第61話 境界のこちら側へ
「……っ」
とおるは息を止めた。
それは音でも光でもなく、魔力反応と呼ぶにはあまりに小さく、死んだ母獣の体内に残った霊素が風や地脈の揺れに合わせて遅れてほどけただけだと言われれば、少し前のとおるなら頷いてしまったかもしれない程度の頼りなさだった。けれど今の彼はミレイユの脇腹へ貼りつけた止血用の薄い境界を維持していたせいで、普段よりもずっと細い「こちら」と「あちら」の差へ意識が向いていた。
血が外へ出ようとする力と、内側へ留まろうとする力。
その境目を指先で押さえているような感覚のまま祈ったせいで、遠く離れた別の場所にあるごく弱い境目の揺らぎまで拾ってしまったのだろう。一本の蜘蛛の糸を何メートルも先まで伸ばし、その先端を風ではなく小さな生き物がほんの少し引いた時のような——頼りなくばらつきがあって、それでも確かに「何かがまだこちら側へ戻ろうとしている」と思わせる震えだった。
「……ミレイユさん」
とおるの声は自分でも驚くほど低くなった。供えた花の前で膝をついていたアスカが振り返り、ミレイユも左脇腹を庇いすぎないよう慎重に姿勢を変えながら彼の顔を見た。二人とも、冗談で空気を軽くする場面ではないとすぐに分かったらしい。
「腹の奥を、見てもらえますか。グラド・バルムの……子どもがいるはずの場所です」
その言葉が落ちると、崖下を流れていた風の音まで一拍だけ遠くなったように感じられた。希望が湧いた、などという軽い表現は似合わないし、何より目の前には巨大な死が横たわっている。砕けた甲殻に裂けた腹部、黒緑色に変色した侵食痕と血と体液を吸って重くなった土、わずか前まで腹の子を守るために杭脚を地面へ打ち込んでいた母獣の、もう二度と持ち上がることがない胸郭。そこにあるものは確かに取り戻すことができない時間で、だからこそまだ何かが残っているかもしれないという言葉は、救いというよりも冷たい刃物のように鋭く胸の中へ入った。
「反応があったのか」
ミレイユの問いに、とおるはすぐに首を振った。
「断言はできません。勘違いかもしれないし、ヴァルガの根が抜けたあとの残りかもしれないです。でも、母体の魔力とは違う気がします。すごく弱いんですけど、ただ漂っているだけじゃなくて……小さく縮んで、戻るみたいな周期がある」
ミレイユは〈鳴神〉を鞘へ戻し、深く息を吸った。彼女は治療術師でも魔獣生態官でもない。エルネのような精密測定の専門家でもない。それでも白華隊の騎士として、傷病者の魔力循環や魔獣の残存霊素を確かめる基礎は叩き込まれているし、何より彼女の〈白雷〉は敵を貫くために走らせるだけの力ではない。神経を起こし、筋肉を繋ぎ、足場を探し、世界へ置いた自分の雷へ体重を預けることすら覚え始めたその雷は、細く絞れば、肉の奥にある霊素の揺れを拾う探査糸にもなった。
白い光がミレイユの指先から糸のように伸びる。アスカは無言で立ち上がり、グラド・バルムの頭部近くに置いた花へ一度だけ視線を落としてからとおるたちのそばへ戻った。空から降りてきた三体の災害級魔獣が去ったあと、崖下には皮肉なほど静かな時間が流れている。
草の擦れる音、遠くの鳥の声、血を吸った土がわずかに沈む湿った音。
つい先ほどまで雷と槍と水と怒号が交錯していた場所とは思えない静けさの中で、ミレイユは母獣の腹部へ白雷を触れさせない距離で沈めながら見えない奥を慎重に撫でるように探った。
グラド・バルムという魔獣は、外から見える印象だけで判断すると、ただ「巨大で硬く、動かすのがひどく面倒な甲殻獣」に思えてしまう。けれど実際には、彼らの身体は周囲の地質と自分自身の生命活動を長い時間かけて混ぜ合わせるように作られており、背中の甲殻は生まれた時から砦の壁のように厚いわけではなく、幼体の頃に持つ比較的滑らかな殻へ土、砂、鉱物、苔、植物繊維を少しずつ吸着させ、体内から分泌する粘ついた殻蝋で固め、それをさらに魔力回路で生体組織へ置き換えていくことで、年を経るほど土地そのものに似た殻へ変わっていく。彼らは地面に座るのではなく、地面と一体になる。杭脚を打ち込むのは踏ん張りではなく、地脈へ自分の体重と魔力循環を預ける行為であり、出産期の雌が「ここは安全だ」と認識した場所から離れなくなるのは、怠惰でも鈍重でもなく、腹の中に抱えた育殻嚢を安定した地脈へ接続し続けるための生存戦略だった。
その育殻嚢こそ、今回の希望と危険の中心だった。グラド・バルムは卵を外へ産み落とす種ではなく、母体の腹腔内に石灰質と柔軟な膜が重なった袋状の器官を作り、その中で胎仔を育てる。育殻嚢は外敵の衝撃から胎仔を守るだけでなく、母体の血と土属性魔力を濾過し、胎仔が受け取れる穏やかな霊素へ変える緩衝器でもあるらしい。出産が近づいた胎仔は完全に母体任せで生きているわけではなく、自分自身の小さな霊素循環を持ち始める。とはいえ、それは外の世界で独立して生きるにはまだ頼りなく、母体の心臓と地脈接続が止まれば育殻嚢の中はゆっくりと冷え、濁り、胎仔へ渡るはずだった呼吸の前段階のような霊素も失われていく。
