第8話 十秒の約束
翌週の金曜日。
放課後を告げるチャイムが鳴ると、久我蒼は少しだけ急ぎ足で教室を出た。 向かう先は図書室ではなく、昇降口だ。
今日は、図書委員の活動という名目での「外出」の約束があった。 必要な資料を探すために市街の大型書店へ行き、そのあと少し遊んで帰る。
傍から見ればデートそのものだが、蒼の脳内ではあくまで「人間関係のメンテナンス」というラベルが貼られていた――少なくとも、意識の上では。
昇降口で待っていると、紗月がやって来た。 制服のリボンを整え、普段の通学鞄ではなく、小ぶりなトートバッグを肩にかけている。
「お待たせ、久我くん。……変じゃないかな?」
彼女は少し恥ずかしそうに自分の格好を見下ろした。 蒼は努めて冷静に、事実だけを口にする。
「変じゃないよ。似合ってる」
「よかった。えへへ、行こうか」
彼女の笑顔が弾ける。 蒼の心拍数がわずかに上昇した。 FXの重要指標発表時とも、配信のクライマックスとも違う、制御できない種類の高鳴り。 彼はそれを「イレギュラーな生体反応」として処理し、彼女の隣を歩き出した。
◇
駅前の大型書店。 二人はミステリー小説のコーナーで、展示に使えそうな文庫本を物色していた。
「あ、これ懐かしい! 私が小学生の時に読んだやつ」
紗月が一冊の本を手に取り、目を輝かせて語り始める。 蒼は相槌を打ちながら、彼女の横顔を眺めていた。 彼女が本について語る時の熱量は心地よい。普段の控えめな様子とは違う、芯の通った「好き」という感情が見えるからだ。
その後、二人は近くのカフェに入った。 紗月はカフェラテを、蒼はブラックコーヒーを注文する。
「ねえ、久我くん」
カップの縁を指でなぞりながら、紗月が上目遣いで彼を見た。
「久我くんって、自分のことあんまり話さないよね」
核心を突く言葉に、蒼はカップを持つ手を止めた。
「……そうかな」
「うん。私の話はたくさん聞いてくれるけど、久我くんが何を考えてるのか、たまにわからなくなるの。……あ、責めてるわけじゃないよ?」
彼女は慌てて付け加える。
「ただ、もっと知りたいなって思うだけ」
蒼は少しだけ視線を逸らし、コーヒーの黒い水面を見つめた。 話せないことは山ほどある。
十秒先の未来が見えること。FXで大金を動かしていること。ネットで人気の配信者であること。 僕の中身は、君が思うような「普通の高校生」からはかけ離れてしまっている。
だが、嘘をつき続けるのも苦しい。 彼は慎重に言葉を選んだ。
「……僕は、計算高い人間なんだ」
「計算?」
「うん。常にリスクとリターンを考えて、損をしないように生きてる。面白みのない人間だよ」
それは、彼なりの精一杯の自己開示だった。 だが、紗月はきょとんとした後、ふふっと笑った。
「そうかなあ。私には、久我くんがすごく周りをよく見てて、優しい人に見えるけどな」
彼女の肯定的な解釈を通すと、蒼の冷徹さは「思慮深さ」に変換されるらしい。 その誤解が、今はどうしようもなく救いだった。
◇
日が落ちて、街にネオンが灯り始めた頃。 二人はゲームセンターの喧騒の中にいた。
「わあ、すごい音……! 私、こういうところあんまり来ないから新鮮」
「たまにはいいでしょ。ちょっとやってみる?」
蒼が誘ったのは、最新の対戦格闘ゲームだ。 並んで筐体に座り、コインを入れる。 蒼にとって、これは「職場」のようなものだ。だが今は仕事ではない。
(能力は、使わない)
彼は固く心に決めていた。 紗月との勝負に、十秒先の予知など無粋だ。 純粋な反射神経と、今まで培ってきた技術だけで遊ぶ。
試合が始まる。 紗月は初心者だが、勘が良い。ガチャプレイながらも、時折鋭い攻撃を繰り出してくる。
蒼は適度に手を抜きつつ、彼女の攻撃を受けて、際どいところで反撃する。 接待プレイではない。彼女が楽しめるギリギリのライン攻防を演出する、上級者の遊び方だ。
「あーっ! もうちょっとだったのに!」
K.O.画面を見て、紗月が悔しそうに頬を膨らませる。 その顔を見て、蒼は自然と笑ってしまった。
「惜しかったね。筋がいいよ、紗月ちゃん」
「むぅ……次は勝つからね!」
再戦。また再戦。 未来が見えなくても、次に何が起こるかわからなくても、こんなに楽しい。 不確定な現在を楽しむこと。 それは、能力を手に入れてから彼が忘れかけていた感覚だった。
◇
帰り道。 駅へと続く公園のベンチで、二人は少しだけ休憩することにした。 街灯が淡く二人を照らしている。 遊び疲れた心地よい倦怠感の中、紗月が静かに口を開いた。
「……あのね、久我くん」
彼女の声色が、さっきまでの明るいものから、少し湿り気を帯びたものに変わる。
「あの路地裏で助けてくれた時も思ったんだけど……久我くんといると、すごく安心するの」
彼女は膝の上で手を組み合わせ、じっと蒼を見つめた。
「何も話さなくても、隣にいてくれるだけでいいっていうか……。私、久我くんのことが、特別になってるみたい」
それは、紛れもない告白だった。
蒼の脳内で、いつもの計算回路が起動しかける。 『恋愛関係の樹立』。 時間的コストの増大。秘密保持のリスク上昇。感情の起伏によるメンタルへの影響。 論理的に考えれば、今の生活には「不要な変数」だ。
だが。 蒼はその計算結果を、ゴミ箱へと放り込んだ。
損得じゃない。 彼はただ、この心地よい場所を失いたくないのだ。 十秒先の未来が見える孤独な予知能力者が、唯一、能力を使わずに安らげる場所。
「……僕もだ」
蒼は短く、しかしはっきりと答えた。
「紗月ちゃんといる時間が、僕にとっても一番落ち着く。……もしよかったら、これからも一緒にいてほしい」
紗月の目が大きく見開かれ、やがて涙で潤んだ。 彼女は大きく頷き、そっと手を差し出してきた。
「……うん、喜んで」
蒼はその手を取った。 小さくて、温かい。 十秒先の映像ではない、今ここにある確かな体温。 握り返すと、彼女も強く握り返してくれた。
◇
家に帰り、一人ベッドに横たわった蒼は、天井に向かって右手をかざした。 手のひらに、まだ彼女の温もりが残っている気がした。
「……今日の十秒は、いい十秒だった」
独り言が漏れる。 能力を使って得た利益よりも、能力を使わずに得た「約束」の方が、遥かに価値があるように思えた。
だが、同時に新たな覚悟も決まる。 この関係を守るためには、力が必要だ。 彼女を危険に晒さないための金。社会的な立場。そして、あらゆる脅威を事前に排除する予知能力。
(守り抜く)
蒼は目を閉じ、明日の計画を頭の中で組み立て始めた。 FX、配信、そして彼女とのデート。 すべてを完璧にこなし、完璧な日常を維持する。 それが、久我蒼の新しい「攻略目標」になった。
窓の外、夜風がカーテンを揺らす。 明日もまた、十秒先の未来を見ながら、彼は大切な「今」を積み重ねていく。




