第98話 巨大な荊の壁
最初に異変を拾ったのは、夜月だった。
〈ディスチャージ〉によって周囲へ広げていた感覚の中へ、ほんの僅かな乱れが混じる。魔力反応と呼ぶにはあまりにも小さく、敵意として捉えるには輪郭が薄い。ただ、空気の一部だけが細い筒に押し込まれたように圧縮され、その直後、何かが高速で通過したことで生じた圧力差が遅れて皮膚を撫でていった。
「――?」
顔を上げようとした頃にはもう遅い。
ヒュン、と耳へ届いた風切り音より先に、一本目の魔導弾は地面へ突き刺さっていた。
爆発は起こらない。炎も上がらず、雷光ひとつ走らない。勢いよく飛来した弾頭は柔らかな土を穿つと、その運動エネルギーをほとんど地表へ撒き散らすことなく地下深くへ潜り、あとには指を差し込める程度の小さな穴だけが残された。あまりにも地味な着弾だったからこそ、夜月の感覚にはかえって不気味に映る。攻撃であるなら、破壊がない。牽制であるなら、音も光も足りない。それなのに、あれほどの速度と精度を使ってまで撃ち込む理由がないはずもなかった。
その答えを知っている男は——遥か上にいる。
天景楼の屋根。熱波によって瓦の一部が砕け、まだ薄い煙の残る高所で、フーゴはすでに二発目の弾頭を長大な固有霊装〈ヴェンデッタ〉へ装填していた。
彼が周囲から「Dr.」と呼ばれている理由はいくつかある。その中でも、戦闘能力そのものと切り離せない最大の理由が“スキル——〈魔導錬成〉”だった。
一般的な魔術では術者の魔力へ属性を与え、その属性が本来備えている性質を術式によって現象へ変換する。火であれば熱や燃焼、水なら流動や冷却、土なら固定や重量、雷なら伝導や高速反応といった具合に、それぞれの属性には現象を成立させやすい“方向”があり、通常の術式とは言ってしまえばその方向へ魔力を効率よく流すための設計図に近い。水属性から炎を作るよりたい火属性から炎を作るほうが圧倒的に容易なのは、術者が最初から火という完成された性質を利用できるからだった。
しかしフーゴはその完成品を完成品のまま使わない。
彼の〈魔導錬成〉が干渉するのは魔素が明確な属性として振る舞い始める、その一歩手前にある領域だった。
魔素が火へ変わったから熱を持つのではなく、熱を生み出す性質、周囲へエネルギーを伝える性質、現象を維持する性質といった複数の要素が一定の規則に従って結びついた結果として、“火属性”と呼ばれる状態が成立する。水も土も雷も同じで、それぞれ一枚の板のように単純なものではなく細かな性質が束になって一つの属性として振る舞っている。
フーゴが行うのは、その束を一度ほどくことだった。
水からは流動性だけを抜き取り、土から固定性を借りる。火から熱変換の性質を切り離したところへ金属性が得意とする形状保持を組み込み、必要なら雷属性から伝導性だけを引き出して別の経路へ接続する。普通なら一つの術式の内部で互いに干渉し、どちらかが崩れるか、術式そのものを不安定にしてしまう異質な性質を、彼はそれぞれ独立した“機能”として扱いながら一つの魔力構造へ再配置してしまう。
料理に喩えるなら、完成した料理同士を混ぜ合わせるのではなく、それぞれを味、香り、粘度、温度、食感といった要素へ分解したうえで、必要な部分だけを抜き出してまったく別の一皿を組み立て直すようなものだろう。単純な属性複合と〈魔導錬成〉の違いはそこにある。
極端な構成を許すなら、見た目も流れ方も水でありながら、触れた対象から熱を奪うのではなく、反対に熱だけを与え続ける“燃える水”を作ることもできる。あるいは炎の姿を保ち、揺らめきながら広がっているように見えるのに、接触した対象を燃焼させず、土属性に似た固定作用だけを残す“固める炎”さえ理論上は成立する。
