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第58話 群青の背に蠢くもの



 リエナ・エルゼヴァルは、計算を止めていなかった。


 ミレイユの読み自体は、ある程度までは正しい。水月の表層へ白雷の足跡を刻み、相手の防壁を単なる壁として壊すのではなく力を受け渡す曲面の構造そのものへ自分の足場を挟み込むという判断は、今この戦場で取り得る手段の中でもかなり攻撃的で、なおかつ有効なものだった。正面から六層を断ち割るよりもリエナが構築した水の循環へ自分の白雷を混ぜ、逃がされるはずの力を逆に踏み返すための足場へ変えていく。速さに頼った剣士では届かないところへ、ミレイユは確かに足を置き始めている。


 認めるに値する。


 リエナはそう判断した。


 だからこそ、彼女は焦らない。


 水月の六層に囲まれた中心部はリエナの身を守るための箱庭ではない。透明な防壁の内側へ閉じこもり、迫る剣を水で受け流しているだけなら、白雷をまとったミレイユのような相手に長く保つはずがない。あれは作業台だ。観測した現象を分類し、標本として頁へ置き、必要な位置へ再配置するために最も見えやすい形へ整えた水の書架である。ミレイユが〈白雷〉を「速く走る雷」としてではなく足場を作るための道として理解し始めたように、リエナもまた自分の能力を「水で防ぐ」という浅い場所には置いていない。


 水は壁にもなる。


 刃にもなる。


 霧にも、糸にも、鏡にも、器にもなる。


 形を持たないからこそ与えられた役割へ従い、触れたものの輪郭を映しながらその重みを受け取れる。そう理解しているリエナにとって、六枚の水月だけを自分の領域と見られるのは、観測者としての彼女をあまりにも狭く見積もられているに等しかった。


 ミレイユが水壁へ足跡をつける。白雷の細い痕が透明な曲面へ焼き付き、足を預けられる一点として淡く光った。その一歩は、見事だった。正面から斬り破るのではなく、こちらの防壁が力を受け渡す構造へ自分の足場を差し入れる。標本にされることを恐れて動きを隠すのではなく、読まれる前提で意味の変わる欠片を散らし、分類が追いつくより早く用途を変える。あれは、ただ速いだけの剣ではない。自分の雷を言葉にし、自分の肉体が世界へ何をしているのかを理解し始めた者の踏み込みだった。


 だから、リエナはその足跡を消さなかった。


「採録」


 短杖の先が、わずかに下がる。


 ミレイユの足元で光っていた白雷の痕へ、群青色の術式文字が触れた。消しに来ると思っていたなら、ミレイユは迷わず蹴り抜けただろう。足場を奪われる前に身体を前へ運び、崩れた防壁の誤差へ刃を差し込みながら六層の奥にいるリエナの喉元まで一気に届く突進力を得る。その判断と決断力は、この場面では最善な形に近い。水の流れへ無理に逆らわず、分厚い水霊素の層に点在する魔力路の抜け道や繋ぎ目を解いて射線を作り出そうという嗅覚も、剣士としては類稀なものだった。


 リエナは、その行動選択そのものを拒まなかった。


 水月の表面についた白雷の足跡を、古い書物の余白へ押された印のようにそのまま残した。


 残された足場ほど、踏みたくなるものはない。


 ミレイユの視線が細くなる。リエナはその目の動きまで見ていた。警戒。疑念。踏むべきか、踏まざるべきかという判断の揺れ。その揺れそのものがもう水面へ落ちている。水月の表面だけではない。先ほど霧へ崩された水刃の残滓、石畳の目地へ染み込んだ薄い水霊素、ミレイユの白雷に弾かれて空中へ散った水滴、斬撃に裂かれて離れた膜の欠片、そのすべてがまだリエナの魔力路から完全には切り離されていなかった。


 水のドームではない。


 これは、表紙だ。


 六枚の水月は、書庫の入口として最も目立つ場所に置かれた装丁にすぎず、戦場の外縁へ散った水霊素の一粒一粒が、頁からこぼれた細かな栞として機能している。ミレイユが水壁の上へ足を預けたなら、その踏力は表層へ残る。表層へ残れば内側へ伝わる。内側へ伝わる前に逃がされた力は外層へ戻り、外層から剥がれた霧は石畳へ落ち、石畳へ落ちた水は再び荷重を拾う。閉じた円の中で守っているのではない。開いた書庫の外側にまで、リエナは読点のような水を散らしていた。