つまり、今腹の奥に何かがいるとしても、それは「助かった」という意味ではなかった。むしろ、母体が死んだあとで、まだ完全に消えていない猶予が残っているだけにすぎない。王都へ連絡し、白華本部へ事情を送り、神殿庁の治療術師と魔獣生態官を呼んで必要な器具を揃え、現場へ来てもらう。その流れが最も正しく安全で、最も責任ある手順のはずだった。ただその正しさは、相手が到着まで生きていられるという条件の上にしか成り立たない。
やがて、ミレイユの眉がわずかに動いた。
「……いる」
たったそれだけの言葉で、アスカの目が大きく開かれた。
「ほんとに?」
「ああ。母体の大循環は完全に止まっている。〈蝕根〉に吸われた痕もひどい。腹部外側の組織はかなり壊れているし、通常なら生存反応は期待できない状態だ」
ミレイユはそこで一度呼吸を切り、指先の白雷をほんの少しだけ細めた。
「それでも奥に、一つだけ小さな霊素循環が残っている。かなり弱いが、母体の残留魔力ではない。縮み、戻り、また縮む周期がある。胎仔自身の循環だと思う」
「子ども……」
アスカの唇からこぼれた声は、自分でもそこまで掠れるとは思っていなかったのか、最後の一音だけがひどく頼りなく途切れた。
その隣でとおるもまた、胸の奥を内側から強く掴まれたような感覚に襲われ、反射的に息を止める。
――生きている。
少なくとも、まだ完全には消えていない。
母獣が死んでいることは、もう疑いようのない事実だった。槍に貫かれた巨大な身体から生命の気配は失われ、残留する魔力さえ今なお何者かに吸い上げられている以上、奇跡という言葉を都合よく持ち出して「もしかしたら」と期待できる段階ではない。
けれど、その死んだ母体のさらに奥。
分厚い肉と甲殻に守られた腹部、その内部に形成された育殻嚢の中で、母親と同じように魔力を奪われながらも、ひどく弱々しい何かが消えかけた火種のような周期をまだ刻んでいる。
強い生命反応ではなかった。
むしろ、今にも途切れそうだった。
それでも、ゼロではない。
生きている。
その事実を理解した途端——とおるは唇を噛んだ。
そして何の前触れもなく、遠く離れたクルム村の匂いが記憶の底から蘇ってきた。
雨上がりの納屋に籠もる湿った藁の青臭さ、ひっきりなしに湯を沸かす竈から漂ってくる煙、乾いた布が足りないと分かるや否や家々を駆け回った子どもたちの足音、その騒がしさを押し潰すほど大きかった母獣の荒い呼吸――そして何より、「脚だけ引っ張るな!」「鼻を拭け、鼻!」「息してるか見ろ!」と、こちらが考える暇すら与えず怒鳴りつけてきた村の老人たちの声。
とおるは獣医ではない。
日本にいた頃をどれだけ遡ってみても、動物の出産に立ち会った経験など動画の向こう側にしかなく、まして自分の手で取り上げる側へ回る未来など、異世界へ飛ばされる未来と同じくらい想像したことがなかった。
ところがクルム村では、そんな経歴の有無など「で、それが今なんの役に立つ?」の一言で吹き飛ばされる。
人手が足りなければ呼ばれた。
呼ばれた以上は湯を運び、言われるまま布を渡し、暴れる母獣の頭を必死に押さえつけ、ようやく産道から滑り出てきた濡れた小さな身体を受け取れば、鼻と口を塞いでいる粘液を拭い取る。
それでも息をしない時には、「見てないで擦れ!」と怒鳴られ、何が正解なのかも分からないまま、壊してしまいそうな小さな胸を震える手で何度も擦った。
普通に怖かった。
綺麗なものでもなかった。
命が生まれる瞬間というのは、もっと神聖で、もっと感動的で、何かこう――胸の奥から自然に音楽でも流れてきそうなものだとどこかで勝手に思っていた。
現実はそんな親切な演出を用意してくれず、血も出れば体液も飛ぶし、母獣は苦しげに鳴いて取り上げる側は汗だくになり、感動する余裕より「これ、本当に大丈夫なのか」という恐怖のほうが先に胃袋を締め上げてくる。
けれど。
ぐったりしていた小さな身体が突然びくりと震え、濡れた鼻先から初めて空気を吸い込んで、その胸がほんのわずかに持ち上がった瞬間だけは――今でも妙に鮮明に覚えている。
手のひらの中にあったものがただの肉の重さから「生き物の重さ」に変わる、あの一瞬を。
だからだろう。
「……出せませんか」
気づいた時には言葉が口から出ていた。
直後、自分でも無茶を言ったと思った。
案の定、ミレイユの視線が刃物のように鋭くなる。
「とおる」
名前を呼ばれただけで、その先に続く言葉の半分くらいは察せられた。
「分かってます」
とおるは逃げずにその視線を受け止める。
「クルム村でやったこととは全然違う。あれは家畜で、こいつは災害級魔獣です。俺は獣医でも魔獣の専門家でもないし、そもそも胎児がどっちを向いてるのか、育殻嚢が腹のどこに固定されてるのか、槍の傷が内部までどれだけ達してるのか――今の俺には、何ひとつ正確には分かってません」
「そこまで分かっているなら、なおさら簡単に口にするな」
ミレイユの返答は早かったが、怒鳴り声にはならなかった。
むしろ声量を抑えたぶん、一つ一つの言葉が重い。