本来なら別々の規則で安定している性質を無理に一つへ組み込めば、それぞれが互いの働きを邪魔する可能性がある。流動性を高めすぎれば形状保持が崩れ、固定性を強くすれば流動性が死んでしまうだろう。熱変換を増幅すれば内部の魔力消費が跳ね上がり、そこへ伝導性まで足せば、今度はエネルギーが意図しない経路から漏れ出す危険が生まれる。必要なのは単に多くの属性を扱える才能ではない。どの性質を、どの順序で、どれほどの比率で組み合わせれば互いを殺さずに済むのか、その均衡を計算し続ける知識と制御能力だった。
だからこそフーゴは「Dr.」なのだ。
そして、そうして作り上げた複雑な魔力構造を術者自身から離れた場所へ正確に運ぶための固有霊装こそが〈ヴェンデッタ〉だった。
長大な銃身を持つその武器は、外見だけなら大型の狙撃銃に近い。けれど本質は、単純な魔力弾を高速で射出するための兵器ではなく、フーゴがあらかじめ設計した“術式そのもの”を壊さず遠距離へ送り届けるための射出機構にある。
〈ヴェンデッタ〉へ装填される弾頭は、一発ごとに内部構造が違う。
破壊。遮断。固定。拡散。反転。属性変換。接続。
用途に合わせて内部へ微細な魔力経路が刻まれており、それぞれの弾丸が一個の独立した術式回路として完成している。銃弾という形をした小さな魔術器官、と表現したほうが実態には近いだろう。術者が遠距離から魔法を放つ場合、通常なら距離が伸びるほど魔力の減衰や外部干渉が増え、複雑な術式ほど構造を維持しにくくなる。対して〈ヴェンデッタ〉は、完成した術式を弾頭という物理的な“殻”の中へ封じて運ぶことでその問題を大幅に軽減していた。
そして今回、フーゴが選んだ一発目には敵を傷つけるための機能など最初から与えられていない。
二つの独立した術式を、一時的に同一の魔力回路へ繋げる特殊魔導弾。
難しい理屈をすべて取り払って役割だけを言葉にするなら――“接続端子”。
それが最も近い。
地中深くへ潜った弾頭が、そこで静かに起動した。
地表から見える変化は何もない。爆ぜる光も土を押し上げる衝撃もなく、夜月の〈ディスチャージ〉にさえごく弱い魔力の脈動が一度引っ掛かっただけだった。
しかし土の奥では弾頭内部に封じられていた術式回路が開き、その中心から髪の毛ほど細い灰色の魔力線が伸び始めていた。
普通の遠隔術式なら、その線は術者であるフーゴへ戻ろうとする。魔力の供給元と術式を結び、離れた場所でも制御を維持するためだ。ところが今回の魔導弾は違う。フーゴ本人へ繋がる経路を最初から必要としていなかった。
灰色の線は土の中を這い、枝分かれしながら周囲を探る。
目的は、新しく魔力の通り道を作ることではない。
すでに存在している、大きな“道”を見つけること。
やがて細い魔力線の先端が、地下を横切っていた何かへ触れた。
植物の根に似ている。けれどそれは自然に育ったものではない。
アイリーンが天景楼周辺の地下へ張り巡らせていた、広域植物術式の“根”だった。
接触と同時に、灰色の魔力線が根の表面へ絡みつく。異なる術者によって構築された二つの術式は、本来なら魔力波形も制御規則も違うため、ただ触れ合わせただけでは一つにならない。人間同士が同じ言葉を知らなければ会話できないように、魔術にも術式ごとの“規格”が存在するからだ。
特殊魔導弾が担うのは、その規格差を埋めることだった。
フーゴ側の術式構造をそのままアイリーンへ押しつけるのではなく、接触した植物術式の魔力周期、流量、経路幅を読み取り、その場で接続可能な形へ自らの回路を変形させる。完全に融合させる必要はない。必要なのは、フーゴが〈魔導錬成〉によって組み上げた“機能”だけを、アイリーンの根が持つ魔力経路へ流せる状態にすることだった。
