そして、散らしたすべてを別の形へ組み直す。
やがて幾重もの黒い線が輪郭の内側へ収まり、細かな靄が最後の隙間を覆っていく。
天景楼の上空。
夜の中心を押し退けるように。
黒い靄に覆われた巨大な球体が、そこに完成していた。