「これは家畜の難産ではない。成体なら城壁の一部を単独で破壊しかねない災害級魔獣だぞ。母体が死亡したからといって、腹を切り開けば幼体を救えるなどという単純な話ではないし、育殻嚢が今も内部環境を辛うじて維持しているなら、私たちが善意でそれを破った瞬間、残されていた数分を数秒に縮める可能性だってある」
白い指先が、母獣の腹部へそっと向けられる。
「そもそも幼体がこの発育段階で外気に耐えられる保証がない。出生と同時に肺呼吸へ移行する種なのか、それとも育殻嚢から出たあともしばらく母体の魔力供給を必要とするのか、最初に取り込まなければならないものが空気なのか、地脈魔力なのか――グラド・バルムの繁殖例そのものが少なすぎる以上、私たちは何ひとつ断定できない」
「……はい」
「本来なら触るべきではない。王都へ緊急連絡を入れ、魔獣生態に詳しい専門家を呼ぶ。必要な器具も、人員も、幼体を維持するための設備も揃えたうえで――」
「たぶん、間に合いません」
とおるは、強く遮ったわけではなかった。
声を荒らげてもいない。
ただ、ミレイユの言葉が次へ進む、そのほんのわずかな隙間へ静かに差し込んだだけだった。
だからこそその一言は妙にはっきりと残った。
ミレイユが口を閉じる。
正しい手順なら分かっている。
王都へ知らせる。
専門家を呼ぶ。
状態を調べる。
安全な方法を検討する。
どれも間違っていないし、本来ならそうするべきなのだろう。
けれど正しい手順というものは、その手順が終わるまで救う相手が待っていてくれる場合にしか意味を持たない。
今この瞬間にも、ミレイユの指先が感じ取っている小さな周期は弱くなっている。
一度。
また一度。
母獣の腹の奥で繰り返されるそれは、助けを求めているようにも聞こえなければ、生きようと力強く足掻いているようにも感じられず、ただ残されたものを少しずつ使い果たしながらそれでも次の一回へ繋ごうとしている。
もし専門家を待っているあいだに、その周期が途切れたら。
その時になって「手順としては正しかった」と確認したところで、目の前に残るのは正しく救えなかった命がひとつ増えたという結果だけだ。
安全な判断とは、いつだって時間を味方につけられるわけではない。
待つことが慎重さになる時もあれば、ただ手遅れになるまで何もしなかったという意味に変わる瞬間もある。
「…………」
アスカはまだ何も言わなかった。
赤褐色の瞳だけが静かに動き、まず母獣の腹部を見て、次にとおるの右手へ移り、最後に生命反応を探っているミレイユの白い指先で止まる。
彼女は「まだ生きている」「なら助けよう」という、真っ直ぐで耳触りのいい言葉へ飛びつかなかった。
冷たいからではない。
むしろ逆なのだろう。
助けたいと思うことと、助けられることが別物だと知っている。
手を伸ばすという行為が、いつだって優しい結果へ繋がるわけではないことも。
何よりアスカはこれまで、目の前の命を奪う必要に迫られるたびに自分が振るう刃の向きとその理由を間違えないように生きてきた。
殺さなければならない時、何のために殺すのか。
殺さずに済むなら、なぜ殺さないのか。
その境界を曖昧にしたまま剣を振るえば、いつか自分にとって都合のいい理由だけで命を選別する人間になる――彼女はたぶん、それを誰より嫌っている。
だから今も同じなのだ。
助けるなら、何のために助けるのか。
助けたいという感情だけで腹を裂き、その結果として残された命をこちらの手で終わらせたとしても、それを「仕方がなかった」の一言で片づけられるのか。
アスカは黙ったまま、そこまで考えているように見えた。
やがて彼女の右手が、ごく自然な動きで腰の剣へ触れる。
抜くためではない。
ただ、そこにある刃の位置を確かめるように。
殺す理由を間違えないため、何度も自分の中で刃の向きを測ってきた彼女は――おそらく今、生まれて初めてと言っていいほど真剣に、
助けるために振るう刃を、どちらへ向けるべきなのか。
それを測っていた。
「取り出すと決めているわけではありません」
とおるは喉の奥へ引っかかった焦りを無理に飲み込みながら、できるだけ柔らかい声でそう言った。柔らかく言わなければ、自分の中にある恐怖がそのまま言葉へ混ざって、目の前にいる二人にも余計な不安を渡してしまいそうだったからだ。
「まずは、中がどうなってるのか確かめます。育殻嚢がまだどこまで保っているのか、ヴァルガの槍がどの層まで突き抜けて、どこで止まってるのか。それから、子どもの位置と向きも見たい。そこが分からないまま手を出すのは……さすがに怖すぎます」
言葉を切ったところで、とおるは傷口へ目を落とした。
外から見えているものだけを頼りに「たぶんこの辺だろう」と当たりをつけ、壁を生み出すこと自体はできるのかもしれない。けれどその壁が育殻嚢だけを押し分けてくれる保証などどこにもなく、ほんのわずか位置を誤れば、守るつもりで作ったものが母体や子どもを傷つける刃に変わる――そんな賭けに命を載せられるほど、とおるは自分の能力を信用していなかった。