言うなれば、フーゴは新しい道を作ったのではない。
すでに戦場の地下全体へ伸びているアイリーンの道へ、自分の術式を乗せるための入口を撃ち込んだのだ。
その変化を、アイリーンも感じ取っていた。
けれど驚きはない。
鎌の柄へ片手を添えたまま、口元だけが僅かに持ち上がる。視線は依然としてとおるたちへ向けられており、地下で何が起きたのか確かめるような素振りさえ見せなかった。
確かめる必要など、最初からなかったのだ。
フーゴがどこへ一発目を撃ち込むのか。弾頭がどの根へ接続するのか。接続が成立したあと、自分の植物術式へ何が流れ込み、その結果として地下に張り巡らせた“根”がどのように変質するのか。
そこまで含めて、アイリーンは知っている。
今回の作戦において、彼女が天景楼一帯へ広げた植物術式は、敵を絡め取るためだけの拘束手段ではなかった。
地中へ伸びた無数の根は、それ自体が巨大な魔力経路でもある。
一本の根へ術式を流せば、その影響は分岐した先へ伝わる。さらに別の根へ、また別の根へと運ばれ、やがて天景楼周辺へ広がる植物網の各所へ届いていく。人間の神経が身体の隅々へ電気信号を運ぶように、アイリーンの術式は地中へ巨大な伝達網を作り上げていた。
そしてフーゴは、その網を利用する。
自分一人の魔力を戦場全体へ無理に伸ばすのではない。
すでにそこにあるアイリーンの“根”へ〈魔導錬成〉を接続し、彼女の術式網そのものをフーゴが作り上げた性質を運ぶための基盤へ変える。
植物術式による広域展開。
〈魔導錬成〉による性質の再設計。
そして〈ヴェンデッタ〉による遠隔接続。
三つはそれぞれ別の能力でありながら、最初から一つの巨大な術式として噛み合うよう組まれていた。
だから、地面へ撃ち込まれた一発目は攻撃ではない。
あれはただ――戦場そのものを、一つの術式へ変えるための最初の端子だった。
特殊魔導弾が作り出したのは、フーゴの〈魔導錬成〉とアイリーンの植物術式を完全に融合させるための回路ではなかった。
両者のあいだへ、ごく短時間だけ共通の接点を設ける。
その違いは小さく見えて、術式の構造としてはかなり大きい。植物を発生させ、どこへ根を伸ばし、何を拘束するのかという判断を担う支配権は、最後までアイリーン側に残っている。フーゴが彼女の術式へ割り込み、根の一本一本を直接操作しているわけではなく、彼が〈魔導錬成〉を通じて送り込めるのは、あらかじめ二人のあいだで共有されていた三つの条件だけだった。
〈純度〉。
〈密度〉。
そして、〈固定〉。
この三つは似ているようで、それぞれ役割が違う。
アイリーンの植物術式は土属性を主軸としているものの、その内部まで単純な土属性だけで構成されているわけではない。植物を成長させるには木属性に近い増殖や組織形成の性質が必要となり、対象へ絡みつくためには折れずに曲がる柔軟性が求められる。地中を這って位置を変えるのであれば、完成した形を保つより、周囲の土を押し退けながら自らの形状を絶えず変化させる流動性のほうが重要になるだろう。さらに切断された根を再び繋ぎ、損傷した部分へ魔力を送り直すには、植物の代謝にも似た循環構造まで維持しなければならない。
つまり、普段の根は強靱ではあっても、“硬いだけ”ではない。
伸びる。曲がる。絡む。潜る。治る。
異なる役割を同時に成立させるため、ひとつの植物術式の内部へ複数の性質が層のように重ねられている。
万能に近づくほど、ひとつの性能へ割ける割合は下がる。それは魔術でも同じだった。限られた魔力を十種類の機能へ分配するなら、一種類だけへ集中させた場合と比べてどうしても個々の出力は薄くなる。
フーゴが手を加えたのは、そこだ。
