第7話 十秒の距離
翌朝。 教室の空気は、いつもより少しだけ柔らかく感じられた。
久我蒼は自分の席で、教科書を広げながら周囲の様子を窺っていた。 昨夜の路地裏での一件。それがどの程度、学校という狭い社会に波及しているのか。
もし「久我蒼が暴漢を倒した」などという噂が広まれば、「背景」としての平穏は崩れ去る。
ガラリ、と教室のドアが開く。 **朝比奈紗月**が入ってきた。
一瞬、クラスの空気が止まったように感じたのは、蒼の主観によるものだろう。 彼女はいつもと変わらない様子で、友人に「おはよ」と声をかけ、窓際の自分の席へと歩いていく。
ただ、その視線が蒼と交差した一瞬だけ。 彼女は頬をわずかに朱に染め、小さく、誰にも気づかれない角度で会釈をした。
(……よし)
蒼は無表情を装いながら、胸の内で安堵の息を吐いた。 彼女は賢い。大騒ぎして僕を英雄に祭り上げるような真似はしない。 その信頼感が、蒼の警戒心を少しだけ緩ませた。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。 蒼が次の授業の準備をしていると、紗月がさりげなく隣の席までやって来た。 手にはプリントの束を持っている。図書委員の業務を装っているのだろう。
「……久我くん。昨日は、本当にありがとう」
教科書を渡すふりをして、彼女は囁くような声で言った。 周囲の喧騒にかき消されるほどの音量。二人だけの秘密の周波数。
「気にしてないよ。よく眠れた?」
「うん、おかげさまで。……それでね、お礼がしたいんだけど」
紗月は上目遣いで蒼を見る。
「今日の放課後、図書室に来てくれない? 美味しい紅茶、淹れるから」
蒼は一瞬、思考を巡らせた。 放課後は普段、FXのチェックや配信の準備に充てている時間だ。
だが、ここで断るのは不自然だし、何より彼女の安否をもう少し確認しておきたいという気持ちもあった。 図書室なら人は少ない。目立つリスクも低い。
「わかった。行くよ」
短く答えると、紗月の顔がパッと華やいだ。 花の蕾が開くような、鮮やかな変化。 彼女は嬉しそうに頷き、自分の席へと戻っていった。
(……なるほど)
蒼は自分の胸の奥が、奇妙に温かいことに気づいた。 利益確定の数字を見た時の興奮とは違う。もっと静かで、有機的な温度。 悪くない、と彼は思った。
◇
昼休み。 予想していた「波」が来た。
「おい蒼、聞いたぞ」
パンを齧っていた蒼の席に、倉田が身を乗り出してきた。 その目は好奇心でギラギラと輝いている。
「昨日の夜、商店街で揉め事があったらしいな? なんか『制服の男子高校生が、チンピラを瞬殺した』って噂になってるぜ。お前、その時間あの辺にいたよな?」
やはり、どこかで誰かが見ていたか。あるいは逃げた男たちが捨て台詞を吐いて回ったか。 だが、詳細は曖昧なようだ。 蒼は表情筋を微動だにさせず、用意していた「回答」を提示した。
「ああ、なんか騒がしかったね。僕は遠くからパトカーの音がするのを聞いただけだよ。怖くて近づかなかったし」
「なんだよ、つまんねーの。お前なら『実は隠された力で……』とかあるかと思ったのに」
倉田はあっさりと興味を失い、「まあ、お前はそういうキャラじゃないか」と笑って去っていった。 蒼は心の中で冷や汗を拭う。 「キャラじゃない」。その認識こそが、彼が積み上げてきた最大の防壁だ。
◇
放課後。 夕日が長く差し込む図書室は、黄金色の静寂に満ちていた。 カウンターの奥にある作業スペース。そこには、湯気を立てる二つのティーカップと、可愛らしい包みのクッキーが置かれていた。
「これ、家で焼いてきたの。味は自信ないけど……」
紗月が恥ずかしそうにクッキーを差し出す。 一口食べると、素朴な甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しいよ。店で売ってるやつより好きかも」
「ほんと? よかったぁ……」
紗月は心底ほっとしたように脱力し、椅子に座り込んだ。 しばらくの間、二人は言葉少なに茶を飲んだ。 窓の外では運動部の掛け声が遠く聞こえる。この空間だけ時間が止まったような、穏やかな空気。
「ねえ、久我くん」
不意に、紗月が切り出した。 その表情は真剣だった。
「どうして、あの時……あんなに冷静でいられたの?」
核心を突く問いだ。 普通の高校生なら、男二人に囲まれたら足がすくむ。 迷いなく踏み込み、的確に相手を転ばせ、警察をちらつかせて追い払う。その手際は、どう見ても「普通」の範疇を超えていた。
能力のことを話すべきか? いや、それはできない。リスクが高すぎる。 ならば、どう答えるのが、彼女の信頼を損ねず、かつ秘密を守れる最適解か。
蒼はカップを置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……必死だったんだよ」
半分は嘘で、半分は本当だ。
「冷静に見えたなら、それは強がりだよ。ただ、君が危ない目に遭っているのを見て、考えるより先に体が動いた。それだけだ」
計算も予知もあった。だが、動機の根底にあったのは、確かに「助けたい」という衝動だった。 その部分だけを抽出して伝える。
紗月は、蒼の言葉をじっと噛み締めるように聞いていた。 やがて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「そっか。……久我くんは、優しいんだね」
その言葉は、蒼の胸に小さく刺さった。 優しさではない。僕は自分を守り、利益を計算する人間だ。 そう否定しようとしたが、彼女の笑顔を見ていると、言葉が出てこなかった。
「ねえ、もしよかったらさ」
紗月が身を乗り出す。
「図書委員の仕事、手伝ってくれない? 最近、新刊の整理とか展示の入れ替えとかで忙しくて……久我くんがいてくれたら、すごく助かるなって」
それは、実質的な「一緒にいたい」という申し出だった。 FXの分析時間は減る。配信の準備も少し慌ただしくなるだろう。 時間的コスト(タイム・パフォーマンス)で考えれば、割に合わない投資だ。
しかし、蒼の口は自然に動いていた。
「いいよ。僕でよければ」
紗月の顔が輝く。
「本当!? やったぁ! じゃあ、来週の特集コーナー、一緒に考えよ?」
彼女が広げたノートには、拙い文字で『おすすめミステリー特集』と書かれていた。 二人は頭を寄せ合い、どの本を置くか、どんなポップを書くかについて話し始めた。
窓の外、空には一番星が光り始めていた。 十秒先の未来を知る能力者。ネットで噂の天才ゲーマー。若き個人投資家。
そんな肩書きのどれとも違う、「図書室の久我くん」という新しい役割が、彼の日常に加わった。
それは金銭的な利益を一円も生まない。 けれど、蒼はその時間を「無駄」だとはどうしても思えなかった。 彼女と過ごすこの穏やかな時間こそが、あるいは自分が能力を使って守り抜くべき「ゴールのひとつ」なのかもしれない。
そんな予感を抱きながら、蒼は紗月の横顔をそっと盗み見た。 秘密はそのままに、二人の距離だけが、静かに、確実に縮まっていた。