「見えてない場所を勘で切り分けるような真似はしたくありません。俺の能力はたぶん、そういう使い方をするものじゃないし……」
そこまで言ったところで、とおるは一度口を閉ざした。
自分の中には確かな感覚があるのに、いざ他人へ説明しようとするとその輪郭だけがするりと逃げていく。本人にもまだ理屈のすべてが分かっているわけではない以上、下手に断言するのも違う気がしたのだろう。
とはいえこの場で「なんとなくできそうです」などと言えば、目の前のミレイユがどんな顔をするかくらいは想像できる。
とおるは困ったように眉尻を下げ、小さく息を吐いた。
「うまく言える自信はないんですけど」
とおるは自分の右手を見つめた。
魔力を流せば、そこには〈壁〉が生まれる。
敵の攻撃を受け止める板になったこともあれば、傷口から血が失われるのを防ぐための蓋になったこともあり、足場のない場所では身体を預けられる床にもなった。形も大きさも用途もその都度ばらばらだったが、とおる自身はずっとそれらをひとまとめにして「壁を作る能力」なのだと考えていた。
何かが来るなら、防ぐ。
何かが漏れるなら、塞ぐ。
足元に何もないなら、支える。
そういう能力なのだと思っていたし、実際、その単純な理解だけでも何度となく命を拾ってきたのだから、それをわざわざ疑う理由もなかった。
けれど――今、自分たちがやろうとしていることにはそのどれも少しだけ当てはまらない。
必要なのは力ずくで何かを押さえ込むことではない。
まして見えないものへ刃物を入れるように、勘任せで切り離すことでもない。
「俺の壁って……たぶん、ただ『止める』だけじゃないんですよ」
確かめるように呟きながら、とおるは右手をゆっくり開いた。
「今まではずっと、攻撃を止めるとか血を外へ出さないとかそういう使い方ばかりしてたから、〈壁〉ってそういうものだと俺も思ってました。でもよく考えたら……壁がやってることってそれだけじゃないんです」
「それだけじゃない?」
「はい。たとえば、こっち側と向こう側があって、本当なら触れたり、流れ込んだりするはずのものをその間に壁を置けば――そこで止められる」
言葉にするほど、自分の中にあった曖昧な感覚が少しずつ形を持ちはじめる。
とおるは右手の人差し指を立て、何もない空間へ一本の線を引くようにゆっくり横へ滑らせた。
「だから……物を押さえ込むためだけじゃなくて、本来なら混ざっちゃいけないもの同士の間に入って、そこから先へ行かせないこともできるんじゃないかって」
「……混ざっちゃいけないものを?」
「はい。切るためじゃなくて――境目を作るためです」
そう答えながら、とおるはグラド・バルムの腹へ視線を戻した。
裂けた甲殻の向こうには血と体液に濡れた暗い空洞が口を開けており、手元の淡い光を少し傾けるたびにそのさらに奥で石灰質を含んだ乳白色の膜がぬらりと光っては、また影へ沈んでいく。
おそらく、あれが育殻嚢だ。
以前、資料の中で何度か見たことがある――母体の腹腔内に形成される“胎仔を包むための生きた殻”。
ただし卵の殻のような硬い箱ではなく、外から加わった衝撃を逃がして内部の温度と湿度を一定に保ち、さらに母体を巡る土属性の霊素を穏やかな濃度へ濾して胎仔へ渡す、いわば子宮と保育器と緩衝材を一つにまとめたような器官だったはずだ。
そして今、その役目を支えていたものはほとんど失われている。
母獣の心臓は止まり、地脈との接続も途切れた。
つまりあの乳白色の膜の中に残されているのは、もはや胎仔を守り続けてくれる安全な胎内ではない。
温度を失い、霊素の循環を失い、少しずつ濁りながら死へ近づいている――最後の部屋だ。
「俺がやるべきなのは、赤ちゃんを無理やり引っぱり出すことでも、母体を大きく切り開くことでもありません」
言葉を選びながら、とおるは右手を腹部へ向けた。
「まず、赤ちゃんがいる場所の周りに境目を作ります。ただ硬い球で囲うんじゃなくて……育殻嚢の中に残ってる環境を、そのまま少しだけ切り取って持ち出すような感じで」
「……環境を?」
アスカが聞き返す。
普段なら「また妙なこと言い始めたね」と半分くらい笑いを含ませるところなのに、今はそうしなかった。
とおるの言葉を途中で判断せず、意味が形になるまで待っている。
「生存領域って言えばいいのかな」
「ずいぶん物騒な名前だね」
「俺も今そう思いました」
ほんの一瞬だけ、アスカの口元が緩んだ。
それを確認してから、とおるは続ける。
「外の空気にいきなり晒さないようにします。育殻嚢の中にまだ残ってる温度と湿り気、それから胎仔の周りにある土属性の霊素までまとめて、壁の内側へ留める。逆に、母体側から流れ込んでくる血とか、崩れた組織とか、冷たい外気とか、刃物の圧力みたいなものは入れない」
「完全に閉じ込めるわけじゃないんだな」
ミレイユが確認するように言うと、とおるは頷いた。
「はい。そこは閉じちゃ駄目です。胎内環境をずっと維持できるわけじゃない以上、いずれ外へ移行させないといけない。もしこの子が自力呼吸へ切り替われるなら、その時に壁を少しずつ外へ繋げられるようにしておきたいです」