新しい性質を大量に足したのではない。
むしろ、削った。
まず〈純度〉によって、対象となった根から植物としての複雑な性質を一時的に切り離し、土属性として振る舞う部分の比率を引き上げる。ここでいう純度とは魔力の量ではなく、“全体の中で特定の性質が占める割合”を指す。仮に十の魔力のうち、固定へ使われる土属性的な性質が三しかなかったものを、余分な機能を抑えることで七、八へ寄せていく、と考えれば近い。
そのうえで〈密度〉を上げる。
こちらは文字通り、限られた空間へどれほど多くの魔力を詰め込めるかという問題だった。同じ一本の根でも、内部を通っている魔力量が倍になれば、外部から構造を崩すために必要な干渉量も当然大きくなる。もっとも、無理に圧縮すれば内部圧力が上がり、魔力同士の反発によって術式そのものが破裂しかねないため、本来なら密度だけを際限なく高めることはできない。
そこで最後の〈固定〉が働く。
形状を変えにくくする。
内部の魔力配列を崩れにくくする。
外部から別属性を流し込まれても、現在の状態から容易に変質しないよう構造そのものを縛る。
この三つを同時に成立させることで、アイリーンの根は植物として持っていた柔軟性や成長性、自己修復能力の一部を一時的に失う代わりに、“今ある形のまま対象を拘束し続ける”という一点だけへ性能を極端に偏らせることができる。
万能な植物を、用途の限られた拘束具へ。
それが、フーゴの行った錬成だった。
もちろん、その変質を許可しているのはアイリーンである。彼女が支配している術式へ、フーゴが勝手に別の性質を押し込めば、異なる魔力波形が内部で衝突し、根そのものが壊れる可能性さえある。だから二人の術式には、最初から互いを受け入れるための“余白”が組み込まれていた。
そして今回、その三条件を流し込む対象として指定されたものは――たった一つ。
「――え?」
とおるの足元で、ミシ、と土が鳴った。
すでに蔓によって身体の自由を奪われている彼にできたのは、異変を感じた方向へ視線を落とすことくらいだった。靴の周囲で土が僅かに盛り上がり、細かな亀裂が走る。その意味を頭が理解するより早く、地中から複数の根が地表を突き破って噴き上がった。
一本や二本ではない。
まるで地下へ埋められていた巨大な構造物の一部が、まとめて地上へ押し出されてきたようだった。
「ちょ、待っ――!」
太い根が両脚へ絡みつき、膝の動きを奪う。別の一本が腰を回り、その外側からさらに細い蔓が胴を締める。腕、肘、肩へも次々と根が回り込み、最初に巻きついたものを土台として、その上へ二層——三層と重なっていく。
とおるは反射的に身体を捻ろうとしたが、動かない。
ならば、と意識が魔力へ向く。
〈壁〉。
せめて身体の周囲へ防御術式を展開し、根を内側から押し返そうと魔力回路へ力を流した――その変化を待っていたかのように、全身を包んでいた拘束が一段深く食い込んだ。
「ぐっ……!」
胸郭まで締められ、肺から息が押し出される。
先ほどから第十九班を拘束している根状の魔力構造は、単純に身体の外側だけを縛っているわけではなかった。
皮膚へ触れている無数の接触点から、髪より細い魔力の枝が伸びている。それらは肉体へ物理的に侵入しているわけではなく、身体の内側を巡る魔力回路が生み出す流れを表面から読み取っていた。術者が何もしていないときと、術式を発動するため大量の魔力を流したときでは、回路周辺に生じる魔力密度や波形が変化する。アイリーンの根はその差を拾い、一定以上の変動を検知すると、拘束圧を自動的に高めるよう組まれている。
力を使おうとすれば、その兆候そのものが拘束を強める合図になる。
しかもとおるを包んでいる部分だけは、もはや通常の植物術式と同じ性質ではなかった。