「〈残響標本〉、余白索引」


 六枚の水月を埋めていた群青色の文字列のうち、外周に近い部分だけが細くほどけた。文字は水膜から離れ、霧となり、さらに針より細い線へ解けながら広場の石畳へ降っていく。濡れるほどの量ではない。光に当たればかろうじて見える程度の、息を吹けば消えてしまいそうな水の粉。それらは落ちた場所で小さく震え、ミレイユが散らした白雷の欠片、踏み込みの圧、〈鳴神〉が空気を裂いた震動を拾い直し、巨大な書庫の欄外へ注釈を書き足すように情報を結び始めた。


 ミレイユが動いた。


 踏む。


 そう判断したのは、呼吸にも満たない短い間だった。足場を残されたことに罠の匂いを感じても、退く理由にはならない。罠なら踏み方を変えればいい。読まれるなら、読ませる場所を選べばいい。彼女は水月についた白い足跡へ左足を置き、体重を落とす前に膝の角度を変え、足裏へ集めた白雷を足場そのものへ流し込まずに踵の縁から外へ逃がした。


 リエナが採ろうとしているのは踏力だ。ならば渡す踏力を偽り、実際の重心は半拍遅れて別の雷へ預ける。ミレイユの身体が、白い線を引いて六層の曲面を一気に駆け上がる。


 速い。


 写し身では追えない。


 水鏡写身が背後から刃を返すより早く、ミレイユは水月の上を斜めに走り、透明な曲面へ二つ目、三つ目の足跡を刻んでいた。白雷の痕が連なり、まるで夜の水面へ星座を描くように淡い軌跡を残す。そこから〈鳴神〉が低く伸びる。狙いはリエナの身体ではない。六層のうち、採録のためにわずかに薄くなった外縁。観測へ意識を割いた分だけ膜の結合が甘くなる位置。ミレイユの刃はそこへ迷いなく吸い込まれていった。


 刃が届く直前、リエナは一歩も退かなかった。


 水月の内側に浮かぶ半透明の魔導書が、ぱらりと開く。開かれたのは新しい頁ではない。先ほどミレイユが破綻させた水鏡写身の記録。右膝の回路を切られ、疑似神経を乱され、誤作動へ落ちた失敗の標本だった。普通なら廃棄するしかない崩れた記録。再現に失敗した能力の残骸。けれどリエナは、それを失敗として閉じようとはしなかった。


「失敗例もまた、標本です」


 壊れかけた水鏡写身の胸部から群青色の光が抜けた。水の人形は糸を失った傀儡のように膝から崩れ、その内側で乱れていた白雷の分岐だけが細かな標本片として水月へ吸い上げられていく。ミレイユが写し身を狂わせるために流し込んだ、意味のない雷。命令を誤配させるための枝分かれであり、分類しづらく、用途が変わって名付けられる前に形を変える白い欠片。リエナはそれを完成品として扱わず、ミレイユの新技として保存しようともしない。ただ、混乱がどの順序で生まれ、どの経路を塞げば機能不全が起き、どの程度までなら標本化の妨害として働くのかという失敗の輪郭だけを丁寧に切り出していく。


 〈鳴神〉の切っ先が、水月の外層を裂いた。


 裂けた水膜から飛沫が散る。ミレイユはそのまま押し込まず、刃を寝かせて亀裂を横へ広げようとした。先ほどの足場理論を使えば破るよりも歪ませる方がいい。水月同士の受け渡しに誤差を作り、その誤差へ白雷を預け、さらに奥へ進む足場へ変える。判断は速く、迷いはない。防壁の表面に四つ目の白い足跡が灯る。


 その足跡が、群青に変わった。


「……っ」


 ミレイユの足裏へ、冷たい感触が食い込む。固定ではない。ノエの〈縫界杭〉のように関係を縫い留める力とも違う。もっと浅く、もっと薄い。靴底と水月の接触面へ、読むためだけの水が一枚挟まった。足を取られたわけではないし、蹴れば剥がせる程度のものだ。白雷を流せば、たちまち霧へ崩せるだろう。けれど剥がすために使う力の向きも、流す雷の密度も、霧へ崩れるまでの時間も、すべてが余白索引へ記録されていく。