口にしてみると、自分でも呆れるほど無茶な話だった。
壁は温度を生み出してくれない。
酸素を作ることもできなければ、母体の代わりに栄養を送り込むこともできない。
ましてや、とおるは治療術師ではない。
けれど。
ミレイユの傷口で、流れ出す血と外気の境界を一時的に留めることはできた。
ノエの杭では、自分と影との繋がりをひとつの塊として扱わずに切り分けることができた。
なら、何かと何かが混ざり合った時に壊れてしまうその場所へ。
――まだ混ざるな。
そう言って、細い一本の線を引くくらいなら。
今の自分にも、手が届くかもしれない。
「つまり」
ミレイユが、グラド・バルムの腹ととおるの手を交互に見た。
「胎仔そのものを壁で包むのか?」
「包みます。でも、押さえつけるためじゃありません」
とおるはすぐに首を振った。
「赤ちゃんの身体へ直接ぴったり壁を貼りつけたら、たぶん駄目です。圧迫するし、体勢も変えられなくなる。だから囲うのは、胎仔のすぐ外側に残ってる殻液と霊素まで含めた範囲です」
説明しながら、空中へ両手で小さな球を作る。
「赤ちゃんを箱に入れるっていうより――赤ちゃんが今いる部屋だけをそのまま切り離す感じです。その部屋の壁を、俺が代わりに作る」
「で」
アスカが静かに問う。
「その部屋ごと、どうやって外へ出すの?」
とおるは一度だけ息を吸った。
「アスカさんに切ってもらいます」
赤褐色の瞳が、すっと細くなる。
「……〈緋燕〉で?」
「はい」
「本気?」
「かなり嫌ですけど、本気です」
正直に言うと、アスカはわずかに眉を上げた。
単に中にいる赤ちゃんを無理やり取り出すという考えなら、とおる自身がまず真っ先に止めていたであろう案だ。
戦闘用の刃、それも〈緋燕〉ほど鋭い武器を出産処置へ持ち込むなど普通に考えれば危険すぎる。
しかし今この瞬間に限っては、切れすぎることが問題なのではない。
迷いながら時間をかけることのほうが、はるかに危険だった。
育殻嚢はすでに傷み始め、殻液も少しずつ漏れている。
母体の循環が止まった状態で長時間そこへ触れ続ければ胎仔の反応はさらに弱まり、周囲の組織も形を保てなくなっていく。
だったら。
守るべき範囲を、とおるが先に決める。
その外側だけを、アスカが迷わず一度で開く。
小さな刃で恐る恐る進むよりも結果として傷を少なくできる可能性は高い。
「俺が先に、胎仔の生存領域を壁で囲います」
とおるは腹部を指した。
「そのさらに外側に、“ここまでは切っていい”っていう境界を作る。アスカさんには、今ある傷口から育殻嚢までを一息で開いてもらいたいです」
「一息で」
「途中で探りながら止まるより、そのほうがいいと思います」
「もし〈緋燕〉が壁まで届いたら?」
「そこで俺が受けます」
アスカの眉が寄る。
「壁ごと斬っちゃわない?」
「斬らせません」
そう即答してから少しだけ考え、言い直した。
「……いや、違うな。壁で刃を受け止めるんじゃありません」
「違う?」
「刃が切る対象から、壁の内側を外すんです」
今度はミレイユまで表情を変えた。
とおる自身、説明しながら頭の中に像を作っていく。
「アスカさんの〈緋燕〉が切るのは、死んだ母体組織と、もう破れかけてる育殻嚢の外側だけ。胎仔と、その周囲の殻液は“切る側”に含めない」
「待て」
ミレイユが鋭く遮った。
「言葉では簡単だが、壁を硬くすれば胎仔を圧迫する。かといって柔らかく作れば、〈緋燕〉の切断力を防げないだろう」
「だから、硬さで止めないんです」
とおるは右手を握り、それからゆっくり開いた。
指先が震えている。
けれど、隠そうとは思わなかった。
怖い。
当然だ。
ひとつ間違えれば、守ろうとしている命を自分の力で潰しかねない。
だからこそ“怖いから頑丈にする”という安直な答えを、易々と選んではいけない。
「〈緋燕〉と赤ちゃんの間に、“刃が届いた結果”だけを入れないようにするんです」
「結果?」
「リディアさんの時みたいに、身体そのものまで巻き込まない。さっきみたいに繋がってるものを全部ひとまとめにせず、関係を分ける」
喉の奥が乾く。
それでも、とおるは続けた。
「刃と、切っていいもの。刃と、切っちゃいけないもの。その間に一本、線を引く」
一拍置いて。
「……たぶん」
自分の右手を見た。
「俺の壁って、本当はそっちなんだと思います」
言葉にした瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
自分で口にしてしまった以上、もう「ただ壁を出しているだけです」では済まされない。
これまで壁を生み出す時は、頭のどこかにはいつも“硬い何か”の像があった。
殴られても割れない板。
矢を弾く透明な面。
味方が走るための足場。
ミレイユの傷口に使った時でさえ、「血を外へ漏らさないための薄い蓋」という程度に考えていた。
けれど。
今、必要としているものはそのどれとも少し違う。