フーゴの〈魔導錬成〉によって〈純度〉〈密度〉〈固定〉を引き上げられた結果、柔らかく変形できる植物としての余地が大幅に削られている。
通常の蔓であれば、雷を流して内部の魔力循環を乱す、炎によって構造を焼き切る、水分量や粘性を変化させて結合を緩めるなど、異なる属性から干渉できる余地がある。複数の性質を抱えているということは、それだけ外部から触れられる“継ぎ目”も多いからだ。
ところが今の根は違う。
固定。
保持。
圧縮。
ほとんどその三つだけへ機能を偏らせ、外から別の性質を差し込むための余白を極端に狭くしている。
植物の姿をした岩盤。
そう表現するのが、いちばん近かった。
さらに厄介なのは、単純に硬度だけが上がったわけではないことだ。
とおるが一本の根へ力を加える。
その根だけで受け止めない。
圧力は接触している別の根へ逃げ、そこから隣へ、さらに地中へと伝わっていく。
これは一本の棒と網の違いに近い。棒であれば一箇所へ十分な力を集中させればその部分を折ることができるが、網は加えられた力を複数の方向へ分けて逃がしてしまう傾向にある。しかもアイリーンの根は地表だけで完結しておらず、地下へ伸びた巨大な術式網そのものへ接続されているため、とおるが拘束の一部を破壊しようとして生み出した力は周囲の根を経由して広い範囲へ分散されてしまう。
彼が戦っている相手は、身体へ巻きついている数本の蔓ではない。
いわば地下に張り巡らされた、巨大な根網そのものだった。
「……これは……属性が重なっている?」
シルバーが低く呟く。
見えている現象だけなら植物の硬化としか思えないが、魔力の流れを追えば明らかに異質だった。本来の植物術式とは異なる密度の魔力がとおるの周囲だけ局所的に集中している。
“回収地点”は、すでに作られていた。
アイリーンの術式は地上に見えている蔓だけで完結しているわけではない。天景楼の周囲、庭、石垣、崩れた外郭、演武場、そのさらに地下には広域術式を維持するための“根”が網状に伸びている。植物系統の魔術は、遠く離れた場所へ同時に干渉しようとするほど地上の枝葉より地下の中継構造が重要になる。一本の巨大な根を長距離へ伸ばし続けるより、複数の交差点を作って魔力を受け渡し、必要な場所だけ地上へ枝を伸ばしたほうが損失は少ない。
人の身体に置き換えるなら、地上へ出ている蔓は指であり、地下の根は血管、その血管同士が交差する地点が中継器官にあたる。
フーゴが狙ったのは、その交差点だった。
〈ヴェンデッタ〉から二発目が放たれる。
——とおるたちの後方、東霞第二支部の聖騎士たちとの二点間を結ぶ中間付近へ、地面深く突き刺さった。
「キョウちゃん!」
遠くからチサトの声が飛ぶ。
白雪キョウカは、すでに五月雨江を構えていた。
顔色はまだ悪い。首元には治癒術式を兼ねた薄い包帯が巻かれ、乱れた魔力循環も完全には戻っていなかった。それでも彼女の周囲には六つの〈六花の氷晶〉が浮かび、それぞれが別々の方向へ感覚を伸ばしている。
ひとつは温度差。
ひとつは空気の揺れ。
別の氷晶は魔力密度の偏りを拾い、さらに別のものは地面を伝わってくる微細な振動へ反応する。
六つの氷晶が六つの異なる情報を拾い、それらをキョウカの感覚へ重ね合わせることで、彼女は肉眼だけでは把握できない戦場の輪郭を立体的に捉えていた。
「……下」
キョウカが短く告げる。
「地面の中に、何かある」
五月雨江から放たれた氷の矢が地表へ突き刺さった。
白い霜が着弾点から円状に広がり、石畳の隙間へ入り込む。土中の水分が熱を奪われ、浅い場所へ伸びていた根まで瞬く間に白く凍りついていった。
――深い。