 防御ではなく、質問。


 リエナはミレイユの足へ問いを挟んでいた。


 この足場を、どう使うのか。


 力を預けるのか、捨てるのか、壊すのか、騙すのか。


 問いに答えた時、その答えは標本の余白へ書き込まれてしまう。


 ミレイユは直感的に奥歯を噛んだ。水の中へ深く沈んで行こうとするたび、得体の知れない透き通った感触が、冷たい湖へ片足ずつ沈めていくときの水圧のように絡みついてくる。透明すぎる水は、濁りがないぶん底が見えない。指先を差し入れれば抵抗はほとんどなく、手の甲を撫でる流れは絹より滑らかで、光を含んだ薄膜が皮膚の凹凸を一つずつ確かめるように通り過ぎていく。綺麗だと思えるほど澄んでいるのに、その澄み切った質感の奥には、捉え所のない滑らかな手触りが揺らめいている。


 水飛沫が視界の端でゆっくりほどけていく。実際には刹那にも満たない速さで散っているはずなのに、リエナの水月へ踏み込んだミレイユの感覚の中では、透明な粒の一つ一つが深い水底から見上げる泡のように膨らみ、歪んだ光を抱えたまま音のない暗がりへ昇っていくように見えた。白雷が触れた水滴は青白く発光し、裂けた膜の内側で生まれた細かな渦は、湖底の砂を指先で撫でたときに立ち上がる薄い濁りのように広がりながら、それでも決して濁りきることなく群青の文字列を内側へ閉じ込めたまま静かに回転している。


 足裏へまとわりつく冷たさは、水中で流れに逆らって立つときの圧に似ていた。膝から下だけが見えない流れへ沈み、踏み込もうとした力を正面から押し返すのではなく、踝の周囲を撫で、脛の影へ入り込み、ふくらはぎの裏を通って重心の逃げ道を探るような柔らかいのに剥がれない感触だった。


 厄介などという言葉では足りない。


 ミレイユが自分の白雷を深く理解し、意味を変えながら使おうとしたところへ、リエナはその変化を止めようとせず、変化の仕方そのものを読みに来ている。完成した技なら盗まれる。未完成の欠片なら分類される。失敗させた写し身さえ、失敗の仕組みとして保存される。水は形を持たないからこそ写せるのであって、形を崩せば追えなくなると思った。ところがリエナは、崩れた形にも名前を付ける側の人間だった。


 刃が、内側の膜へ届く。


 水の継ぎ目が切れる音は金属の断裂とは違っていた。薄氷を爪で割るような、布から糸を一本だけ抜くような、澄んでいながらどこか生々しい音。六枚の水月のうち二枚がほんのわずかに同期を失う。群青色の術式文字が一行ぶん乱れ、外周へ散っていた余白索引の光が遅れて明滅した。


 ミレイユの白雷が、その遅れを踏んだ。


 もう一歩。


 足を預けられる場所は、地面にも壁にも、自分の雷にもある。相手が作った読解の遅れでさえ踏み方次第では足場になる。


 リエナの瞳が、その猛烈な足運びと動きの重ね合わせを追い損ねた。


 白い軌跡が六層の内側へ入り込み、群青の書庫の影へ触れる。


 どんな術式にも、綻びや繋ぎ目がある。目の前に立ちはだかるものが巨大な防壁であっても、それが魔素子で構成されている以上、どこかに必ず生成された力が維持されるための節目がある。ミレイユは、その節目へ向けて刃を滑らせていた。斬るというより、開く。厚く閉じた書物の頁の隙間へ紙片を差し込むように、〈鳴神〉の切っ先を群青の背表紙めいた術式核の縁へ当て、そこへ白雷を流し込む寸前で出力をわざと落とす。


 〈鳴神〉が術式核へ沈んでいく。


 白い雷光が、群青の背を細く裂いた。


 裂け目から血のようなものは流れない。代わりに細い群青色の文字列がほどけ、濡れた糸を引き抜かれた布のように震えながら水飛沫とともに宙へ浮かび上がる。〈鳴神〉へ伝わる手応えは、肉でも金属でも石でもなく、何千枚もの薄紙を刃で押し分けていくときに似た、柔らかく、粘り、奥へ進むほど抵抗の質が変わっていく奇妙なものだった。ミレイユは力を込めすぎない。押し切れば水月は反射的に衝撃を外層へ逃がし、強い白雷を流せばその雷は標本として頁へ吸い上げられる。だから切っ先を低く沈めたまま、雷霊素を刃先から真っ直ぐ撃ち込むのではなく、術式核の裂け目へ薄く塗るように流し、群青の文字が繋がり直そうとする箇所だけを一つずつ焼いた。