胎仔の周囲にある小さな世界をひとまず壊れないよう保つ。
その外側が切り開かれても、内側まで同じ出来事に巻き込まれないよう分ける。
さらにアスカの刃についても、“届いていい範囲”と“届いてはいけない範囲”を切り分ける。
それはもう、壁というより。
境界だった。
守るために何もかも閉じ込めるのではない。
生きたまま外へ出すため、一度だけ内と外の意味を分け直すもの。
「……成功する見込みは?」
ミレイユの声が低くなる。
希望的な返事を求めているわけではない。
だから、とおるも誤魔化さなかった。
「分かりません」
アスカがほんの少しだけ顔を伏せる。
「壁の中でこの子を長時間生かせるわけじゃないです。呼吸を代わってやれるわけでもないし、治療もできない。“生存領域”なんて大げさな名前をつけましたけど、実際には育殻嚢に残ってる温度と霊素をほんの少しだけ逃がさず保つ仮の部屋です」
「ほんの少し、とは?」
「数分あればいいほうだと思います。下手したら、もっと短い」
「おい」
「まだあります」
「あるのか」
ミレイユの眉間の皺が一段深くなった。
「俺が集中を切らしたら終わりです。壁を厚く作りすぎれば胎仔を圧迫する。逆に薄すぎるとアスカさんの刃と内側をちゃんと分けられないかもしれない」
「……お前な」
アスカが、ふっと笑った。
顔は傷だらけで、目元にはまだ乾ききっていないものが残っているのに、その笑みにはわずかばかり普段の彼女が戻っていた。
「相談してる側から、そんなに欠点ばっかり増やしてどうするの」
「俺も安心できる材料を探してるんですよ」
とおるは渋い顔で答える。
「でも現場が全然協力してくれません」
「現場に文句言ってもしょうがないでしょ」
「じゃあ誰に言えばいいんですか」
「神様とか?」
「今回かなり信用落としてます」
小さな笑いが漏れた。
本当に、小さくだけ。
けれどそのわずかな間が終わると、アスカはもう一度グラド・バルムの腹へ目を向けた。
「じゃあ、逆に聞くね」
声から笑いが消える。
「何もしなかったら?」
とおるは答えなかった。
答える必要すらなかった。
ミレイユも口を開かない。
母体の循環は、すでに止まっている。
育殻嚢は損傷している。
胎仔の反応も、少しずつ弱くなっている。
王都から専門家を呼び、設備を整え、正しい手順を確認しているような時間が残されていないことは三人とも分かっていた。
「……やろう」
やがて、アスカが言った。
短い一言だった。
けれど軽くはない。
ヴァルガへ刃を向けていた時の、凍ったような殺意とも違う。
まだ消えていない命を、勝手に“もう駄目だったもの”へ分類しないための声だった。
「私は、この子を守れなかった」
アスカは横たわる母獣を見たまま続ける。
「あいつも逃がした。そこは変わらないし、都合よくなかったことにもできない」
指が、〈緋燕〉の柄へ触れた。
「でも、この中にまだ残ってる命まで“仕方なかった”で見送ったら……次にアイツと会った時、たぶん私は戦う理由を少し間違える」
とおるは何も返せなかった。
慰める言葉も。
正しいと言い切る資格も。
だから代わりに、右手をグラド・バルムの腹へ向けた。
できることなら今すぐに王都から神殿庁の治療術師と魔獣生態官、それから分厚い解剖図と正式な処置手順書、ついでに「この方法で実施して構いません」と書かれた責任者の承認印まで、全部まとめて空から降ってきてほしい。
人生でこれほど稟議書という文明を恋しく思った瞬間はなかった。
もっとも。
承認が下りる頃には患者が死んでいる、などという状況なら。
その立派な紙切れは、結局のところ。
少し高級な墓標にしかならない。
「……ほんと」
とおるは小さく息を吐いた。
「異世界の現場判断、労務環境が荒すぎるんだよな……」
もちろんそんな愚痴をこぼしたところで、目の前の巨大な腹部が「では労働基準監督署へ相談しましょう」と親切に受付番号を配ってくれるはずもなく、血と殻液の混じった重い匂いだけが、現実は書類ではなく今ここで裂け目を広げながら進行中です、と無言で告げていた。
腰袋から清潔な布を引き抜き、右手の汗をそっと拭う。清潔といっても神殿庁の滅菌布などではなく、村の婆さんが「使う前に一回煮とけ」と雑に渡してくれた布である。今この場に医療用手袋も消毒済みの器具もない以上、彼が頼れるのは2人の力と、あとはもう関係各所から後日怒られる覚悟くらいだった。
「俺が変なことを始めたら、止めてください」
右手をグラド・バルムの腹へ向けたまま唐突にそんなことを言ったものだから、アスカが一瞬だけ目を瞬かせた。
「変なことって、どの辺から?」
「壁を厚くし始めたらです」
冗談めかして返された問いに、とおるは笑わなかった。
「怖くなると、俺……守ろうとして、つい頑丈にしたくなるんです。壊れないようにもっと厚く、もっと硬くって。でも今回はそれをやったら、中の赤ちゃんを圧迫してしまうかもしれなくて…」
そこで一度言葉を切り、喉の奥に引っかかったものまで吐き出すように続ける。
「守るつもりで、俺が潰すかもしれない」