冷気が地下へ潜るほど、凍結の広がりが目に見えて鈍くなる。
キョウカの眉が僅かに寄った。
冷気が弱くなったわけではない。
地下にある術式が、一本の連続した根ではないのだ。
地表だけを見れば、とおるたちとキョウカたちのあいだには明確な空白が存在する。蔓もなければ花もない。巨大な根が地面を盛り上げている様子さえない。
それでも魔力反応は途切れていなかった。
地下の浅い位置に短い根がある。
少し離れた場所に別の中継点がある。
さらにその先では、土そのものへ薄く混ぜ込まれた魔力が橋のような役割を果たしている。
物理的には離れている。
だが、術式としては繋がっている。
飛び石を渡って川の向こう側へ進めるように、一本の根が最初から最後まで届いていなくても、魔力を受け渡す地点さえ連続していれば術式はひとつの経路として成立する。
そして、先ほどフーゴが撃ち込んだ二発目は――その経路が複数重なっている場所へ落ちていた。
「……中継点を撃った?」
相手が何を企んでいるにせよ、このまま好きなように戦場の形を組み替えさせるわけにはいかない。
キョウカがひとつ深く息を吸い、肺の奥まで満たした空気を静かに吐き出す。それに合わせるように、身体の内側で循環していた魔力の流れが変わった。単純に出力を高めたわけではない。全身へ薄く広げていた魔力を末端から少しずつ引き戻し、余計な経路へ逃げていた流れを絞り込みながら、冷気へ変換するための回路へ集中させていく。やがて体温とは明らかに異なる冷たさが腕を伝い、握られた五月雨江へ深い密度をもって流れ込むと、弓の表面には白い霜が音もなく広がり、弦へ触れている指先から生まれた微細な氷晶が吐息に混じるほど細かな粒となって宙へ舞った。
周囲を漂っていた〈六花の氷晶〉も、その変化へ呼応する。
淡い光が一つ、また一つ。
ただ明滅しているわけではない。キョウカの魔力と同じ周期へ振動を揃えることで、それぞれの氷晶が周辺に存在する熱量と魔力の変化を拾い、その情報を五月雨江へ返している。目で見るより広く、耳で聞くより細かい。空間の各所へ小さな観測点をばら撒き、そこから得られた複数の情報を重ね合わせることで、直接視認できない魔力の流れまで立体的に捉える――それが〈六花の氷晶〉を展開しているときの、キョウカの“視界”だった。
その感覚の正面を、巨大な荊の壁が塞いでいる。
地下からせり上がった黒紫色の茎は、とおるたちと東霞第二支部の間を完全に分断するほど巨大で、一本一本が樹木の幹ほどの太さを持ちながら互いへ食い込み、編み込まれた筋肉のように幾重もの層を作っていた。表面から突き出している硬質な棘は静止しておらず、ゆっくりとほんの僅かずつ角度を変えている。風に揺らされている動きとは違う。周囲へ近づくものを探すようにそれぞれが異なる方向へ穂先を向けていた。
先ほどキョウカが撃ち込んだ氷矢の痕跡は、まだ残っていた。
荊の表層は白く凍りつき、場所によっては茎の内部まで氷晶が食い込んでいる。それでも凍結は想定していたほど深く進んでいない。
理由は単純だった。
冷気が、逃げている。
一本の荊へ侵入した冷気が内部を伝わり始めると、その部分へ集中していた魔力の流れが周囲の根へ分岐し、凍結しかけた組織そのものを術式網から切り離してしまう。切断された部分は枯れ枝のように機能を失うものの、その直後には別系統の根から新しい魔力が流れ込み、欠損した場所を迂回する形で新たな茎が伸びてくる。
植物の再生に似ているが、本当の意味で細胞が傷を治しているわけではない。