 リエナは水の流れを途切れさせなかった。


 内側に巡る水霊素の幾重もの層と繋ぎ目は、回転速度を増しながら密度の深い領域へと魔力を高めていく。表面ではなく立体的な奥行き。波間に落ちる水面の畝りように激しい流れの中へ斬り込んでくるミレイユを、リエナは無理に捉えようとはしない。むしろ水の流れそのものを薄くほどいた。防壁を厚くし、六層の回転でミレイユを外へ吐き出すのは簡単だった。力の差で拒めば白雷はさらに鋭く食い込み、彼女は自分の足場をまた別の場所へ作るための隙間を探すだろう。速さで追いつけない相手を水量で押し潰そうとするのは下策だ。リエナはその判断を最初から捨てていた。


 水は閉じ込めるためだけのものではない。


 ミレイユの刃が術式核へ沈んでいる。白雷を駆使した彼女の鋭い連撃と手数は、巨大な群れをなして泳ぐ魚のようだった。水飛沫の舞う内側を歩くように防壁の表面を削っていく踏み込みは、見事な制御と言う他ない。これほど精密な雷霊素運用と身体操作を戦闘中に繋げていく例は多くない。リエナは内心でその評価を一段引き上げながら、破られた術式核の奥へ、あえて水霊素を寄せなかった。


 修復しない。


 守らない。


 裂かれたままにする。


 ミレイユの〈鳴神〉はさらに深く入る。群青の背表紙めいた核の縁が細く開き、六枚の水月のうち内側二枚が呼吸を乱すように震えた。水の書庫が壊れ始めているように見える。実際、外から見ればそう判断するしかない変化だった。繋ぎ目が焼かれ、文字列がほどけ、頁へ収められていた標本の一部が水底から浮き上がるように露出している。ミレイユがそのまま押し切れば、リエナの防御と観測の中枢へ刃が届く。——そう見えるように、リエナは裂け目の奥を開けた。


 開いた場所ほど、刃は進みたくなる。


 足場を残された足が踏みたくなるように、空いた隙間へ剣士の切っ先が吸い込まれるように。


 ミレイユは術式の繋ぎ目を見つけ、衝撃ではなく薄い雷霊素を含んだ斬撃で水の層を焼きながら、反射防御を発動させないまま核の構造を開いていく。防壁を防壁として破壊するのではなく、書物の綴じ糸を一本ずつ切るように解体している。リエナが普通の術者であれば、この数呼吸のうちに術式の維持か退避かを迫られていただろう。


 普通の術者であれば。


「追記」


 リエナの短杖が、静かに横へ滑った。


 六枚の水月ではない。〈鳴神〉が沈んだ術式核でもない。広場の外縁、戦闘の熱から遠い場所で石畳へ張り付いていた水の粉が、光を吸った魚卵のように一粒ずつ群青へ灯っていく。余白索引。先ほど水月の外周からほどき、霧より細かく散らしていた読点の水。ミレイユは警戒していた。踏み込みの圧も白雷の残響も、斬撃の震動も拾われると理解していた。だから踏力を偽りながら重心をずらし、意味の変わる雷で観測そのものを濁らせていた。


 リエナが欲しかったのは、完成した答えではない。


 問いに対して、ミレイユがどう嘘をつくか。


 その嘘をつく順番だけだった。


 踵から逃がす。膝で折る。白雷を足場へ流し込まず外へ逃がす。実際の重心を半拍遅らせる。刃先の出力を落とし、術式核へ塗るように雷を置く。


 その一つ一つは分類しづらい項目だ。標本として名を与えようとすれば、名を得る前に別の役割へ変わってしまう恐れがある。憶測と推測の域を出ていなかったとはいえ、ミレイユの狙いはそこにあった。だからリエナは、変化する白雷そのものを追わない。どのような意味へ変わったかではなく、意味を変える時にミレイユの肉体が必ず通る逃がし方だけを余白へ記した。