それまで彼の案にまだ難色を示していた不安そうなミレイユの目から、ふっと迷いが消えた。
計画そのものを肯定しているわけではないし、顔色だって決していいとは言えない。
それでも「自分に任された役目がある」と理解した瞬間に、彼女の表情は隊を預かる人間のそれへ戻っていた。
「分かった」
ミレイユは短く頷く。
「私が見る。壁の厚みが増えた時点で止める。お前自身が気づいていなくても、だ」
「お願いします」
「胎仔の位置と向きもこちらで追う。白雷を細く流して、生体反応の輪郭だけ拾う」
そこでミレイユは視線をアスカへ移した。
「アスカ。斬るのは、とおるの合図が出てからだ」
「了解」
「それから、壁に当てて止めるつもりで振るな」
アスカの眉が、わずかに動いた。
「壁の手前で加減するのも無し?」
「無しだ。中途半端に止めれば、かえって裂け目が増える可能性がある。とおるが境界を作るなら、お前はそこまで迷わず刃を通せ」
「なるほどね」
アスカは〈緋燕〉の柄へ手を置き、それからとおるのほうを見る。
「じゃあ私からも、ひとつ確認」
「はい」
「私が途中で迷ったら?」
「迷わないでください」
間髪を容れない返答だった。
アスカが、少し困ったように笑う。
「信用の載せ方が重いなあ」
「迷われるほうが怖いんです」
とおるも思わず苦い顔になった。
「切る場所を俺が間違えたなら、あとで好きなだけ怒ってください。でも、斬る瞬間だけは一回でお願いします。何度も刃を入れたらそのたびに育殻嚢が引っ張られる。裂け目が広がったら、たぶん俺じゃ支えきれません」
「……うん」
今度の返事には、冗談の色がなかった。
「任せて」
その一言を聞いて、とおるは小さく頷いた。
怖いなら、見る。
分からないなら、自分に都合のいい答えで空白を埋めない。
見えているところまでは進み、見えなくなったら止まり、動いてはいけないものと動かさなければ助からないものの間にある——ごく細い境目を探す。
それは考えてみれば、これまで何度もやってきたことだった。
ただし今までは、生き延びるためだった。
敵の攻撃を止めるため。
自分や仲間を守るため。
足場を作り、矢を防ぎ、迫ってくる何かへ「ここから先へ来るな」と壁を立てるため。
けれど今日は違う。
今日、この壁を使う理由は。
まだ名前さえ持たない命を、死んだ母体の中から生きている側へ渡すためだ。
右目の奥が、じわりと熱を帯びた。
視界の中で世界が少しずつ意味ごとに分かれていく。
血と殻液。
冷え始めた外気と、育殻嚢の中にかろうじて残る温度。
すでに生命活動を終えた母体組織と、その奥でまだ小さな周期を刻んでいる胎仔の霊素。
これまで「内側」だった場所と、これから否応なく「外側」になってしまう世界。
境目は、目に見える線として存在しているわけではない。
だからこそ、とおるは必死で探した。
どこまでが失われた母体で。
どこからが、まだ守るべき命なのか。
「…………」
息が浅くなる。
焦るな。
厚くするな。
怖いからといって、強くするな。
必要なのは壊れない壁ではない。
混ざってはいけないものを、今だけ混ぜないための境界だ。
「……ここだ」
掠れた声が、ようやく喉から落ちた。
次の瞬間。
グラド・バルムの腹の奥――乳白色の育殻嚢、そのさらに内側に、光とも玻璃ともつかないごく薄い輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
球、と呼ぶには曖昧だった。
硬い殻ではない。
もちろん赤ん坊を閉じ込める檻でもない。
胎仔そのものへ直接触れない程度の隙間を残しながら、周囲の殻液と土属性の霊素までひとまとまりに包み込み、そこに残された温度と湿り気をできるだけ逃がさず、その一方で外から入り込もうとする血液や冷えた空気、崩れた組織、さらには刃によって生じる“切断という結果”だけを外へ留める。
小さな部屋。
育殻嚢が死に切るまでのほんの僅かな時間、その役割を借り受ける仮初めの胎内。
それはとおるがこれまで作ってきたどの壁よりも薄く、頼りなく、力を込めれば簡単に形を変えてしまいそうだった。
それでも。
壁以外の何物でもなかった。
「……入った」
ミレイユの指先を走っていた白雷が、ごく細く震える。
その目は傷口のさらに奥、目では直接追えない胎仔の反応へ向けられていた。
「胎仔の生体反応、全部境界の内側に入っている。殻液もまだ残っている……圧迫による反応低下も、今のところ無い」
一瞬だけ、ミレイユの声に素の驚きが混じった。
「……すごいな、お前」
「褒めるの、あとにしてください」
とおるは顔すら向けずに答えた。
「今それ言われると、自分が急にすごいことやってる気がして、手元が怖くなるんで」
「もう十分すごいことをやっている」
「だから言わないでくださいって」
「なら黙って続けろ」
「はい」
妙なやり取りではあったが、少なくとも声を出したおかげで呼吸は戻った。
ミレイユもすぐに表情を引き締める。
「左下。母体組織が垂れ込んでいる場所がある。そこを開けば育殻嚢まで一直線に通る」