むしろ構造としては、複数の道を持った水路に近かった。一つの水路を塞いでも、分岐点から別の経路へ水を逃がせるなら全体の流れは止まらない。アイリーンの植物術式も同じで、一部の根が凍結して魔力を通せなくなれば、そこを回路から外し、まだ生きている根へ流量を振り分ける。一本一本の荊を強固にするのではなく、どこかが壊れることを前提として全体を生かし続ける――そういう設計なのだろう。
「……あの鎌の女」
五月雨江を持ち上げたまま、キョウカは荊の向こうにいるアイリーンへ目を向けた。
目の前の壁だけを壊しても、意味がない。
正確には、壊せないわけではない。五月雨江の出力を上げ、〈六花の氷晶〉まで総動員すれば、荊の一部をまとめて凍結させ、物理的に砕くことはできるだろう。ただ、そのために大量の魔力と時間を使ったところで、地下にある術式網そのものが生きている限り、別の根から魔力が供給され、形を変えた壁がまた生えてくる。
「壁は後回しだ。回り込むぞ」
「りょーかい。じゃあ、キョウちゃんが正面?」
「私が散らす。チサトは左」
「左って――」
聞き返しかけたチサトを置いて、キョウカの瞳だけが横へ流れた。
荊の壁の左端。そこから崩れた石垣へ移り、半ばまで傾いた松を越え、その奥に立つ天景楼の外壁を辿ってさらに上――屋根へ。
言葉ではなく視線だけで、一本の経路を描く。
チサトは一度だけ瞬きをした。
「……あー。そっちね」
意味を理解した途端、口元が楽しそうに持ち上がる。
「相変わらず説明が短いなあ」
「長く説明する時間がない」
「知ってる」
それだけで十分だった。
チサトが腰を落とすと、足元の草が一斉に伏せ、砂埃が彼女を中心として円を描きながら外側へ押し退けられていく。
彼女の風術は、よくある“風で身体を軽くする魔法”とは根本的に仕組みが違う。
人間が地面を蹴って前へ走れるのは、足が後方へ地面を押し、その反作用として地面から前向きの力を受け取るからだ。つまり身体を加速させるためには、自分の力を受け止めて押し返してくれる何かが必要になる。地上ならそれが地面になる。けれど空中には、普通なら足裏を受け止めてくれるほど硬いものは存在しない。
チサトは、その“受け止めるもの”を風術によって一時的に作る。
身体の周囲にある空気を局所的に圧縮し、隣接する空間との間へ大きな圧力差を生み出す。もちろん空気が石のような固体へ変わるわけではないものの、足を置く一瞬だけ圧縮領域の形と流れを維持できれば、踏み込んだ力に対して十分な反作用を返すことができる。
地面しか蹴れない人間が、一つの足場しか持たないのだとすれば。
チサトは、自分の周囲へ必要なときだけ足場を増やせる。
前にも。横にも。頭上にも。
だから彼女の機動は、単純な速度以上に軌道が読みにくい。
「じゃ、上のおじさんは任せて」
足元へ集められていた圧縮空気が、一気に解放された。
チサトの身体が右へ弾き出される。
その動きへ荊の壁が反応した。外縁から数本の蔓が伸び、一斉にチサトの進路へ食い込んでくる。
一本目は、上体を深く沈めて潜る。
二本目は横薙ぎ。避けるために地面へ着地する――必要はない。
チサトの右足が、何もない空中を強く踏み抜いた。
靴底へ触れる寸前、その位置だけ空気が急激に圧縮される。踏み込んだ力を受け止めた圧力面が反作用を返したことで、それまで横方向へ進んでいた身体へ上向きの加速度が加わり、軌道が斜め上へ折れ曲がった。人間の身体には慣性がある以上、進行方向を急激に変えれば関節や内臓へ相応の負担が掛かる。それでもチサトは一度に身体全体を曲げるのではなく、腰、肩、脚の周囲へ複数の風圧を分散させることで姿勢の崩れを抑えている。
三本目の棘が、靴底の下を掠めた。
キョウカは、その先を見届けなかった。
チサトなら行ける。
そう判断した時点で、彼女へ割いていた意識を切る。
敵は三人。
少なくとも、現時点で確認できている範囲では。