 人は自由に動いているつもりでも、逃げ方にはどうしても癖が出てしまう。


 攻めの癖より深い。


 防御の癖より正直だ。


 体重をどこへ預けるかを悟られまいとして誤魔化す時、どの関節を最初に緩めるのか。雷を刃から外す時、どの筋肉を先に殺すのか。踏み込みを偽る時、視線はどの程度遅れて目的地へ向かうのか。


 水月の内側で、一冊の魔導書が勝手に閉じた。


 表紙のない本の縁に、群青の文字が細く刻まれる。


 ――逃雷偏差。


 名付けられたのは技ではない。ミレイユの新たな白雷運用でもない。攻撃が意味を変える直前、彼女が雷をどこへ逃がすかという偏り。標本と呼ぶにはあまりにも小さく、武器として再現するには弱い、身体運用の余白に滲んだ癖。リエナはそれだけを取り出し、頁の端へ短く挟んだ。


 〈鳴神〉がさらに沈む。


 術式核の裂け目が、ミレイユの肩幅ほどまで開いた。


 リエナの喉元まで、道が見える。


 ミレイユの瞳に白い雷が細く走った。ここで踏み込むという意思と共に刃を抜きながら、裂けた水膜の縁を足場に変え、反転した白雷で六層の内側を一気に抜ける——


 リエナの観測が追いつくより早く、身体ごと刃の間合いへ入る。


 そう判断したことが、視線ではなく右足の内側、ほんのわずかに緩んだ足首の角度から読めた。


 リエナは退かない。


 短杖を上げる必要すらない。


 広場に散った余白索引が、一斉に水面へ帰るのではなくミレイユの進路の外側で静かに円を描いた。水滴は刃にならない。杭にも鎖にも、壁にもならない。透明な粒のまま空中へ浮かび、白雷の光を受けて星屑のように瞬きながら、彼女がこれまで「足を預けられる場所」として使ってきた残響の縁へ、そっと触れた。


 触れただけだった。


 押さえない。


 壊さない。


 奪わない。


 ただ、足場が返すべき力の向きを、ほんの少しだけ濡らす。


 ミレイユが踏んだ。


 白雷の足場は、確かに力を返した。返した力は前へ向かうはずだった。とおるの壁を踏んだ時のように、自分の残響を足場にした時のように、預けた重心を望んだ先へ押し出すはずだった。ところが足場の縁に触れていた水滴が返る力の表面だけを薄く撫でながら、方向を変えるというほど大きくもない、角度と呼ぶには小さすぎる偏差を混ぜ込んだ。


 半歩にも満たない余白。


 そこで、ミレイユの身体が予定よりわずかに内側へ落ちた。〈鳴神〉の切っ先はなおリエナへ向かっている。白雷も消えていない。踏み込みの速度も殺されていない。外から見れば成功した突進に見えるほど、彼女の動きは崩れていなかった。崩れていないからこそ、危うい。完璧に近い軌道がほんのわずかだけ正解から外れた時ほど、修正の余地が逆に少なくなるからだ。


 静止するかのように留まる空中での間合い。


 リエナの水月が、開いた。


 防壁が割れたのではない。奥へ誘うように裂け目が広がり、ミレイユの刃を受け入れる形へ変わる。


 ところが水は、目前だけにいなかった。


 ミレイユの背後、先ほど彼女が二つ目の足跡を残した水月の表面から、極細の水糸が立ち上がった。糸は攻撃の形をしておらず、魔力の圧も薄い。余白索引に紛れ、破れた水膜の飛沫に紛れ、写し身の崩壊で散った水霊素に紛れた、読み落とされても不思議ではない一本。その先端にはミレイユが水鏡写身へ流し込んだ誤作動の白雷が、劣化した標本片としてわずかに灯っていた。


 失敗例も、標本。


 ミレイユが写し身を狂わせるために使った白雷は、命令を誤らせる雷だった。右肩へ行くはずの信号を左膝へ、剣を戻す水圧調整を背中側へ、補正の経路を存在しない部位へ流すための、乱れた分岐。リエナはそれを攻撃として再現しない。ミレイユの白雷そのものに匹敵する出力など求めていない。必要なのは、ほんのわずかな間だけ身体の命令を濁らせる順序だった。


 水糸が、ミレイユの左足首へ触れた。


 触れられた感覚はほとんどなかった。冷たさが一筋だけ靴の縁から皮膚へ入り、骨の際を撫でる。白雷で焼けば終わるほど弱い接触。剥がそうとすれば剥がせる。斬ろうとすれば斬れる。問題は、ミレイユの全身がすでにリエナへ届くための踏み込みへ入っていたことだった。