とおるは視線だけをアスカへ向けた。
彼女はもう笑っていなかった。
親指が〈緋燕〉の鍔を静かに押し、鯉口が切られる。
鞘の内側から現れた薄い刃が、ほんのわずかに光を返した。
戦場で何度も見た抜刀とはまるで違っていた。
いつもの〈緋燕〉は敵が立っていた場所から命を消すための刃だ。
振るわれた後には、何かが終わる。
けれど今は。
閉ざされた場所の中に残っている命をこちらへ連れ出すため。
切ってよいものだけを切り、切ってはいけないものへ刃を届かせないために抜かれる。
「アスカさん」
「うん」
返事は穏やかだった。
「境界まで、お願いします」
「分かった」
それだけだった。
大丈夫とも。
絶対に失敗しないとも。
そんなことは誰も言わなかった。
とおるは大きく息を吸い、もう一度だけ境界の輪郭を確かめる。
刃と胎仔の間。
刃と生存領域の内側。
切るべき母体組織と、切ってはいけない小さな部屋。
厚くするな。
硬くするな。
ただ、混ぜるな。
「――今です」
〈緋燕〉が走った。
驚くほど、音は小さかった。
大きく振りかぶることもない。
炎も、衝撃も、戦場で人目を引くような派手さもなかった。
アスカの重心がほんのわずかに沈み、次の瞬間には鞘から解き放たれた刃が血に濡れた腹部の裂け目へ滑り込んでいる。
一閃。
それだけだった。
ミレイユが示した経路を過不足なくなぞりながら、〈緋燕〉は壊死した母体組織を断ち、崩れかけた膜を開き、育殻嚢の外側へ細く道を作っていく。
速い。
なのに、乱暴ではない。
鋭い。
けれど今、その鋭さは奪うためのものではなかった。
そして。
刃先が、とおるの作った生存領域へ近づいた瞬間。
「……っ」
透明な境界が氷水へ指を浸したようにひやりと震えた。
衝撃を受けたわけではない。
刃そのものを弾いたわけでもない。
ただ。
そこから先へ“切断という出来事”が届くことだけを——拒んだ。
〈緋燕〉が止まる。
とおるの心臓まで一緒に止まりかけた。
「ミレイユさん!」
「待て」
白雷が細かく明滅する。
一秒。
二秒。
永遠みたいに長い間を置いて。
「……残っている」
ミレイユが息を吐いた。
「胎仔反応、消えていない」
とおるの膝から一気に力が抜けそうになる。
「むしろ……少し強くなった」
「え?」
「外へ通じる道が開いたせいかもしれん。理由までは分からない。だが周期はある」
ミレイユが顔を上げる。
「開いたぞ」
アスカは即座に刃を引いた。
戦闘なら〈緋燕〉を手放すなど考えられない彼女が今は迷いなく納刀し、両手を空ける。
とおるは境界を維持したまま、崩れ落ちようとする母体組織だけを外側から別の壁で支えた。
ここからが、さらに怖い。
赤ん坊を引っぱってはいけない。
小さな身体そのものへ力をかければ、どこを傷つけるか分からない。
だから動かすのは、胎仔ではなく。
胎仔が生きている“部屋”のほうだ。
「……ゆっくり」
自分へ言い聞かせるように呟きながら、とおるは生存領域全体をほんの少しだけ前へずらした。
殻液が揺れる。
境界も揺れる。
焦って力を込めれば形が歪みそうになるたび、ミレイユの「厚くするな」という視線が飛んでくる。
分かってる。
分かってるから睨まないでほしい。
いや、今は睨んでいてもらったほうがいい。
そんな余計なことを考えられる程度には、呼吸も戻っていた。
数センチ。
さらに数センチ。
育殻嚢の裂け目がゆっくりと広がり、そこから最初に現れたのは、淡い灰褐色をした小さな甲殻だった。
「……あ」
誰の声だったのか分からない。
まだ成獣のような重厚さはなく、石というより濡れた陶器に近いほど柔らかな色を帯びた甲殻が殻液に濡れて鈍い光を返している。
続いて、丸まっていた前脚が見えた。
小さい。
あまりにも小さい。
あれほど巨大な母獣の中から現れたとは思えないほどその脚は細く、頼りなく。
そして。
ぴくり。
壁の内側で、わずかに曲がった。
「……動いた」
アスカが息を呑む。
その声は掠れていた。
ミレイユの白雷が驚かせないようにでもするかのように細くなり、胎仔の輪郭へ静かに寄り添う。
「反応あり。自発運動だ」
その言葉を聞いた瞬間、とおるの目の奥が熱くなった。
泣きそうだった。
今すぐ「よかった」と言ってしまいたかった。
それでも〈境界〉は厚くしない。
嬉しいからといって無理に包み込まない。
怖いからといって、強くは閉じない。
守るという言葉に甘えてこの小さな命から外へ出る余地まで奪ってはいけない。
壁は閉じ込めるためにあるんじゃない。
今だけ、この子が生きていられる場所を保つためにある。
「……こっちへ」
とおるはまだ名前もない小さなグラド・バルムへ、聞こえるはずもない声で囁いた。
「大丈夫とは、まだ言えないですけど」
一度、息を吸う。
「それでも……こっちへ来てください」
返事などあるはずがない。
そう思った、その時だった。
薄い境界の内側で。
殻液に濡れた小さな胸が。
ほんの、——ほんのわずかに。
自分の力で、持ち上がった。