レッドとアイリーンについては、すでにシュトラースベルガーが引き受けている。彼が二人を押しているのか、互角なのか、あるいは何らかの目的があって意図的に決着を遅らせているのか、離れた位置にいるキョウカには判断できない。
ただし、二人を同時に相手取りながら戦線を維持している。
その事実だけで十分だった。
あの男を最大戦力の一角として計算に入れる理由としては、それ以上を求める必要もない。
ならば、自分たちが優先して潰すべきなのは残る一人。
屋根の上にいるあの男だ。
得体の知れない敵と遭遇した際、キョウカが最も嫌うのは「能力が分からないから、まずは様子を見る」という考え方だった。
未知であるということの不透明性——
何をしてくるのか分からない相手へ少人数を順番に当て、ひとつずつ手札を確認していくやり方ほど実戦では危険なものはないとキョウカは考えている。
能力の性質が分からない以上、最初の一撃がどこまで届くのかも、それを受けた人間へ何が起こるのかも分からない。見た目には単純な射撃でも、着弾した場所を起点として別の術式が広がるかもしれないし、避けたことそのものを条件として次の攻撃が成立する可能性さえある。あるいは一度触れただけで魔力回路へ干渉する能力なら、その性質を理解した頃には最初に接触した者が戦線から脱落している。
情報を得るために攻撃を受ける必要などない。
まして一人を犠牲にして残った者が能力を理解するような戦い方は、最初から選択肢へ入れるべきではなかった。
もちろん、大人数を未知の術式へ不用意に近づければ、それはそれで一度の攻撃によってまとめて被害を受ける危険がある。だから必要なのは、ただ人数を集めて同じ場所から殴りかかることではない。
距離を分け、角度を分けながら攻撃手段を振り分けていく。
そして誰か一人が予想外の術式へ捕まったとしても、残る者がその瞬間に割り込める位置関係を崩さない。
未知の能力を調べるために一人ずつ順番に答え合わせをするのではなく。
複数の方向から異なる条件を一度に押しつけ、相手がどの手札を切り、何を守り、何を捨てるのかをこちら側から強制的に選ばせる。
初見の相手だからこそ、最初から可能な範囲で厚い連携を組む。
キョウカが好むのは、そちらだった。
複数人で一斉に攻める利点は、単純に攻撃の数が増えることではない。正面から斬撃を入れ、側面から射撃を重ね、さらに別方向から拘束や属性攻撃を差し込めば、敵は同時に複数の問題を処理しなければならなくなる。そこで何を優先するのかを見るだけでも、かなりの情報が取れる。
射撃を避けて斬撃を受けたなら、遠距離攻撃をより危険だと判断した可能性がある。反対にその場から動かず防御を選んだなら、回避に向かない能力か、位置を動かしたくない理由があるのかもしれない。炎だけを防いで氷を受けたのであれば、属性相性に偏りがある可能性も出てくる。攻撃のたびに同じ手や同じ視線の動きが挟まるなら、それは能力発動に必要な予備動作かもしれない。
ひとつの攻撃を見せれば、返ってくる答えもひとつしかない。
けれど異なる問いを同時に突きつければ、敵は優先順位を選ばざるを得なくなる。
そして本人が無意識に選んだその優先順位には、能力の弱点や戦闘経験、——守らなければならない条件まで滲み出る。
だから情報が開示されていない相手へ戦力を厚く当てるのは、力任せに押し潰すためだけではない。
味方を生かしたまま、短い時間でより多くの情報を引き出すためでもある。
キョウカは五月雨江の弦へ指を掛けた。
冷気を孕んだ魔力が、再び一本の矢へ形を変えていく。
正体が分からないのなら、分かるまで待つ必要はない。
こちらから同時に問いを突きつけて――相手自身に答えを選ばせればいい。