 〈残響標本〉は、過去を頁へ閉じ込めるだけの能力ではない。水月の領域内に存在するもの、あるいは一度でもその水霊素に触れたものは、たとえ敵の放った魔力であろうと、刃に宿る霊素であろうと、靴底から零れた一筋の白雷であろうと、リエナにとっては「外部から飛来した異物」ではなく書庫の中へ置かれた未整理の資料へ変わる。


 資料は読まれる。読まれたものは分類される。分類されたものは頁へ挟まれる。


 そこまではミレイユも理解していた。読み取り、名付け、保存し、再配置する。それがリエナ・エルゼヴァルの戦い方だと、ここまでの応酬で嫌というほど思い知らされていた。


 読み違えていたのは、その「読む」という言葉の深さだった。


 リエナは相手の魔力を遠くから眺めているわけではない。水月の内側へ散らした水霊素は、視線でも耳でも鼻でもなく、もっと細く、もっと直接的な感覚器官として戦場へ広がっている。触れた魔素子の震えを拾い、隣り合う粒子がどの方向へ引かれ、どの密度で結び、どの時点で術式としての意味を持ち始めるのかをまるで自分の皮膚の上を流れる水温の差として感じ取る。相手の魔力を外から観測するのではない。領域内に入った魔素子の振動へ自分の水霊素を薄く重ね、共鳴させた上でほんの一呼吸ぶんだけ同じ脈を打たせる。


 それは支配ではなく、“奪取”でもない。ノエの〈縫界杭〉のように関係を固定する力とも、ヴァルガの〈蝕根〉のように魔力回路へ根を食い込ませて吸い上げる侵食とも違う。リエナの水はもっと静かに、もっと滑らかに寄り添ってくる。敵の魔素子が震えればその隣で同じ揺れを覚え、流れが曲がれば曲がり方を写し、命令が生まれる前の微かな圧力差に耳を澄ませる。強引に手首を掴むのではなく、相手が指を動かそうとした時点でその指先へ置かれた水滴が「どの筋が最初に張ったのか」を知ってしまうような感覚に近い。


 〈残響標本〉が真に厄介なのは、標本化した過去を再利用できることではない。領域内であれば、いま動いている魔素子と過去に保存された残響を重ね合わせ、現在の身体と過去の記録を一冊の本の見開きのように並べて読めるところにある。


 ミレイユが足場を偽り、余白索引がその偽り方を記す。水鏡写身が壊され、失敗例として誤配の順序が保存される。白雷が意味を変え、意味が変わる直前の逃がし方だけが頁の端へ残る。


 ばらばらに見えたそれらは、リエナの領域内では孤立した情報ではなく同じ肉体の別々の神経へ触れた感覚として繋がっていた。


 だから左足首へ触れた水糸は、ミレイユを縛るために伸びたものではない。


 それは、〈接続〉だった。


 細い水糸の先端に灯った劣化した白雷の標本片が、ミレイユ自身の白雷と完全に同じ力を持つ必要はない。必要だったのは、似た震えを一度だけ合わせること。水月の領域に散らされたリエナの水霊素がミレイユの足首を巡る魔素子の細かな脈へ触れ、保存していた誤配の順序をそこへほんの薄く重ねる。異物として押し込めば弾かれる。攻撃として放てば斬られる。ならば、すでにミレイユ自身が世界へ零した白雷の残響を媒介にして、彼女の魔素子が次に震えようとする向きへまるで同じ身体の一部であるかのように呼吸を合わせればいい。


 ほんのわずかな共鳴。


 ほんの薄い同調。


 自分の身体ではないものが、一呼吸だけ自分の身体のふりをする。


 その程度で、足りた。


 白雷の命令が、一拍だけ濁る。


 左足が踏むべき足場を、右足が拾おうとした。ところが腰へ返るはずの反力が肋骨の裏へ逃げた。刃先へ塗るように流していた雷霊素の一部が〈鳴神〉の棟へ跳ね、切っ先の圧が紙一枚ぶん浮いた。


 ミレイユの瞳が、目前に迫るリエナの顔ではなく、自分の足元を見た。


 それが遅れだった。


「三頁目」


 リエナの声が、水の奥で静かに響く。


 開かれた魔導書の頁から現れたのは、派手な魔法でも、写し身でも、巨大な水刃でもなかった。先ほどミレイユ自身が水月へ刻んだ白雷の足跡。そこへ余白索引が加えた逃雷偏差。さらに水鏡写身の失敗標本から抜き出した誤配の順序。三つの小さな記録が、頁の上で重なり、攻撃と呼ぶにはあまりにも静かな一本の水線へ結ばれる。


 水線は、ミレイユの真正面から来なかった。


 背後でもない。


 足元でもない。


 彼女が自分の重心を逃がす時、最も無意識に空ける脇腹の下、肋骨と腰骨の狭い隙間へ、裂けた水月の内側から斜めに浮き上がった。


 透明すぎて見えない刃。


 群青の文字列を芯に持つ、紙片ほど薄い水の刃。


 ミレイユは〈鳴神〉を引こうとした。引けるはずだった。普段の彼女ならそこからでも間に合う。白雷で神経を叩き起こし、肩を捨てた上で肘だけで刃を返しながら脇腹へ滑り込む水線を断てるだけの反射速度がある。リエナもそれを知っていた。知っていたからこそ、足首に触れた水糸で命令を濁らせつつ〈鳴神〉の切っ先を紙一枚だけ浮かせ、視線を足元へ落とさせた。


 水線が、ミレイユの左脇腹へ入った。


 斬られたというより、冷たい紙を身体の隙間へ差し込まれたような感覚だった。衣服が裂け、皮膚が開き、血が遅れて熱を持つ。


 痛みが来るより先に、左半身から力の通り道が一つ消えた。白雷で補強していた筋肉の束が切れた弦のように鳴り損ね、踏み込むために集めていた反力が脇腹の傷口から熱と一緒にこぼれていく。浅くはない。刃は内臓へ深く食い込む寸前で〈鳴神〉の柄尻を肘で押し込んだミレイユの身じろぎに逸らされていたものの、肋骨の下から腰骨へかけて長く抉られ、白い制服の左側が一息で赤へ染まった。


 リエナは追撃しなかった。


 追撃する必要がなかった。


 六枚の水月が静かに回転し、裂かれていたはずの術式核が開いた書物を閉じるようにミレイユの刃を外側へ押し返していく。


 ミレイユは歯を食いしばり、傷口へ咄嗟に雷霊素を流して筋肉の痙攣だけを止めた。痛みを切り離す余裕もなく、彼女は〈鳴神〉を水月へ引っかけるようにして姿勢を立て直そうとした。


 ——刃が、滑った?


 さっきまで足場にできていたはずの水面が、もう同じものではなくなっている。白雷の足跡は残っているし、そこに亀裂もある。焼いた術式文字の跡も確かに見える。それなのに——


 これが、リエナの防壁。


 硬いから厄介なのではなく、壊れないから面倒なのでもない。


 踏めると思わせ、開けると思わせ、届くと思わせたうえでこちらが選んだ答えそのものを水の中へ沈めてしまう。防御とは名ばかりの読解装置。攻撃を受け止める壁ではなく、攻撃者が何を足場にし、何を捨て、どこへ逃げ、どこへ届こうとするのかを読み上げる書庫。


 左脇腹から血が落ちた。


 石畳へ赤い点が散るより早くミレイユは後方へ跳んだ。跳んだというより、押し出された流れに逆らわずに自分から距離を作った。白雷が足裏で短く爆ぜ、身体を斜め後ろへ運ぶ。着地の衝撃が傷へ響き、喉の奥に鉄の味が上がった。


 十歩。


 それだけ離れて、ようやく水の冷たさが皮膚から剥がれた。


 リエナは六枚の水月の奥で濡れた頁をめくるように短杖を下ろしている。傷を負わせた喜びも、勝ち誇る色もない。ただ採録を終えた司書のように静かにミレイユを見ていた。


 ミレイユは〈鳴神〉を下げない。


 左手で傷口を押さえることもしない。


 血が制服の裾から滴り、足元の石畳へ細い赤を伸ばしていく。呼吸を深くすれば傷口を広げてしまうやもしれない。かといってそれを最小限に留めれば白雷自体の精度が鈍る。それでも彼女は唇の端にわずかな苦味を浮かべながら、もう一度だけ水の書庫を見据えた。


「……なるほど、厄介だな」


 その声は小さく、痛みに掠れていた。


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